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ここだって現実なんだ
1-3:何も変わらない世界
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いつまで僕は落ちていったのだろう。
枯葉のようにふらふらと、真っ暗闇に落ちていく。
目を開いているのか、閉じていているのかも分からないまま、ただただその浮遊感に身を委ねていた。
静寂が心地よい。
何も考えないで、今はただ落下していく。
何も考えないだけで、こんなにも気持ちが楽になれるなんて知らなかった。
「このままずっと落ちて行ってしまいたい」
あくびを一つ。目尻に浮かぶ涙を指で拭った。
少しずつ迫りくる睡魔が、僕を誑かしてくる。ここで寝るのは相当気持ちが良いだろうが、寝るわけにはいかない。
いかないのだが……どんどん眠くなっていく……。
始めは、朝起きてすぐということもあっての眠気だと思っていたが、この感じは異常だ。
まぶたがどんどん重くなっていく。眠るというより、気を失う感覚に近いかもしれない。
「待ってくれよ……僕は寝たくないのに……」
完全にまぶたが閉じた。どんどん意識が遠のいていく。
いやだ……せっかく気持ちが良いんだ……もっと味わわせてくれ……。
それが、たしか最後の思考だったと思う。
それからどれくらい経ったのか、僕には分からない。
最初に感じたのは、陸の感触だった。
手入れされていない芝生の中で寝ている。そんな感触だった。
ゆっくりと目を開けると、陽の眩しさに目が眩んだ。
「ここは……」
顔を上げると、芝生が頬を撫でてくすぐって来る。しょうがないので立ち上がってみるが、さっきの浮遊感のせいで自分の体がとても重く感じ、わざわざ膝に手をついて立ち上がる羽目になった。
「なんだ、ここ……」
僕が辿り着いた場所。
そこは、見渡す限りの大草原だった。
生い茂る芝生以外、何もない。
あるのは緑色の地平線だけ。
吹き抜ける風が芝生に模様を描き、僕を追い越していく。葉の擦れる音だけが響く。陽の光を遮るものは一切ない。
こんな土地が、地球の奥深くになんてあるわけがない。
「ここはどこなんだ……」
一歩進むと、何か硬い物を踏んずけてしまった。
見てみると、それは僕のラジオだった。最初に穴に放り投げた、あのラジオ。
拾い上げてみる。特に外傷はない。
ポケットに入れていたイヤホンを差して電源を入れる。すると、機械自体は問題なく動きだしたのだが、まったく電波を受信しない。砂嵐だけがイヤホンから聞こえてくる。
「どうなってるんだ」
近くを見渡すと、その次に投げた鞄も落ちている。これも、特に傷はついていない。
ラジオにイヤホンを巻き付けてポケットに戻し、鞄を拾って歩きだした。
どこへ向かっているか知らないが、とりあえず歩いてみる。そうしていると、少しずつ体の重さが無くなっていった。
「それにしても広い……広すぎる……先が見えないじゃないか……」
運動が得意じゃないとはいえ、そんなに体力が無いわけでは無い。ある程度歩いてしまえば、建物が見えてくるだろうと思って歩き続けてみたが、その目論見は大きく外れてしまった。
体感では4時間は歩いたと思う。
歩いている途中でラジオの電源を入れておいたのだが、気が付いたら充電が切れていた。まだそんなに古くないものだから、3時間は充電が持つはずだった。
「何なんだよ、ここ!」
役に立たない鞄を放り捨てた。そうやって無駄な体力を使っていく。
体力を奪うのは行動だけではない。思考もだ。
この不可解な状況を打開する策をずっと探しているが、どんどん頭がおかしくなってきそうだ。
「そもそも、あの太陽は何なんだ……ずっと真上にある……」
何時間も経てば、陽が傾いて方角が分かるのではと思っていたのに、この空間にそんな常識なんて存在しない。
むしろ、あの穴を通った時点で常識から外れているのだ。
それからどれほど歩いただろう。
僕は疲れて、芝生の上に寝転んでしまった。
質は良くないが、悪くもない布団のように柔らかい。
仰向けに寝てみると、太陽が眩しい。眩しいのだが、目を細めれば普通にしていられる。あの太陽は、本物の太陽と違って弱いものらしい。
「不思議な世界だ……」
歩き疲れて足が痛い。当分は歩きたくないな。
空腹でお腹が鳴った。当然だ。朝ご飯も食べずに何時間も歩いたのだから。
「母さんの弁当……は鞄の中か」
鞄はとっくに放り捨てた。疲れすぎて、弁当の存在を今まで忘れてしまっていた。これは失敗だ。
「とはいえ、草を食べるわけにはいかないし……」
ゆっくりと寝返りを打つ。
そこには、捨てたはずの鞄があった。
「え……なんで……」
中身を確認すると、ちゃんと母さんの弁当が入っていた。
明らかに不可解なこの現象を前にして、僕は感謝しか浮かばなかった。
「やった! いただきます!」
急いで弁当を開けて、そのまま手で食べ始めた。崩れかけのオニギリを頬張り、母さん特製の甘い卵焼きも一口。昨日の晩御飯の残りだったであろうエビフライも平らげ、綺麗に洗われたプチトマトもパクリ。
全てが美味しかった。
「あぁ……良かった……」
本当に良かった。
この不思議な空間は、現実世界に対する嫌な感情を払拭してくれる。嬉しいことを思い出させてくれる。
「ここに来て良かった……!」
そのまま無言で弁当を食い漁り、米粒1つ残さずに完食した。
「あ、箸があるの忘れてた」
自分の手と正反対で、まったく汚れてない箸を見つけて笑ってしまった。
『何が面白いんだ』
声がした。きっと男の声だ。
急いで辺りを見渡すが、誰もいない。
『探しても意味は無い』
声がまたした。しかも、僕の行動を見た上で発せられている。
「誰……?」
『まだ答える必要は無い』
声が返事をした。意思の疎通は出来るようだ。それに、お互いの言葉も通じる。
「君は誰? 僕は、穴から落ちてここに来た! ここはどこなんだ!」
耳を澄ます。
数秒待った。
何も聞こえない。
代わりに、芝生が揺れる音がした。
そちらに目を向けると、なんとも小さな人がこちらを睨んでいた。
人、だと思う。形は人だ。
でも、頭と体の比率がおかしい。背丈が僕の半分ほどなのに、頭は僕より遥かに大きい。4分の1は頭だ。
しかも、その顔がなんとも醜い。パーツは同じなのに、少し溶けたように崩れていた。上手く噛み合わない口から、荒い息が漏れている。
服装も、腰に草で作った蓑を巻いているだけで、ほぼ裸である。その体は痩せ衰えて、生き物として心配になるレベルだ。
「ぎぎ……ぎぎ……」
そして、声が掠れて言葉にはなっていない。さっきの声の主は、彼ではないようだ。
開ききっていない目が薄っすら開き、まっすぐに僕を見つめている。
こんなに醜い生き物がいるなんて知らなかった。昔に本で読んだゴブリンそのものではないか。
改めて細部を見ると、本当に同じだ。
醜悪な外見、意思疎通の出来ない知能、理性のない化け物。
「おいおい、勘弁してくれよ」
そして律義に、片手に棍棒を持っている部分まで同じだった。
「君は誰だい? 僕の言葉は分かる?」
ゴブリンは何も言わず、一歩近づいてきた。
「君が何を考えているか、分からないんだ」
棍棒を握る手を持ち替えた。
「いやだ……やめろ!」
空になった弁当箱を闇雲に投げつける。
ゴブリンはそれを棍棒で振り払った。棍棒で殴られた弁当箱は完全にひしゃげながら飛んで行ってしまった。
そのまま僕の方へ駆け出してくる。
逃げ出そうにも、足が痛くて動かない。
「ギギギギギ!!」
大振りの棍棒が横薙ぎに振り払われる。それをもろに横っ腹で受けてしまった。
「が……!」
弁当箱のようにひしゃげはしなかったものの、そのまま倒されてしまい、痛みに悶える間もなくゴブリンに馬乗りになられた。
「ちょっと待って!」
会話なんて出来ないのが分かってても、そう言ってみる。
返事の代わりに、棍棒が振り下ろされた。
腕で頭を守ってみるが、それでも十分に重い一撃だった。下が芝生でなければ、後頭部を地面に打ち付けて気を失っていた。
いや、死んでいた。
そう、これは死ぬ。こんなにされたら、人は死ぬんだ。
何度も何度も振り下ろされる棍棒が、僕の腕を、顔を、何度も何度も殴りつけてくる。
いくら腕で守ろうと、武器の攻撃なんて防ぎようもないのだ。
足の痛みはとっくに忘れていた。顔の痛みも、なんだか感じなくなってくる。
ふと、現実世界を思い出した。
家族にも学校にも、言葉の暴力と物理の暴力の両方を受けてきた。
僕はダメ人間だ。聖人ではない。時には相手が憎く感じていた。
自分が悪いのに、理不尽な暴力だと感じていた。
それでも僕は、一つだけ心に誓っていた。
やりかえしてはいけない、と。
殴られて、殴り返したら、また殴られるのだ。そういうもの。
暴力を治めるには、誰かが無条件でそれを受け入れなければならない。
それ以外に暴力を治める方法なんて、一つしかない。
自分が殴って、終わらせる方法。
それは、現実世界で絶対にしてはいけない方法だ。
顔を守っていた腕を外し、放り出された鞄の方へめいっぱい伸ばした。
そのせいで、顔面にまっすぐ棍棒を食らった。鼻から嫌な音がなり、血が噴き出る。
それでも、欲しいものは掴めた。
再度ゴブリンが棍棒を振り上げると同時に、咄嗟に拾い上げた箸をゴブリンの首に横からぶっ刺してやった。ズブズブとめり込む感触が手に溢れてくる。
「ギ……ギギ……ガ……」
ゴブリンは、腕を振り上げたまま動かなくなった。何かを発するたびに、首から血が零れていく。
急いで箸を引っこ抜き、今度は両手で持って左の胸に突き刺した。何か硬いものに当たったが、それを砕いて奥まで入っていった。
「ギァ……ゴァ……」
耐えかねて棍棒を落としたゴブリンは自分の胸に刺さった箸をどうにか抜こうとする。だが、奥まで入った箸は、もう体の奥に全部入っているので、傷口を掻きむしることしか出来ていない。
少しずつ、ゴブリンの動きが小さくなっていく。放っておいても、反撃は出来ないだろう。
もう一度手を伸ばし、ゴブリンが落とした棍棒を拾った。
そして、力いっぱいその顔を殴り飛ばした。
小柄なゴブリンは簡単に僕の上から跳んで行く。
草の上に転がり、何かを言いながら……動かなくなった。
僕はまだ立てなかった。なんとかゴブリンの近くまで這って、もう一撃棍棒で殴りつける。
人より骨格が軟弱なのだろう。思ったより簡単に頭蓋が砕けた。
「ここが現実じゃなくて良かった……痛ぇ……」
今までずっと我慢してきた。幾つもの暴力に。
ずっと我慢していた。自分が殴り返すことを。
僕は弱虫だ。臆病だ。
だから仕返しが怖い。
もう一度だけ、棍棒を振り上げる。
「仕返しが怖いんだ、ごめんよ」
もう2度とコイツから殴られないように、しっかりと殴っておいた。
襲われている時よりも、この現状が怖くて、泣いた。
枯葉のようにふらふらと、真っ暗闇に落ちていく。
目を開いているのか、閉じていているのかも分からないまま、ただただその浮遊感に身を委ねていた。
静寂が心地よい。
何も考えないで、今はただ落下していく。
何も考えないだけで、こんなにも気持ちが楽になれるなんて知らなかった。
「このままずっと落ちて行ってしまいたい」
あくびを一つ。目尻に浮かぶ涙を指で拭った。
少しずつ迫りくる睡魔が、僕を誑かしてくる。ここで寝るのは相当気持ちが良いだろうが、寝るわけにはいかない。
いかないのだが……どんどん眠くなっていく……。
始めは、朝起きてすぐということもあっての眠気だと思っていたが、この感じは異常だ。
まぶたがどんどん重くなっていく。眠るというより、気を失う感覚に近いかもしれない。
「待ってくれよ……僕は寝たくないのに……」
完全にまぶたが閉じた。どんどん意識が遠のいていく。
いやだ……せっかく気持ちが良いんだ……もっと味わわせてくれ……。
それが、たしか最後の思考だったと思う。
それからどれくらい経ったのか、僕には分からない。
最初に感じたのは、陸の感触だった。
手入れされていない芝生の中で寝ている。そんな感触だった。
ゆっくりと目を開けると、陽の眩しさに目が眩んだ。
「ここは……」
顔を上げると、芝生が頬を撫でてくすぐって来る。しょうがないので立ち上がってみるが、さっきの浮遊感のせいで自分の体がとても重く感じ、わざわざ膝に手をついて立ち上がる羽目になった。
「なんだ、ここ……」
僕が辿り着いた場所。
そこは、見渡す限りの大草原だった。
生い茂る芝生以外、何もない。
あるのは緑色の地平線だけ。
吹き抜ける風が芝生に模様を描き、僕を追い越していく。葉の擦れる音だけが響く。陽の光を遮るものは一切ない。
こんな土地が、地球の奥深くになんてあるわけがない。
「ここはどこなんだ……」
一歩進むと、何か硬い物を踏んずけてしまった。
見てみると、それは僕のラジオだった。最初に穴に放り投げた、あのラジオ。
拾い上げてみる。特に外傷はない。
ポケットに入れていたイヤホンを差して電源を入れる。すると、機械自体は問題なく動きだしたのだが、まったく電波を受信しない。砂嵐だけがイヤホンから聞こえてくる。
「どうなってるんだ」
近くを見渡すと、その次に投げた鞄も落ちている。これも、特に傷はついていない。
ラジオにイヤホンを巻き付けてポケットに戻し、鞄を拾って歩きだした。
どこへ向かっているか知らないが、とりあえず歩いてみる。そうしていると、少しずつ体の重さが無くなっていった。
「それにしても広い……広すぎる……先が見えないじゃないか……」
運動が得意じゃないとはいえ、そんなに体力が無いわけでは無い。ある程度歩いてしまえば、建物が見えてくるだろうと思って歩き続けてみたが、その目論見は大きく外れてしまった。
体感では4時間は歩いたと思う。
歩いている途中でラジオの電源を入れておいたのだが、気が付いたら充電が切れていた。まだそんなに古くないものだから、3時間は充電が持つはずだった。
「何なんだよ、ここ!」
役に立たない鞄を放り捨てた。そうやって無駄な体力を使っていく。
体力を奪うのは行動だけではない。思考もだ。
この不可解な状況を打開する策をずっと探しているが、どんどん頭がおかしくなってきそうだ。
「そもそも、あの太陽は何なんだ……ずっと真上にある……」
何時間も経てば、陽が傾いて方角が分かるのではと思っていたのに、この空間にそんな常識なんて存在しない。
むしろ、あの穴を通った時点で常識から外れているのだ。
それからどれほど歩いただろう。
僕は疲れて、芝生の上に寝転んでしまった。
質は良くないが、悪くもない布団のように柔らかい。
仰向けに寝てみると、太陽が眩しい。眩しいのだが、目を細めれば普通にしていられる。あの太陽は、本物の太陽と違って弱いものらしい。
「不思議な世界だ……」
歩き疲れて足が痛い。当分は歩きたくないな。
空腹でお腹が鳴った。当然だ。朝ご飯も食べずに何時間も歩いたのだから。
「母さんの弁当……は鞄の中か」
鞄はとっくに放り捨てた。疲れすぎて、弁当の存在を今まで忘れてしまっていた。これは失敗だ。
「とはいえ、草を食べるわけにはいかないし……」
ゆっくりと寝返りを打つ。
そこには、捨てたはずの鞄があった。
「え……なんで……」
中身を確認すると、ちゃんと母さんの弁当が入っていた。
明らかに不可解なこの現象を前にして、僕は感謝しか浮かばなかった。
「やった! いただきます!」
急いで弁当を開けて、そのまま手で食べ始めた。崩れかけのオニギリを頬張り、母さん特製の甘い卵焼きも一口。昨日の晩御飯の残りだったであろうエビフライも平らげ、綺麗に洗われたプチトマトもパクリ。
全てが美味しかった。
「あぁ……良かった……」
本当に良かった。
この不思議な空間は、現実世界に対する嫌な感情を払拭してくれる。嬉しいことを思い出させてくれる。
「ここに来て良かった……!」
そのまま無言で弁当を食い漁り、米粒1つ残さずに完食した。
「あ、箸があるの忘れてた」
自分の手と正反対で、まったく汚れてない箸を見つけて笑ってしまった。
『何が面白いんだ』
声がした。きっと男の声だ。
急いで辺りを見渡すが、誰もいない。
『探しても意味は無い』
声がまたした。しかも、僕の行動を見た上で発せられている。
「誰……?」
『まだ答える必要は無い』
声が返事をした。意思の疎通は出来るようだ。それに、お互いの言葉も通じる。
「君は誰? 僕は、穴から落ちてここに来た! ここはどこなんだ!」
耳を澄ます。
数秒待った。
何も聞こえない。
代わりに、芝生が揺れる音がした。
そちらに目を向けると、なんとも小さな人がこちらを睨んでいた。
人、だと思う。形は人だ。
でも、頭と体の比率がおかしい。背丈が僕の半分ほどなのに、頭は僕より遥かに大きい。4分の1は頭だ。
しかも、その顔がなんとも醜い。パーツは同じなのに、少し溶けたように崩れていた。上手く噛み合わない口から、荒い息が漏れている。
服装も、腰に草で作った蓑を巻いているだけで、ほぼ裸である。その体は痩せ衰えて、生き物として心配になるレベルだ。
「ぎぎ……ぎぎ……」
そして、声が掠れて言葉にはなっていない。さっきの声の主は、彼ではないようだ。
開ききっていない目が薄っすら開き、まっすぐに僕を見つめている。
こんなに醜い生き物がいるなんて知らなかった。昔に本で読んだゴブリンそのものではないか。
改めて細部を見ると、本当に同じだ。
醜悪な外見、意思疎通の出来ない知能、理性のない化け物。
「おいおい、勘弁してくれよ」
そして律義に、片手に棍棒を持っている部分まで同じだった。
「君は誰だい? 僕の言葉は分かる?」
ゴブリンは何も言わず、一歩近づいてきた。
「君が何を考えているか、分からないんだ」
棍棒を握る手を持ち替えた。
「いやだ……やめろ!」
空になった弁当箱を闇雲に投げつける。
ゴブリンはそれを棍棒で振り払った。棍棒で殴られた弁当箱は完全にひしゃげながら飛んで行ってしまった。
そのまま僕の方へ駆け出してくる。
逃げ出そうにも、足が痛くて動かない。
「ギギギギギ!!」
大振りの棍棒が横薙ぎに振り払われる。それをもろに横っ腹で受けてしまった。
「が……!」
弁当箱のようにひしゃげはしなかったものの、そのまま倒されてしまい、痛みに悶える間もなくゴブリンに馬乗りになられた。
「ちょっと待って!」
会話なんて出来ないのが分かってても、そう言ってみる。
返事の代わりに、棍棒が振り下ろされた。
腕で頭を守ってみるが、それでも十分に重い一撃だった。下が芝生でなければ、後頭部を地面に打ち付けて気を失っていた。
いや、死んでいた。
そう、これは死ぬ。こんなにされたら、人は死ぬんだ。
何度も何度も振り下ろされる棍棒が、僕の腕を、顔を、何度も何度も殴りつけてくる。
いくら腕で守ろうと、武器の攻撃なんて防ぎようもないのだ。
足の痛みはとっくに忘れていた。顔の痛みも、なんだか感じなくなってくる。
ふと、現実世界を思い出した。
家族にも学校にも、言葉の暴力と物理の暴力の両方を受けてきた。
僕はダメ人間だ。聖人ではない。時には相手が憎く感じていた。
自分が悪いのに、理不尽な暴力だと感じていた。
それでも僕は、一つだけ心に誓っていた。
やりかえしてはいけない、と。
殴られて、殴り返したら、また殴られるのだ。そういうもの。
暴力を治めるには、誰かが無条件でそれを受け入れなければならない。
それ以外に暴力を治める方法なんて、一つしかない。
自分が殴って、終わらせる方法。
それは、現実世界で絶対にしてはいけない方法だ。
顔を守っていた腕を外し、放り出された鞄の方へめいっぱい伸ばした。
そのせいで、顔面にまっすぐ棍棒を食らった。鼻から嫌な音がなり、血が噴き出る。
それでも、欲しいものは掴めた。
再度ゴブリンが棍棒を振り上げると同時に、咄嗟に拾い上げた箸をゴブリンの首に横からぶっ刺してやった。ズブズブとめり込む感触が手に溢れてくる。
「ギ……ギギ……ガ……」
ゴブリンは、腕を振り上げたまま動かなくなった。何かを発するたびに、首から血が零れていく。
急いで箸を引っこ抜き、今度は両手で持って左の胸に突き刺した。何か硬いものに当たったが、それを砕いて奥まで入っていった。
「ギァ……ゴァ……」
耐えかねて棍棒を落としたゴブリンは自分の胸に刺さった箸をどうにか抜こうとする。だが、奥まで入った箸は、もう体の奥に全部入っているので、傷口を掻きむしることしか出来ていない。
少しずつ、ゴブリンの動きが小さくなっていく。放っておいても、反撃は出来ないだろう。
もう一度手を伸ばし、ゴブリンが落とした棍棒を拾った。
そして、力いっぱいその顔を殴り飛ばした。
小柄なゴブリンは簡単に僕の上から跳んで行く。
草の上に転がり、何かを言いながら……動かなくなった。
僕はまだ立てなかった。なんとかゴブリンの近くまで這って、もう一撃棍棒で殴りつける。
人より骨格が軟弱なのだろう。思ったより簡単に頭蓋が砕けた。
「ここが現実じゃなくて良かった……痛ぇ……」
今までずっと我慢してきた。幾つもの暴力に。
ずっと我慢していた。自分が殴り返すことを。
僕は弱虫だ。臆病だ。
だから仕返しが怖い。
もう一度だけ、棍棒を振り上げる。
「仕返しが怖いんだ、ごめんよ」
もう2度とコイツから殴られないように、しっかりと殴っておいた。
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