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ぬらりひょんの憂鬱
ぬらりひょんの憂鬱 三
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「いやーアレですね、早起きっていうのはいいですねー! 空気がおいしいし頭もスッキリ、あと何より空気がおいしい! って2度言うなってなっははは……」
「……」
「……あー」
「小梅。今何時だ?」
「7時半。朝の」
「……就業開始は」
「9時半ね」
「……時間守るくらいはしてくれませんかね、猩々さん」
ここ、文河岸お悩み相談所は、事務所と自宅兼用だ。
つまり営業時間外は、俺と小梅のプライベートルームである。
それをこのおっさん……。
「いやね、昨夜はちょっと説明足りなかったかなーって! だからアレですよ、わざわざ早出してまで改めてお伝えしようと、そう思った次第でしてね!」
「はぁ……」
「褒めていただいても構いませんよ! ええ!」
「……刻む?」
「止める気はないけど後始末がめんどいからやめて」
時間の概念ってものがねーのかな、この毛深いおっさんは。
猩々というのは妖怪の一種だ。酒が大好きで、能の演目にもなっていたりする、齢二千歳を超える古参である。
オランウータンのことをそう呼んだりもするが、このやけに口の回るおっさんは、オランウータンではない。どちらかと言えば狸っぽい顔をしているんだが、こうやってスーツを着ていると、やけに毛深い赤ら顔の壮年男性、程度には人間に見える。
「一応、お話は伺いましたよ。ていうか、あの人総大将じゃなかったんですね」
「おおっ、聞いていただいてましたか! いやー、いきなり深夜に行くと、もしかしたら門前払いされるかもしれないから、朝の方がいいかもしれませんよって言っといたんですけどねー」
「……そんなこと一言も言ってませんでしたけど」
「あるぇ? おっかしいな、確かにそう言ったんだけど……あ、違うや」
いっけねぇ、とか呟く猩々さんに、小梅が反応した。
「違うって?」
「いやね、ぬらりひょん氏が明日の朝伺いますよって言うから、いやいや、予約さえあれば24時間いつでも構いません、なんなら今から私の方で予約取っておきますよ、なんて話をしたんでした」
「真逆じゃない。それ、いつ頃の話?」
「ええと、確か昨日の……」
「昨日の?」
「昼?」
「斬る」
言うなり、小梅の右腕が切り刃に変化する。やべ、これマジなやつだ。
「小梅、いいから」
「うるさい」
「小梅!」
我を忘れた小梅に、少し強めに声をかける。すると、小梅の肩が一瞬ビクっと震え、右腕はいつもの細い華奢な腕に戻った。
「……ごめん」
「なぁ小梅。お前さんの気持ちはわかる。すごぉくわかる。……でもな、今ここでやるのはいかん」
「所長!」
「掃除が大変だろう」
「所長!?」
「……やるなら外だ。ほら、この70リットルのゴミ袋あげるから」
「なるほど! ありがと!」
「納得しちゃった!? いや、すみません、ほんとすみません! 今度からはちゃんと連絡入れますから! この通り!」
そう言っておもむろに、芸術のような土下座を披露する猩々を見て、俺はすっかり気が抜けてしまった。
「まぁ、過ぎたことですし。いつまでもそうやってたら話も進まないし」
「ですよね!」
猩々さんは間髪入れずに飛び起き、応接セットに向かった。腹立つわぁ。
ふと横を見ると、小梅の目が据わっている。彼女の頭を軽く撫でると、いつもの様につい、と俺にくっついてきた。かわいい。
改めて三人分のお茶を小梅に頼み、俺は応接室に移動する。
昨日、ぬら氏と会話していた場所である。
「お待たせ……してる訳でもないな。まあいいや、始めましょう」
「その前に。……所長、呪印は痛みますか?」
「……いえ」
「そうですか……」
自分の首の後ろに触れる。その場所には、梵字のような形のアザがある。
生まれて間もなく、何者かにつけられたというこの印は、あやかしにとって「生贄の目印」なんだそうだ。それがどんな意味を持っていて、何の生贄になるのかはわからない。
だが、生贄と言われるのは気分の良いものじゃない。
「痛まない、ということは、かのご老人ではない、ということですな」
「そういうことになる、のかな? 俺にはよく分かりませんが」
「毎回聞いてますが、どうします? 彼ではなかった以上、こちらには依頼をこなす意味がなくなりましたが」
「毎回答えてますが、やりますよ。彼が悩みを抱えているのは本当だし、乗った以上はぬら氏の納得いくところまで付き合います」
俺がこの相談所の所長をしているのは、実はこのためである。
――俺に呪印をつけた犯人を探す。
そこまで話したところで、小梅が盆に茶を乗せて入ってきた。
しっかり仕事着――大正ロマン風メイド服――に着替えている。
「はい、お茶どうぞ……でもさ、その呪印のおかげっていうのもあるじゃない? 怜ちゃんが“霊障を一切受けない”のはさ」
「まぁなぁ……」
そう。
俺がぬらりひょん氏に気づくことが出来るのも、妖怪の総大将に対して平然としていられるのも、全てはこの呪印のおかげであったりもする。
俺には、いわゆる“あやかしの力”が一切効かないのだ。
これは、猩々さんによれば、呪いをかけたあやかしが、他のあやかしに俺を取られないようにするためらしい。
「とはいえ物理は関係ないからなぁ。鬼に殴られりゃ一発で死ぬし」
「そんなことあたしがさせないもん」
「小梅……」
「怜ちゃん……」
「お盛んですなぁ」
「オウっ」
「まあ、今回についてはその力が良い方に働いてますしねー。……で、そのぬらりひょん氏の件ですが、どうするんです?」
「ユーチューバーなぁ……」
「一番の難問は、ぬら爺を認知させること、だもんね。普通にチャンネル公開したって、フォロワーどころかPVも0だよ、気付かれなくて」
「……その辺はぬら氏が来てからにしよう。昼過ぎには来るはずだ」
「じゃあ、そちらの件はお任せしますね。私はちょいと別件で動かないといけないので」
猩々さんがお茶を飲み干し、腰を上げる。
「別件?」
「ええ、ちょっとね。こちらに持ってくる案件かどうかもまだ分かりませんが」
「……今度はちゃんと事前に連絡くださいよ」
「分かってます分かってます、ではっ!」
慌ただしく出ていく猩々さんをその場で見送る。
ドアの閉まる音が聞こえたところで、小梅が俺に、後ろから抱きついてきた。
「……怜ちゃんのことはあたしが守るからね」
「頼りにしてるよ。……さて、昼までは暇だな。散歩でもするか」
「その前にご飯だよー! 冷めちゃったし、あっためてくるねっ」
そう言って小走りに台所へ消えた小梅に苦笑しつつ、俺は首の後ろに手を当てた。
「……」
「……あー」
「小梅。今何時だ?」
「7時半。朝の」
「……就業開始は」
「9時半ね」
「……時間守るくらいはしてくれませんかね、猩々さん」
ここ、文河岸お悩み相談所は、事務所と自宅兼用だ。
つまり営業時間外は、俺と小梅のプライベートルームである。
それをこのおっさん……。
「いやね、昨夜はちょっと説明足りなかったかなーって! だからアレですよ、わざわざ早出してまで改めてお伝えしようと、そう思った次第でしてね!」
「はぁ……」
「褒めていただいても構いませんよ! ええ!」
「……刻む?」
「止める気はないけど後始末がめんどいからやめて」
時間の概念ってものがねーのかな、この毛深いおっさんは。
猩々というのは妖怪の一種だ。酒が大好きで、能の演目にもなっていたりする、齢二千歳を超える古参である。
オランウータンのことをそう呼んだりもするが、このやけに口の回るおっさんは、オランウータンではない。どちらかと言えば狸っぽい顔をしているんだが、こうやってスーツを着ていると、やけに毛深い赤ら顔の壮年男性、程度には人間に見える。
「一応、お話は伺いましたよ。ていうか、あの人総大将じゃなかったんですね」
「おおっ、聞いていただいてましたか! いやー、いきなり深夜に行くと、もしかしたら門前払いされるかもしれないから、朝の方がいいかもしれませんよって言っといたんですけどねー」
「……そんなこと一言も言ってませんでしたけど」
「あるぇ? おっかしいな、確かにそう言ったんだけど……あ、違うや」
いっけねぇ、とか呟く猩々さんに、小梅が反応した。
「違うって?」
「いやね、ぬらりひょん氏が明日の朝伺いますよって言うから、いやいや、予約さえあれば24時間いつでも構いません、なんなら今から私の方で予約取っておきますよ、なんて話をしたんでした」
「真逆じゃない。それ、いつ頃の話?」
「ええと、確か昨日の……」
「昨日の?」
「昼?」
「斬る」
言うなり、小梅の右腕が切り刃に変化する。やべ、これマジなやつだ。
「小梅、いいから」
「うるさい」
「小梅!」
我を忘れた小梅に、少し強めに声をかける。すると、小梅の肩が一瞬ビクっと震え、右腕はいつもの細い華奢な腕に戻った。
「……ごめん」
「なぁ小梅。お前さんの気持ちはわかる。すごぉくわかる。……でもな、今ここでやるのはいかん」
「所長!」
「掃除が大変だろう」
「所長!?」
「……やるなら外だ。ほら、この70リットルのゴミ袋あげるから」
「なるほど! ありがと!」
「納得しちゃった!? いや、すみません、ほんとすみません! 今度からはちゃんと連絡入れますから! この通り!」
そう言っておもむろに、芸術のような土下座を披露する猩々を見て、俺はすっかり気が抜けてしまった。
「まぁ、過ぎたことですし。いつまでもそうやってたら話も進まないし」
「ですよね!」
猩々さんは間髪入れずに飛び起き、応接セットに向かった。腹立つわぁ。
ふと横を見ると、小梅の目が据わっている。彼女の頭を軽く撫でると、いつもの様につい、と俺にくっついてきた。かわいい。
改めて三人分のお茶を小梅に頼み、俺は応接室に移動する。
昨日、ぬら氏と会話していた場所である。
「お待たせ……してる訳でもないな。まあいいや、始めましょう」
「その前に。……所長、呪印は痛みますか?」
「……いえ」
「そうですか……」
自分の首の後ろに触れる。その場所には、梵字のような形のアザがある。
生まれて間もなく、何者かにつけられたというこの印は、あやかしにとって「生贄の目印」なんだそうだ。それがどんな意味を持っていて、何の生贄になるのかはわからない。
だが、生贄と言われるのは気分の良いものじゃない。
「痛まない、ということは、かのご老人ではない、ということですな」
「そういうことになる、のかな? 俺にはよく分かりませんが」
「毎回聞いてますが、どうします? 彼ではなかった以上、こちらには依頼をこなす意味がなくなりましたが」
「毎回答えてますが、やりますよ。彼が悩みを抱えているのは本当だし、乗った以上はぬら氏の納得いくところまで付き合います」
俺がこの相談所の所長をしているのは、実はこのためである。
――俺に呪印をつけた犯人を探す。
そこまで話したところで、小梅が盆に茶を乗せて入ってきた。
しっかり仕事着――大正ロマン風メイド服――に着替えている。
「はい、お茶どうぞ……でもさ、その呪印のおかげっていうのもあるじゃない? 怜ちゃんが“霊障を一切受けない”のはさ」
「まぁなぁ……」
そう。
俺がぬらりひょん氏に気づくことが出来るのも、妖怪の総大将に対して平然としていられるのも、全てはこの呪印のおかげであったりもする。
俺には、いわゆる“あやかしの力”が一切効かないのだ。
これは、猩々さんによれば、呪いをかけたあやかしが、他のあやかしに俺を取られないようにするためらしい。
「とはいえ物理は関係ないからなぁ。鬼に殴られりゃ一発で死ぬし」
「そんなことあたしがさせないもん」
「小梅……」
「怜ちゃん……」
「お盛んですなぁ」
「オウっ」
「まあ、今回についてはその力が良い方に働いてますしねー。……で、そのぬらりひょん氏の件ですが、どうするんです?」
「ユーチューバーなぁ……」
「一番の難問は、ぬら爺を認知させること、だもんね。普通にチャンネル公開したって、フォロワーどころかPVも0だよ、気付かれなくて」
「……その辺はぬら氏が来てからにしよう。昼過ぎには来るはずだ」
「じゃあ、そちらの件はお任せしますね。私はちょいと別件で動かないといけないので」
猩々さんがお茶を飲み干し、腰を上げる。
「別件?」
「ええ、ちょっとね。こちらに持ってくる案件かどうかもまだ分かりませんが」
「……今度はちゃんと事前に連絡くださいよ」
「分かってます分かってます、ではっ!」
慌ただしく出ていく猩々さんをその場で見送る。
ドアの閉まる音が聞こえたところで、小梅が俺に、後ろから抱きついてきた。
「……怜ちゃんのことはあたしが守るからね」
「頼りにしてるよ。……さて、昼までは暇だな。散歩でもするか」
「その前にご飯だよー! 冷めちゃったし、あっためてくるねっ」
そう言って小走りに台所へ消えた小梅に苦笑しつつ、俺は首の後ろに手を当てた。
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