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傘
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・・・彼女のその小さな嘘に気がついた時、僕は彼女のことがとても好きになりました。・・・
・・・僕はとても幸せな気分になりました。・・・僕は彼女とずっと話をしていたいと思いました。・・・彼女とずっと一緒にいたいと思いました。・・・
・・・でも、その時間は長くは続きませんでした。・・・
・・・それでも・・・それでも、僕は彼女のことを愛しています。・・・
・・・今でも僕は彼女のことが好きです。・・・
そのころ僕は海沿いにある小さな町に住んでいました。
僕はその時中学生でした。
中学二年でした。
それは五月の中旬のことでした。
新しい学年が始まってから、もう一ヶ月がすぎていました。
みんな新しいクラスになれて、他の生徒のことも、もうだいたいわかり始めたころでした。
誰が頭がよくて、誰が体育が得意で、誰が偉そうなやつで、誰が喧嘩が強くて、誰が・・・。
みんな仲の良い友達ができて、一緒にいる仲間ができて、休み時間に話をする相手が決まって、・・・。
僕はあまり人と一緒にいるのが好きではありませんでした。
友達はたくさんいましたが、学校から帰る時はいつも一人でした。
海沿いの道を一人で自由に歩いて帰るのが好きでした。
僕は人が嫌いだったわけではありません。
人に話しかけられると、いくらでも雑談をしました。
大して意味もないことを長々と話したりもしました。
僕は決して人と話をするのが嫌だったわけではありません。
友達と話をするのは好きでした。
でも、一人でいる時間はそれ以上に好きでした。
だから、自分から友達に声をかけることはあまりありませんでした。
僕は一人で気楽に時間をすごすのが好きだったのです。
ある日、学校から帰ろうとしていると、玄関のところに一人の女の子が立っていました。
同じクラスの女の子でした。
背が低く、小柄な女の子でした。
目立たない子でした。
彼女はいつも一人でいました。
彼女にはあまり仲の良い友達がいないようでした。
僕は玄関を出ながら、彼女をちらりと見ました。
彼女はうつむいていました。
僕には彼女がなぜそこに立っているのかわかりませんでした。
誰かを待っているのだろうかと思いました。
よくわからなかったので、僕は声をかけずに、そのまま玄関を出ました。
少し歩いてから、僕は何となく振り返りました。
すると、彼女はやはり玄関のところに立っていました。
でも、もううつむいていませんでした。
彼女は顔をあげてじっと見ていました。
じっと僕を見ていました。
僕はどうしたのだろうかと思いました。
僕に何か用事があったのだろうかと思いました。
僕はしばらく立ち止まっていました。
もし僕に用事があるのなら、追いかけてくるだろうと思ったのです。
でも、彼女はじっと立ったままです。
学校の玄関でじっと立ったまま、僕を見ているのです。
僕にはよくわかりませんでした。
僕は思いました。・・・用事があるのかもしれないけど、きっと急用じゃないのだろう・・・
・・・何かあるのなら、明日話をすればいいだろう・・・
そう思った僕はそのまま家に帰ってしまいました。
でも、次の日になると、僕は前日に起きたことをすっかり忘れていました。
彼女のことをもう忘れていました。
彼女が教室の片隅に一人で立っていても、僕は話しかけようともしませんでした。
その日、午後からひどい雨が降り始めました。
授業が終わり、僕は学校から家に帰ろうとしていました。
雨ははげしく降っています。
止みそうもありません。
僕はその日もやはり一人で家に帰ろうとしていました。
すると玄関に、彼女が立っているのです。
昨日と同じように彼女が一人で立っているのです。
僕は少しの間、彼女を見ていました。
彼女は帰れなくて困っているようでした。
彼女は傘を持っていないようでした。
傘を持っていないので、家に帰れないのでしょう。
僕は自分の傘を持っていました。
僕は傘を手に持ったまま、しばらく外の雨を見ていました。
それから僕は傘を差して、外に出ようとしました。
雨の中を一人で帰ろうとしました。
でも、その時、僕はなぜか、どうしても彼女のことが気になったのです。
僕は彼女にたずねました。
「どうしたの? かさを持っていないの?」
彼女はうなずきました。
僕は言いました。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
彼女は、またうなずきました。
二人は並んで歩き始めました。
二人は一つのかさを一緒に持って、歩き始めました。
二人が話をするのは、その時が初めてでした。
でも、彼女はとても楽しそうに話しました。
まるで、ずっと前から友達だったように僕と話をしました。
僕もとても楽しくなりました。
その時、何を話したのか、もう忘れてしまいました。
ただ、とても楽しかったということだけは覚えています。
でも、その時、僕はあることに気がついたのです。
彼女のかばんに 小さな傘が入っているのが見えたのです。
小さな傘が、かばんから見えていたのです。
それは折り畳み傘でした。
彼女は傘を持っていたのです。
彼女が傘を持っていないと言ったのは、嘘だったのです。
それを知った時、僕は彼女のことが好きになりました。
僕は、彼女のことがとても好きになりました。
しばらく歩いていると雨は止みました。
僕は傘を閉じました。
でも、二人は一緒に歩いていました。
二人は海岸沿いの道を歩いていました。
雨はすっかり止んで空は晴れています。
もう夕暮れです。
空は赤く染まっています。
そして、太陽は暗い海へと沈んでいこうとしています。
僕たちは海沿いの堤防に座りました。
彼女は僕の隣に座りました。
彼女は、まるでずっと昔から恋人だったかのように僕に寄り添いました。
僕は不思議な気持ちでした。
僕はこんなに女性と親しくなったことがなかったのです。
それに、彼女とはさっき初めて会話をしたのです。
それほど急に女性と親しくなるなんて、僕は想像したこともありませんでした。
彼女はじっと僕を見ていました。
彼女はやさしい目で僕を見つめていました。
そして、彼女は僕の手を握りました。
彼女は僕の手の指の一本一本に触れました。
それから、彼女は小さな声でつぶやきました。
・・・ありがとう・・・
それはとても小さな声でした。
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でした。
僕は、きっと傘のお礼を言っているのだろうと思いました。
だから、雨が降っていたからね、と僕は答えました。
彼女のカバンの中の折り畳み傘のことは何も言いませんでした。
二人は、しばらく黙っていました。
それから、また彼女が言いました。
・・・一緒にいてくれて、ありがとう・・・
僕は何と答えればよいのかわかりませんでした。
その言葉を聞いた時、僕はなぜか少し不安な気持ちになったのです。
なぜそんな気持ちになったのか、自分でもわかりません。
でも、僕は幸せでした。
僕は心の底から幸福でした。
ずっと彼女と一緒にいたいと思いました。
すると、彼女がまた、とても小さな声でつぶやいたのです。
・・・ごめんなさい・・・
僕には彼女が何に対して謝っているのかわかりませんでした。
彼女は下を向いていました。
彼女はもう僕の方を見ようとはしませんでした。
彼女はうつむいたまま、また言いました。
・・・ごめんなさい・・・
僕には彼女の言葉の意味がわかりませんでした。
僕は黙っていました。
僕は黙ったまま、堤防に打ちつける波の音を聞いていました。
波は激しく、絶え間なく、繰り返し繰り返し、打ちつけ続けていました。
まるでそれは、僕たちが座っている堤防を壊そうとしているかのように・・・。
僕は彼女を家まで送りました。
僕は彼女が家の中に入っていくのをじっと見ていました。
彼女は玄関の戸を閉める前に、振り返りました。
そして、なぜか目を大きく開いて、じっと僕を見ていました。
まるで彼女は泣いているようでした。
でもすぐに彼女は家の中に入り、玄関の戸は閉じられてしまいました。
僕は家に帰ってからも、ずっと彼女のことを考えていました。
僕は彼女のことを考えていたので、その日の夜は、ほとんど眠れませんでした。
僕は初めてその時知ったのです。
恋の素晴らしさを・・・。
恋をするということの素晴らしさを・・・。
僕は幸せでした。
こんな幸福はそれまでに感じたことがありませんでした。
僕の頭の中は彼女のことでいっぱいでした。
僕は彼女のことだけを考えていました。
明日、彼女と何を話そうかと考えていました。
今週末、どこかへ一緒に行きたいとも思いました。
少し遠いけど遊園地に行こうかとも思いました。
僕はずっと彼女のことを考えていました。
その時の僕には、彼女以外のことは何も考えられなくなっていました。
でも、それはすぐに終わってしまいました。
その恋はすぐに終わってしまったのです。
次の日、彼女は学校を休みました。
その次の日も学校を休みました。
彼女はしばらく学校に来ませんでした。
そして、僕は彼女が病気で入院しているということを知りました。
僕はすぐにお見舞いに行きました。
でも、彼女はもうひどく衰弱していました。
彼女はもう話をすることができなかったのです。
それでも僕を見て喜んでくれました。
僕は彼女の手をにぎったまま、じっと座っていました。
僕は驚いていました。
それはあまりにも突然のことだったから・・・。
その時の僕は彼女に何を話せばよいのかわかりませんでした。
痩せ衰えた彼女に何と言えばよいのかわかりませんでした。
僕はただ彼女を見つめていました。
彼女も僕を見つめていました。
彼女は僕の手をにぎり、そして 僕の手の指の一本一本に触れました。
僕には今自分を包んでいるものが現実なのか幻なのかわからなくなっていました。
僕はうつむいたまま泣いていました。
すると、彼女が何か言おうとしたのです。
でも、声が出ません。
彼女は声を出すことができないのです。
それでも口を動かしました。
ゆっくりと口を動かしました。
彼女の声は聞こえませんでした。
でも、彼女が何を言おうとしているのかはわかりました。
たとえ声が聞こえなくても、彼女が言おうとしている言葉はわかりました。
・・・ありがとう・・・
僕は静かに彼女を抱きしめました。
二週間後に彼女は死にました。
僕には、何が起きているのか理解する時間もありませんでした。
そして、それから何十年もたちました。
僕は今でも時々その海岸に行きます。
海へ沈んでいく夕日を見に行くのです。
僕はいつも堤防の上に座ります。
同じ場所に・・・。
あの日、彼女と一緒に座った場所に・・・一人で・・・。
僕はそこへ座ってあの日のことを何度も思い出します。
一緒に帰った一時間足らずのことを何度も思い出します。
あの時ほど幸せだったことはありません。
あの時ほど人が好きになったことはありません。
だから、この堤防に座って沈んでいく夕日を見ていると、今でも思い出すのです。
彼女の声を・・・。
彼女のあどけない顔を・・・。
彼女のやさしい目を・・・。
長い時間がたちました。
あれから、もう何十年もたちました。
それでも、僕は彼女のことが忘れられません。
そして、彼女のことを思い出すと、今でも、また会いたくなります。
また、彼女に会いたいのです。
また、彼女と話がしたいのです。
彼女と一緒に歩きたいのです。
もう一度、彼女と一緒に、一つのかさで、雨の中を歩きたいのです。
僕は今でも彼女のことが好きなのです。
・・・僕はとても幸せな気分になりました。・・・僕は彼女とずっと話をしていたいと思いました。・・・彼女とずっと一緒にいたいと思いました。・・・
・・・でも、その時間は長くは続きませんでした。・・・
・・・それでも・・・それでも、僕は彼女のことを愛しています。・・・
・・・今でも僕は彼女のことが好きです。・・・
そのころ僕は海沿いにある小さな町に住んでいました。
僕はその時中学生でした。
中学二年でした。
それは五月の中旬のことでした。
新しい学年が始まってから、もう一ヶ月がすぎていました。
みんな新しいクラスになれて、他の生徒のことも、もうだいたいわかり始めたころでした。
誰が頭がよくて、誰が体育が得意で、誰が偉そうなやつで、誰が喧嘩が強くて、誰が・・・。
みんな仲の良い友達ができて、一緒にいる仲間ができて、休み時間に話をする相手が決まって、・・・。
僕はあまり人と一緒にいるのが好きではありませんでした。
友達はたくさんいましたが、学校から帰る時はいつも一人でした。
海沿いの道を一人で自由に歩いて帰るのが好きでした。
僕は人が嫌いだったわけではありません。
人に話しかけられると、いくらでも雑談をしました。
大して意味もないことを長々と話したりもしました。
僕は決して人と話をするのが嫌だったわけではありません。
友達と話をするのは好きでした。
でも、一人でいる時間はそれ以上に好きでした。
だから、自分から友達に声をかけることはあまりありませんでした。
僕は一人で気楽に時間をすごすのが好きだったのです。
ある日、学校から帰ろうとしていると、玄関のところに一人の女の子が立っていました。
同じクラスの女の子でした。
背が低く、小柄な女の子でした。
目立たない子でした。
彼女はいつも一人でいました。
彼女にはあまり仲の良い友達がいないようでした。
僕は玄関を出ながら、彼女をちらりと見ました。
彼女はうつむいていました。
僕には彼女がなぜそこに立っているのかわかりませんでした。
誰かを待っているのだろうかと思いました。
よくわからなかったので、僕は声をかけずに、そのまま玄関を出ました。
少し歩いてから、僕は何となく振り返りました。
すると、彼女はやはり玄関のところに立っていました。
でも、もううつむいていませんでした。
彼女は顔をあげてじっと見ていました。
じっと僕を見ていました。
僕はどうしたのだろうかと思いました。
僕に何か用事があったのだろうかと思いました。
僕はしばらく立ち止まっていました。
もし僕に用事があるのなら、追いかけてくるだろうと思ったのです。
でも、彼女はじっと立ったままです。
学校の玄関でじっと立ったまま、僕を見ているのです。
僕にはよくわかりませんでした。
僕は思いました。・・・用事があるのかもしれないけど、きっと急用じゃないのだろう・・・
・・・何かあるのなら、明日話をすればいいだろう・・・
そう思った僕はそのまま家に帰ってしまいました。
でも、次の日になると、僕は前日に起きたことをすっかり忘れていました。
彼女のことをもう忘れていました。
彼女が教室の片隅に一人で立っていても、僕は話しかけようともしませんでした。
その日、午後からひどい雨が降り始めました。
授業が終わり、僕は学校から家に帰ろうとしていました。
雨ははげしく降っています。
止みそうもありません。
僕はその日もやはり一人で家に帰ろうとしていました。
すると玄関に、彼女が立っているのです。
昨日と同じように彼女が一人で立っているのです。
僕は少しの間、彼女を見ていました。
彼女は帰れなくて困っているようでした。
彼女は傘を持っていないようでした。
傘を持っていないので、家に帰れないのでしょう。
僕は自分の傘を持っていました。
僕は傘を手に持ったまま、しばらく外の雨を見ていました。
それから僕は傘を差して、外に出ようとしました。
雨の中を一人で帰ろうとしました。
でも、その時、僕はなぜか、どうしても彼女のことが気になったのです。
僕は彼女にたずねました。
「どうしたの? かさを持っていないの?」
彼女はうなずきました。
僕は言いました。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
彼女は、またうなずきました。
二人は並んで歩き始めました。
二人は一つのかさを一緒に持って、歩き始めました。
二人が話をするのは、その時が初めてでした。
でも、彼女はとても楽しそうに話しました。
まるで、ずっと前から友達だったように僕と話をしました。
僕もとても楽しくなりました。
その時、何を話したのか、もう忘れてしまいました。
ただ、とても楽しかったということだけは覚えています。
でも、その時、僕はあることに気がついたのです。
彼女のかばんに 小さな傘が入っているのが見えたのです。
小さな傘が、かばんから見えていたのです。
それは折り畳み傘でした。
彼女は傘を持っていたのです。
彼女が傘を持っていないと言ったのは、嘘だったのです。
それを知った時、僕は彼女のことが好きになりました。
僕は、彼女のことがとても好きになりました。
しばらく歩いていると雨は止みました。
僕は傘を閉じました。
でも、二人は一緒に歩いていました。
二人は海岸沿いの道を歩いていました。
雨はすっかり止んで空は晴れています。
もう夕暮れです。
空は赤く染まっています。
そして、太陽は暗い海へと沈んでいこうとしています。
僕たちは海沿いの堤防に座りました。
彼女は僕の隣に座りました。
彼女は、まるでずっと昔から恋人だったかのように僕に寄り添いました。
僕は不思議な気持ちでした。
僕はこんなに女性と親しくなったことがなかったのです。
それに、彼女とはさっき初めて会話をしたのです。
それほど急に女性と親しくなるなんて、僕は想像したこともありませんでした。
彼女はじっと僕を見ていました。
彼女はやさしい目で僕を見つめていました。
そして、彼女は僕の手を握りました。
彼女は僕の手の指の一本一本に触れました。
それから、彼女は小さな声でつぶやきました。
・・・ありがとう・・・
それはとても小さな声でした。
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でした。
僕は、きっと傘のお礼を言っているのだろうと思いました。
だから、雨が降っていたからね、と僕は答えました。
彼女のカバンの中の折り畳み傘のことは何も言いませんでした。
二人は、しばらく黙っていました。
それから、また彼女が言いました。
・・・一緒にいてくれて、ありがとう・・・
僕は何と答えればよいのかわかりませんでした。
その言葉を聞いた時、僕はなぜか少し不安な気持ちになったのです。
なぜそんな気持ちになったのか、自分でもわかりません。
でも、僕は幸せでした。
僕は心の底から幸福でした。
ずっと彼女と一緒にいたいと思いました。
すると、彼女がまた、とても小さな声でつぶやいたのです。
・・・ごめんなさい・・・
僕には彼女が何に対して謝っているのかわかりませんでした。
彼女は下を向いていました。
彼女はもう僕の方を見ようとはしませんでした。
彼女はうつむいたまま、また言いました。
・・・ごめんなさい・・・
僕には彼女の言葉の意味がわかりませんでした。
僕は黙っていました。
僕は黙ったまま、堤防に打ちつける波の音を聞いていました。
波は激しく、絶え間なく、繰り返し繰り返し、打ちつけ続けていました。
まるでそれは、僕たちが座っている堤防を壊そうとしているかのように・・・。
僕は彼女を家まで送りました。
僕は彼女が家の中に入っていくのをじっと見ていました。
彼女は玄関の戸を閉める前に、振り返りました。
そして、なぜか目を大きく開いて、じっと僕を見ていました。
まるで彼女は泣いているようでした。
でもすぐに彼女は家の中に入り、玄関の戸は閉じられてしまいました。
僕は家に帰ってからも、ずっと彼女のことを考えていました。
僕は彼女のことを考えていたので、その日の夜は、ほとんど眠れませんでした。
僕は初めてその時知ったのです。
恋の素晴らしさを・・・。
恋をするということの素晴らしさを・・・。
僕は幸せでした。
こんな幸福はそれまでに感じたことがありませんでした。
僕の頭の中は彼女のことでいっぱいでした。
僕は彼女のことだけを考えていました。
明日、彼女と何を話そうかと考えていました。
今週末、どこかへ一緒に行きたいとも思いました。
少し遠いけど遊園地に行こうかとも思いました。
僕はずっと彼女のことを考えていました。
その時の僕には、彼女以外のことは何も考えられなくなっていました。
でも、それはすぐに終わってしまいました。
その恋はすぐに終わってしまったのです。
次の日、彼女は学校を休みました。
その次の日も学校を休みました。
彼女はしばらく学校に来ませんでした。
そして、僕は彼女が病気で入院しているということを知りました。
僕はすぐにお見舞いに行きました。
でも、彼女はもうひどく衰弱していました。
彼女はもう話をすることができなかったのです。
それでも僕を見て喜んでくれました。
僕は彼女の手をにぎったまま、じっと座っていました。
僕は驚いていました。
それはあまりにも突然のことだったから・・・。
その時の僕は彼女に何を話せばよいのかわかりませんでした。
痩せ衰えた彼女に何と言えばよいのかわかりませんでした。
僕はただ彼女を見つめていました。
彼女も僕を見つめていました。
彼女は僕の手をにぎり、そして 僕の手の指の一本一本に触れました。
僕には今自分を包んでいるものが現実なのか幻なのかわからなくなっていました。
僕はうつむいたまま泣いていました。
すると、彼女が何か言おうとしたのです。
でも、声が出ません。
彼女は声を出すことができないのです。
それでも口を動かしました。
ゆっくりと口を動かしました。
彼女の声は聞こえませんでした。
でも、彼女が何を言おうとしているのかはわかりました。
たとえ声が聞こえなくても、彼女が言おうとしている言葉はわかりました。
・・・ありがとう・・・
僕は静かに彼女を抱きしめました。
二週間後に彼女は死にました。
僕には、何が起きているのか理解する時間もありませんでした。
そして、それから何十年もたちました。
僕は今でも時々その海岸に行きます。
海へ沈んでいく夕日を見に行くのです。
僕はいつも堤防の上に座ります。
同じ場所に・・・。
あの日、彼女と一緒に座った場所に・・・一人で・・・。
僕はそこへ座ってあの日のことを何度も思い出します。
一緒に帰った一時間足らずのことを何度も思い出します。
あの時ほど幸せだったことはありません。
あの時ほど人が好きになったことはありません。
だから、この堤防に座って沈んでいく夕日を見ていると、今でも思い出すのです。
彼女の声を・・・。
彼女のあどけない顔を・・・。
彼女のやさしい目を・・・。
長い時間がたちました。
あれから、もう何十年もたちました。
それでも、僕は彼女のことが忘れられません。
そして、彼女のことを思い出すと、今でも、また会いたくなります。
また、彼女に会いたいのです。
また、彼女と話がしたいのです。
彼女と一緒に歩きたいのです。
もう一度、彼女と一緒に、一つのかさで、雨の中を歩きたいのです。
僕は今でも彼女のことが好きなのです。
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