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説得

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優side

 私は今、おそらく誰もが知っている展開の中にいる。
 ヒロインとヒーローがいる物語の中で…必ずと言っていいほど訪れる王道の展開の中に。

 ダイニングテーブルを挟んだ向こう側に、苦虫を噛み潰したような顔の佐々木さんと……眉を下げて頬を赤らめ、ほろほろと涙を流す熟年の女性が座っていた。
 上下クリーム色のワンピースに淑やかにまとめた黒髪がツヤツヤしている。
生粋のお嬢様って、こんな感じなんだろうなぁ…と思わせる様子だった。



「何の保証もなしに、とは申し上げませんわ。貴方が抱えるであろう苦痛の分は、必ず対価をお支払いいたします。」

 そう言って、女性が分厚い白い封筒を差し出してくる。中にはおそらく現金が入っているだろうと察せられた。
 凛々しい眉、深い堀りのある整ったお顔立ち。年齢を重ねても消えない美しさを纏ったこの人は……龍一さんのお母様だった。

 本当かどうかなんて疑う余地すらない。セキュリティが強化されたこのお家に入れている事、佐々木さんが否定しない事で間違いないと証明されている。それに、こんなにそっくりな顔をしていては否定なんかできるはずもない。

 私は、何かを言わなきゃと思うたびに喉がひきつれて、言葉を飲み込み…何もいえずにいた。




「ねぇ、羽田さん。お分かりになりますよね。龍一が誰を妻にしたら一番幸せになれるのか。
 貴方では社長の妻にはなり得ないの。生粋の令嬢である私でさえ、本当に苦労してやって来たのよ。あなた自身も、きっと後悔なさるわ」
「…………」

「貴方がここを離れて、どこか遠いところで暮らしさえしてくださればいいの。佐々木を貴方につけます。……生涯の伴侶としても良いんですよ」
 
「そんな……さ、佐々木さんは…佐々木さんの意思はそこにあるんですか?
 龍一さんを支えて、今まで会社で一生懸命働いてくださった方を…私なんかのそばに居させるなんて。」


 突然降って湧いたような話しに驚いて、佐々木さん…そーくんを見つめる。彼は私に一度視線を合わせた後、さらに険しい顔をして目を閉じた。

 

「佐々木は、貴方の幼馴染だと私達は知っています。……貴方を思って、探し続けていた事も」
「…………」
 
「彼の思いを受け止めるかどうかは、貴方次第ではあるけれど。……彼を側に置いてくだされば、私たちも援助がしやすくなるわ。
 ……龍一が…高校生の頃から急に立ち直ったのは、貴方との出会いがそうさせたのだと聞きました。あの子は末っ子ですが地頭が良くてね。
 でも『後継にはならない』と言ってずっと反発していたの。それが急に真面目になって、勉強もし始めて……あっという間に頭角を現したわ。こんな風になるだなんて誰も思っていなかった。ちょっと本気を出しただけで夫も認めてしまうほどの才能を持っていたの」


 テーブルの上で組まれた手は、あかぎれ一つない綺麗な手。爪の先まで綺麗に磨かれてツヤツヤしている。
 私が覚えていたお母さんの手は、冬になると節々が割れて赤い血がいつも滲んでいた記憶がある。でも、この人はそう言う経験はなさそうだ。

 

「夫には引き離すよう言われましたが、今の龍一を作ってくださったあなたにご恩があります。貴方が望むなら、おめかけさんとして住まいをご用意しましょう。
 その場合、子供は産めないし事実婚になります。本妻が産んだ子と、めかけが産んだ子が居ればいつか相続争いになる。それは、許されないのよ」
「………………」
 
「どちらを選んでいただいても、一生不自由のないようにします。」
 
「妾…になったら、龍一さんとはあまり会えないのではありませんか?」 
「……それは、そうね。そのあたりはお話し合いが必要だと思います。
それが辛いのなら、離れるしかない。側にいても会えない、触れられない、家庭を作れないと言うのは…私だったら耐えられないもの。あまりお勧めはしたくないわね」



 悲しげな顔をしている堂島夫人は、おそらく演技をされているのだと思う。涙を流して、頬が赤くなっているけれど……涙に温度を感じない。

 目の中も顔も真っ赤になって、次々に涙が溢れて…鼻を啜るような感情的な泣き方を私は知っている。
龍一さんが泣いた時は、そうだった。頬が赤くなるだけのきれいな泣き方なんて、演技以外でできるとは思えない。



「私は、お金なんて要りません。龍一さんの幸せは、私だと言われました。私だってそう思ってます。
 ただ、好きで…ただ側に居たいだけなのに。好きあった人と暮らして、赤ちゃんを授かって…生きていきたいのに、どうしてそれがいけないんですか?」
 
「………………好きと言う感情一つで、何もかもが幸せな世の中なら良かったわね。私も心からそう思いますよ」


 ポケットからレースのハンカチを取り出してそっと目尻を抑え、夫人がはもう一つ封筒を取り出す。

「貴方が別れてくださったら、あの子は…私達は幸せになれる。あの子が貴方と共に駆け落ちをしたとして、ずっと世の中から恨まれます。この国で一番大きい財閥からの温情を退けて…無事で居られると思いますか?」
「……お仕事は、問題ないとお聞きしました」


 すぅ、吐息を吸った彼女はもう一つ封筒を取り出して重ねた。


 
「龍一と、貴方は幸せかもしれませんね。小さなアパートで暮らし、誰にも知られずに貧乏な暮らしをして……愛し合う二人が暮らしていけるなら、幸せなのかも知れないわ。私にはわかりませんが。
 でも、龍一の周りの人たちがどうなるかお考えになりまして?」
 
「まわりの…?」

「えぇ。私たち家族もそうですが、貴方のプロジェクトに関わった子達……もっと大きく辿れば、その子たちの親、兄弟、親族の生活が脅かされる可能性があります」
 
「………………」

「お分かりでしょう。貴方たち二人の問題ではありませんの。龍一1人の進退で相手方が納得するはずがありません。
 世論は味方して下さるかもしれませんが…お金のある所にはきな臭いお話も山ほどあります。」
 
「佐々木さん、萩原さんやプロジェクトのメンバー、東雲先生のご親族まで、被害を受けるということですか?」

「えぇ。外部の方は会社まで巻き込むことになりますわね。
 もし身の回りの人間を連れて逃げたとして、幸せになったとして、さらにその周囲の人たちまで守りきれますか?
 龍一の手がいかに長くとも、そこまでは難しいでしょう。
 それから…龍一と貴方が駆け落ちするならば、私達堂島一族は龍一を切り捨てます」

「……え?」

 さらにもう一つ、白い封筒が重ねられる。私の手足は冷え切って、握りしめた爪先まで真っ白に染まっていた。
 胸が苦しくて、息ができなくなる。



「堂島龍一を犯罪者として立件する、と言うことです。ストーカーの末に龍一が暴走して、あなたを殺したと言う事件を作り上げる事もできるのよ」
 
「………っ?!」
 
「羽田さんに執着した龍一が殺した事にして仕舞えば良い。今まで散々ストーカーをしてきたのでしょう?あの子はその証拠を残しています。ゴミを漁り、貴方の個人情報を得て。浅ましいことに、使用済みの……」

「や、やめてください!!!」


 
 勢いよく立ち上がった反動で椅子がひっくり返り、ガターン!と大きな音を立てて倒れる。
 頭に上った血がうまく分散できなくて、眩暈がして来た。
 
 ……なんて、事を言うの。自分の子供でしょう?ストーカーして来た事実があったとして、相手である私が受け入れているのに……あの人がどんな気持ちでそうして来たのか、私に対してどれだけの繊細さを持って触れてくれたのか……何も、何も知らないくせに。
 一度でも彼の事をきちんと見た事のない人が、どうしてそんな風に言うの?



「……羽田さん。貴方ができる事は、私が差し出した選択肢しかありません。あの子のためにも、どうか…お願いだから言うことを聞いてちょうだい。
あの子を愛しているなら、出来るはずよ」
 
「……して…どうして…お腹を痛めて産んだ子なのに、どうしてそんな風にできるんですか?龍一さんの心を無視して、命さえ簡単に扱おうとしている。
 ご自身の幸せのために、龍一さんを犠牲にしているだけじゃありませんか。」



「……そうしなければ、私も生きられなかったからよ。今までも、これからもそれは変わらないの。」

 立ち上がった堂島夫人は…強い視線でで私の目を射抜く。その中にあるのは、悲しみや苦しみ……やるせなさが見えた。


「人は愛では生きられない。そんなもの…1円にもなりはしない。
 どちらにしても、早急に一度ここから出ていただきます。決められないのならば移動した先で決めてちょうだい。
 車を回して来ますから……佐々木。荷造りをお手伝いなさい」
 
「……はい」
 
「優さん…私も、貴方も…立場は違うけれど。同じ穴の狢なのよ。
 生まれも育ちも違う、生粋の富豪が持つものを、この両手だけで支えきれはしないの。……いつか、それがわかる日が来るわ。
 それでも愛があると言うなら、龍一を愛していると言うなら……あなたはここに止まれないはずだわね。あの子を犯罪者にしたくはないでしょう」


 そう言い捨てられて、私は膝を折って床にうずくまる。泣きたい気分なのに、涙は一滴も出てきやしなかった。
 視界の中が、真っ暗に染まっていく。


 
 そうか、私は……あの人に嘘をつくことになるんだ。
 
 『お夕飯を作って、待ってます』って言ったのに。ずっと側にいるって言ったのに。
 
 ……龍一さんに、もう……会えなくなるんだ。



 彼の優しい笑顔が浮かんでは消えていく。体が震えて、力が抜けていく。
 
 龍さんと過ごした夢のような日々が走馬灯のように浮かんでは消え、何も聞こえなくなって、何も見えなくなる。

 こんな時でも、ふかふかのカーペットが敷かれた床は暖かかった。彼の腕の中の様に、柔らかくて……暖かい。

 このお家を出なければならないなんて…悲しい。ここには彼の愛がたくさん詰まっていた。ここで暮らす事自体が私の幸せだったのに。
 
 
「優ちゃん……」
「…………」
「優ちゃん、俺が必ず君を守るから……ごめんな……」



 顔を上げて、何か音が聞こえた方を見てみるけど……何も見えない。私は何もかもを感じなくなって、体の力を全部抜いた。
 床に体を放り投げると、ズブズブと音を立てて沈んでいくような気がする。
 体が、すごく、すごく重たいの。雪の日に、体も心も冷たくなったあの日みたいに全身が硬くなっていく。


 わずかに残った力を振り絞って、握りしめていた手を開く。左手の薬指に……彼がつけた、私にくれた約束の印であるキスマークに口付けて、目を瞑った。


 ごめんなさい、龍一さん。
 ……ごめんなさい……何もできなくて。ただ愛されただけで、何もお返しできていないのに。私が愛しただけで、貴方を苦しめる事になるだなんて思っても見なかった。


「――あなたは、私の最後の人です、龍一さん」


 
 私が、愛しているのは、愛していくのは……あなただけ。何が起きても、何があってもそれだけは変わらないし、変えられない。

 心の中に残った確かな想いだけを抱きしめて、私は暗闇の中にとぷり、と飲み込まれた。

 
 

 

 
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