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「モラハラです」
しおりを挟む『ただいま』
と言うと
『もう帰ってきちまったのかよ』
と言う。
『寂しいよ』
と言うと
『はぁ?ウザっ』と言う。
『好きって言って』
と言うと
『めんどくさい』
と言う。
こだまでしょうか?
「いいえ、モラハラです」
静かな空間に、シュワシュワと加湿器の稼働音がする。
適度な湿度、適度な気温、ほのかな間接照明とアロマの香り。
背中から圧力をかけて、大きな手でマッサージしている先生が冷たく答えた。
「そもそもの話、それ本当に恋人ですか?
好きな人が帰ってきたら嬉しいですし、寂しいと言われたらそんな思いをさせて申し訳なく思いますし、好きと言われたら好きと返しますし、それもう好きじゃないでしょう。
別れた方がいいと思いますが」
艶々のテノール。張りのある声が優しく語りかけてくる。
内容は優しくないけど。
「でも…付き合い始めた頃は帰ってきたらご飯があって、お風呂も一緒でしたし、お休みの日はデートしてました」
「そう言う人、いますよ。釣れた魚に餌をあげないんです。もう離れないと慢心して手を抜くんでしょう。
僕なら彼女が好きなご飯を作って、帰りを待ちきれずに駅まで迎えに行きますし、お風呂で全身洗ってあげますし、デートならどこにでも連れて行きますし、毎晩マッサージしてあげます」
「そうですかー…タハハ。アレですよ、年取って疲れているのでは?」
「この前風俗嬢の名刺がポケットから出てきたって言ってましたよね?
それに、ホワイト企業にお勤めでしょう?定時帰宅が常なのにどれだけひ弱なんですか」
「ぐう…」
ぐうの音が出てしまうほど、けちょんけちょんに言われてマッサージベッドの枕に顔を押し付ける。
分かっては、いるつもりなんだけど。
付き合ってもう六年目を迎えた私は、幸せとは縁遠い。
彼の視線の先を横切れば嫌な顔をされ、手を繋ごうとすると振り払われ、夜のお誘いをすればうんざりした顔になる。
私の彼氏は確かに彼氏とは言えない状態だと思う。デートなんて、何年前にしたのかわからないほど昔の話。
自分に何か問題があるのではと毎朝毎晩ウォーキングしたり、普段行ったことのない美容室に行ったり、お化粧を工夫してみたり、ダイエットもしてみたり。
愛され彼女になる!なんて本も読んだりした。
何をしても、何をやっても関係性が変わらなかった現実だけが突き刺さる。
終わりにしたいと思っても終わらせる理由がなく、相手も何故か別れようと言わない。
なんだろうな、この関係。
ただ、ずっとずっと寂しくて。
私が伸ばした手の先にいるはずの彼は、いつもしかめ面だった。
満たされない、許されない、求められない…そんな関係を続けて私は心が疲れていた。
「ここにお邪魔する事だけが私の癒しの時間です。先生のマッサージ、本当に疲れが取れるんですよねぇ」
「そう言っていただけるのは嬉しいですが…複雑な気分ですよ。仰向けになってください。首の骨を整えましょう」
「はい」
ベッドの上で仰向けになり、先生が私にまたがって首を持ち上げてくる。
「目線は僕の額に。骨を触ります」
「は、はい…」
目線の指示を受け、首の後ろの骨に指がサワサワと触れる。
くすぐったくはないけど、恥ずかしい気持ちにはなってしまう。だって、まるで見つめあっているようなんだもの。
骨のためにそうしてるとは言え、真剣な表情を見ていると悪い事をしているような気持ちになる。
目の前の顔は、とんでもないイケメンさんだと思う。
オールバックにまとめられた黒髪、前髪の一房だけが色っぽく額にかかる。
口元のほくろ、少し厚めの綺麗な唇、細い鼻…シャッキリした太い眉、大きな瞳は虹彩が薄めの茶色で儚げだ。
堀が深くて、男性らしい強い瞳に私が写っていると思うとドキドキしてしまう。
伸ばされた腕が太い…血管が浮き出ていて、ムキムキしてる。マッサージの人は重労働だからそうなるんだろうか?
指の背で頬をそっと撫でられ、くすぐったさに身を捩った。
「ふ…顔が真っ赤だ。可愛いですね」
「そ、そう言うのはちょっと…あの…」
「すみません。…少し力を入れますよ」
指先で持ち上げられた顎が左右に動かされて、首の後ろの骨が矯正されていくのがわかる。
矯正ってポキポキ鳴らすものだと思っていたけど…こんな風に静かにされるのは初めてだった。
だけど、本当にこれがよく効く。首も肩も軽くしてくれるのはこの先生が一番なんだもの。
先生は…随分前の施術の時、私に「モラハラ彼氏と別れて僕にしませんか?」と言ってきた。
最初は冗談だと思ってたけど、毎回ここに来るたびにそれを繰り返して伝えてくる。
数少ない癒しの時間だし、本当に上手なんだもの。そう言われていきなり通うのを止めるなんでできなくて。
浮気じゃない、これは違う…と思いつつ、通い続けることに完全に罪悪感を感じている。
それは、私を疎んじている彼氏に対してなのか…優しい先生に無駄な期待をさせているからなのか、わからないままだ。
「マッサージ、しっかりしておきますから。…無理しないで。かなり疲れが溜まってます」
「は、い…」
「僕の店に来て癒されるなら、何も気にせず通ってください。人のことばかり考えなくていいんですよ。優しいからそうしてしまう…いえ、僕が気持ちを伝えた事が良くなかったですね」
「……」
目線を逸らして口をつぐむと、再びベッドに寝かされてタオルが目の上に置かれる。
私が大好きなレモングラスの香りがする暖かいおしぼり。熱がじんわり広がって、目の奥まで熱を伝えて強張った神経がほぐれていくようだ。
「足のマッサージをします。眠っていても大丈夫ですよ」
「はい…」
優しい声と、足の裏に指圧を受けて体がほんわりと暖かくなる。
気持ちよさと暖かさに後押しされて、私は眠りの世界に足を踏み入れた
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