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ウチの名前は独孤琢(どっこ・たく)

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 徳島県立太刀野山農林高校言うたら、地元・三野町住民からタチノーと呼ばれる狸の学校じゃ。先生も狸、生徒も狸、事務・用務主事も部活指導員もみな狸、狸、狸。
その教育課程の双璧は、言わずと知れた農林業実習と、狐狸猫なら必須の変化(へんげ)・憑依術を学ぶ「化学(バケガク)」の二つだ。

その日の化学は二時間ぶっ続けのオンライン特別授業。講師は池田のお蔦狸じゃ。
お蔦はかつて、おとこ衆に化けて池田の野球強豪校の監督におさまり、狸憑きの選手率いて何度も甲子園で優勝旗をかっさらった、徳島の狸界隈では知らぬもののないレジェンド狸じゃ。何?雌の狸が人間のおとこ衆に化けるなんてあるんか、やて?そんなもん狸やったら子狸でもするわい。
一番難しいのは、おとこでもおなごでも、これといった特徴のない平凡な「普通の人」に化けることや。普通のサラリーマンだの、普通の主婦だの学生だの、一体どないしたらええかつかみどころがなさ過ぎるけんな。
言い換えれば「普通」であり続けるのは、それだけ容易なことやない、いうことかも知れんな。

   ***

本日に至るまでの化学授業の流れはー

人間の中で一番化けやすいのは七歳ぐらいまでの子ども。里の子らと自由自在に遊べるようなったら、次は居酒屋の店員や代行運転の運転手、ネズミ捕りのおまわりにピンポイントで化けて、ええ塩梅に酔っぱらった人間を懲らしめること。更に次の段階で、長期スパンの変化技習得と実践に入る。
手始めに化けるのは中学高校の運動部員。他の追随を許さぬイメージのしやすさと、野生動物の身体能力を存分に生かせるおいしいとこだらけの好対象。長期の変化修行に入る前に、まずは集団で一斉に化けるところから始める。リアル狸が入る位のおっきいスポーツバッグを担いで、汽車やバスやにわちゃわちゃ繰り出しては公共スペースを我が物顔に占領、傍若無人にペチャクチャしゃべるは汽車の中で菓子食うは荷物で通り道や汽車の出入口を塞ぐはして、日頃動物をバカにする人間どもを夏休み一杯おちょくり倒すところをクリアできたらさて、本格的な年単位の長期変化修行の始まりじゃ。

   ***

視聴覚室に集まった狸生徒どもはーああお蔦はんか。久しぶりやな。また野球の話てんこ盛りやなー、あんなん喜ぶの野球部だけやん。そやけどあこの子狸ども、お蔦はんの仕込みでだいぶ野球うもうなったいうでないで、うっとこの野球部より強うなっとるんちゃう?ほなけんどこれ、レポート落としてしもうたら、今週末の校外学習、徳島市内の狸祭り連れてってもらえへん言うし、あー、せこー、早う終わらんかいな、と勝手気ままにしゃべんりょる。
野球部はというと、昨日の練習試合、同点で9回まで来た試合を、9回表に11点も入れられて惨敗。ソフト部には、野球ソフト競技の風上にも置けんわとおもくそバカにされるわ、笑いカワセミには満濃池の向こうまでけららけらけらけけらけら、と言い触らされるわで、すっかり意気消沈、監督もものっそ怒って怒ってしよるし、もう狸祭り行かれへんようなる!とビクビク。

情報部(これは生徒の部活ではなく、タチノー教員の校務分掌)の先生が四苦八苦してネットを繋ぐと、スクリーンにタバコの花のかんざしをさしたお蔦の顔が大写しに。

今日は化学のケーススタディ。お蔦の挙げるケースやけん、ハイハイ初心者狸が高校野球部員に化けて、あないなったりこないなったりいう話、と相場は決まっておる。

かくして授業が始まった。今回のケース、山城のお艶狸は化学修行中の娘狸。
里の酔っぱらい退治に何度となく成功し、次は鳴門市内に出て界隈を束ねる金時狸の下で修行を重ねることとなった。お艶は金時が経営する鳴門駅前の土産物屋店員に化け、観光客相手にバチもんの鳴門ワカメやらがっつり底上げした箱入りスダチやら笑顔といっしょに売り付ける。金時は売上を数えてはホクホク顔だ。

ある日、池田からお蔦がやってきた。赤いたすき掛けでくるくると働くお艶を見て、お蔦はそろそろ長期スパンの変化修行に移らんか?ともちかけた。それから金時狸にはあんまりし過ぎたらアカンでよ、と釘を刺すのも忘れない。
そやお艶、鳴門南高校野球部の四宮監督は、細かいことに気の廻らん大ざっぱなお人や、ほなけん4月から首尾よう潜り込めたら3年間心置きなく修行に励めるでよ。書類まわりはうちが何とかするけん、どうで?
お艶は心ひそかに今の商売長う続けたらアカンと思いよった。まさに渡りに舟。二つ返事でお蔦の提案を受けたお艶は、春までの短い間、山城にいんでととさまかかさまに報告し、幼なじみの染吉狸と暫しの再会を喜び合った。修行が済んだらすぐ山城にもんて来い、待っとるきにな、と染吉。

   ***

お艶は独孤琢(どっこ・たく)というすこしばかり風変わりな人間名で鳴門南高校野球部に潜り込んだ。独孤琢はソバカス面にドカベン体型の捕手、口数は少ないが、チームメートから家のことを聞かれると
「ととさまは阿波山城の十郎兵衛、かかさまはお弓、兄さまは染吉」
と人形浄瑠璃のマネしてまぜっかえす一面もあった。

あー、お蔦はんのっけから飛ばすなー、と文化部の狸どもは呆れ顔だ。野球部は昨日の練習試合の大失態にいつ火の粉が飛ぶかと、冷や汗が止まらない。ラグビー部の数匹が舟をこぎ始めると、情報部の先生が耳をツンツンして回る。

独孤琢ーお艶は鳴門南高投手陣の練習相手の捕手をつとめておった。「壁」と呼ばれるこの役回りは地味で辛いものだが、不必要に人間どもの注目を浴びずに済む。
そうそう、かれの特技は球拾い。なんと言うても、こっそり狸の姿に戻っては草むらでも用水路でもどこでももぐり込み、大事なボールを見つけてくるんやからな。

2年目の早春2月。4月からはいよいよ最上級生。お艶は壁の他に控え捕手としての練習にも余念がなかった。
ある日、練習が終わってグラウンドにトンボかけをしておると、どこからか懐かしい匂いが漂ってきた。人間には知るすべもない、胸をえぐるような、いてもたっても居られないその匂い。
お艶はソバカス顔を上げて匂いの方向を確かめた。そう、狸は犬の仲間。鋭い嗅覚で方向を定めると、お艶はグラウンドをそっと抜け出した。

「染吉!」

染吉は子どもの姿に化け、木の葉のお金を握りしめている。お艶は子どもに駆け寄ると

「おまはんなんしに…?まさかととさまかかさまに何か…!」

子どもの染吉は首を横に振ると声を張り上げた。

「ちゃう。お艶、わい、おまはんに会いに来たんや」

「何や、そやったんか。ははは、うちは大丈夫や。あと一年と少しや。
あんな染吉、うちらひょっとしたらこの夏甲子園にも行けるかしれん」

子どもは顔をゆがめると地団駄を踏んで

「ちゃうちゃう、ほんなんちゃう。一年も待てるかいだ!わいはおまはんに会いたかったんじゃ」

とブンブン首を横に振った。

「染吉!おまはん何しよん?人に見られたらえらいこっちゃ」

お艶はだしぬけに狸の姿に戻った染吉を抱き上げると、そっと学校から離れ、素早く近くの藪の奥に潜り込んだ。そこでお艶も術を解き、するりと狸の姿になった。


「お艶、ほんまに会いたかった」

「うちもじゃ、染吉」


互いに再び人間の姿に変化した二匹はそっと藪を出ると、染吉はバス停へ向かい、お艶はグラウンドへ戻っていった。 チームメートが駆け寄って「タク、さっきまでどこ行っとったんじゃ」と言いながら、お艶の背中についた笹の枯れ葉を払い落としてやった。

   ***

ここで一時間目が終わり、お蔦の話は休憩をはさんで二時間目へ。思ったほどこてこての野球話でないな、と生徒たちは話の続きにwktkしている。

桜の蕾が綻び始める頃。ある日お艶は何だかえらく身体が重いと感じた。疲れたんやろな、と早めに床についたのだが、何だかドキドキして眠れない。あの日の染吉の姿がしきりに瞼に浮かんで、何度も寝返りを打った。
身体の重さは良くなるどころか、日を追うごとに少しずつ、少しずつ増していった。毎日の練習が、信じられんぐらいにせこうなり始めた。

捕手は、ずっと屈んだまま投手の球を受けんならん。おまけにプロテクターが容赦なく身体を締め付けてくる。お艶は防具を緩めたり膝をついたりしながら、しんどさを何とかしようともがいておった。

お艶は我が身に何が起きているのか皆目見当がつかなかった。ただキャッチングもスローイングも身のこなしも、目に見えてぎこちなくなっていた。監督に

「タク、怪我でもしたんか?」

と聞かれると、お艶はいいえと首を横に振った。

このまま倒れでもしたらえらいこっちゃ、人間の医者に頭のてっぺんから足の先まで検査された日には、いっぺんに正体が知られてまう。ああどないしよう。一体何なんやこのせこいんは?

ある日、卒業したばかりの先輩たちが練習を見にやってきた。
彼らはノックを受けるお艶の防具が緩いのを目敏く見つけるや「タク!」と呼び寄せた。

「タク、何やこれ、ぞうらいな付け方しよって。そんなんやからフライもろくに捕れんのや」

と叱咤すると、プロテクターをぐっと締め上げた。お艶は喉まで出かかった悲鳴を飲み込んだ。
監督がこの時休憩の合図を出さなかったら、どないなってたやろか。
お艶はグラウンドの隅で、急いで防具を外した。その時、腹の中ではっきり、何かが動くのを感じた。

束の間の休憩が終わると、お艶は監督に

「このところ自分、スタミナが足らんように思います。少し外周走ってきていいですか?」

と申し出た。監督は

「ほうか。ほな行ってこい」

と背中をポンと叩いた。

お艶は染吉と入ったあの藪に入り込むと、大急ぎで狸の姿になった。変化を解くのはあの時以来だ。そして己の腹の辺りを見て、お艶は絶望にくらくらした。腹の仔は4匹。一匹ずつはっきり動いているのがわかる。なんしに?なんしに?
ここまで修行を重ね、あと一年というところ、今年のチームは甲子園も十分狙える、と監督も言っていた。
しかしこのまま練習を続けたら最後、この仔たちが無事でいられるわけがない。今まで何度も投手の球を捕り損ねては腹や胸に当て、ホームベース上のクロスプレーではランナーの体当たりをもろに食らったりしていた。お艶は震えが止まらなかった。

いくら人間に化けても、腹の仔までを誤魔化すことはできない。雌狸の宿命にお艶は歯噛みした。
こんなところでぐずぐずしてはいられない。お艶は独孤琢の姿に戻ると、学校の外周をぐるぐる走った。決して楽なトレーニングではないが、腹に衝撃を加えぬ分、捕手の練習よりはるかにましだった。

   ***

ここでお蔦は話を止めて湯呑みの阿波番茶を啜ると、数匹の雄狸どもが半笑いで

「なんしにこないなことになるんやろなあ?」

「一回だけやんか、なあ」

「ホンマや、かなんなー」

と呟く。お蔦はネット越しに耳敏くそれを聞きつけると、湯呑みをドンと置いて

「今誰が言うた?おまはんら、学校の保健体育の時間に寝よったんか?
そんなことも知らいでよう高校生やんりょるな!」

と言うと、今度は教員集団の方に向き直り

「おまはんらがちゃんと教えへんからこんなごじゃ言う子らが出るんじゃ!
東京の七生養護学校の先生らの爪の垢でも煎じて飲まんかい!」

と吼える。これから話を続けるきに、お艶がどんな目に遭うたか、どんな思いさせられたか、よう聞きや!

   ***

そう、お艶の話を続ける前に、染吉のことを少しばかり言うとかないかん。

染吉は山城の段々畑で、小松菜を育てておった。何年か前に、徳島県が県民の税金使うて「VS東京」やらいうけったいなプロモーション映像を制作したらしいけど、少なくとも東京は江戸川区名産の小松菜が、質量共に西阿(そら)の段々畑にそのお株を奪われるのは時間の問題かもしれんな。

先週収穫が終わったのは「春のセンバツ」種、来週からは「夏の甲子園」種を蒔く予定だ。
染吉はなんしに小松菜の品種は揃いも揃ってこないおかしげな名前なんやろと思いつつ、鳴門で修行を重ねるお艶を思ってこの2年、願をかける思いで肥料を運び水をやりして「春のセンバツ」「夏の甲子園」に「秋冬のエース」「冬の豪速球」を育てては出荷しておった。

染吉は里人に化けると、山城の農協に収穫した小松菜を運び込んだ。待合室に置いてあった徳島新聞のスポーツ面を開くと、鳴門南高校野球部監督の狸顔が飛び込んできた。
お艶はこの人の元で修行を続けておるのか、と思うと、安堵が胸いっぱいに広がった。
わしはまる一日化けるのでも精一杯やのに、お艶はもう2年も野球部員に化けておる。ホンマに大したおなご狸じゃ。
会いたい、会いたい、一日でも早う一緒になりたい。


お艶は考えた挙げ句、監督に練習メニューを走り込み中心にしたいと申し出た。監督は

「せやなータク、お前3月頃からよう食べるようなっとるしな、動きが鈍うなっとるのも、身体が大きいなってきよるからやろしなー。ボール触らんとしばらく走り込んで絞った方がええやろな。ほなけんどスダチの皮まで食べられんでよ。あれ農薬かかっとるけんな」

と快諾。

次の日から、お艶は黙々と外周を走った。チームメートは、タクの奴なんしに冬でもないのに単調でしんどい走り込みなど志願したんやろか?と囁き合った。

葉桜の季節に入り、お艶はついに走ることすらせこうておれんようなった。走っては歩き、また走っては座り込みして、容赦なく腹を蹴飛ばす4匹の仔を宥めていた。

ある日、いつものように練習前のストレッチをしておると、監督がやってきた。

「タク!すぐ来い」

監督は狸顔を引きつらせて、大声でお艶を呼びつけた。校舎に入ると、監督は生徒指導室にお艶を押し込んでピシャリと扉を閉めた。

「タク、お前、なぜここに呼ばれたかわかるか?」

「…いいえ…」

「タク、お前の今の練習メニューは何や?」

「ストレッチと外周ランニング、それからチューブを少し…」

「どや、成果はあったんか?」

「…」

「成果はあったんか、て聞っきょるんじゃ!」

「…」

「もう一度聞く。成果はあったんで?」

「…まだ…」

監督は冷ややかにお艶のソバカス顔を見つめた。

「ランニング主体の練習でスタミナつける言うてこのメニューにしたんは、お前やろ」

「…はい…」

「どうで?スタミナとやらはついたんか?」

「…まだ…」

「そやろな。タク、おまはん外周ずいぶんさぼっとったらしいやないか」

「…」

「誰も見とらん思うとったんか?」

「…」

「今朝、校長に電話があったんじゃ。
ソバカス顔の野球部員がうず潮公園のベンチで長い時間寝よったってな!」

昨日、走っているうちに腹の仔が動き回り、いつにも増して激しく腹を蹴飛ばしてきた。こらえられんようなって公園のベンチに倒れこみ、仔がおとなしくなるのを待っていた、あの時だ。苦しさが少し和らいだ時に、ついうつらうつらしとったかもしれん…

「…電話なすったのは、どなたですか…」

「アホ!ほんなんお前に言う必要やあるかいだ!自分のしたことよう考えてみい!」

「…あの時、急に身体がきつうなって、休んどったんです…すみません…」

「それだけか!」

監督はお艶の顔をきっと指差した。

「お前がこの間ずっと練習さぼってからに、ちんたらほっつき歩っきょる、って話もようけ学校に来とるんじゃ!
独孤いうんは、お宅の生徒さんですか?ってな!」

お艶は練習着の胸の人間名に思わず手を当てた。

「向こうさんは、あんなふうに高校生に公園のベンチ占領されたらかなん、東京の公園みたいにベンチに仕切りをつけて、お前みたいなの寝させんよう鳴門市に言うていくわ!とまで言うておいでたわ」

「…電話したの、東京の人なんですか…」

「アホ!やる気ないんやったら、さっさとやめて今すぐ山城へいんでまえ!」

「かんにんして下さい!練習さして下さい!」

「ほうか。ほんなら、後でおまはんのやる気とやらいうのを見せてもらおか?」

お艶の全身に寒気が走った。仔がまたぞろ腹の中ではしゃぎ出す。

「タク、お前のような奴は皆の練習の邪魔じゃけん、わしが来るまでずっとここにおれ!」

そういい残すと、監督は荒い足音を残して去っていった。
お艶はへたへたと座り込んだまま、動けない。


あと一年で変化の修行が終わる。この大事な時に、よりによって染吉の子を授かってしもうた。

人間のおなご衆の中には、行きずりの相手と子が出来てしもうて、誰も頼れず誰にも相談できんうちに、ある者はなけなしの貯金をはたいて病院で中絶し、ある者は公園のトイレやコインロッカーに生み捨て、ある者は母子で孤立した挙げ句我が子に手をかけてしまう、いうむごい話がある。
いつぞやチームメートがテレビのニュースを見ながら、よう自分の子を平気で殺したりできるなあ、おんなは怖い、と他人事のように笑っていた。お艶は本気でその口を引き裂いてやろうかと思った。あの時、お艶は血の滲むほど唇を噛み締め、ソバカスを真っ赤にして、チームメートに振り上げかけた拳をやっとのことで下ろしたのだった。

甲子園に出たら可愛い子がなんぼでも寄ってくる、よりどりみどりやな、って何なん?人間のおとこ衆って何考えて生きとるん?そんなことが笑い話やら冗談になるなんて、ほんまに恐ろしい話じゃ。
お前らの言うたこと、うちは七回生まれ変わっても忘れへん!

グラウンドから聞こえる球音をぼんやり聞きながら、生徒指導室の机に突っ伏したお艶はこんなことを思い出しておった。
死んだばあさんが、昔こんな話しよったーこの辺の山の農家の嫁はんの中には、家人に内緒でヘソクリをためておるもんが何人もおる。おとこ衆は何も考えんと、したいときにするけん、育て切れんことがわかっとる子ができてしまうんじゃ。それを「始末」するのに、一人で辛い身体ひきずって里の産婦人科まで行くんやが、病院の受付で懐から五円玉を紐に通したヘソクリを何本も出して、腹の子をお願いします、とくるんじゃ。
何やこれ?と嘲り笑う新米の看護師を、医者が顔を真っ赤にして

「おまはん、この嫁はんが、どないな思いして働いて、このお金を貯めて持ってきたかわかっとるんか!」

と叱りつけていたーという話。
そう、おとこ衆の中にも、こういうお方がおいでるんでよ、という話じゃったー。

むざむざ人間のおなごと同じ運命を辿るなど、うちはほんま願い下げじゃ!おとこ衆はなんしにこの苦しみの一片すら我が身に引き受けもせんで涼しい顔でおれるんや?おとこのわがままのせいで身体引き裂かれるのは、いつもおなごや。それやのに、少しばかりおなごに味方するようなこと言うただけで、なんしに出来たおとこ衆じゃとありがたがられるんや。

甲子園が何や、修行が何や、腹の仔らはまごうことないうちと染吉の子じゃ。

やがて球音が止み、生徒指導室に夕闇が迫り始めた。監督の足音が近づいてくる。

「独孤琢!」

怒鳴り声とともに扉が開いた。お艶は顔を上げのろのろと立ち上がった。

「さあ、これからお前のこれまでの練習の成果見せてもらおうか。何人か残ってもろうとるけん、しっかりやらんかったらホンマこらえんぞ!」

夜間照明が煌々とグラウンドを照らしている。

「監督、少しだけ待って下さい 」

お艶はそう言うと部室に入り、タオルとサラシで念入りに腹を巻いた。

「さぞかしみっちり走り込んてきたやろから、そろそろボールに触ってみんで?」

監督はそう言うとプロテクターを突き出した。

山城のおんなたちは、病院で腹の子を「始末」してもろた後、ろくに休むこともできんまま家に戻って、そのまま炎天下の、あるいは寒風吹きすさぶ畑に出て野良仕事したいうやないか。

お艶は防具をきっちりつけると、監督に「お願いします」と一礼した。
監督が指示したのは、投手の球を捕り素早く二塁に送球して盗塁を刺す、お艶の一番苦手とするプレーの反復練習だった。バッター役は不動の四番・木村、ランナー役はチーム切っての韋駄天・板東だ。投手の球を捕球、しゃがんだ姿勢から、スラッガーの猛烈なスイングに阻まれながら素早く二塁に送球する。その度に、腹の仔はいごいご動き回る。

「何やそれ、膝ついたまま捕るアホがどこにおるんで?そんなんやからまともなスローイングでけへんのじゃ」

お艶はワンプレー毎に監督に叱咤され、時に小突かれる。

「タク、一度位アウトにできんのか?少しはやる気出したらどや!走られまくりやんかお前。
 たいした練習の成果やな」

いつしか日はとっぷり暮れ、空には星がまたたき始めた。
監督は選手を集めると、今度はスクイズ練習を命じた。場面設定はノーアウト満塁。バッターとランナーが交代した。韋駄天の板東が左バッターボックスに入り、チーム一の巨漢の木村が三塁ランナーに。
お艶も決して小柄な方ではないが、あれが猛然とホームに突っ込んで来るのかと思うと、背筋がゾッとした。

「板東、お前、足生かすためにもう少しバントの練習しておけ。独孤琢、お前ええ加減性根入れて、今度こそきっちりアウト取りや」 

二年間みっちり打撃投手をやってきた投手は、心にくい程バントしづらいコースに球を集めてくる。
板東が辛うじて当てた球は小さいキャッチャーフライになった。木村は勢い余ってホームと三塁の間まで飛び出した。
お艶はその行く手を阻むように立ち塞がると、「サード!」と声をかけて送球。何とかアウトを取ることができた。腹の仔がまたぞろいごいごし始める。お艶は、我が子もこないしてうちを応援してくれとるんやろか?とぼんやり思った。

二回目の練習。さっきアウトを取られた木村は、両のほっぺたをパンパン叩いて気合いを入れ直している。
板東がバットの先っぽを球に当てると、お艶はそれを拾おうと手を伸ばした。その時、4匹の仔がポンとお艶の腹を蹴飛ばした。動きの止まったお艶の目に、猛然とホームに突っ込んで来る木村の巨体が入った。慌ただしく球を拾うと、お艶もホームに向かった。二人はホームベースの上でぶつかり、お艶は呆気なく吹き飛ばされた。お艶は握った球を離すと、地面に叩きつけられながら両手で必死に腹を庇った。

「何や、ボールこぼしてしもうたんか。ホンマあかん奴っちゃな。…タク、お前何しよん、いつまで寝よるんじゃ」

監督がつかつかと近寄って来た。

「タク、早よ立ちらんか!」

監督が防具のベルトを掴んで引っ張ると、お艶はミットを外してその手をつかんだ。

「監督、かんにんして下さい!かんにん…」

「何言うとるんじゃ、まだ終わっとらんぞ」

「監督、ほんまのこと、全部言います。うちは、うちは…」

「何ごちゃごちゃぬかしとるんじゃ!」

「お腹だけは、かんべんして下さい!今まで隠しとって、ほんまにすみませんでした。
 ほんまのこと、ここでみな話しますけん、お願いです!お腹だけは、かんべんして下さい!」

木村が抱きかかえるようにお艶の身体を起こすと、

「タク、大丈夫か。頭打ったりしてへんか?おい、これ救急車呼んだ方がええかも…」

救急車の言葉にビックリして跳ね起きたお艶。

「そんなん呼ばんといて!うちは大丈夫や!」 

立ち上がった拍子に、4匹の仔が盛大に腹を蹴り上げる。お艶は腹を抱えて再びうずくまった。

「うちは…大丈夫やけん…うちは…」

「お前、うち、うちって、何や?おなごみたいなしゃべり方しよって」

「監督…みんな…ずっと嘘言うて、すみませんでした。ほんまの…ほんまのことを…話します」

「ほんまのことって何や、言うてみ」

監督は蒼白になったソバカス顔を見下ろすと、不得要領な表情を浮かべた。
独孤琢は顔を上げると、意を決して話し始めた。

「うちは…山城の…狸です。ととさんも…かかさんも、狸です。
 狸が…こんなふうに…化けて、ここにおるのです」

「は?」

「うちのお腹には赤子が…赤子がおります。今まで隠しとって、ほんまにすまんことです」

監督もチームメートも、狐につままれたような顔になった。

「…こうして人に化けるのは、狸の修行のひとつです。…独孤琢いうんは、鳴門南の野球部に入るための嘘の名前です。うちのほんまの名は…お艶いいます。お察しの通り、雌狸です。
…お腹の仔は山城の、うちの大切な幼なじみの狸の子です。
うちひとりのせいで、皆にこんなに迷惑かけてしもうて、ほんまにすまんことです」

「何やて?狸?」

「タクお前狸やて?」

「おなごの狸が何でこんなとこにおるんじゃ?」

口々に訊ねるチームメートに、お艶は答えた。

「私ら狸は、茶釜にでも車にでも屋敷にでも、何にでも化けられます。雌がおとこ衆に化ける位、造作ないことです」

「狸の姿に戻るのは、ここですぐにできます。…ただ、人の言葉がしゃべれんようなります」

そう言うと、お艶は術を解いた。
ソバカス顔が消え、腹ぼての狸の姿が鳴門南ナインの目の前に現れた。

「タク…」

「…」

監督は、狸の顔をまじまじ見つめながら訊ねた。

「お前、どこで赤子を生むつもりでおったんで?」

狸はキュンキュン鳴いている。

「そうか、誰にも言えなんでおったんやな」

狸はキューンと切なく一鳴きした。

   ***

次の日の朝、鳴門駅に狸顔の監督とソバカス顔の独孤琢が現れた。

「大丈夫か?同じ化けるなら、赤ん坊にでも化けてくれれば、わしが負うていくのに」

「大丈夫です。メイナン(鳴南)野球部はそんなヤワじゃありません」

「ほなけんど無理せられんでよ」

「うちの子らもメイナン野球部員ですよ。この間ほんまによう猛練習に耐えました」

とソバカス顔が腹を撫でて微笑んだ。

「監督、うちは駅前の土産物屋でしばらく世話になりました。挨拶してきますけん」

「さよか、わしはここで待っとるけん、早う行ってこい」

お艶は土産物屋の引戸を開けると、主人の金時に声を掛けた。

「親方、お艶です」

「お艶か。どうで?野球の方は?」

「親方、実はわけあって、山城に戻ることになりました。あないにお世話になったのに、申し訳ないことです」

「あー、ほうえ?おまはんのような娘狸が修行をよう続けんのは、おおかたアレやろ?」

金時は下卑た笑いを浮かべると、右手で腹の前に半円を描いて見せた

手塩にかけた若狸が、修行を放り出してふがいなく国もとに帰る、そのやるせない怒りはお艶にも痛い程分かる。
それでもなんで雌狸の挫折がこない見下した言われ方をされなあかんのか、悔しさにソバカスが真っ赤になった。

「申し訳ございませんでした」

お艶は頭を下げると、店を後にした。


監督とお艶は汽車を何度も乗り換えて、阿波池田の駅に着いた。そこには高野連役員に化けたお蔦が待ち構えておった。

「あー、四宮先生、お久しぶりです」

そう言って、野暮ったい背広姿のお蔦は駅前の宿屋にふたりを案内した。鳴門から山城まで、その気になれば1日で着く位造作もないことやけど、四宮監督はお艶の身体を気遣い、池田の高野連役員に宿を頼んでいたのだった。

「先生、ちょっと独孤くん借りますわ」

お蔦はお艶を連れて、池田の町に出た。お蔦の古巣の強豪校のグラウンドが見える小高い丘で、ふたりは術を解いて互いに狸の姿になった。

お蔦はお艶の腹を見て、こんなになるまで何であのきつい野球部の練習を続けていたのか、と涙を流した。人間のおなごの苦しみは、到底うちの比ではありません、なんのこれしきです、私の修行のために、お蔦さまにあんなにお力添え頂いたのに、こんな不始末となり、お詫びの言葉もありません、と答えながら、お艶の胸に今までのことが一度に甦ってきた。お艶は地べたに座り込んでおんおん泣いた。

お蔦は最後まで「誰の子や?」と聞くことはなかった。

   ***

山城にもんたお艶は、無事に4匹の元気な子を生んだ。染吉は別狸のようになって戻ってきたお艶を迎えて、初めてことの全てを知った。染吉はただただお艶を抱きしめ、我が身の不明を恥じ、己の胸をかきむしることしかできなかった。
畑では「夏の甲子園」がすくすく育ち、子どもらは小松菜の葉の間でかくれんぼしながら毎日遊んでおった。

すっかり話が長うなった。
お艶の話は、これで終わりじゃ。
木の芽時は変化の修行を妨げる時期じゃきに、お互い注意の上にも注意を払わんならん。そう思うたじゃろう。

せやなー、好き合うたもん同士、春先なんぞに会うたら最後やけんなー、注意せななー、と後ろの方から雄狸の声が聞こえてきた。きっとなったお蔦が口を開くより早く、ソフト部で捕手をつとめる雌狸が、どすんと机を叩いた。

「なんしにお腹の仔がうちらの修行の妨げにならんならんのや!なんでお艶はんだけがあない死ぬような思いせんならんの!」

雌狸は荒々しく立ち上がると、声の主を睨み付けた。

「アホ!お前ら雄狸など、人間のおとこ衆など、みなくたばってしまえばええんや!くたばってまえ!」

そう叫ぶと、捕手の雌狸は床に座り込んでわあわあ泣いた。

ここでネットの回線が切れ、お蔦の険しい顔がスクリーンから消えた。
視聴覚室にはソフト部狸たちのすすり泣きだけが響いていた。

お蔦からは、レポート提出締切は狸祭りの一週間あとにすることと、教師も一匹残らず提出するように、という連絡が来た。

   ***

ーお父ちゃん、甲子園じゃ。

球場の公衆電話にぶら下がるように、幼稚園児ぐらいの女の子が受話器を握り締めている。

ー着いたんか?これから試合か?

ーうん。

ーお藤、お母ちゃんに代わってくれんか。

ーお母ちゃん!お母ちゃん!

4人の幼児が黄色い声をあげると、鳴門南高校野球部の試合用ユニ姿の独孤琢が受話器を受け取った。

ーお父ちゃんごめんな。

ー何言うてんるんや、それはこっちのセリフじゃ。小松菜ぐらいわし一人でどないにでもなるわい。子どもらはどないで?

ーはしゃいではしゃいでしよるわ。ホンマどもならん…お鯉、お母ちゃんから離れたらアカン言うたやろ!常吉、あんたおしっこか?…お父ちゃんまた電話するきにな!ー常吉!我慢しいや!ここで落としたらこらえんでよ!狸ちゃうんやきに、どこでもしよったらアカンのでよ!

受話器を置くと、独孤琢は大慌てで育児グッズでパンパンのエナメルバッグを担ぎ、子どもたちをだれでもトイレに押し込む。

鳴門南高校の試合の前日、染吉はお艶に甲子園に行ってこい、と言い出した。木の葉じゃないホンマもんのお金ぐらいなんぼでもあるけん、行ってこい、と。

ー行ってきますわ。この子らも、一日ぐらいは化けれるようなってきよったし…

ーなに言うてるのや、子どもらはおいていき。おまはん一人で四人の小さい子どないして連れていくんじゃ?

ーお父ちゃん、この子らはメイナンの野球部員じゃ。うちと一緒に、あのきつい練習をくぐり抜けてきた子たちじゃ。ほなけん、うちが甲子園に連れて行きます。

ーお藤、お鯉、米吉、常吉!  お父ちゃんとこ来い!  おまはんら、お母ちゃんと一緒に甲子園行くか?

ー行く!  行く!  うち行く!  お母ちゃん連れてって!

4匹の子は母狸にまとわりついた。

ーほうか、ほなら一緒に行くか? 

ー行く!  行く!  わいも行くう!お母ちゃん!  お母ちゃん!

ーお藤、お鯉、米吉、常吉!  お母ちゃんと一緒に、庭に出なはれ。
 甲子園行くのに、狸のままではなんぼなんでもぐあい悪いきにな。
 おまはんら、もしよう化けんのやったら、ここで留守番や。

ー嫌や嫌や!留守番やかしするかい!  うちは行くんじゃ、甲子園行く!

ーほうか。ほなら、お母ちゃんが先にするけん、よう見とりや!

お艶は頭に木の葉を置いてそっと目をつぶると、ポン!  と変化した。
ソバカス顔の高校球児が狸の父子の前に現れた。

子どもたちも頭に木の葉を乗せ、ありったけの力を振り絞ると、年長さんぐらいの子どもに化けた。

ーお艶、まさか、そのなりで行くんか?

ーお父ちゃん、さすがにこの練習着では行かん。学校の制服があるけんそれで行くわ。そや、この子らの荷物せなな。

お艶は鳴門南高校野球部のエナメルバッグを取り出した。校章の横には「独孤琢」の人間名が入っている。

染吉は狸の子に戻った4匹を引き寄せると

ーおまはんら、お母ちゃんの言うことよう聞くんやで。
 甲子園でお母ちゃんを困らせたらな、お母ちゃんがええ言うてもわしが絶対こらえんけんな!

と繰り返し言い聞かせた。

坊主頭に背番号のない試合用ユニ姿のお艶と4人の子どもたちはだれでもトイレを出ると、まっすぐアルプススタンドに向かった。鳴門南の大応援団の中に、ベンチ入りできない野球部員の一団がいた。
お艶はその端に子どもたちを座らせた。
かちわり氷をちゅうちゅう吸いながら、お鯉がスコアボードを指差した。

ーお母ちゃん、相手どこやの?

ー東京のチームや。かなり強いらしいで。

ーお母ちゃん、東京ってどんなとこやの?

ーお母ちゃん東京はいっぺんも行ったことないけん、よう知らん…ほなけんど東京は、東京の公園はな、ベンチで人を寝ささんよう、どこのベンチにも真ん中に固い仕切りがこしらえてあるんでよ。

応援の団扇が配られる。お艶は補欠の仲間と肩を組み、高らかに応援歌を歌う。
歌が「阿波の狸」に替わると、子どもたちは団扇をふりながら黄色い声を上げはじめた。

ーあんなお母ちゃんらな、みな同じ服やけん、わからんようならんよう、そばにおりや。

ー常吉はお母ちゃんの匂い大好きじゃ。お母ちゃん匂いですぐわかるきに、大丈夫じゃ。

ー米吉もお母ちゃんの匂い大好きじゃ。

ーお鯉は、お母ちゃんのくっつき虫になるんじゃ。絶対離れへん!

ーあんなお母ちゃん、お藤な、お藤も大きいなったら甲子園出るんじゃ。

ーほうか、そら頼もしいわな。

ーお藤な、お母ちゃんと同じ鳴門南高校でソバカスのキャッチャーになるんじゃ。
 ウチの名前は独孤琢じゃ。

ーほうか…

試合開始のサイレンが響き渡った。
お艶はグラウンドに散る鳴門南ナインを見つめながら、お藤の小さな手を握りしめた。
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