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MINO 1930s 白い狸

お縫と清兵衛

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「よっこいしょ」

 じりじり焼けつく日差しの中、物干し台から取り込んだ山のような洗濯物を抱えたおミヨが、裏の入り口の扉を腰で開けて入ってきた。

「うわ、ご苦労さん!」

「暑う~、物干し台、ホンマ甲子園のマウンド並みやわ~」

 おミヨの二本のお下げから汗がしたたる。

「水飲みたい~」

「……そや、みっちゃん、あんな、ちょっと聞くけど、白い色の狸って、タチノーにもおった?」

「おらんおらん。広島の宮島には何匹かおるらしいけど……海四(みよん)さん、白い狸がどうかしたん?」

 顔じゅうの汗を拭うと、おミヨは水道の水をごくりと飲み、海四としゃべりながら夏の太陽の香る洗濯物を次々とたたんで店の押し入れと二階のセラピー室に片付ける。

 汗だくになってひと仕事終えると、おミヨは台所から土間に降り、行水タライを引っ張り出して土間の真ん中に据えた。土間の片隅にある井戸に桶を放り込んで水を汲み上げタライに張ると、おミヨは狸の姿に戻り、どぼんと飛び込んだ。

「みっちゃん、気持ちええで?」

「ごっつええ感じ……やわ……」

 おミヨは野球部の仲間と一緒に練習のあと、川で行水したことを思い出しながら目を細めていた。

「あんな、さっき言うた白い狸のことやけどな、みっちゃんの前世に出てきてるんよ」

「え?」

 おミヨは水しぶきを上げてタライから飛び出した。

「みっちゃん、そんなあわていでも……落ち着いて入りない」

「白い狸って……?」

「前世のおまはんの後輩や」

「うわ、白い狸の後輩かぁ、かいらしいやろなぁ……うちの前世、これからどないなるんやろか……」

 タライに入り直したおミヨは、前足で水をぽちゃぽちゃさせながら呟いた。
 去年まではタチノーで、夏といえば夏休みどころか、実習林の下草刈りにタバコ葉収穫の応援に野球部の練習に試合に追いまくられ、尻尾の先まで草いきれとヤニと汗と泥にまみれた毎日やった。うち、ほんまこんな楽しとってええんやろか?
 いや、かいらしい白い後輩が、うちの前世ーー厳しさを増す時局の中でどないなっていくのか、うちは海四さんと一緒に、どんなにしんどうてもちゃんと受け止めていかんならん。

 おミヨはたらいから出ると、ブルブルと身震いして土間いっぱい派手に水を散らした。やっぱり井戸水は気持ちがええ。毛の一本一本に、清々しい気が満ちてくる。

 海四は新しい水晶を取り出し、セラピー室で使っている水晶の隣に置いた。これでおミヨの前世・カノに焦点を当てていた過去世のビジョンをぐっと広げることができる。こうすれば清兵衛の様子が十分に視野に入ってくる。
 おミヨが感じている通り、カノを見ていく以上、清兵衛を見ずに通り過ぎることは不可能だと海四も切実に感じ始めていた。

   ***

「なあ清兵衛、英語どないしよう」

「英語ほんまに頭痛うなるな。加納さんも昔、英語で赤点とって、後藤監督にものっそ怒られた言うてたでよ」

「そこや。赤点とったら野球できんようなるでないで。うち、そんなん絶対嫌や」

「お縫は頭ええけん大丈夫やろ?」

「大丈夫ちゃうわ。あー、どないしよう」

 課業の間の休み時間、美馬農林学校の一年生の教室で、人間の生徒に化けた二匹の狸が、一週間後に控える初めての定期試験を前に頭を抱え込んでいる。

「そや、お縫、今日、学校引けたら、村長さんく行かんで?」

「村長さんく? なんしに?」

「今、村長さんくに、東京帝大の先生と学生さんがおいでとるの、知っとるやろ?」

「うん。清兵衛、それがどしたん?」

「お縫、わいな、帝大の学生さんたちと、知り合いになったんじゃ」

「え?」

 お縫と呼ばれた生徒は、周囲の級友が思わず振り返るような、すっとんきょうな声を上げた。
 お縫の声に何だ何だと教室がわちゃわちゃし始めると同時に、始業の鐘がカラン! カラン! と響いた。生徒たちははあわててめいめいの席についた。


ーー店に面した通りを、踊りの練習に向かう若者たちが通り過ぎていく。囃子方が手すさびに歩きながら鳴らす鉦の音が、カランカランとセラピー室の窓から聞こえてきた。

「みっちゃん、なんやしらん、試験あるみたいやな」

「うわあ、頭痛いわ……」

 おミヨは行李の中で、耳をふさぐように前足で頭を抱えた。

「みっちゃんもカノも、もう学校終わっとるでないで」

「ほなけんど、試験はいつになっても聞いただけで心臓に悪いわ」

 海四はおミヨの言葉に笑いながら、行李の上のビジョンと水晶を交互に見つめた。


ーー一日の課業が終わった。

「清兵衛、あんた、これから村長さんくに行くん?」

「行く。お縫も行かんで?」

「……今日はやめとくわ」

「そっか。ほなら、明日また、お縫と一緒に行ってええか、聞いてみるわ」

「わかった」

 校門で清兵衛と別れたお縫は校内に引き返すと、ひとりこっそりと野球部の部室に入り込んだ。奥の方に大切にしまってある試合用のバットを取り出すと、そっと部室を抜け出して裏側に回った。
 ぶん、とひと振りする。重い。腰が大きくふらついた。気を取り直してもう一度構え、振る。今度は遠心力に身体ごともっていかれる……

「お縫、おまはん、さっきからバットに振り回されてばかりやないでか」

 出し抜けに、聞き慣れた声が響いてきた。

「……お縫、それ、試合用のバットでないで! 何しよん!」

 カノはお縫の手からしゃにむにバットを抜き取った。

「お縫、おまはんな、これ、試験前にやることか?」

 カノはお縫の頭を、バットのグリップでコツコツと小突いた。両手で坊主頭を抱えるお縫を見ながら、美馬農林に入って間もなく、カノは朋輩の梅吉や七兵衛と一緒にお縫と同じことをして、当時のキャプテンにこっぴどくお仕置きされたことを思い出していた。

「これでボール打ちたいんやったら、赤点取らんようせなあかんやろ」

 うち、あの時キャプテンに言われたことと全く同じこと言いよる。

「……すみません」

 お縫は顔を赤くしてうつむいた。

「そやお縫、清兵衛は? おまはんら同じクラスやろ?」

 カノは部室の方に目をやりながら尋ねた。

「清兵衛は、村長さんくに行く言うてました」

「村長さんく?」

「東京の学生さんと、知り合いになったけん、勉強教えてもらう言うてました」

 試合用のバットいたずらする間があるんやったら、おまはんも一緒に帝大生に勉強教わったらどうで? そんな言葉が喉元まで出かかった。カノは思わず知らず喉元の塊をお腹に押し戻してしまった。赤点取ってしもうたら何時間も補習を受けなならん。野球の練習どころでないようなる。ちゃんと言うてやった方がよかったのにーー自分でもなぜ言葉を飲み込んでしまったのか、皆目わからなかった。

 清兵衛は春の野道を足取りも軽く、まっすぐに村長宅へと向かった。近づくにつれ迫ってくる厳めしい門構えに、清兵衛は思わず足がすくんだ。

ーー何て言うて入ったらええんやろか? 

 清兵衛は門の前をうろうろしては、中をそっとのぞき込んだ。

「やあ!」

 ふいに後ろからポンと肩を叩かれた。振り向くと、谷口学生が人懐こい笑顔があらわれた。

「谷口さん!」

「やあ、よく来たね。さあ入りたまえ」

谷口学生は、清兵衛の肩を抱くようにして門の中に押し込んだ。
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