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MINO 1930s 海を見た山狸

ヤマなしオチなしイミなし

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翌日、おミヨは民家の前の住人が残した配達用の自転車に乗って台所回りの買い物に出掛けた。無骨なフォルムの自転車は、安定していて見た目に反して乗り心地は悪くない。

ひとわたり買い物を終えたおミヨは、一計を案じて蜂須賀商業まで足を伸ばした。用心のため、途中で商店のおかみさんに化けておく。球音を頼りにそろそろと自転車を進め、そっと野球部の練習を覗く。
タチノーの倍はいるだろうという部員の数、それをかいくぐるようにダイヤモンドの要の位置に目を移す。

ーいた。

次の瞬間、おミヨの心拍が加速し始めた。長うおったらあかん! おミヨは自転車にまたがると、その場を離れた。店の手前でおかみさん姿のままなのに気付き、あわてて裏道の物陰でもとの作務衣姿に化け直し、店に戻った。
あんたが一番よう知っとる…海四(みよん)さんはそう言うてた。ほなけんど、うちのポジションはキャッチャーちゃうし、バッテリー組むとか格別の縁があるわけでもない。第一、梅沢喜一は化け狸でも狸憑きでもなさそうだ。ほなら何なんやろ?

おミヨと入れ違いに、海四は駅前でバスに乗り、県立図書館に向かった。立ち並ぶ書架の前で、赤いランドセルを背負った小学校高学年くらいの少女が、立ったまま分厚い本とにらめっこしている。飛田穂洲「学生野球とはなにか」というタイトルが海四の目に飛び込んできた。
少女は重い本を書棚で支え、ゆっくりページをめくっては活字を追う。海四は同じ書架の前で歩みを止め、上から下へ目をすべらせた。

この世界で、いったい誰が誰に何を求め、どのようにしてそれを実現させているのだろうか。

海四はそろそろと少女の立っているあたりに手を伸ばし、一冊の本を引っ張り出した。「徳島県学生野球史」と太ゴシック文字が無愛想に並ぶその本をパラパラとめくった。

ー美馬農林。

その活躍は1930年代。全国中等学校野球優勝大会ー甲子園には5回出ている。県大会決勝で蜂須賀商業に敗れた翌年の記述を見ると、美馬農林は宿敵蜂商を破って甲子園への切符をもぎ取り、しかも初出場でいきなり決勝戦まで進み、大阪の強豪・淀川商業に惜敗している。いやはや…スポーツに縁の薄い父親でさえ知っているだけのことはある。

記念写真を見ると、準優勝盾を囲んで並ぶ選手の中に数匹の狸が化けて混じっているのが、海四の目にはすぐにわかった。名前を見ると、昔話風の狸名に人間風の苗字を乗せていたり、姓名まるごと人間風にしたりしている。藤川梅吉、田岡雄一、河野衛、加納佳之、といった具合だ。

ランドセルの少女は相変わらず小難しい表情で飛田穂洲とにらめっこしている。

海四は写真を見つめながら、化かされ、目眩まされているのは果たしてどちらなのだろうか、とふっと思った。

駅前であたりやの大判焼きを買って、海四が店に戻ったのはすっかり夕方になっていた。
みっちゃんと夕食がわりに大判焼きを阿波番茶といっしょに食べ、夜の予約客のセラピーを行う。

片付けをして風呂に入りしているうちに、すっかり夜が更けた。店の時計がボンボン鳴るのを聞きながら、海四は居間の押し入れから布団を出して敷いた。おミヨは変化を解いて、二階から下ろして来た行李のふたに入り、中のバスタオルにくるまった。

「みっちゃん、あんた飛田穂洲って知っとる?」

「ああ、学生野球の父とかいう人ですね。海四さん、飛田穂洲がどないかしましたん?」

「図書館にえらい立派な本があったけん…あんた、古い人のことまでよう知っとうなあ」

「それが実は、ずいぶん前にタチノー野球部の先輩で、何を考えとったんか知らんけど、その飛田穂洲に化けて徳島県高野連の事務所に行ったもんがおったんですよ。ほなけんど誰にも気づいてもらえんづくで、がっかりしてもんてきたって、そんなしょうもない話があったんですわ」

「動物愛護でも訴えに行ったんやろか?」

「おおかたそんなとこかも知れませんなー。まあ、今日びの高校球児も、沢村栄治とか言うても知らんのが当たり前やしなー。前に、うちが練習試合の相手チームのピッチャーの子に言うたら、真面目な顔して発達保障論の先生やね! なんて答えてくるけん目ぇくるくるしましたわ。鳴門教育大の沢村球児教授と完全に勘違いしよる。まあ教授の下の名前もホンマよう言わんのやけど。
ついでに言うと、その子に、え?共生共学論? ってわざと聞き返したうちこそホンマに大概やわ、ははは…」

「ははは、そら確かに大概やな…。それにしても沢村先生なつかしいな、あの先生、自己紹介する時に必ず「地球の球に、児童館の児」ってめっちゃ強調するんじょ。沢村ゼミで、そのモノマネがめっちゃうまい先輩おったなあ」

ヤマもオチも意味もない、たわいのない与太話。こんな話で誰かと心置きなく笑い転げることを、海四はこれまでの人生でほとんど経験してこなかった。

胸いっぱいに広がるぬくもりに包まれるように、語り疲れたひとりと一匹はすうすう寝息を立てはじめた。

次の日、蜂須賀商業野球部マネージャーから、2回目の予約が入った。おミヨは動悸を鎮めるために、中庭のペパーミントを採って紅茶の葉と一緒にポットに入れると、沸かした井戸水を一気に入れた。ポットの湯気から立ち上る匂いをかぎながら、カップに注いで一口ずつゆっくりと飲む。

予約時間が近づくと、海四はおミヨに眉山の錦竜水を汲んでくるよう頼み、自転車の荷台に空のペットボトルを4つくくりつけた。

おミヨは自転車にまたがると、なぜか眉山と反対方向にこぎ出した。向かったのは蜂須賀商業のグラウンド。今日はオフのようで、この前と違って人影が見えない。ああそうか、それであの子、予約入れられたんだ。

「おーい喜一、今日もいけるで?」

「いけるいける、今行くけん」

グラウンドの隅から声が聞こえてきた。練習着姿の野球部員が3人。ひとりは捕手の防具を着けている。自主練?
1人がマウンドに向かい、1人がバッターボックスでバットを構える。捕手はあの梅沢喜一だ。

「先輩、お願いします」

投手が打者と捕手にお辞儀をする。

ペパーミントティーが多少効いているのか、かろうじて様子を伺うことはできる。それでも長居はできない。ピシピシとミットが球を捉える音を背に、おミヨは眉山に向かって自転車をこぎ出した。

錦竜水をペットボトルいっぱいに詰め、しっかり荷台にくくりつけると、おミヨはもと来た道をたどりはじめた。

徳島本町に入る立体交差が見えはじめるところで、おミヨはふと誘われるように道をそれ、再び蜂須賀商業グラウンドに向かって走り出した。
グラウンドを覗くと、投球練習は終わったようで、誰もいなくなっていな。ああ、みんな上がったんやな、と思って再び自転車にまたがろうとした。

グラウンドの隅から水の音が聞こえてきた。目を移すと、水道のところに梅沢喜一がいた。顔でも洗うてるんやろか?

…違う。水道を全開にして、腕をー左肘から先を洗って…いや、冷やしている。
おミヨは一目散に徳島本町へとペダルをこいだ。
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