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英雄奪還編 後編

七章 第四十話 忘れないことを忘れない

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 何もない空間で、その記憶は訴えかけるように全てを見せた。

 いつも子どものように無邪気な笑みを浮かべていたシリスからは想像もできないほどの辛い過去だった。多分シリスの中で一番印象に残っている記憶なんだ。その記憶は途中でプツンッと消えてどこを進んでいるのか分からないほどの真っ暗な空間が広がった。しばらく歩いたが何も見当たらず方向感覚がなくなってしまった。

「シリス!! どこにいるの!」

呼びかけても返答はない。
声も反響しないので空間はずっと広がっているようだった。

(ロード、何か感じる?)

(うん。このまま先に進めば大丈夫)

 今頼れるのはロードしかいない。前に進んでいる感覚がないのだ。

(·····何か聞こえない?)

(うん)

ロードに言われた方向に進んでいくと誰かが泣いているような声が聞こえてきた。
見ると真っ暗な空間に誰かが小さく丸まっていた。後ろ姿でも誰なのか分かる。

「おはよう、シリス」

「······ジン?」

振り返ったその目には大粒の涙が溢れていた。

「そうだよ。それで····勝手に見てごめん、シリスの記憶」

いつもの無邪気な様子とは違い潤んだ目のシリスの背中を撫でるとゆっくりと時間をかけて落ち着いていった。

「いいんだぞ。驚いたか? ジンと顔が瓜二つだっただろ」

「······うん」

 シリスは立ち上がりこっちを見た。
 いつもは妹みたいで人懐っこいシリスに話しかけるのを躊躇うことなどない。
 でも今は違った。この状況で何を言わなければならないのか分からない。

「シリス·····その、私と一緒に行こう?」

 手を握ると強く握り返された。だけれどシリスはその場から動こうとしない。

「シリス、私と行くのは····嫌?」

「嫌じゃないッ——絶対に」

 シリスは手を離し抱きついた。あたたかい体温が伝わり抱き締める力は何かを訴えかけるように強くなった。

「····お前は覚えていないと思うけど、言わせてくれ」

「———?」

 シリスは必死に歯を食いしばった。
 言いたい、言わなけれならない言葉はすぐそこまで来ていた。

 ジンの体温を確かめ目を瞑り親友の顔を頭に浮かべる。
 そしてゆっくりと口を開いた。


「お前と会うまで、私はずっと独りだった。
 私のことを怖がって、誰も話してくれない。
 生きるのが大変だった、こんな世界大嫌いだった。

 だからお前に初めて会えた時、私はとっても驚いたぞ。
 顔も見えない私にお前は一つしかないパンをくれてお湯を入れてくれた。
 初めて優しくされて、とっても嬉しかった。
 お前に出会ってから笑えるようになった。

 一緒に暮らしていたとき、お前としたことは全部覚えている。

 暖炉の前であたたまるお前の横顔が大好きだった。
 いつも浮かべるお前の笑顔も大好きだった。 

 服の裾を掴んでついてくるお前が可愛かった。
 雪の上で無邪気にはしゃぐお前も可愛かった。

 お風呂で頬擦りをしてくるお前が愛おしかった。
 一晩中抱きついてくるお前も愛おしかった。

 誰よりも生きているのが楽しそうだった。
 だから私も生きることが楽しくなった。

 お前が生き甲斐でお前以外何も要らなかった。
 だから、足の動かなくなったお前を見て胸が張り裂けそうだった。
 だから、日に日に弱っていくお前を見ることが耐えられなかった。
 ············もっと生きててほしかった。

 最後にお前と約束したぞ。
 だからずっとお前を忘れなかった。
 それで、生まれ変わったお前に逢いに行った。

  逢えた瞬間飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しかった。
 生まれ変わったお前の笑顔も声も仕草も、全部すぐ大好きになった。
 今も昔もお前のことが大好きだぞ·····ジン」

 シリスはしばらくジンを抱きしめ続けた。
 ずっとこの時間が続いてほしい、そう思いながら。

「よし····待たせたな! 行くか!!」

 そしていつものように子どものような無邪気な笑顔を浮かべた。

「うん!」

 その瞬間、真っ暗な空間はシリスを中心に消え去っていった。
 晴れやかな青い青い空、そして辺り一面には草原が広がっていた。

「待ちなさいッ——」

 二人が歩き出そうとした時、何者かが二人を呼び止めた。

 女神、エールローズ。シリスに憑命していたエールローズにとってこの状況は想定外かつ最悪だった。
 完全に支配を終える直前、シリスにかき消されたのだ。

「おい人間、どうやってここへ入ってきた」

「えっ、どうやってって言われても····」

 シリスの方に真っ直ぐ歩いていくといつの間にかここに入れていた。多分ゼグトスがここへ続く道を開けてくれたんだと思う。

「······ん? ここってシリスの精神世界だからあの人追い出せたりできるんじゃないの?」

「う~ん····確かに!!」

「無駄だ。今この私を無理矢理追い出せばお前の精神は崩壊する。それが嫌ならば私の支配を受け入れッ——ッ!!?」

 その時、エールローズの視界には無数の暴風が広がっていた。
 今いる精神世界、その主であるシリスはこの場において文字通り自由である。
 魔力の制限もなければダメージすら受け付けない。だがそれでも完全無欠な状態ではない。

「どうやら私の言葉の意味を理解していないようだな。今であってもお前の精神の半分近くは私が支配している。私を傷つければ崩壊するのはお前の自我であるぞ」

「ハハハハッ——!! 私の精神は今無敵なのだ!!」

 しかし今のシリスにそれは関係ない。シリスの自我は時間を追うごとに強まりエールローズを圧迫していた。
 この状況においてエールローズがシリスに干渉する手段は一つとして存在しないのだ。

(コイツッ——精神世界から無理矢理私をッ——)

 精神の半分近くを支配しているエールローズを傷つければ、自身の自我に影響が出る。ならばその半分近くの自我を無理矢理に奪い返せば良いのだ。単純かつ強引なやり方だが最適な手段だった。

「ハハハハッ——!! 消えてしまえ———!!」

「グゥっ——」

 空間全体にシリスの覇気は波及していきエールローズは存在を保つことに全ての力を注いだ。
 そして必然的にエールローズはこの空間で持ち得る支配権を全て奪われる。

「行くぞ! ジン!!」

「うん!」

(——今度は離さないぞ)

シリスはその手を強く握りしめる。
そして二人は眩い光に照らされ前へと進んでいった。
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