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恍恍惚惚
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■■■■…………
太閤秀吉の命により上杉氏が会津転封となった際、藤田信吉は越後との国境で要所でもある会津・津川城主となり一万千石を領した。
しかし、津川城に入ったのもつかの間である慶長三年に秀吉が死去した。
藤田信吉は上杉景勝の弔問使や新年祝賀の代理となり大坂へ赴いたが、その際、徳川家康と本多正信から上杉景勝が徳川に味方した方が「利」があると諭され、以後、上杉家中で徳川家康に味方するように唱えた。
しかしながら、上杉景勝と直江兼続は豊臣との「義」を重んじていた為、上杉家としては石田三成と懇意であることに変わらず強行姿勢であり、説得に失敗した信吉は孤立し、急速に居場所を失っていった。
「家康。この……たぬき親父めっ!!」
直江兼続は怒っていた。上杉家を陥れ、屈服させようとしてくる家康に対して。
上杉謙信が謀反を起こしたときでさえ、ここまで怒りを覚えることはなかった。兼続の今までにない激情に、評定の間に居た上杉家家臣団はとても驚愕していた。
しかし、彼らには兼続がここまで怒る理由も分かる気がした兼続の手には一つの書状が握られていた。
それは徳川家康の命を受けて、西笑承兌が兼続宛で送ってきた書状である。
家康は秀吉の死後、後を継いだ豊臣秀頼が幼いのをいいことにして、秀吉の遺言に背き、秀頼の威光を借りながら政治の主導権を握って勢力を拡大していた。
家康との政争に敗れた石田三成・浅野長政らは失脚し、家康と同じ五大老の前田利長も権力を失ってしまっている。
そして家康は五大老の一人・上杉景勝も失脚させようとしている。景勝こそが兼続とここにいる諸将の主君であり、名門上杉家の当主だ。
彼が失脚するということは仕える家臣団にとっても一大事。万一領土没収などとなったら、ここにいる者のほとんどが地位も財産も失ってしまう。
ここにいる程の者たちなら他家に再仕官することも可能だが、低い身分の武士は違う。諸将も自分達の家臣と家のため、屈する訳にはいかないのである。
兼続は家康が嫌いだった。謀略で人を嵌め、弱者を脅して自分達の利益を追求するところも、兼続が掲げる「義」の精神に反していた。詰まるところ、兼続は家康とは人間的にまったく合わなかったのだ。
「落ち着くのだ、兼続。書状を叩きつけるな」
評定の間に凛とした声が響き渡った。広間の一番奥に座する、巨体を持ち精悍な顔つきの男の声。体が細く整った顔つきの兼続とは正反対のような人物だ。
彼こそが上杉景勝。会津百二十万石を有する大名・上杉家の当主で、ここにいる者たちの主だ。景勝はいつも通り、一人冷静だった。その低い声に一同は一瞬で平静を取り戻した。ただ一人を除いて。
兼続は「ぬぅぁ~~あ!」と、叫んで畳に投げつけた書状を足で踏みつける。
「狸親父め!。アゲと蕎麦と一緒に鍋で煮込んでくれるわっ!!」
「落ち着け、落ち着くのだ。兼続、書状を踏むな……。おい、書状を破るな。儂も読むのだぞ」
「はっ!。……申し訳ありませぬ……。少々取り乱してしまいました」
そう言って兼続はいつもの涼やかな調子に戻る。兼続の後ろにいた武将は座った兼続を見て思った。「今のが、少々……?」
景勝は表情を変えずに兼続から受け取った書状に目を通した。書状を読み終えた後も、その顔は揺らぐことはなかったが、一部の家臣は確かにその目が天を仰いだのを見た気がした。
「家康は、我らの謀反を疑っておられる」
広間はしんと静まり返った。
諸将の予想していた通りであった。家康は上杉家の牙を抜くために謀反の疑いをかけ、領土を没収するつもりだ。
「そして、大坂まで来て釈明するようにとのこと」
「「「行ってはなりませぬ!!!」」」
兼続含めて、多くの家臣達が同じ言葉を口にした。それは景勝も分かっていた。
かつて前田利長がそうだったのだ。母を人質に出し、自らが大坂城に居る秀頼と家康に釈明に行ったところ、前田家は服従を余儀なくされ、今は諸大名の調停役という立場すらも失っている。
景勝が行けば上杉家もそうなることは、誰の目にも明らかだった。
「殿、先ずは全員が書状の詳細を知る必要があるかと」
家老の千坂景親が口を開いた。先代・上杉謙信の時代から上杉家を支えてきた名将である。景勝はその言葉に頷くと、傍に控える小姓に書状を声に出して読ませた。
「景勝卿の上洛が遅れていることについて内府様は御不審をもっています。上方では穏便でない噂が流れていますので、伊奈図書と河村長門を下らせました。神指原に新城を作ったり、越後河口に橋を造ったりするのは特によくありません。景勝卿がそう思っていても兼続殿が意見しないのは油断であり、内府様の御不審ももっともです。」
小姓の凛とした声から「内府」という言葉が出るたびに、兼続の眉毛がピクリと動くが、小姓はそれに気づかないふりをして続きを読んだ。
「一、景勝卿に謀叛の心がなければ神社の起請文で申し開きすることが家康公のご内意です。
一、景勝卿が律儀であることは太閤様以来家康公もご存じです。釈明が認められれば問題はないと思います。
一、近国の堀監物が再三謀叛の報告をされているので、しっかりした謝罪がなければ釈明は認められないと思います。ご注意してください。……」
「堀監物かっ……」
家臣の一人が声を上げた。
堀監物とは、上杉家が会津に国替えする前の越後を治める、堀秀治の家臣である堀直政のことだ。
直政は亡き豊臣秀吉に、兼続・小早川隆景と並んで天下の三陪臣に数えられた人物である。
秀吉の命令で景勝が越後から会津百二十万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に六万石(寄騎を含めると三十万石)の所領が与えられている。兼続は国替えの際、前半歳の租税を徴したので、後任の堀家は返還を求めたが、これに応じなかった。またこの国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。
兼続は石田三成との謀議により本来国替えの引継ぎで半分残していかなければならない年貢を、景勝に無断で全て会津へ持ち出しており、年貢を持ち逃げされてしまった堀秀治が返還を求めても無視した結果、怒った秀治が直政を通じて上杉家謀反を家康に訴えたのである。
兼続は「直政の奴めぇ!」と怨念のこもった声で叫んでいる。
堀家が治める越後の国は、古くから上杉家の領地であり、鎌倉時代からある名家で、室町時代に関東管領・上杉家として越後国に根を張っていた。
上杉謙信が当主になってから、周辺諸国で助けを求める諸国人に加勢し、弱きを助け、強きを挫く。
私利私欲に拘泥しない「義の武将」という一面と、一方で利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した。
謙信が行った義の戦は、兼続の憧れであった。そして今兼続は、家康と直政に対する不平不満を時々悪口を声高に叫び、諸将に取り押さえられながら畳で悶えている。
「これが……義?」と、一人の家臣は思った。
つまり、越後は古くから上杉家の領土だが、秀吉に加増転封されたので上杉の領土は増えたけど、縁もゆかりもない会津に領土替えされたから徴税が難しい。徴税がやりやすい越後に入った堀家は羨ましい。少々年貢を貰った程度で文句を言うなという話である。
「落ち着くのだ、山城守。障子に穴をあけるな、安田に齧り付くな。小姓が困っておる」
「っはッ!!……申し訳ありませぬ」
「続けろ」
「はっ。 一、この春、北国之義(前田利長)殿も謀叛を疑われましたが、家康公の道理が通った思し召しで、疑いが晴れました。これを教訓としてご覚悟ください。
一、京都では増右(増田右衛門少尉長盛)・大刑少(大谷刑部少輔吉継)が家康公への話をされているので、釈明は両人へ伝えてください。榊式太(榊原式部大輔康政)にも伝えられると良いと思います。
一、なんといっても景勝卿の上洛が遅れているのが原因ですから、一刻も早く上洛されるように、あなた(兼続)がすすめてください。……」
「遠まわしに私が悪いと言っているではないかぁ!!」と、兼続は唸る。
相変わらず落ち着かない兼続に、小姓は汗をかいて狼狽し始めたが、最後の一息とばかりに続けた。
「一、上方では会津で武器を集めていることや、道や橋を造っていることが問題とされています。家康公が景勝卿の上洛を待っているのは高麗へ降伏するように使者を使わしているからです。降伏しなければ来年か再来年かに軍勢を出すことになります。その相談もありますし、早く上洛して直接釈明されるべきです。
一、愚僧(承兌)と貴殿(兼続)は数年来親しくつきあってきましたから現状が心配です。会津の存亡、上杉家の興廃が決まる時ですから、熟慮が大切です。これは全て使者の口上にも含まれています。」
景勝が「高麗のことまで持ち出してきたか……」と口にした。
秀吉は晩年、高麗に出兵を始めた。秀吉の死で日本軍は撤退したが、未だ日本と明・高麗の間では和睦が結ばれていない。
しかし、おいそれと上洛すれば結果は目に見えている。
「どうしたものか……皆、意見を述べてみよ」
広間にいた諸将は各々の考えを景勝に語った。黙殺するべきというのがほとんどで、中には徹底抗戦し、家康を倒すべきだという意見もある。
しかし、本来従うべき秀頼は家康の手の内にあり、今の上杉家には「義」がない。それが景勝の悩みの種だった。
今の上杉家と同じく大義が無かったからこそ三成も長政も利長も、家康に逆らえなかったのだ。
「上方に遠い我らでは如何ともし難い……」と、この時初めて、景勝は自らの境遇を恨んだ。
大義名分はなく家康が策を練る間、詳細が分からずに暗闘し続ける必要があった。
それが今天下をその手に掴もうとしている家康との違い……。
景勝は既に進退窮まったと感じていた……。
しかし広間でただ一人、兼続は違った。
「殿、私にお任せください!」と声を張り上げたのはやはり、兼続だった。
「どう深慮遠謀しても、家康に義があるなど考えられませぬ。とすれば義なしの家康に代わって大義名分をもつのは我らが上杉!あの腹黒狸めを正義の鉄槌で下してやりましょう!」
兼続の顔は今までに無いほど恍恍惚惚して、狂気を帯びている。
これこそが憎悪の力。ここに兼続は闇黒の力を引き出した。
全ては自分が謀反の様な事をしておきながら、上杉家に後ろ指を指して陥れようとしてくる家康を倒すため。それは上杉を救うためにも、豊臣を家康の魔手から解放することにもつながる。
「分かった山城守、では何をするというのだ。申せるのならば言ってみよ……」
景勝は上座に座し、腕を組み兼続を凝視し、諸将も皆が兼続に目を向け、一縷の望みを抱いている。
彼らの期待を受け止め、兼続は微笑を浮かべた。
「では、まず狸は書状を用いて前田も上杉も貶めようとした。ということで私も『書状』で対抗します。皆々様方、我がお手並みをご覧あれ……」
◇◇◇◇
家康が屋敷を構える大坂城西ノ丸は、元々秀吉の正室・北政所が住んでいた場所である。秀吉の死後、北政所が大坂城を出て京で出家すると、家康はこの地に新たな御殿を建てた。この屋敷は主君の秀頼が住まう本丸御殿よりも、豪華な建物だった。
「殿。藤田殿が到着しました」
家康に耳打ちしたのは側近の本多正信。信頼する参謀の言葉を聞いて、家康は座り直した。
「通せ……」
「はっ」
正信はゆるりと立ち上がり、信吉を呼びにその場を後にしようとする。しかし家康はそれを呼び止めた。
「なあ、正信。儂は天下を奪るぞ。天下静謐、儂が命を懸けて夢を現実に変える。」
正信は振り返り、いつも通りの冷静な目で家康を見据えた。家康の目は相変わらず天を向いていた。
「信長公、見ていてくだされ。儂があなたの夢を叶えます」
家康は豊臣秀吉の死という人生最高の幸運に恵まれた。運と知勇を持ち合わせ、領土も広く、人望がある日本最強の武将だ。
今の儂なら再び荒れ始めた天下を統一し、信長公の夢に近づくことができる。そう家康は考えていた。
「正信。藤田を呼んでこい……」
「はっ!」
その時確かに、正信は若き日の家康の姿が見えたような気がした。
太閤秀吉の命により上杉氏が会津転封となった際、藤田信吉は越後との国境で要所でもある会津・津川城主となり一万千石を領した。
しかし、津川城に入ったのもつかの間である慶長三年に秀吉が死去した。
藤田信吉は上杉景勝の弔問使や新年祝賀の代理となり大坂へ赴いたが、その際、徳川家康と本多正信から上杉景勝が徳川に味方した方が「利」があると諭され、以後、上杉家中で徳川家康に味方するように唱えた。
しかしながら、上杉景勝と直江兼続は豊臣との「義」を重んじていた為、上杉家としては石田三成と懇意であることに変わらず強行姿勢であり、説得に失敗した信吉は孤立し、急速に居場所を失っていった。
「家康。この……たぬき親父めっ!!」
直江兼続は怒っていた。上杉家を陥れ、屈服させようとしてくる家康に対して。
上杉謙信が謀反を起こしたときでさえ、ここまで怒りを覚えることはなかった。兼続の今までにない激情に、評定の間に居た上杉家家臣団はとても驚愕していた。
しかし、彼らには兼続がここまで怒る理由も分かる気がした兼続の手には一つの書状が握られていた。
それは徳川家康の命を受けて、西笑承兌が兼続宛で送ってきた書状である。
家康は秀吉の死後、後を継いだ豊臣秀頼が幼いのをいいことにして、秀吉の遺言に背き、秀頼の威光を借りながら政治の主導権を握って勢力を拡大していた。
家康との政争に敗れた石田三成・浅野長政らは失脚し、家康と同じ五大老の前田利長も権力を失ってしまっている。
そして家康は五大老の一人・上杉景勝も失脚させようとしている。景勝こそが兼続とここにいる諸将の主君であり、名門上杉家の当主だ。
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ここにいる程の者たちなら他家に再仕官することも可能だが、低い身分の武士は違う。諸将も自分達の家臣と家のため、屈する訳にはいかないのである。
兼続は家康が嫌いだった。謀略で人を嵌め、弱者を脅して自分達の利益を追求するところも、兼続が掲げる「義」の精神に反していた。詰まるところ、兼続は家康とは人間的にまったく合わなかったのだ。
「落ち着くのだ、兼続。書状を叩きつけるな」
評定の間に凛とした声が響き渡った。広間の一番奥に座する、巨体を持ち精悍な顔つきの男の声。体が細く整った顔つきの兼続とは正反対のような人物だ。
彼こそが上杉景勝。会津百二十万石を有する大名・上杉家の当主で、ここにいる者たちの主だ。景勝はいつも通り、一人冷静だった。その低い声に一同は一瞬で平静を取り戻した。ただ一人を除いて。
兼続は「ぬぅぁ~~あ!」と、叫んで畳に投げつけた書状を足で踏みつける。
「狸親父め!。アゲと蕎麦と一緒に鍋で煮込んでくれるわっ!!」
「落ち着け、落ち着くのだ。兼続、書状を踏むな……。おい、書状を破るな。儂も読むのだぞ」
「はっ!。……申し訳ありませぬ……。少々取り乱してしまいました」
そう言って兼続はいつもの涼やかな調子に戻る。兼続の後ろにいた武将は座った兼続を見て思った。「今のが、少々……?」
景勝は表情を変えずに兼続から受け取った書状に目を通した。書状を読み終えた後も、その顔は揺らぐことはなかったが、一部の家臣は確かにその目が天を仰いだのを見た気がした。
「家康は、我らの謀反を疑っておられる」
広間はしんと静まり返った。
諸将の予想していた通りであった。家康は上杉家の牙を抜くために謀反の疑いをかけ、領土を没収するつもりだ。
「そして、大坂まで来て釈明するようにとのこと」
「「「行ってはなりませぬ!!!」」」
兼続含めて、多くの家臣達が同じ言葉を口にした。それは景勝も分かっていた。
かつて前田利長がそうだったのだ。母を人質に出し、自らが大坂城に居る秀頼と家康に釈明に行ったところ、前田家は服従を余儀なくされ、今は諸大名の調停役という立場すらも失っている。
景勝が行けば上杉家もそうなることは、誰の目にも明らかだった。
「殿、先ずは全員が書状の詳細を知る必要があるかと」
家老の千坂景親が口を開いた。先代・上杉謙信の時代から上杉家を支えてきた名将である。景勝はその言葉に頷くと、傍に控える小姓に書状を声に出して読ませた。
「景勝卿の上洛が遅れていることについて内府様は御不審をもっています。上方では穏便でない噂が流れていますので、伊奈図書と河村長門を下らせました。神指原に新城を作ったり、越後河口に橋を造ったりするのは特によくありません。景勝卿がそう思っていても兼続殿が意見しないのは油断であり、内府様の御不審ももっともです。」
小姓の凛とした声から「内府」という言葉が出るたびに、兼続の眉毛がピクリと動くが、小姓はそれに気づかないふりをして続きを読んだ。
「一、景勝卿に謀叛の心がなければ神社の起請文で申し開きすることが家康公のご内意です。
一、景勝卿が律儀であることは太閤様以来家康公もご存じです。釈明が認められれば問題はないと思います。
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「堀監物かっ……」
家臣の一人が声を上げた。
堀監物とは、上杉家が会津に国替えする前の越後を治める、堀秀治の家臣である堀直政のことだ。
直政は亡き豊臣秀吉に、兼続・小早川隆景と並んで天下の三陪臣に数えられた人物である。
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兼続は石田三成との謀議により本来国替えの引継ぎで半分残していかなければならない年貢を、景勝に無断で全て会津へ持ち出しており、年貢を持ち逃げされてしまった堀秀治が返還を求めても無視した結果、怒った秀治が直政を通じて上杉家謀反を家康に訴えたのである。
兼続は「直政の奴めぇ!」と怨念のこもった声で叫んでいる。
堀家が治める越後の国は、古くから上杉家の領地であり、鎌倉時代からある名家で、室町時代に関東管領・上杉家として越後国に根を張っていた。
上杉謙信が当主になってから、周辺諸国で助けを求める諸国人に加勢し、弱きを助け、強きを挫く。
私利私欲に拘泥しない「義の武将」という一面と、一方で利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した。
謙信が行った義の戦は、兼続の憧れであった。そして今兼続は、家康と直政に対する不平不満を時々悪口を声高に叫び、諸将に取り押さえられながら畳で悶えている。
「これが……義?」と、一人の家臣は思った。
つまり、越後は古くから上杉家の領土だが、秀吉に加増転封されたので上杉の領土は増えたけど、縁もゆかりもない会津に領土替えされたから徴税が難しい。徴税がやりやすい越後に入った堀家は羨ましい。少々年貢を貰った程度で文句を言うなという話である。
「落ち着くのだ、山城守。障子に穴をあけるな、安田に齧り付くな。小姓が困っておる」
「っはッ!!……申し訳ありませぬ」
「続けろ」
「はっ。 一、この春、北国之義(前田利長)殿も謀叛を疑われましたが、家康公の道理が通った思し召しで、疑いが晴れました。これを教訓としてご覚悟ください。
一、京都では増右(増田右衛門少尉長盛)・大刑少(大谷刑部少輔吉継)が家康公への話をされているので、釈明は両人へ伝えてください。榊式太(榊原式部大輔康政)にも伝えられると良いと思います。
一、なんといっても景勝卿の上洛が遅れているのが原因ですから、一刻も早く上洛されるように、あなた(兼続)がすすめてください。……」
「遠まわしに私が悪いと言っているではないかぁ!!」と、兼続は唸る。
相変わらず落ち着かない兼続に、小姓は汗をかいて狼狽し始めたが、最後の一息とばかりに続けた。
「一、上方では会津で武器を集めていることや、道や橋を造っていることが問題とされています。家康公が景勝卿の上洛を待っているのは高麗へ降伏するように使者を使わしているからです。降伏しなければ来年か再来年かに軍勢を出すことになります。その相談もありますし、早く上洛して直接釈明されるべきです。
一、愚僧(承兌)と貴殿(兼続)は数年来親しくつきあってきましたから現状が心配です。会津の存亡、上杉家の興廃が決まる時ですから、熟慮が大切です。これは全て使者の口上にも含まれています。」
景勝が「高麗のことまで持ち出してきたか……」と口にした。
秀吉は晩年、高麗に出兵を始めた。秀吉の死で日本軍は撤退したが、未だ日本と明・高麗の間では和睦が結ばれていない。
しかし、おいそれと上洛すれば結果は目に見えている。
「どうしたものか……皆、意見を述べてみよ」
広間にいた諸将は各々の考えを景勝に語った。黙殺するべきというのがほとんどで、中には徹底抗戦し、家康を倒すべきだという意見もある。
しかし、本来従うべき秀頼は家康の手の内にあり、今の上杉家には「義」がない。それが景勝の悩みの種だった。
今の上杉家と同じく大義が無かったからこそ三成も長政も利長も、家康に逆らえなかったのだ。
「上方に遠い我らでは如何ともし難い……」と、この時初めて、景勝は自らの境遇を恨んだ。
大義名分はなく家康が策を練る間、詳細が分からずに暗闘し続ける必要があった。
それが今天下をその手に掴もうとしている家康との違い……。
景勝は既に進退窮まったと感じていた……。
しかし広間でただ一人、兼続は違った。
「殿、私にお任せください!」と声を張り上げたのはやはり、兼続だった。
「どう深慮遠謀しても、家康に義があるなど考えられませぬ。とすれば義なしの家康に代わって大義名分をもつのは我らが上杉!あの腹黒狸めを正義の鉄槌で下してやりましょう!」
兼続の顔は今までに無いほど恍恍惚惚して、狂気を帯びている。
これこそが憎悪の力。ここに兼続は闇黒の力を引き出した。
全ては自分が謀反の様な事をしておきながら、上杉家に後ろ指を指して陥れようとしてくる家康を倒すため。それは上杉を救うためにも、豊臣を家康の魔手から解放することにもつながる。
「分かった山城守、では何をするというのだ。申せるのならば言ってみよ……」
景勝は上座に座し、腕を組み兼続を凝視し、諸将も皆が兼続に目を向け、一縷の望みを抱いている。
彼らの期待を受け止め、兼続は微笑を浮かべた。
「では、まず狸は書状を用いて前田も上杉も貶めようとした。ということで私も『書状』で対抗します。皆々様方、我がお手並みをご覧あれ……」
◇◇◇◇
家康が屋敷を構える大坂城西ノ丸は、元々秀吉の正室・北政所が住んでいた場所である。秀吉の死後、北政所が大坂城を出て京で出家すると、家康はこの地に新たな御殿を建てた。この屋敷は主君の秀頼が住まう本丸御殿よりも、豪華な建物だった。
「殿。藤田殿が到着しました」
家康に耳打ちしたのは側近の本多正信。信頼する参謀の言葉を聞いて、家康は座り直した。
「通せ……」
「はっ」
正信はゆるりと立ち上がり、信吉を呼びにその場を後にしようとする。しかし家康はそれを呼び止めた。
「なあ、正信。儂は天下を奪るぞ。天下静謐、儂が命を懸けて夢を現実に変える。」
正信は振り返り、いつも通りの冷静な目で家康を見据えた。家康の目は相変わらず天を向いていた。
「信長公、見ていてくだされ。儂があなたの夢を叶えます」
家康は豊臣秀吉の死という人生最高の幸運に恵まれた。運と知勇を持ち合わせ、領土も広く、人望がある日本最強の武将だ。
今の儂なら再び荒れ始めた天下を統一し、信長公の夢に近づくことができる。そう家康は考えていた。
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その時確かに、正信は若き日の家康の姿が見えたような気がした。
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