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志能便
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吾輩は重政殿と同行しているご主人と坂本で合流して、近江国甲賀の郷に居る山中長俊殿のもとに向かう予定である。山中山城守殿の先祖は建久五年(1194年)に近江国甲賀郡の鈴鹿峠の麓を領している御家人山中俊直が鈴鹿山警固役に任じられ、嘉禄二年(1226年)には山中俊信が盗賊を退治した功によって山中村地頭・鈴鹿山盗賊追捕使に任じられて以来、以後も山中氏は代々鈴鹿峠の警備を任されている家系で、集落の住宅地の中にある山中城は嘉禄二年に山中俊信が鎌倉幕府執権の命で、鈴鹿山賊を討った武功でこの地を領し、築城したもの。そして、山中長俊殿は爺様と同じ豊臣政権下の奉行衆・右筆方の一人でもある。
土山宿は鈴鹿峠の難所を控える宿場として発展してきた。鎌倉時代、京都と鎌倉を結ぶ東西の交通路がさらに重要視され、武士だけでなく商人、庶民の通行も盛んになった。
土山宿は、宿場町としての中心は御役町で、そこに問屋場、本陣、脇本陣があり、その周囲に旅籠や店、茶屋などがあり、細長い宿場町を形成していた。また、御役町の保護のため、地子の免除その他の特権を与えられていた。
■■■■…………
小太郎と重政は旅籠を出た。山中山城守殿の屋敷に向かうためだ。
「情報収集の定番は、酒場での聞き込みです!」
「まだ昼だぞ……」
そう、時間はまだ、昼前。酒場の多くは開いていないし、開いていても人は少ないだろう。
食事処なら人は集まっているだろうが、ご飯を食べるために来ている人たちから情報収集は難しい。
「それに、山中山城守殿の屋敷なんて、一般人に聞いたって正確なところは分からんだろ」
「言われてみれば確かに」
重政のもっともな指摘に、素直に頷く小太郎。
旅人たちとの話もそこそこに、俺は茶屋の席を立った。
「すみません、これから用事がありまして」
流れ的に「一緒に昼食でも」みたいな単語が出始めたからである。あと人にじろじろ見られるのが非常につらいからでもある。客として気を遣われているのもわかるが、それとこれとは違う話だから。
まあこれに関しては、全面的に我慢して耐えようとは思っていたが、
「今朝まではゆっくりできる予定だったんですが、急遽実家の母親から連絡があり予定が入ってしまったもので」本当に用事ができたのだから仕方ない。
来る時は坂本で会えなかったし、まさかとは思ったが土山宿の旅籠でも会えなかった。
だからきっと飛彩は、この付近で普通に俺を待っていると思われる。
特に時間の指定はなかったが、代官が呼んでいると言っていた。あまり待たせてはいけない相手である。田舎者にだってそれくらいはわかる。決して「用があるならおまえが来い」とか言ってはいけない相手である。心の中で思うだけに留めておこう。
その辺を考えると、昼前には呼び出しに応じた方が無難だろう。
まあでも、会えないものは仕方ないか。
茶店を出て、周囲を見回すと……正面の通りを挟んだ向こう側に、見覚えのある青い鳥が、松の木に寄り掛かってぼんやりしているのが見えた。
やはり飛彩は普通に待っていたようだ。
『……なんだ。早かったな』
俺に気づいてやってくる。早かったんじゃなくて早めに切り上げたんだ。飛彩に言ってもしょうがないので言わないけど。言うなら本人にだ。でも相手は代官だから言わないけど。
「嫌なことは早めに済ませたいなと思って」
「うん。問題になるかもしれないから、私以外にはそういうことを言わないように」
重政さんが大人の対応である。でも思いっきり本心なんだけどな。
こんな面倒なことになるなら助けになんて行かなければよかった……とは思えないか。さすがに。
可能性は低くとも、人の命が掛かってる状況ではあったから。
それに、呼び出される理由も、わからなくもないところもある。
先日のあの時間、あの場所に駆けつけて「通りすがり」で通そうってのは、無理があるからね。俺の行動を調べたなら尚更だ。不自然すぎるんだ。
まさか「見えない鳥が危機を知らせてくれた」なんて、素直に説明するわけにもいかない。
知られたら、絶対に、面倒なことになる。
……それに、先日の今日で試したことはないが。
たぶん、俺が望めば、各所にいる「動物」に接続し、話をすることができる、気がする。
実際先日のあの現象は、それに類する現象だったと思うから。
それを念頭に入れて冷静に考えると、これから俺は、日本中の「動物」とお話ができる。
恐らく「動物」を使用するのは、……政治にも、お偉いさん方の事情にも明るくない俺にさえ、事の重大さがよくわかる。
「………」
バレたら色々と恐ろしいことになりそうだ。
絶対に誰にも知られてはならない。
できるだけ、可及的速やかに、村に引っ込んでしまいたい。
「相手の能力を見破る心得」みたいなものを持つ者も存在するというから、そういう厄介なのに見抜かれる前に、人が多い都会から消えてしまいたい。
案内されて歩いている間、そんなことを考えていた。
結果だけ言おう。
俺は、とある事情で、しばらく家には帰れなくなる。
それも、結構予想外の理由で。道すがら山中家について教えてもらった。
俺は山中家のことはよくわからないが、甲賀二十一家の山中氏の庶流で、京に住んでいて、偉い人であるらしい。
甲賀の界隈では上位の地位で、結構歴史ある家なんだとか。
説明されてもさっぱりわからないが。だが。権力云々はさっぱりわからないが、武家の家……いや、蔵屋敷が並ぶ地区に来ると、とりあえずお金は持ってるんだな、というのはよくわかった。
屋敷の大きさが権力の大きさ、古めかしい屋敷ほど歴史が長く維持費も掛かっているんだろうな、と思う。まあ俺にわかるのはこれくらいのものだ。
往来から人がぐっと減り、のんびり馬が歩いているのが目立つ。
それも俺が村から京へ連れて来られた時の馬と違って、毛並みが黒く輝いていたりする高級感溢れる馬はいない長閑な村にのんびりと馬と牛が田植えの代搔きをしている。
そんな農民が住まう農家がずらっと並ぶ中、飛彩が案内したのは、周りと不釣り合いな、やや古めかしいが立派な屋敷だ。
建物の位置からして、庭も広く取ってあるようだが、蔦や葉が覆い茂る壁があって中はうかがえない。馬車が通れるほど大きな木製の門があり、飛彩はその前で止まったが、この家には門番がいないようだ。
「山城守殿は温厚な方だ。そして、君の爺様と親しい間柄、多少礼儀ができていなくても大目に見てくれるだろう。そこは安心していい」
あ、そうですか。
「でも俺は少しも礼儀なんて知らないよ。怒らせる前に帰れる?」
「それはわからないが……しかしまあ、悪いようにはしないと思うぞ。呼び出した理由が理由だしな」
そうであってほしい。人助けで不当に扱われるんじゃ悲しすぎる。そもそもを言えば、お礼も何もいらないから放っておいてほしいくらいなのに。先日のことは忘れてほしいくらいなのに。誰かに助けてもらってラッキーくらいに思ってればいいのに。
「いざとなったら助けてくれる?」
「そうしたいのは山々だが、君が山城守殿と対面している時、恐らく私はその場にいないと思う。助けようにも傍にいないからどうしようもないだろう」
「………」
あれ? 俺、結構まずくないか?
間違いなく「動物との会話」に関して嘘を吐くつもりの俺は、この話を避けないとまずくないか?
「……与六郎さん、不敬罪って知ってる?」
「貴い者が無礼者を討つアレか?」
知ってるってことは、爺様が言っていた戯言は本当だったのか?
爺様は相手が怒っていたら交渉せずに、相手のグチを聞いてガス抜きに努めるようにしなさいと、冷静に判断できないときに交渉を持ちかけても後日覆されることが多いから、相手のグチを聞いてガス抜きをしてやれば相手は信頼を寄せてくるはず、それから交渉に入りなさいと教えてもらったが大丈夫だろうか。
「爺様が不敬罪って言えば、お偉いさんの気分次第で首が飛ぶ。相手の言葉や態度が以前と少しでも異なれば、こちらに危険が迫る合図できるだけ速やかに対策を講じ、速やかに現状から退くこと。権力には逆らわないできるだけ媚びなさい。しかし、媚びすぎもまずい。プライドの高い武士は露骨な媚びだと気分を害するから、さりげなく持ち上げるんだぞ」と言っていたのが、俄然真実味を帯びてくる。
爺様のどうでもいい戯言はともかく、不敬罪は本当にあるようだ。
「与六郎さん。嘘つくのって不敬に当たると思う?」
「ははは。……冨田治部左衛門重政だ! 客人を連れてきた!」
「えっ。なんで笑った。答えはどうした」
思わず口をついた疑惑の声を無視し、重政は扉をノックした。
ノックしてから間を置かず、待ち構えていたかのように門が開いた。
「ご苦労様です。冨田治部左衛門殿」
黒い着物を着た、五十を超えているだろう爺さんが出てきた。まず使いを頼んだ重政を見る。
「こちらが、先日の事故に遭った時、通りすがり………に助けてくれた者だ。確かに届けた」
「はい。報酬はいつもの通りに」
「わかった」
あ、そういうアレか。重政は俺を連れてくるだけが仕事で、だから代官と会う時に同席はしていないと言ったのか。
「ああ、そうだ。この子がだいぶ不信感を抱いているのだが、私が同席しても?」
あ、言った。忘れてなかった。
「それは難しいですな。主人は内々の話をされるおつもりのようなので」
受け入れてくれなかったけど。爺さん即答で断ったよ。なんだよ内々の話って。ほっといてほしいんだけど。
「だそうだ。すまないな、小太郎」
もうちょっと食い下がってもいいんじゃなかろうか? あっさり引きすぎじゃないか? ……一応同席する努力はしてくれたから、まあいいか。
重政が踵を返して歩き出すと、爺さんが俺を見た。
……あ、まずい。
「お名前は小太郎殿、でよろしいかな? 主人がお待ちです。中へどうぞ」
爺さんは何食わぬ顔で、俺を中へ促す。
本当に、何食わぬ顔で。
目が合った瞬間にわかった。
この爺さん、まずい。かなり強い。
それもただ強い奴のそれじゃなくて……そう、危険だ。
強いより強烈に感じるのは、危機感だ。
刀もない、逃げ道もない、道具もない、そんな時に魔物と遭遇した。そんな危機感を感じる。
俺たちと同種、そんな感じの強さだと思うが……武芸者なのか? それとも違う似た何かか?
「……失礼します」
目が合った瞬間に、はっきりわかったことは三つだ。
一つ目は、俺では爺さんには絶対勝てないこと。
二つ目に、俺はすでに爺さんの攻撃範囲に入っていて逃げられないこと。
そして最後に、この爺さんはきっと、何も躊躇うことなく人を殺せるってことだ。
いやあ……まだ入り口なのに、すでに来たことを後悔してきたな……
山中山城守の敷地に入ると、まず目に入ったのは、壊れた馬車だった。
先日事故に遭ったものだろう。回収してきたようだ。
片方の車輪が外れ、車体にはたくさんの傷、損壊している部分も多い。もはや馬車の原型は留めていない。
「小太郎殿は、武芸者でしたか?」
俺を導き前を歩く爺さんが聞いてくる。……なんで背中を向けているのに見られている気配がするんだろうな。背を向けているから警戒しているとか、見えない場所も警戒しているとか、そんなぬるいものじゃない。
なんというか、前を歩いているくせに、すでに俺に対して攻撃態勢に入っていて、狙いを付けた状態で構えている。たとえるならそんな感じだろうか。
「まだまだ半人前ですけど」
あんたと比べれば、もはや赤子同然だよ。半人前ですらないよ。剣を覚え始めた駆け出し程度のもんだよ。
……機内って怖いなー。武士みたいに武装してればわかりやすいのに、武装してないけど強い人ってのがちょいちょいいるよね。こっちの方が怖いよ。
特に、強さを見抜けない人が、怖い。技術者協同組合の受付嬢とかな。あの人は「心得」がないとわからなかったから。
俺が気づかなかっただけで、ほかにも強者はいたかもしれない。やっぱり脅威がわからないのが一番怖いな。
「ご謙遜を。瞬く間に忍犬を三頭も狩ったとか」
あんたなら同じ時間で六頭全部狩れたでしょ。なんならもっと短い時間でもできるでしょ。
「冨田さまから引き継いだから、忍犬たちも疲れて動きが鈍っていたんですよ」
「三頭。寸分違わず頭にクナイを一本ずつで仕留める。この事実だけでもかなりの腕ですな」
あんたなら素手でもできるでしょ。
屋敷の中に招かれると、これまでに感じたことがないほどの危機感に囲まれた。
「………」
そのくせ、人の気配がなさすぎる。わかるだけで五つだが、でも俺の本能は「もっといる」と訴えている。
殺気はない。視線もない。人の気配も近くには感じない。
そのくせ、全方位から囲まれたかのような、この危機感。いったいなんなんだ。
足が止まり、入れない俺を、爺さんが振り返った。
「安心なさい。本当にやる気・・・であるなら、もう終わっておりますゆえ」
「………」ということは、アレか。
「この屋敷流の歓迎という解釈で?」
「概ね構いませんな」
……意味がわからん。
この爺さん、完全に俺に会ってから、俺を試していた。この屋敷にある不気味な危機感も、俺を試すためだろう。何かの、誰かの意図で。
薄々そうかと思っていれば、「試している」とはっきり言ったしね。
本当に殺す気………ならもう終わっている、と。
それになんの意味があるんだよ。嫌な予感しかしないよ。
「……あ、来られたのね!」
ん?
鈴のような澄んだ声が飛んでくると同時に、不気味な危機感が嘘のように霧散した。対象は俺だけかよ。
「先日はありがとうございます!」
長い髪を乱して駆けてきたのは、子犬を連れた子供だった。
そう、子犬を連れた、あの子供だった。
……確か彼女は代官の娘って言ってたな。口に気を付けないと不敬罪か。怖い。
「ああ、はい。……怪我はもういいんですか?」
飛彩は軽傷と言っていたが、先日は馬車の下敷きになって気絶していたのである。さすがに小走り程度だが軽妙に走れるとは思えない。
「はい。軽傷だったのもあり、戦陣治療で跡形もなく」
あ、戦陣治療か。
さすが代官、お金があれば腕のいい奇術師にも頼めるわけだな。
この戦陣治療という即効性のある治療法を取れるのも、奇術師が貴重である所以である。見る見る治るって話だ。すごいね霊法って。俺まだ霊法ってひょろい火の玉しか見たことないんだよね。……あ、一応「心得」もそうか。
「ちょうどいいですな。今お呼びしようと思っていました。……ではお二人とも、そのまま御主人の下へいらしてください」
え? なんで二人で? ……想像以上に嫌な予感がしてきたな。
これは、なんか……すぐ帰れそうにない予感がしてきた。
土山宿は鈴鹿峠の難所を控える宿場として発展してきた。鎌倉時代、京都と鎌倉を結ぶ東西の交通路がさらに重要視され、武士だけでなく商人、庶民の通行も盛んになった。
土山宿は、宿場町としての中心は御役町で、そこに問屋場、本陣、脇本陣があり、その周囲に旅籠や店、茶屋などがあり、細長い宿場町を形成していた。また、御役町の保護のため、地子の免除その他の特権を与えられていた。
■■■■…………
小太郎と重政は旅籠を出た。山中山城守殿の屋敷に向かうためだ。
「情報収集の定番は、酒場での聞き込みです!」
「まだ昼だぞ……」
そう、時間はまだ、昼前。酒場の多くは開いていないし、開いていても人は少ないだろう。
食事処なら人は集まっているだろうが、ご飯を食べるために来ている人たちから情報収集は難しい。
「それに、山中山城守殿の屋敷なんて、一般人に聞いたって正確なところは分からんだろ」
「言われてみれば確かに」
重政のもっともな指摘に、素直に頷く小太郎。
旅人たちとの話もそこそこに、俺は茶屋の席を立った。
「すみません、これから用事がありまして」
流れ的に「一緒に昼食でも」みたいな単語が出始めたからである。あと人にじろじろ見られるのが非常につらいからでもある。客として気を遣われているのもわかるが、それとこれとは違う話だから。
まあこれに関しては、全面的に我慢して耐えようとは思っていたが、
「今朝まではゆっくりできる予定だったんですが、急遽実家の母親から連絡があり予定が入ってしまったもので」本当に用事ができたのだから仕方ない。
来る時は坂本で会えなかったし、まさかとは思ったが土山宿の旅籠でも会えなかった。
だからきっと飛彩は、この付近で普通に俺を待っていると思われる。
特に時間の指定はなかったが、代官が呼んでいると言っていた。あまり待たせてはいけない相手である。田舎者にだってそれくらいはわかる。決して「用があるならおまえが来い」とか言ってはいけない相手である。心の中で思うだけに留めておこう。
その辺を考えると、昼前には呼び出しに応じた方が無難だろう。
まあでも、会えないものは仕方ないか。
茶店を出て、周囲を見回すと……正面の通りを挟んだ向こう側に、見覚えのある青い鳥が、松の木に寄り掛かってぼんやりしているのが見えた。
やはり飛彩は普通に待っていたようだ。
『……なんだ。早かったな』
俺に気づいてやってくる。早かったんじゃなくて早めに切り上げたんだ。飛彩に言ってもしょうがないので言わないけど。言うなら本人にだ。でも相手は代官だから言わないけど。
「嫌なことは早めに済ませたいなと思って」
「うん。問題になるかもしれないから、私以外にはそういうことを言わないように」
重政さんが大人の対応である。でも思いっきり本心なんだけどな。
こんな面倒なことになるなら助けになんて行かなければよかった……とは思えないか。さすがに。
可能性は低くとも、人の命が掛かってる状況ではあったから。
それに、呼び出される理由も、わからなくもないところもある。
先日のあの時間、あの場所に駆けつけて「通りすがり」で通そうってのは、無理があるからね。俺の行動を調べたなら尚更だ。不自然すぎるんだ。
まさか「見えない鳥が危機を知らせてくれた」なんて、素直に説明するわけにもいかない。
知られたら、絶対に、面倒なことになる。
……それに、先日の今日で試したことはないが。
たぶん、俺が望めば、各所にいる「動物」に接続し、話をすることができる、気がする。
実際先日のあの現象は、それに類する現象だったと思うから。
それを念頭に入れて冷静に考えると、これから俺は、日本中の「動物」とお話ができる。
恐らく「動物」を使用するのは、……政治にも、お偉いさん方の事情にも明るくない俺にさえ、事の重大さがよくわかる。
「………」
バレたら色々と恐ろしいことになりそうだ。
絶対に誰にも知られてはならない。
できるだけ、可及的速やかに、村に引っ込んでしまいたい。
「相手の能力を見破る心得」みたいなものを持つ者も存在するというから、そういう厄介なのに見抜かれる前に、人が多い都会から消えてしまいたい。
案内されて歩いている間、そんなことを考えていた。
結果だけ言おう。
俺は、とある事情で、しばらく家には帰れなくなる。
それも、結構予想外の理由で。道すがら山中家について教えてもらった。
俺は山中家のことはよくわからないが、甲賀二十一家の山中氏の庶流で、京に住んでいて、偉い人であるらしい。
甲賀の界隈では上位の地位で、結構歴史ある家なんだとか。
説明されてもさっぱりわからないが。だが。権力云々はさっぱりわからないが、武家の家……いや、蔵屋敷が並ぶ地区に来ると、とりあえずお金は持ってるんだな、というのはよくわかった。
屋敷の大きさが権力の大きさ、古めかしい屋敷ほど歴史が長く維持費も掛かっているんだろうな、と思う。まあ俺にわかるのはこれくらいのものだ。
往来から人がぐっと減り、のんびり馬が歩いているのが目立つ。
それも俺が村から京へ連れて来られた時の馬と違って、毛並みが黒く輝いていたりする高級感溢れる馬はいない長閑な村にのんびりと馬と牛が田植えの代搔きをしている。
そんな農民が住まう農家がずらっと並ぶ中、飛彩が案内したのは、周りと不釣り合いな、やや古めかしいが立派な屋敷だ。
建物の位置からして、庭も広く取ってあるようだが、蔦や葉が覆い茂る壁があって中はうかがえない。馬車が通れるほど大きな木製の門があり、飛彩はその前で止まったが、この家には門番がいないようだ。
「山城守殿は温厚な方だ。そして、君の爺様と親しい間柄、多少礼儀ができていなくても大目に見てくれるだろう。そこは安心していい」
あ、そうですか。
「でも俺は少しも礼儀なんて知らないよ。怒らせる前に帰れる?」
「それはわからないが……しかしまあ、悪いようにはしないと思うぞ。呼び出した理由が理由だしな」
そうであってほしい。人助けで不当に扱われるんじゃ悲しすぎる。そもそもを言えば、お礼も何もいらないから放っておいてほしいくらいなのに。先日のことは忘れてほしいくらいなのに。誰かに助けてもらってラッキーくらいに思ってればいいのに。
「いざとなったら助けてくれる?」
「そうしたいのは山々だが、君が山城守殿と対面している時、恐らく私はその場にいないと思う。助けようにも傍にいないからどうしようもないだろう」
「………」
あれ? 俺、結構まずくないか?
間違いなく「動物との会話」に関して嘘を吐くつもりの俺は、この話を避けないとまずくないか?
「……与六郎さん、不敬罪って知ってる?」
「貴い者が無礼者を討つアレか?」
知ってるってことは、爺様が言っていた戯言は本当だったのか?
爺様は相手が怒っていたら交渉せずに、相手のグチを聞いてガス抜きに努めるようにしなさいと、冷静に判断できないときに交渉を持ちかけても後日覆されることが多いから、相手のグチを聞いてガス抜きをしてやれば相手は信頼を寄せてくるはず、それから交渉に入りなさいと教えてもらったが大丈夫だろうか。
「爺様が不敬罪って言えば、お偉いさんの気分次第で首が飛ぶ。相手の言葉や態度が以前と少しでも異なれば、こちらに危険が迫る合図できるだけ速やかに対策を講じ、速やかに現状から退くこと。権力には逆らわないできるだけ媚びなさい。しかし、媚びすぎもまずい。プライドの高い武士は露骨な媚びだと気分を害するから、さりげなく持ち上げるんだぞ」と言っていたのが、俄然真実味を帯びてくる。
爺様のどうでもいい戯言はともかく、不敬罪は本当にあるようだ。
「与六郎さん。嘘つくのって不敬に当たると思う?」
「ははは。……冨田治部左衛門重政だ! 客人を連れてきた!」
「えっ。なんで笑った。答えはどうした」
思わず口をついた疑惑の声を無視し、重政は扉をノックした。
ノックしてから間を置かず、待ち構えていたかのように門が開いた。
「ご苦労様です。冨田治部左衛門殿」
黒い着物を着た、五十を超えているだろう爺さんが出てきた。まず使いを頼んだ重政を見る。
「こちらが、先日の事故に遭った時、通りすがり………に助けてくれた者だ。確かに届けた」
「はい。報酬はいつもの通りに」
「わかった」
あ、そういうアレか。重政は俺を連れてくるだけが仕事で、だから代官と会う時に同席はしていないと言ったのか。
「ああ、そうだ。この子がだいぶ不信感を抱いているのだが、私が同席しても?」
あ、言った。忘れてなかった。
「それは難しいですな。主人は内々の話をされるおつもりのようなので」
受け入れてくれなかったけど。爺さん即答で断ったよ。なんだよ内々の話って。ほっといてほしいんだけど。
「だそうだ。すまないな、小太郎」
もうちょっと食い下がってもいいんじゃなかろうか? あっさり引きすぎじゃないか? ……一応同席する努力はしてくれたから、まあいいか。
重政が踵を返して歩き出すと、爺さんが俺を見た。
……あ、まずい。
「お名前は小太郎殿、でよろしいかな? 主人がお待ちです。中へどうぞ」
爺さんは何食わぬ顔で、俺を中へ促す。
本当に、何食わぬ顔で。
目が合った瞬間にわかった。
この爺さん、まずい。かなり強い。
それもただ強い奴のそれじゃなくて……そう、危険だ。
強いより強烈に感じるのは、危機感だ。
刀もない、逃げ道もない、道具もない、そんな時に魔物と遭遇した。そんな危機感を感じる。
俺たちと同種、そんな感じの強さだと思うが……武芸者なのか? それとも違う似た何かか?
「……失礼します」
目が合った瞬間に、はっきりわかったことは三つだ。
一つ目は、俺では爺さんには絶対勝てないこと。
二つ目に、俺はすでに爺さんの攻撃範囲に入っていて逃げられないこと。
そして最後に、この爺さんはきっと、何も躊躇うことなく人を殺せるってことだ。
いやあ……まだ入り口なのに、すでに来たことを後悔してきたな……
山中山城守の敷地に入ると、まず目に入ったのは、壊れた馬車だった。
先日事故に遭ったものだろう。回収してきたようだ。
片方の車輪が外れ、車体にはたくさんの傷、損壊している部分も多い。もはや馬車の原型は留めていない。
「小太郎殿は、武芸者でしたか?」
俺を導き前を歩く爺さんが聞いてくる。……なんで背中を向けているのに見られている気配がするんだろうな。背を向けているから警戒しているとか、見えない場所も警戒しているとか、そんなぬるいものじゃない。
なんというか、前を歩いているくせに、すでに俺に対して攻撃態勢に入っていて、狙いを付けた状態で構えている。たとえるならそんな感じだろうか。
「まだまだ半人前ですけど」
あんたと比べれば、もはや赤子同然だよ。半人前ですらないよ。剣を覚え始めた駆け出し程度のもんだよ。
……機内って怖いなー。武士みたいに武装してればわかりやすいのに、武装してないけど強い人ってのがちょいちょいいるよね。こっちの方が怖いよ。
特に、強さを見抜けない人が、怖い。技術者協同組合の受付嬢とかな。あの人は「心得」がないとわからなかったから。
俺が気づかなかっただけで、ほかにも強者はいたかもしれない。やっぱり脅威がわからないのが一番怖いな。
「ご謙遜を。瞬く間に忍犬を三頭も狩ったとか」
あんたなら同じ時間で六頭全部狩れたでしょ。なんならもっと短い時間でもできるでしょ。
「冨田さまから引き継いだから、忍犬たちも疲れて動きが鈍っていたんですよ」
「三頭。寸分違わず頭にクナイを一本ずつで仕留める。この事実だけでもかなりの腕ですな」
あんたなら素手でもできるでしょ。
屋敷の中に招かれると、これまでに感じたことがないほどの危機感に囲まれた。
「………」
そのくせ、人の気配がなさすぎる。わかるだけで五つだが、でも俺の本能は「もっといる」と訴えている。
殺気はない。視線もない。人の気配も近くには感じない。
そのくせ、全方位から囲まれたかのような、この危機感。いったいなんなんだ。
足が止まり、入れない俺を、爺さんが振り返った。
「安心なさい。本当にやる気・・・であるなら、もう終わっておりますゆえ」
「………」ということは、アレか。
「この屋敷流の歓迎という解釈で?」
「概ね構いませんな」
……意味がわからん。
この爺さん、完全に俺に会ってから、俺を試していた。この屋敷にある不気味な危機感も、俺を試すためだろう。何かの、誰かの意図で。
薄々そうかと思っていれば、「試している」とはっきり言ったしね。
本当に殺す気………ならもう終わっている、と。
それになんの意味があるんだよ。嫌な予感しかしないよ。
「……あ、来られたのね!」
ん?
鈴のような澄んだ声が飛んでくると同時に、不気味な危機感が嘘のように霧散した。対象は俺だけかよ。
「先日はありがとうございます!」
長い髪を乱して駆けてきたのは、子犬を連れた子供だった。
そう、子犬を連れた、あの子供だった。
……確か彼女は代官の娘って言ってたな。口に気を付けないと不敬罪か。怖い。
「ああ、はい。……怪我はもういいんですか?」
飛彩は軽傷と言っていたが、先日は馬車の下敷きになって気絶していたのである。さすがに小走り程度だが軽妙に走れるとは思えない。
「はい。軽傷だったのもあり、戦陣治療で跡形もなく」
あ、戦陣治療か。
さすが代官、お金があれば腕のいい奇術師にも頼めるわけだな。
この戦陣治療という即効性のある治療法を取れるのも、奇術師が貴重である所以である。見る見る治るって話だ。すごいね霊法って。俺まだ霊法ってひょろい火の玉しか見たことないんだよね。……あ、一応「心得」もそうか。
「ちょうどいいですな。今お呼びしようと思っていました。……ではお二人とも、そのまま御主人の下へいらしてください」
え? なんで二人で? ……想像以上に嫌な予感がしてきたな。
これは、なんか……すぐ帰れそうにない予感がしてきた。
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