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楽園の虹(FMラジオ朗読用に魔改造された改稿VER。比べてみたら面白いです)
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「虹が七色ってのは嘘だぜ?」
マーカスの口癖。
「虹ってのは後にでっかい空色があって初めて虹だ。八番目の色は空色だ」
地平線の向こう側に、青々と広がる空に浮かんだ虹を見て呟く。
1954年、海は何処までも青く、決して交わることのない空と平行に手を繋ぎながら、美しく穏やかな顔をしていた。
私は、サンタモニカのこの空と海、そしてサーフィンをこよなく愛し、毎日仲間と海岸で波と戯れていた。
そろそろ夏の終わりを告げる濃い日差しの中、一人の白人男が白砂を蹴りながら、私達の方へ近づいてくる。
「なあ、金、欲しくないか?」
やや恰幅のいい中年男は、怪しげに笑いながら噛み煙草を吐き出す。
「なんだよあんた。ヤバイ仕事なんかしねえよ」
無遠慮な男に腹を立てたのか、血の気の多いマーカスが睨みをきかせる。
「そんなチャチなヤマじゃねえ。もっと簡単だ。とりあえずあそこのレストランの飯を奢るぜ。そこで話そう。もちろん断ってくれたっていいさ」
腹が減っていた私達は、タダで飯が食べられるならと胡散臭いこの男の後につく。
いざとなったら黙って帰ればいいし、他に連れがいるわけでもなさそうだ。
男はラフなシャツにスニードハットを目深に被り、丸腰だと言わんばかりに両手を広げている。
マーカスとトムは思いがけない豪華な食事を素直に喜び、はしゃいでいた。
男は相好を崩していたが、その目は鋭く、瞬時に私達を値踏みしているかに見えた。
吐き出した噛み煙草がじっとりと黒い染みをかたどっている。
「大丈夫だ、いざとなればこっちは三人だぜ?」
私が少し躊躇気味なのを気付いたのか、マーカスがこっそり耳打ちしてくる。そうだなと私は頷いた。
ベイサイドホテルの食事は豪勢で、ビールや冷えたジンライムを喉に流し込みながら、私達三人はガツガツと食らいつく。
男はその様子を黙って見ているだけで中々本題を切り出さず、ビールを舐めるように煽っていた。
分厚くジューシーな肉は、普段食べているバーガーなんかとは比べ物にならない。
赤く茹で上がったロブスターの大きさに苦戦しながらも、その身を味わった。
胸の谷間が深く切れ込んだ水着のウエイトレスが、汗を掻くほど冷えたジョッキを次々と持ってくる。
ブロンドのウエイトレスは、くっきりとくびれた腰ラインの持ち主で、女好きのトムはちらちらと目で追う。
食事を終える頃、アルコールと日差しのせいか、すっかりほろ酔いになっていた。空が少し淀んで見えて気分がいい。
そこで、待ちかねたように男が切り出した。
「愛国心ってあるか?」
「は? なんだよソレ?」
一番強い酒を煽ったマーカスが眉を寄せる。
「俺が頼みたい仕事ってのはな、お国のためになる話しなんだ。しかも海外に行けて給料も破格。サーフィンし放題だぜ?」
マーカスを無視して男は話しだす。
「海外に行けんのか?」
トムは身を乗り出して目を輝かせた。トムの家は一番貧しかった。
「本当さ。そこはまるでエデンの楽園だ」
男はビールを飲み干す。
その後の男の条件は、若く、好奇心旺盛な私達にとって魅力溢れるものだった。
「結局その仕事ってのは何するんだよ?」
どこかぼかされているグレーの部分に食らいつたのは私だ。なぜか誤魔化されている気がしてならないのと、都合の良過ぎる話しに不信感を抱いたからだ。
「穴を掘るんだ」
「穴?」
「そうだ。楽園に行って穴を掘る。簡単だ。上手くやれば半日で終わる。月収は五百ドル、おいしいだろ?」
「穴って……プッシーじゃねえの?」
トムの冗談に笑いが起きたが、私は笑えなかった。この男の話は上手すぎる。
「穴掘りだけでそんな大金、信じらんねえよ」
マーカスが嘘付けと言わんばかりに薄ら笑いを浮かべた。
「本当だ。この紙切れにサインしたら契約成立だ」
「上手すぎないかその話し。おかしいだろ」
私が詰め寄ると、男はニッと笑った。一瞬暗く光った瞳にゾッとしたが、財布を取り出す男の手に目を奪われた。
いきなり百ドル札を三枚並べ、その横に契約書と思しき書類を添える。
「今ここで契約書にサインしたら、支度金として一枚ずつやるよ」
百ドルもあれば、新品のサーフボードを買っても釣りが来る。見合ったまま、一瞬沈黙が流れた。
「国の仕事って言ったろ? 急ぐ仕事だから破格なんだよ。これはチャンスなんだぜ?」
男は両の手の平を見せて笑った。
「おお! 星散りばめたる旗は、今猶棚引くや自由なる大地、勇者の故郷に!」
いきなり国歌の一節を叫びながら、トムがサインをする。
「俺はやるぜ! どうせ家にいたって貧乏暮らしだ。口減らしになっておっかあも喜ぶさ」
「そうか、そりゃ親孝行だな」
男はトムに百ドルを渡す。
「その楽園ってとこじゃあ、虹が見えるか?」
マーカスが酩酊気味になりながら男に尋ねた。父親がノルマンディで悲惨な死に方をしているせいか、彼は「国」という言葉に酷く敏感になる所がある。
今だってそうだ。何をおかしな事を口にしているのか。
「ああ、見えるさ。たぶんとっておきのがな」
男の答えを聞くや否や、ニヤリと笑いながらマーカスもサインをする。もちろん私も仕方なくだが結局はサインをした。
「これは俺の名刺。俺はここのもんだ」
私達のサインを確認すると、男は名刺を差し出した。
それを見た私は驚き、ろくに契約書を読まずにサインした事を後悔した。
名刺の中から誇らしげな鷲が威嚇してくる。それは国防総省の証だった。
三ヵ月後、私達は翡翠色に反射する海の上にいた。
マーシャル諸島洋上を航行する空母の甲板の上は日差しが強い。相変わらず空は青々として私達を見下ろしていた。
目指すはビキニ環礁地帯。任務の名称は「キャッスル作戦」というもので、新型爆弾投下実験のようだ。ようだというのは、詳細が一切明らかにされていないからだ。
所属の上官に至っては「お前達は英雄になるためにここに来た。ただ粛々と歴史の目撃者になるのみ」とオウムのように繰り返すだけで埒があかない。
爆弾投下実験などと言われても全く現実味が無く、頭上の空と眼下のエメラルドに輝く海と戯れる事しか頭に無い。
初めに軍隊に入れられた時は、契約書にサインした事を激しく後悔したが、その後は仕事らしい仕事も無いのに破格の給料が支給され、男の言った事は本当だと納得した。
そして何よりマーシャル諸島の空と海は、サンタモニカと比較にならない程美しい。水面の輝きを突き破り、イルカの群れが真っ青な空に向かって弧を描く。その度に水しぶきの端に小さな虹が弾けて消える。
まさに楽園の中に、私達はいたのだ。
ある日、上官に呼び出された。
明日、ビキニ島へ行き三日後の投下実験に向けて壕を掘れと言う。穴掘りが終われば休暇にあてて良いと聞き、私達三人は喜んだ。
「さっさと掘って波に乗ろうぜ!」
トムの言葉に異論を唱える者はいない。サーフィン三昧だ。
翌日、他の二百名程の兵士と一緒にビキニ島で壕を掘る。作業は予想以上に簡単で、半日もせずに終了した。
私達はサーフボードを抱え、海にダイブすると青い空が迎えてくれた。
楽園の休日はするりと体に入り込み、また甘美に受け入れてくれる。
柔らかな女の裸体のように私達を虜にする。風が上手く波を運び、キラキラとした夢幻の世界が広がっていた。
投下実験の日まで私達は楽園に抱かれてはしゃいでいた。
ついにあと十分で投下実験が始まる。
私達三人は予定ポイントから五十キロ地点の壕で待機していた。
前後百メートル間隔にある壕の中で、他の兵士達も固唾を呑んでその瞬間を待っている。
さすがに異様な緊張に包まれ、体中から冷たい汗が噴出した。
──投下三分前。
突然、上空に爆音が響く。
B-29爆撃機のお出ましだ。
後方の飛行場から背筋が凍るほどのサイレンが唸りを上げ、空を劈いた。
投下の合図を暗い壕の中で聞くとなぜか恐ろしくなり、急に青空が恋しくなる。そんな思いを振り払いながら、望遠鏡で爆撃機を確認すると「サングラスを装着しろ!」と切迫した怒号が響き渡った。
慌てて装着した途端、遥か前方に激しい閃光が走る。
サングラスのせいで視界は黒い。その黒を容易くぶち破って、不気味な穴が海に現れた。
まるで全てを飲み込んだ地獄の入り口のように。
次の瞬間、巨大な水柱が黒い空に向かって走り、爆撃機を飲み込むかに迫る。
今までに聞いた事も無い程大地が震え、叫び声をあげた。
それは恐怖を超えて畏れにも似た感情を揺り起こす。楽園の終焉かと錯覚する。激しい熱風に体を貫かれ、眩暈がした。
熱い……呼吸もままならない私は壕の中へと顔を隠した。喉が妬けるように痛い。時間の経過が無限の恐怖を連れて来る。
思わず顔を上げた瞬間、信じ難い光景が飛び込んだ。
海上から現れた超巨大なキノコ型の雲が咆哮し、空へと昇って行く。
決して交わる事の無い筈の空と海が一つになろうと変貌し、世界を変えた。
たとえ神であっても許されることのない、自然の理を破壊していく。
世界が終わる……本能的に身震いした。
暗黒の視界の中、目の前の世界は楽園が崩壊し絶命寸前の雄叫びを上げている。
ふとイルカの大群の中にいる自分が見えた。イルカ達は血と汚物にまみれたまま体をくねらせ、白い体を引き裂かれながら息絶えていく。
白昼夢か? ここは一体何処だ? 生命の悲鳴が上がる中、水柱と熱風によって生み出された雨が降り注いだ。
五十キロも離れた壕の上にも絶え間なく落ちてくる。
呆然とし、震える指でサングラスを外した。
すると暗黒の世界が一変し、この世のものとは思えない色彩を連れて来た。
それは神の世界にも似た一枚の絵。
空一面を覆い尽くす、幾千もの虹。
空と海が交わったがために生み出された楽園の落し子。
禁断の扉を開けたがための美しくも忌まわしい烙印。
誰もが心を奪われ、美しさのあまりに沸き起こる恐怖に足が竦む。
「虹だ!」
マーカスは空へ向かって両手を広げ、雨に濡れたまま狂ったように笑い続けた。
永遠の楽園は虹に包まれ、空っぽの空間に投げ出されて浮かんでいた。
翌日、マーカスの髪の毛は全て抜け落ち手足が膨張した。
高熱に魘されながらニヤニヤと笑っているマーカスの目には、あの幾千の虹が見えていたのだろうか。
生臭い息を吐き、黄色く濁った目を泳がせたままマーカスは息絶えた。最後に見た虹に囚われ、消えてしまった。
その後何人もが同じように泡沫へと消えていく。
まるで禁断の扉を開けた代償のように。
もしかしたら……あの男に声をかけられた時から、マーカスは、この一連の出来事を薄々感づいていたのではないか……彼の死に様を見てそんな疑念に捉われた。
数年後、私は軍を退役していた。
正確に言うと退役というより処分されたと言うほうが正解か。
一生困らない程の保証金と引き換えに体が半分になった。
あの後、宇宙人のような防護服に身を包んだ兵士達が、私達の体を調べ徹底的にデーター収集した。我々は検体だったのだ。
もちろん真相など誰も語らない。すべては闇に葬り去られる。あの楽園の暗黒へ。
私の両腕がもがれ、両足は引きちぎられ、今は半分の体だ。四肢を食べたのはあの空かもしれない。
トムは全身が癌細胞に犯され全てを食い尽くされた。
徐々に侵食される体の痛みに悶絶し、泣きながら死にたくないと呟き、最後は黄色い泡を口から吹かせ「母さん、母さん」と叫びながら、小さな老人のように変わり果てた姿で逝った。
全ては虹の彼方へと消えてしまったのだ。
あの楽園にあった空と海は、残された私に一つだけ教えてくれた。
この世界は空っぽなのだと。
そして親愛なる二人の友は、同じく私に一つだけ与えてくれた。
空虚という永遠の苦しみを。
マーカスの口癖。
「虹ってのは後にでっかい空色があって初めて虹だ。八番目の色は空色だ」
地平線の向こう側に、青々と広がる空に浮かんだ虹を見て呟く。
1954年、海は何処までも青く、決して交わることのない空と平行に手を繋ぎながら、美しく穏やかな顔をしていた。
私は、サンタモニカのこの空と海、そしてサーフィンをこよなく愛し、毎日仲間と海岸で波と戯れていた。
そろそろ夏の終わりを告げる濃い日差しの中、一人の白人男が白砂を蹴りながら、私達の方へ近づいてくる。
「なあ、金、欲しくないか?」
やや恰幅のいい中年男は、怪しげに笑いながら噛み煙草を吐き出す。
「なんだよあんた。ヤバイ仕事なんかしねえよ」
無遠慮な男に腹を立てたのか、血の気の多いマーカスが睨みをきかせる。
「そんなチャチなヤマじゃねえ。もっと簡単だ。とりあえずあそこのレストランの飯を奢るぜ。そこで話そう。もちろん断ってくれたっていいさ」
腹が減っていた私達は、タダで飯が食べられるならと胡散臭いこの男の後につく。
いざとなったら黙って帰ればいいし、他に連れがいるわけでもなさそうだ。
男はラフなシャツにスニードハットを目深に被り、丸腰だと言わんばかりに両手を広げている。
マーカスとトムは思いがけない豪華な食事を素直に喜び、はしゃいでいた。
男は相好を崩していたが、その目は鋭く、瞬時に私達を値踏みしているかに見えた。
吐き出した噛み煙草がじっとりと黒い染みをかたどっている。
「大丈夫だ、いざとなればこっちは三人だぜ?」
私が少し躊躇気味なのを気付いたのか、マーカスがこっそり耳打ちしてくる。そうだなと私は頷いた。
ベイサイドホテルの食事は豪勢で、ビールや冷えたジンライムを喉に流し込みながら、私達三人はガツガツと食らいつく。
男はその様子を黙って見ているだけで中々本題を切り出さず、ビールを舐めるように煽っていた。
分厚くジューシーな肉は、普段食べているバーガーなんかとは比べ物にならない。
赤く茹で上がったロブスターの大きさに苦戦しながらも、その身を味わった。
胸の谷間が深く切れ込んだ水着のウエイトレスが、汗を掻くほど冷えたジョッキを次々と持ってくる。
ブロンドのウエイトレスは、くっきりとくびれた腰ラインの持ち主で、女好きのトムはちらちらと目で追う。
食事を終える頃、アルコールと日差しのせいか、すっかりほろ酔いになっていた。空が少し淀んで見えて気分がいい。
そこで、待ちかねたように男が切り出した。
「愛国心ってあるか?」
「は? なんだよソレ?」
一番強い酒を煽ったマーカスが眉を寄せる。
「俺が頼みたい仕事ってのはな、お国のためになる話しなんだ。しかも海外に行けて給料も破格。サーフィンし放題だぜ?」
マーカスを無視して男は話しだす。
「海外に行けんのか?」
トムは身を乗り出して目を輝かせた。トムの家は一番貧しかった。
「本当さ。そこはまるでエデンの楽園だ」
男はビールを飲み干す。
その後の男の条件は、若く、好奇心旺盛な私達にとって魅力溢れるものだった。
「結局その仕事ってのは何するんだよ?」
どこかぼかされているグレーの部分に食らいつたのは私だ。なぜか誤魔化されている気がしてならないのと、都合の良過ぎる話しに不信感を抱いたからだ。
「穴を掘るんだ」
「穴?」
「そうだ。楽園に行って穴を掘る。簡単だ。上手くやれば半日で終わる。月収は五百ドル、おいしいだろ?」
「穴って……プッシーじゃねえの?」
トムの冗談に笑いが起きたが、私は笑えなかった。この男の話は上手すぎる。
「穴掘りだけでそんな大金、信じらんねえよ」
マーカスが嘘付けと言わんばかりに薄ら笑いを浮かべた。
「本当だ。この紙切れにサインしたら契約成立だ」
「上手すぎないかその話し。おかしいだろ」
私が詰め寄ると、男はニッと笑った。一瞬暗く光った瞳にゾッとしたが、財布を取り出す男の手に目を奪われた。
いきなり百ドル札を三枚並べ、その横に契約書と思しき書類を添える。
「今ここで契約書にサインしたら、支度金として一枚ずつやるよ」
百ドルもあれば、新品のサーフボードを買っても釣りが来る。見合ったまま、一瞬沈黙が流れた。
「国の仕事って言ったろ? 急ぐ仕事だから破格なんだよ。これはチャンスなんだぜ?」
男は両の手の平を見せて笑った。
「おお! 星散りばめたる旗は、今猶棚引くや自由なる大地、勇者の故郷に!」
いきなり国歌の一節を叫びながら、トムがサインをする。
「俺はやるぜ! どうせ家にいたって貧乏暮らしだ。口減らしになっておっかあも喜ぶさ」
「そうか、そりゃ親孝行だな」
男はトムに百ドルを渡す。
「その楽園ってとこじゃあ、虹が見えるか?」
マーカスが酩酊気味になりながら男に尋ねた。父親がノルマンディで悲惨な死に方をしているせいか、彼は「国」という言葉に酷く敏感になる所がある。
今だってそうだ。何をおかしな事を口にしているのか。
「ああ、見えるさ。たぶんとっておきのがな」
男の答えを聞くや否や、ニヤリと笑いながらマーカスもサインをする。もちろん私も仕方なくだが結局はサインをした。
「これは俺の名刺。俺はここのもんだ」
私達のサインを確認すると、男は名刺を差し出した。
それを見た私は驚き、ろくに契約書を読まずにサインした事を後悔した。
名刺の中から誇らしげな鷲が威嚇してくる。それは国防総省の証だった。
三ヵ月後、私達は翡翠色に反射する海の上にいた。
マーシャル諸島洋上を航行する空母の甲板の上は日差しが強い。相変わらず空は青々として私達を見下ろしていた。
目指すはビキニ環礁地帯。任務の名称は「キャッスル作戦」というもので、新型爆弾投下実験のようだ。ようだというのは、詳細が一切明らかにされていないからだ。
所属の上官に至っては「お前達は英雄になるためにここに来た。ただ粛々と歴史の目撃者になるのみ」とオウムのように繰り返すだけで埒があかない。
爆弾投下実験などと言われても全く現実味が無く、頭上の空と眼下のエメラルドに輝く海と戯れる事しか頭に無い。
初めに軍隊に入れられた時は、契約書にサインした事を激しく後悔したが、その後は仕事らしい仕事も無いのに破格の給料が支給され、男の言った事は本当だと納得した。
そして何よりマーシャル諸島の空と海は、サンタモニカと比較にならない程美しい。水面の輝きを突き破り、イルカの群れが真っ青な空に向かって弧を描く。その度に水しぶきの端に小さな虹が弾けて消える。
まさに楽園の中に、私達はいたのだ。
ある日、上官に呼び出された。
明日、ビキニ島へ行き三日後の投下実験に向けて壕を掘れと言う。穴掘りが終われば休暇にあてて良いと聞き、私達三人は喜んだ。
「さっさと掘って波に乗ろうぜ!」
トムの言葉に異論を唱える者はいない。サーフィン三昧だ。
翌日、他の二百名程の兵士と一緒にビキニ島で壕を掘る。作業は予想以上に簡単で、半日もせずに終了した。
私達はサーフボードを抱え、海にダイブすると青い空が迎えてくれた。
楽園の休日はするりと体に入り込み、また甘美に受け入れてくれる。
柔らかな女の裸体のように私達を虜にする。風が上手く波を運び、キラキラとした夢幻の世界が広がっていた。
投下実験の日まで私達は楽園に抱かれてはしゃいでいた。
ついにあと十分で投下実験が始まる。
私達三人は予定ポイントから五十キロ地点の壕で待機していた。
前後百メートル間隔にある壕の中で、他の兵士達も固唾を呑んでその瞬間を待っている。
さすがに異様な緊張に包まれ、体中から冷たい汗が噴出した。
──投下三分前。
突然、上空に爆音が響く。
B-29爆撃機のお出ましだ。
後方の飛行場から背筋が凍るほどのサイレンが唸りを上げ、空を劈いた。
投下の合図を暗い壕の中で聞くとなぜか恐ろしくなり、急に青空が恋しくなる。そんな思いを振り払いながら、望遠鏡で爆撃機を確認すると「サングラスを装着しろ!」と切迫した怒号が響き渡った。
慌てて装着した途端、遥か前方に激しい閃光が走る。
サングラスのせいで視界は黒い。その黒を容易くぶち破って、不気味な穴が海に現れた。
まるで全てを飲み込んだ地獄の入り口のように。
次の瞬間、巨大な水柱が黒い空に向かって走り、爆撃機を飲み込むかに迫る。
今までに聞いた事も無い程大地が震え、叫び声をあげた。
それは恐怖を超えて畏れにも似た感情を揺り起こす。楽園の終焉かと錯覚する。激しい熱風に体を貫かれ、眩暈がした。
熱い……呼吸もままならない私は壕の中へと顔を隠した。喉が妬けるように痛い。時間の経過が無限の恐怖を連れて来る。
思わず顔を上げた瞬間、信じ難い光景が飛び込んだ。
海上から現れた超巨大なキノコ型の雲が咆哮し、空へと昇って行く。
決して交わる事の無い筈の空と海が一つになろうと変貌し、世界を変えた。
たとえ神であっても許されることのない、自然の理を破壊していく。
世界が終わる……本能的に身震いした。
暗黒の視界の中、目の前の世界は楽園が崩壊し絶命寸前の雄叫びを上げている。
ふとイルカの大群の中にいる自分が見えた。イルカ達は血と汚物にまみれたまま体をくねらせ、白い体を引き裂かれながら息絶えていく。
白昼夢か? ここは一体何処だ? 生命の悲鳴が上がる中、水柱と熱風によって生み出された雨が降り注いだ。
五十キロも離れた壕の上にも絶え間なく落ちてくる。
呆然とし、震える指でサングラスを外した。
すると暗黒の世界が一変し、この世のものとは思えない色彩を連れて来た。
それは神の世界にも似た一枚の絵。
空一面を覆い尽くす、幾千もの虹。
空と海が交わったがために生み出された楽園の落し子。
禁断の扉を開けたがための美しくも忌まわしい烙印。
誰もが心を奪われ、美しさのあまりに沸き起こる恐怖に足が竦む。
「虹だ!」
マーカスは空へ向かって両手を広げ、雨に濡れたまま狂ったように笑い続けた。
永遠の楽園は虹に包まれ、空っぽの空間に投げ出されて浮かんでいた。
翌日、マーカスの髪の毛は全て抜け落ち手足が膨張した。
高熱に魘されながらニヤニヤと笑っているマーカスの目には、あの幾千の虹が見えていたのだろうか。
生臭い息を吐き、黄色く濁った目を泳がせたままマーカスは息絶えた。最後に見た虹に囚われ、消えてしまった。
その後何人もが同じように泡沫へと消えていく。
まるで禁断の扉を開けた代償のように。
もしかしたら……あの男に声をかけられた時から、マーカスは、この一連の出来事を薄々感づいていたのではないか……彼の死に様を見てそんな疑念に捉われた。
数年後、私は軍を退役していた。
正確に言うと退役というより処分されたと言うほうが正解か。
一生困らない程の保証金と引き換えに体が半分になった。
あの後、宇宙人のような防護服に身を包んだ兵士達が、私達の体を調べ徹底的にデーター収集した。我々は検体だったのだ。
もちろん真相など誰も語らない。すべては闇に葬り去られる。あの楽園の暗黒へ。
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トムは全身が癌細胞に犯され全てを食い尽くされた。
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全ては虹の彼方へと消えてしまったのだ。
あの楽園にあった空と海は、残された私に一つだけ教えてくれた。
この世界は空っぽなのだと。
そして親愛なる二人の友は、同じく私に一つだけ与えてくれた。
空虚という永遠の苦しみを。
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