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シン
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亘と望は、盆休みも実家に帰らず働き続けた。
共益費、水道代込みの家賃四万円。新宿区にして驚異的な安さのボロアパート。築四十年超、おそらく〝ユニットバス〟なるものができる以前の建物なのだろう。バス・トイレは別(ただし和式)、風呂場に張り巡らされた黒丸のタイルは……まあ、よく言えばレトロである。
九畳という余裕の広さのワンルームは、隣の音は筒抜けだが慣れればなかなか快適だった。
びっちり埋まった授業をこなしつつのバイト漬け生活にも慣れてくると、やはりそこはお年頃のオトコノコ。性欲は溜まるもの。
三歳年上のバイト先の先輩は、何度断っても積極的に誘ってくる。
あるとき亘は、望が夜遅くなる日を狙い、ボロアパートに連れ込んだ。
積極的に誘ってくるだけあり先輩はベッドの上でも積極的で、亘は数か月ぶりに心身ともにリフレッシュした。
「亘クン、また来てもいい……?」
あれだけベッドの上で果敢に腰を振っていた先輩が、突然恥じらいを見せるこの様変わりに思わず浮かびそうになる苦笑を封印し、亘は柄にもなく甘ったるく微笑んでみせる。
「うん、また来てほしい」
マナーとして彼女を駅前まで送り届け、アパートに帰ってきたとき。
がちゃりと隣の部屋の扉が開き、にやにやと笑みを浮かべる望が顔を出す。いないものとしていた望の登場に、亘はギョッとした。
「亘クンったら、お・さ・か・ん~!」
「えっ……はっ!? な、何でいんの!? 今日バイトじゃ――」
「バイトだよ? 今日すっご~く暇でさ、早上がりさせられちゃったの。おかげで面白いもん聞いちゃった」
「趣味悪すぎ」
「亘クンは激しすぎ」
「……黙れって」
望はからからと声を上げて笑った。
「廃棄のケーキもらってきたんだ。セックスして腹減ったっしょ? 一緒に食わない?」
夕食は、彼女の差し入れてくれた近くのカフェのサンドイッチやデリを一緒に食べた。たしかに望の言うとおり、久しぶりのセックスのあとで、とても腹が減っていた。
「食う」
即答した亘に、望は再度声を上げて笑う。「おいで」と扉を大きく開け放ち、亘を迎え入れた。
望の部屋に入ると、亘は迷うことなく座椅子タイプのリクライニングソファに腰を下ろした。お互いの部屋にはしょっちゅう出入りしている。
亘の部屋以上に殺風景なこの部屋は、家具はベッドとこのちゃちなソファがあるだけで、テレビも本棚もない。教科書や小難しい参考書が床に直接並べられているだけだった。
望はインスタントのコーヒーをいれ、亘の隣に座った。
安物のソファは男ふたりで座ると狭いが、仕方ない。
「亘、コーヒー」
「ん、サンキュ」
「カップ一緒でいいよな」
望の部屋に行っても、お客さん扱いされなくなってずいぶん経つ。
最近はコーヒーを入れるときも、カップは大きめのマグカップひとつで、ふたりでシェアして飲むのが普通になってきた。洗い物もひとつで済んで都合がいい。
「亘、どれ食べたい?」
「わっ、いっぱいあるじゃん」
「これ、秋の新作だって。カボチャのタルト」
「あっ、俺それがいい」
広げて見せてくれた箱の中には色とりどりのケーキが並んでいた。
望のバイト先は都内中心に展開しているローカルチェーンのカフェ&バーだが、デザートにはかなり力を入れているらしく、工場生産の冷凍ケーキとは違いかなり本格的だ。専属のパティシエが工房で全店分のケーキをすべて手作りしている。
いつも売り切れてしまうため、廃棄処分になること自体が稀だが、こうしてときどき望が持って帰ってきてくれるケーキは、いつも何を食べても美味しかった。
「美味い?」と、望はにこにこしながら小首を傾げる。どうやら望の癖らしい。無意識にやっているようだが、男のくせに可愛らしくて亘はときどきドキリとさせられる。
「ん、美味い」
タルト地はサクサクホロホロで、まるで焼き立てのように香ばしい。
二層になった、バニラが香るカボチャのムースと、カボチャのペーストはとても滑らかで口の中でとろける。しかしカボチャ感を損なわないしっかりとした重さもあって、たまらない美味しさだ。よかった、と望もにこにこしながら洋梨のシブーストを頬張った。
「亘は、ほんと何でも美味そうに食うよな~」
「そう?」
「うん。もやししか具のないラーメンでも、ここのケーキでも」
「どっちも美味いもん」
望は声を上げて笑うと、亘の髪をくしゃりと撫でて「お前のそういうとこ、すげー好き」と言った。
〝好き〟――その言葉の響きにどきりとする。
「何キモいこと言ってんだよ」
「えーっ、つれな~い。亘も俺のこと好きって言ってよ~」
「うざ」
望はやっぱりからからと声を上げて笑って「あ~、うまっ!」と残りのケーキをペロリと食べた。
――……俺も、お前のそういうとこ、好きだよ。
しかし気恥ずかしさが勝り、それは言葉にはならなかった。
両親がいて家族仲もよい亘の家とは違い、望の家は少々複雑なようだった。親には意地でも頼りたくない望は、必死で働きながら学校に行っている。
そんな苦労を微塵も見せず、いつもにこにこ(ヘラヘラともいう)明るい。何も知らない人間が見たら、悩みなんか一切なさそうな、イケメンでさぞリア充大学生に見えることだろう。カッコよくて頭もいい。仕事もデキるようだし、女にモテる。妬まれこそすれ、同情されるようなことはないだろう。
そんな望のことが大好きだ。尊敬する。
素直になれない亘と違い、気持ちをいつもストレートに言葉にしてくれる。そんな真っ直ぐなところも、何もかも。
このボロアパートを選んで、よかった。望と隣の部屋になれて、友達になれて本当によかった。
素直じゃない亘は、それを口にすることはこの先もきっとないだろうけど。
「残り朝飯にしよ。亘、部屋戻る? 泊まる?」
「泊まる……ふぁ、ねみーっ。急に眠くなってきた」
「えー? 風呂は?」
「朝にしよ。もう眠い」
亘はもぞもぞとソファからベッドに移動すると、タオルケットに丸まった。
おい、と望の呆れた声が聞こえたが、知らんぷりを決め込む。
「仕方ないな」と、望の溜め息混じりの声が聞こえたかと思えば、電気が消えた。水を使っている音がするから、歯を磨いているのだろう。
――あ~、俺も歯磨きしてから寝なきゃ。
そうは思っても、望の匂いのするタオルケットに包まれていたらすっかり安心してしまい、一気に眠気の波に攫われる。シングルベッドの隣に、望の温もりが滑り込んでくる気配がした。ああ、あたたかい。気持ちいい。
夏場、エアコン代節約のため、寝苦しい夜は同じ部屋で眠ることにしてからというもの、同じベッドで眠ることにも抵抗がなくなった。
あっという間にバイトに明け暮れた夏は終わり、秋がすぐそこまで迫っている。
寒くなったらまた節電の名のもと、ベッドの上で寄り添い眠るのだろう。
ふと、幼い頃、友人の家に泊まりに行ったときの高揚感を思い出す。この年になってそんな感覚を味わうことになるとは。そんなことを沈んでいく意識の淵で考えながら、亘は深い眠りについた。
共益費、水道代込みの家賃四万円。新宿区にして驚異的な安さのボロアパート。築四十年超、おそらく〝ユニットバス〟なるものができる以前の建物なのだろう。バス・トイレは別(ただし和式)、風呂場に張り巡らされた黒丸のタイルは……まあ、よく言えばレトロである。
九畳という余裕の広さのワンルームは、隣の音は筒抜けだが慣れればなかなか快適だった。
びっちり埋まった授業をこなしつつのバイト漬け生活にも慣れてくると、やはりそこはお年頃のオトコノコ。性欲は溜まるもの。
三歳年上のバイト先の先輩は、何度断っても積極的に誘ってくる。
あるとき亘は、望が夜遅くなる日を狙い、ボロアパートに連れ込んだ。
積極的に誘ってくるだけあり先輩はベッドの上でも積極的で、亘は数か月ぶりに心身ともにリフレッシュした。
「亘クン、また来てもいい……?」
あれだけベッドの上で果敢に腰を振っていた先輩が、突然恥じらいを見せるこの様変わりに思わず浮かびそうになる苦笑を封印し、亘は柄にもなく甘ったるく微笑んでみせる。
「うん、また来てほしい」
マナーとして彼女を駅前まで送り届け、アパートに帰ってきたとき。
がちゃりと隣の部屋の扉が開き、にやにやと笑みを浮かべる望が顔を出す。いないものとしていた望の登場に、亘はギョッとした。
「亘クンったら、お・さ・か・ん~!」
「えっ……はっ!? な、何でいんの!? 今日バイトじゃ――」
「バイトだよ? 今日すっご~く暇でさ、早上がりさせられちゃったの。おかげで面白いもん聞いちゃった」
「趣味悪すぎ」
「亘クンは激しすぎ」
「……黙れって」
望はからからと声を上げて笑った。
「廃棄のケーキもらってきたんだ。セックスして腹減ったっしょ? 一緒に食わない?」
夕食は、彼女の差し入れてくれた近くのカフェのサンドイッチやデリを一緒に食べた。たしかに望の言うとおり、久しぶりのセックスのあとで、とても腹が減っていた。
「食う」
即答した亘に、望は再度声を上げて笑う。「おいで」と扉を大きく開け放ち、亘を迎え入れた。
望の部屋に入ると、亘は迷うことなく座椅子タイプのリクライニングソファに腰を下ろした。お互いの部屋にはしょっちゅう出入りしている。
亘の部屋以上に殺風景なこの部屋は、家具はベッドとこのちゃちなソファがあるだけで、テレビも本棚もない。教科書や小難しい参考書が床に直接並べられているだけだった。
望はインスタントのコーヒーをいれ、亘の隣に座った。
安物のソファは男ふたりで座ると狭いが、仕方ない。
「亘、コーヒー」
「ん、サンキュ」
「カップ一緒でいいよな」
望の部屋に行っても、お客さん扱いされなくなってずいぶん経つ。
最近はコーヒーを入れるときも、カップは大きめのマグカップひとつで、ふたりでシェアして飲むのが普通になってきた。洗い物もひとつで済んで都合がいい。
「亘、どれ食べたい?」
「わっ、いっぱいあるじゃん」
「これ、秋の新作だって。カボチャのタルト」
「あっ、俺それがいい」
広げて見せてくれた箱の中には色とりどりのケーキが並んでいた。
望のバイト先は都内中心に展開しているローカルチェーンのカフェ&バーだが、デザートにはかなり力を入れているらしく、工場生産の冷凍ケーキとは違いかなり本格的だ。専属のパティシエが工房で全店分のケーキをすべて手作りしている。
いつも売り切れてしまうため、廃棄処分になること自体が稀だが、こうしてときどき望が持って帰ってきてくれるケーキは、いつも何を食べても美味しかった。
「美味い?」と、望はにこにこしながら小首を傾げる。どうやら望の癖らしい。無意識にやっているようだが、男のくせに可愛らしくて亘はときどきドキリとさせられる。
「ん、美味い」
タルト地はサクサクホロホロで、まるで焼き立てのように香ばしい。
二層になった、バニラが香るカボチャのムースと、カボチャのペーストはとても滑らかで口の中でとろける。しかしカボチャ感を損なわないしっかりとした重さもあって、たまらない美味しさだ。よかった、と望もにこにこしながら洋梨のシブーストを頬張った。
「亘は、ほんと何でも美味そうに食うよな~」
「そう?」
「うん。もやししか具のないラーメンでも、ここのケーキでも」
「どっちも美味いもん」
望は声を上げて笑うと、亘の髪をくしゃりと撫でて「お前のそういうとこ、すげー好き」と言った。
〝好き〟――その言葉の響きにどきりとする。
「何キモいこと言ってんだよ」
「えーっ、つれな~い。亘も俺のこと好きって言ってよ~」
「うざ」
望はやっぱりからからと声を上げて笑って「あ~、うまっ!」と残りのケーキをペロリと食べた。
――……俺も、お前のそういうとこ、好きだよ。
しかし気恥ずかしさが勝り、それは言葉にはならなかった。
両親がいて家族仲もよい亘の家とは違い、望の家は少々複雑なようだった。親には意地でも頼りたくない望は、必死で働きながら学校に行っている。
そんな苦労を微塵も見せず、いつもにこにこ(ヘラヘラともいう)明るい。何も知らない人間が見たら、悩みなんか一切なさそうな、イケメンでさぞリア充大学生に見えることだろう。カッコよくて頭もいい。仕事もデキるようだし、女にモテる。妬まれこそすれ、同情されるようなことはないだろう。
そんな望のことが大好きだ。尊敬する。
素直になれない亘と違い、気持ちをいつもストレートに言葉にしてくれる。そんな真っ直ぐなところも、何もかも。
このボロアパートを選んで、よかった。望と隣の部屋になれて、友達になれて本当によかった。
素直じゃない亘は、それを口にすることはこの先もきっとないだろうけど。
「残り朝飯にしよ。亘、部屋戻る? 泊まる?」
「泊まる……ふぁ、ねみーっ。急に眠くなってきた」
「えー? 風呂は?」
「朝にしよ。もう眠い」
亘はもぞもぞとソファからベッドに移動すると、タオルケットに丸まった。
おい、と望の呆れた声が聞こえたが、知らんぷりを決め込む。
「仕方ないな」と、望の溜め息混じりの声が聞こえたかと思えば、電気が消えた。水を使っている音がするから、歯を磨いているのだろう。
――あ~、俺も歯磨きしてから寝なきゃ。
そうは思っても、望の匂いのするタオルケットに包まれていたらすっかり安心してしまい、一気に眠気の波に攫われる。シングルベッドの隣に、望の温もりが滑り込んでくる気配がした。ああ、あたたかい。気持ちいい。
夏場、エアコン代節約のため、寝苦しい夜は同じ部屋で眠ることにしてからというもの、同じベッドで眠ることにも抵抗がなくなった。
あっという間にバイトに明け暮れた夏は終わり、秋がすぐそこまで迫っている。
寒くなったらまた節電の名のもと、ベッドの上で寄り添い眠るのだろう。
ふと、幼い頃、友人の家に泊まりに行ったときの高揚感を思い出す。この年になってそんな感覚を味わうことになるとは。そんなことを沈んでいく意識の淵で考えながら、亘は深い眠りについた。
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