恋する彼のアパルトマン

吉田美野

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1.新生活のはじまり

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「引っ越してきたばかりでして、バタついていてすみません。うるさかったですよね?」
「いえ、あの、大丈夫です」

 あんまりすごい音がしたから、心配だっただけで……と隣人の彼はもごもごと口籠もる。苦情を訴えるためではなく、心配して様子を見にきてくれるなんて、彼は親切で優しい人らしい。
 それから「僕はもう出掛けますので、気にせず続けてください」と言った。
 その顔色で出掛けるのか、と思わずジェイミーは引き留めそうになった。
 白い肌は、本当に血管まで透けて見えそうなほどで、青白く血の気がない。目の下には隈があり、どう見ても具合が悪そうだ。

 しかし出会ったばかりの青年に掛ける言葉が見つからず、「それじゃあ」と言って去ろうとする彼をジェイミーは黙って見送った。



 クッションの山から無事脱出したリーアムが、乱れたくすんだ金髪を整えながら「誰だったんだい」と尋ねた。
「ん? お隣さん。いい子そうだったよ」

 たずねた割に、リーアムはさほど興味がなさそうに「ふうん」と気のない相槌を打つ。
「あと、いい匂いがした」

 古い紙とインクの匂い。
 その匂いに隠れて、ほんのり漂う蜂蜜のような甘い香り。ジェイミーは鼻がいいのだ。
 あんなに顔色が悪くて、大丈夫だっただろうか、とか、そういえば、名前も聞いてなかったな、とか。隣人のことを思い出しながら、とりとめのないことを考えていたら、「新しい恋でも生まれそうかい?」といくらか興味を持ったらしいリーアムが言った。

「どうだろうね」と答えながらも、それはないだろうな、とジェイミーは思った。

 もうどうにもならないことはわかっているけれど、当分は『彼』を忘れるなんてできそうもないのだから。

 ジェイミーはひとつひとつ不要な物をトランクに押し込みながら「製品化にはまだまだ改良が必要だな」と呟く。ハッター家は古くから魔法製品の開発を生業としている旧家だが、変人ぞろいで名高い家でもある。ジェイミー自身も、これまで製品化してきた商品の特許と、不動産などの家賃収入で一生働く必要のないほどの資産がある。魔法学校を卒業したのは三年前。以来、無職と言っても差し支えない。それでも思いつけばすぐに新しい物を試してみたがるのは彼の性なのだろう。

 マッドハッターめ、とリーアムがぶつぶつと毒づきながら、空いたスペースに積み上がった荷物を魔法で降ろしていく。お気に入りのワイングラスのセットがガチャン、と音を立てた。

「ああ、リーアム! それは丁寧に扱ってくれよ!」

 グラスセットには厳重に保護呪文が掛けてあるけれど、あんな音を立てられてはヒヤヒヤしてしまう。あれは『彼』がとても気に入って、大切にしていた物だ。大丈夫だとはわかっていても、グラスが心配でトランクを放り出して駆け寄ってしまう。

 グラスの無事を確認してほっと息を吐くと、リーアムに憐れんだ目で見下ろされる。別れたのは半年も前だというのに、今でも未練たらたらな証拠だ。

 ふたりがかりでようやくそれらしく部屋を整え終えた頃には、日はすっかりと暮れていた。
 トランクの中から見つけ出したウイスキーで一杯やったあと、リーアムは帰っていった。ジェイミーには何も予定はないが、リーアムは仕事だ。「次はレイフも連れてくるよ」と今日は来られなかった友人の名前を挙げて。

 大きな欠伸をしながらグラスを片付ける。すきっ腹にウイスキーが効いていた。
 明日は買い物に行かなければ。片付けに必死で気が回らなかったが、この家には食料品の類が一切なかったのだ。ミネラルウォーターの一本もない。トランクを探れば何か見つかるかもしれないが、どのみちこれから生活をはじめるにあたって、部屋を整えなければならない。

 そろそろシャワーを浴びて寝ようか、と思ったとき、隣人が帰ってきたらしい物音が扉の外から聞こえた。今日のうちに、もう一度謝っておこうか。片付けはひと段落ついたし、騒音で彼を煩わせることはないだろう。ついでに彼の名前も聞いてみよう。

 そう決めて、早速玄関の扉を開け――ぎょっとした。

 隣人が、ドアノブに手を掛けたままそこに蹲っている。
 ジェイミーは慌てて駆け寄った。俯いた顔にミルクティー色をしたふわふわの髪が掛かっている。それをそっと払い除ければ、真っ青な顔が覗いた。昼間会ったときも青白い顔をしていたが、今はもっと真っ青だ。

「えっと……きみ、大丈夫かい?」

 呼びかけようとして、名前も知らないことを思い出す。
 どうやら意識はあるようで、虚ろな目でジェイミーの顔を見つめ返す。

「あ、お隣の……」
「立てるかい? ひとまず部屋に運ぶよ?」

 彼の体を支えて立ち上がると、「すみません」と囁くような呻き声が返ってきた。

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