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48 You Are So Beautiful

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 翌日出社すると、もうヨドガワ主任は来ていました。

「おう! 早いな、ハヤカワ」

 他にはまだ誰も来ていませんでした。ちょうどいいと思いました。

 ヨドガワ主任の席にトコトコ歩いて行って、書類に目を通している彼に呼びかけました。

「あの、主任。・・・申し上げることがあります」

「んー?」

 彼は顔も上げずにそう言いました。

「あの、わたし、・・・会社、辞めます・・・」

「あー、そうかー・・・。って、何ぃーっ?!」

 ガバッと肩を起こしたいつも優しい彼の眼が、三角に吊り上がっているのを初めて見ました。

「会社、辞めたいんです。辞めさせてください」

 急に興奮してしまった主任にいささか驚きましたが、かまわず最後まで言い切ってしまいました。

「・・・なんだ、藪から棒に。しかも朝っぱらから。

 何だ! 何があったんだ。ちゃんと、わかりやすく、理路整然と説明してみろ!

 ん? 言ってみろっ!」

 彼の剣幕にたじろぎましたが、わたしはきちんとお話ししました。

 今回部長が転勤するのに合わせて一緒に異動になると言われていること。部長と付き合っていたこと。付き合っていたというのは半ば仕方なく、言うことを聞かないとここに置いてやらないと脅されたからであること。異動は支社長も承知らしいけれど、それだけはもうイヤなので、だから会社を辞めたいと。それらを全て話しました。

「こういう会社だと知らなかったわたしがバカだったんです・・・。

 でも・・・。

 もうこれ以上は、イヤなんです! ・・・耐えられないんです!」

 話し終えた途端、大学を卒業してからずっと肩の上に載っていた重い十字架を下ろしたかのように身体がふうっと軽くなり、オフィスの天井にまで上がってしまうんじゃないかと思われるほどにフワフワした気持になりました。得も言われぬ幸福感に満たされ、天国に行くってこういうことかなあとバカみたいな妄想さえしてしまうほどでした。

 でも、そんなわたしとは裏腹に、ヨドガワ主任の顔は真っ赤になって震え、目は吊り上がり、まるで仁王像かスーパーサイヤ人のように怒髪天を突いて怒りまくっていました。

 まるで別人のようでした。

「・・・なんだと?」

 バンッ!

 主任が掌で思いきり机を叩いた時、そこへ次々と社員たちが出社してきて、みんな彼の異様な雰囲気に飲まれていました。

「・・・え、なに?」

「あ?・・・どしたんだ?」

 主任はしばらく机に向かって腕組みしてプルプル震えていたかと思うと、引き出しから一枚の紙を取り出し、ボールペンで何かを書きなぐってズンと立ち上がりました。

「なんだと!」

 そして物凄い形相で怒りに震えながらわたしを睨みました。あまりな剣幕におもわず二三歩あとずさりすると、

「ハヤカワッ!」

 とわたしの名前を呼びました。思わず、

「ハイッ!」

 返事をしていました。わたし、殺されちゃうのかも、と思うほどの勢いでした。

「オレと一緒に来いっ!」

 そういってわたしの手を、というか手首をむんずと掴み、主任に引きずられるようにして部屋を飛び出しました。上の階の支社長室まで、一気に階段を駆け上がりました。

 そのあまりの迫力に震えました。

 ですが、見えてしまったのです。その激しさの中にある、彼の気持ちが。ラーメン屋の屋台で彼が口ごもったことはこれだったのだ、と。

 わかってしまったのです。

 わたしは、その時初めて、彼の熱い思いを、知ったのです。

 バンッ!

 ノックもせずに支社長室のドアをあけると、支社長がステテコ姿で作業ズボンに履き替えているところに出くわし、思わず顔を伏せました。

「・・・なんだ、チミは・・・」

 ハトが豆鉄砲くらったような、とはその時の支社長のような顔のことを言うのでしょう。ステテコ姿で驚いて固まっている支社長の姿に、萌えました。

「ナンダチミはじゃないですよっ、どういうことスかこれはっ! 事と次第によっちゃあ、オレも会社辞めますよっ。キチンと説明してくださいっ!」


 

 結論を先に言えば、ヨドガワ主任とわたしは支社を辞めなくて済みました。


 

 全く関係のない会社への出向か退職かを突き付けられ、部長は退職金の出る諭旨退職を選びました。職権を使って女性社員、つまりわたしのことですが、女性社員に性的関係を強要していたこともさることながら、長年にわたってわたしとの交際費を含む、会社の経費を不正に流用していたことも露見したのです。今なら問答無用で懲戒解雇になるところですが、昔のことですし、支社長は恩情の人でした。

「キツイ処分と思うかも知らんが、チミの奥さんに黙っててやる見返りだと思いたまえ。ハヤカワ君とのことが奥さんにバレて多額の慰謝料ふんだくられるよりはいいんじゃないか。ハヤカワ君も、チミを訴えたりはしないそうだ。そこのところをよ~く、考えて見たまえ。

 それと、言うまでもないが、もう二度とハヤカワ君には近づくなよ。・・・いいな?」

 支社長がそう因果を含めてくれたことを後になって知りました。

 支社長はわたしも同時に異動させるなんて全く考えておらず、一足飛びに部長に昇進するヨドガワ主任を補佐する人材としてこれからもっともっとバリバリやってもらおうと思っていたぐらいだ、とさえ言ってくれました。全ては部長の口からでまかせだったのです。

 事が全て治まると、ヨドガワ主任はあらためて進退伺を書き、支社長に土下座しました。

「大変申し訳ございませんでしたっ!」

 失礼なもの言いをした、ということでした。

 彼の温厚な中にも芯と筋の通った、いささか猪突猛進気味のところに、さらに好感をもちました。もちろん、支社長が主任の進退伺を目の前でビリビリに破り捨てたのは言うまでもありません。

「何を考えとるんだ、チミは。チミがいなくなったら、この支社はどうなる。そんなこともわからんのか、チミは・・・」


 

「ハヤカワ連れて外回り行って来ます!」

 その日、わたしはヨドガワ主任に拉致されました。

 わたしを載せた営業車は南に、初秋の海に向かいました。GPSの付いたスマホもカーナビもケータイもポケベルもない時代です。それにヨドガワ主任は支社内の誰よりも仕事ができ、仕事を持ってくる人でした。有無を言わさない迫力が違いました。もう誰にも彼を止めることはできませんでした。

 夕暮れの海岸に止めた車のカーラジオから、潮風に乗ってジョー・コッカーの名曲が流れていました。


 


 

 ものすごくキレイだなって、そう思えて仕方ない

 本当にステキな人だって、俺は思っているんだよ

 わかるだろ?

 お前さえいてくれるなら,それ以上は望まない

 そばにいてくれるだけで十分なんだ


 

 ヨドガワ主任の、・・・ナガハルさんの口説き文句は、猪突猛進だけに、ゴツゴツして、味も素っ気もありませんでした。

「お前は『早い川』だ。だけど、これからは『淀んだ川』になれ」

 その言葉のあまりな無骨さに、また泣けてきました。

「・・・なにそれ。なにそのダサいセリフ・・・。 それってもしかして、プロポーズのつもりなの? 」

「お前、いろんなの、先回りして考えすぎるんだ。早すぎて捕まえそこなうんだ。バカのくせに、頭いいフリしすぎるんだ。これからはもっとゆっくり、緩やかに生きていいんだ。いや、生きろ。もう背伸びなんかしなくていい。いや、するな! お前は淀んでるくらいがちょうどいいんだ。お前がゆっくり生きられるように、オレが守ってやる、一生・・・」

 あのヤマギシ君がもし生きていたら、そんなふうに無骨に言いまくっていたのかも・・・。

 ふとそんなことを思ってしまいました。

「・・・なんか、全然カンドー出来ないんだけど・・」

 そう嘯きながら、言葉とは裏腹にわたしの鼻の奥は猛烈にツンツンしはじめ、涙腺が緩んできてしかたありませんでした。鼻水も垂れてきそうでした。

「出来なくても、しろ!」

「だって・・・グスッ」

「だってはなし」

「でも・・・、グスッ」

「デモもストライキもなし!」

「でも、・・・でも、わたし、こんな、こんな女だよ。あんなヤツの女してたんだよ。こんな女でもいいの? 本当に、いいの?」

 もう、涙が溢れてきてどうしようもありませんでした。こんな人生の一番肝心な接所で、わたしの顔はぐちゃぐちゃでしたでしょう。

 ナガハルさんは親指でわたしの瞳の露を払うや、力強い腕でガッと抱きしめてくれました。胸がキュィーンと鳴りました。まるで高校生のころに戻ったかのように。

「バカ野郎・・・。お前の気持ちぐらいなあ、お見通しだったんだよ、ずーっと前から。

 もうつべこべ言うなっ。黙ってオレについて来ればいい。上手い言葉出てこないんだ。これ以上言わすな、アホ! 」

 そう言って、ナガハルさんは、強引にわたしの唇を奪いました。気が遠くなるほど熱くて情熱的なキスが、わたしの身も心も、とろとろにとかしてしまいました。

 わたしは一匹の子うさぎでした。目の前に大きなオオカミがガルルっと牙をむいていました。その目に射すくめられるようにして、もう、食べられてもいい。どうにでもして、と思っていました。

 そのまま海岸近くの旅館に連れていかれ、奪われました。

 実を言うと支社長室にゴーインに引っ張って行かれた時から、ジュンジュンしていたのです。ずーっとドキドキしっぱなしで、治まらなくて、困っていたのです。

 海に面した潮騒の聞こえる部屋に入るや、瞬く間に着ている服を全部剥ぎ取られました。前戯も何も必要ありませんでした。ナガハルさんは強引に這入ってきました。

「うぐわあんっ! ・・・すご・・・い・・・ああっ!」

「ちくしょう! オレだって、オレだってなあっ!

 ずっと、ずっと、ガマンしてたんだぞ。それなのに・・・。

 他人の気も知らないで、能天気な顔して、毎日毎日、オレの前で、エロエロ振りまきやがってっ! も、許さねえっ!」

「ええっ、あ、はあん、あ、なにそ、はあん、あ、ダ、メェ、そんな、したら、ダメああん・・・」

 パンパンだけではなく、ぐちゅっ、ぐちゅっというイヤらしい音がコンボでした。それほどまでに濡れたのはそれが初めてだったかもしれません。もう電気がビリどころではなく、身体中が放電しっぱなしでした。今までの全ての男との経験が霞んでしまいそうなぐらい、責めに責められ、何度もイキ、頭の中が真っ白になりました。

「お前が始終コナかけて来るから、必死でガマンしてたんだぞ。それなのに、エロエロだけならまだしも、あんなエロジジイと・・・。この、ぜってー、今夜は、寝かさね。覚悟しろよ、こらっ!」

「そん、ひど、はああん、だ、めえああ、いっち、あうああ、んんんんん、・・・あ、また、いっ、あっ、、ちょ、待っ、イヤ、あっ、あっ、あだ、めえああ、んんんんん、ああう、ちょ、ダメ、待って、はううっ、あああん・・・」

 あまりな迫力に、死ぬかと思いました。二人とも、すぐに全身汗だくになってしまいました。

 そして、何の断りもなしに、

「うおぉーっ!」

 彼はわたしの中に放ちました。獣の咆哮かと思いました。彼が思いを遂げ満足してくれたのを知りました。それが、とても嬉しくて、いとおしくてたまりませんでした。

「ミオ。お前はもう、オレのもんになったからな。オレのもんだからな。オレだけの女だ。誰にも渡さね。ぜってー、誰にも、だ・・・」

 鄙びた旅館の一室で、骨が折られるんじゃないかと思うぐらいに強く、抱きしめられました。気が遠くなるほどに。

 痛いほどに抱かれながら、わたしは誓いました。これからはナガハルさん一筋に。ナガハルさんだけの女になることを。一生彼の傍に、彼についてゆくと・・・。


 

 次の年が明けてすぐ、わたしと主任、いえ、ナガハルさん、いえ、おじいさんは、お互いの両親が来やすいからという理由で東京の明治神宮で式を挙げました。


 

 そうして何十年かが過ぎ、今に至ります。


 

 これでわたしの「セピア色の恋」の話は終わりです。


 

 ですが、最後にちょっとだけおじいさんとのことをお話しておきます。

 おじいさんは文字通りの「猪突猛進」の人でした。


 

 会社勤めの時はその性格を隠していたのか、結婚した途端、おじいさんは豹変しました。

 とにかく、言い出したら聞かないし、走り出したら止まらないのです。大変な人と夫婦(めおと)になってしまったと思いました。その性格のおかげで私たち家族もずいぶん振り回され苦労しましたが、それも今では全部、娘たちが揃った時の笑い話、酒の肴になってしまっています。生きてるときも時々あの「サイナラ」で笑わせてくれましたが、亡くなってからも家族みんなを笑わせてくれています。


 

 次女が生まれた年、お世話になった支社長が定年退職を迎えるのを機に、おじいさんは会社を辞めて家業の植木屋を継ぐと言いだしました。それまでそんなことをおくびにも出さなかったので驚いていると、

「一生誰とも結婚しないつもりだった。植木屋も継がないつもりだったが、お前を貰っちまったもんでなあ・・・」

 と人のせいにして植木屋の若旦那になりました。営業用のスーツと革靴を、作業ズボンと地下足袋に換えました。

「バカヤロー! おめえ、チェーンブロックも満足に使えねえのか、それでも植木屋か。何年この仕事やってんだ!」

 若い職人を怒鳴りあげ、亡くなる二三日前まで軽トラックにハシゴと剪定バサミを載せてお客さんのところに松の剪定に行っていたぐらいです。

 どうして家業を継ぐという心境になったのか、おじいさんは死ぬまで教えてはくれませんでした。でも短い間でしたがおじいさんと一緒に会社勤めをしたせいか、なんとなくその理由がわかるような気もします。

 必要悪というのはやはり会社と役所の理屈なのです。自分一人ならいいけど、愛する家族や子供たちに誰憚ることのない、お天道様に恥じない、胸を張って仕事をしている姿を見せたかったのだと思います。

 いずれ近いうちにあちらへ行くのでその際にはそのあたりをじっくり問いただそうと思っています。


 

 あっちのほうでも、おじいさんは生涯現役でした。毎晩のように死ぬほど愛されました。

 そのころ、ドリフターズのコントで、

「お帰りなさい! お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ・た・し?」

 というのがありましたが、おじいさんの場合は、家に帰って来るやわたしがオカエリナサイの、お・・・、というより前にわたしに襲い掛かって来ていました。さすがに長女が生まれてからは玄関先で襲い掛かるのだけはなしになり、子供たちが寝入るまではなんとかガマンしてくれましたが・・・。

 おじいさんが満足して、やっと解放されて過呼吸になって息も絶え絶えのわたしに、

「気付けに一杯やれ。もう一丁行くぞ。今度こそ絶対に男を産んでもらうからな」

 と言って二度三度、ガンガンにされたものです。

 ガンバッて四女を産んだあと、そっちの方が再開された時に一度だけですが訊いたことがあります。

 どうしてできるの、と。

 その時すでにおじいさんは四十にさしかかり、わたしも三十路を過ぎていました。

「わかんねえよ。オレもジジイになったし、お前もいい歳になったけど、お前見てるとムラムラしてきて、どうしようもねえんだ。どうしてもヤリたくなっちまうんだ・・・。こればっかりはどうしても収まらねえ・・・」

 きっとたぶん、ワシオ君とのことも、マスターとのことも、ナガノさんやヤンベ先生、ヤマギシ君とのことも、あのクソみたいな部長とのことでさえも、全部今に繋がっているのだ・・・。そう思えるようになりました。

 わたしにはなんとなくその理由がわかるような気がしたのです。

 それはたぶん「セピア色の恋」の残り香のせいじゃないだろうか、と。

 それについても、あっちにいったら問いただそうと思ってます。

 おじいさんのハッスルのお陰なのかどうか、それまでのわたしの行状からすれば自分でも信じられませんが、浮気したいなどとはこれっぽっちも思わずに済みました。海辺の鄙びた旅館の一室での誓いの通りに、それからはずっとおじいさん一筋に操を尽くすことができました。

 好いた男に死ぬほど求められる。これ以上の喜びが、他にあるでしょうか。

 一人の女として、わたしはこれ以上はないほどの幸せな時間の中で人生を送ることができたのかもしれません。


 

 結婚する前の年。1979年にある曲がリリースされ、大ヒットしました。ヤマダさんが、怒りまくって酷評した歌です。

「何この歌! なんでこんな歌が流行るの? 女をバカにし過ぎてない? ムカつく。権力使って放送禁止にしてやる!」

 もちろん、ヤマダさんにそんな権力なんてあるはずもなく、たしか紅白歌合戦にも出たんじゃなかったかと思います。


 

 お前を嫁にもらう前に 言っておきたい事がある・・・


 

 その歌の通りに子育てを終え、おじいさんも見送りました。ちゃんと手を握って、涙のしずくもふたつどころか、数えきれないぐらい落として手をびしょびしょにしてあげました。そして娘たち孫たち、家族の見守る中、おじいさんは大往生で旅立ちました。

 最後の床で息も絶え絶えなのに、ほんとうに最後の最後までわたしたち家族を笑わせようとさえしてくれたのです。

「いやあ・・・。ナツ、トウコ、アキ、ハル・・・。孫たちも。・・・ああ、みんないるなあ・・・。

 ああ、ミオも、か・・・。

 お前たちのおかげで、いい映画、じゃなくて、いい人生、だったですねえ・・・。

 ありがとうございました・・・。

 それではみなさん、ここいらで。サイナラ、サイナラ・・・、サイナラ・・・」

 人生の最後の最後で、あんな笑顔ができるなんて。ほんとうにおじいさんという人はニクいひとでした。きっと、満足して逝ってくれたことでしょう。おじいさんと出会い、添い遂げられたことは、わたしにとって幸運だった、の一語に尽きます。


 

「こんなもんでいいかしらねえ?」

 もちろん、おじいさんの遺影は答えません。ですが心なしかニンマリしたようにも見え、ウンとひとつ頷いたような気もしました。おじいさんの愛すべき単純さは、わたしを心から和ませ、癒し、育んでくれました。


 

 今ではばあばと呼ばれる歳になりましたが、わたしはごく普通の女の子でしたし、女でした。

 楓の言う「リア充」がしたくて、背伸びして身分不相応な高校に入り、それからまた背伸びして身分不相応な大学に入り、その無理が祟ったせいなのか、身分相応な会社に入り、でも、おじいさんと出会い、やっと背伸びしなくてもよくなり、ありのままの自分で生きることが出来、娘や孫たちにも恵まれ、おじいさんとも最後まで添い遂げることが出来ました。

 これもまた、立派に幸せだったんじゃないかと思うのです。

 これ以上を望むと、バチが当たります。

 それにあまり長生きするのも考えものなのです。

 ヤマギシ君も、ワシオ君も、マスターも、最愛のおじいさんも、皆、わたしより先に旅立ってしまいました。つい先日、ヤンベ先生の訃報も聞きました。わたしの青春を彩り、わたしに幸せをくれた男はみんな、先に逝ってしまいました。

 ここらでもういいんじゃないでしょうか。

 この辺でもう、喪うのはなしにしたいのです。これ以上この世にしがみつくと、失ったり喪うものが増えてゆくだけなのです。ましてや、もし愛する娘たちを失ったりしたら・・・。

「親より先に逝ってしまうなんて最大の親不孝」

 あのヤマギシ君を喪った時の母の言葉が、何十年も経った今、胸にじ~んと沁みてくるのです。

 愛している人たちに見守られて生を終えたい。

 おじいさんを見送った折、そんな終わり方ができるのは、とても幸せなことではないかとわたしは思ったのです。


 

 そして、かわいい楓にはこれだけは言っておきたいのです。

「もう、あんな蜘蛛の巣がはってる蔵になんか来ないで、今を楽しみなさい」と。

「今しかできないことがある。若いときは、その連続だよ」と。

「でも、それがあんたの幸せへの道だよ」と。

「精一杯、今を生きなさい」・・・と。

 そう、言いたいのです。


 

 そうとなれば、善は急げ、です。

 老眼鏡を取り出し、苦手なスマホを手にして、LINEを打ち始めました。

 忘れないうちに、今の決意を楓に送ってやらないと・・・。

 ばあばとしての、それが最後の務めだと思うからです。


 

 何度も操作を間違えぎこちなくスマホのサーフェイスを撫でているうちに、わたしがこの家で迎える最後の夏の宵を惜しんでくれるのか、網戸の向こう、庭の暗闇のどこかでヒグラシが儚げに鳴き続けていました。


 


 

 

 ばあばん家からの帰り。

 家のすぐ前の暗がりに蹲った人影を見た。

「シュン・・・」

 その蒼い影はゆっくりと立ち上がり、じっとあたしを見てた。めっちゃ、汗かいてる。きっと家から速攻ダッシュしてきたんだろう。まだ肩で息してた。

「カエデ・・・」

 コイツとはイヤになるぐらいの長い付き合いだ。なのに、こんなに見つめ合ったのは初めてかもしれない。そう思えるほどに、その時間は、長かった。

 スマホのLINEが鳴った。

 ばあばからだった。

(写真、返してくれてありがとう。

 この写真を見たあんたにひとこと言っときたいことがあります。コレ、らいんは苦手だから直接お話ししたいの。いつでもいいからまた来なさい。ばあば)

 ・・・。

 駿はまだボーっと突っ立っていた。

 やれやれ・・・。

 あたしは手を差し伸べた。

 駿の手は温かかった。少し汗ばんでもいた。グッと握ってやると、しっかりと握り返して来た。

「夕ご飯まだでしょ。ウチで食べてきなよ」

「・・・うん。・・・カエデ・・・」

 駿の喉がゴクリ、と唾を飲み下したのがわかった。

「カエデ・・・、おれ・・・」

 あたしはふっ、とため息をついてほほ笑んでやった。

「いいから。さっさと入んなよ」

 おどおどしてる、可愛い駿の手を引いて家のドアを開けた。

「ただいまあ! ママ、シュン連れてきた~」

 

 


 

              了
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