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1976

38 昭和枯れすゝき

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 そんなある日、わたしは近所のスナックにいました。

「さあ、びい、しさにい、ん負けたああんー・・・」

「いいえ! せけんにい、ん負けたあああーあんあん・・・」

「こおのお、街も、追われたああああん。いっそ・・・」

 プチ。

「だめだ、そこ。いいか、そこはな、

 いひいええ、すうぇけんにぃ、ん、まけたああんあああん・・・

 て感じで。こう、苦労してもダメだったって、そういう感じの女の悲哀? そういう出だしで。あとな、最後の方コブシ利かせ過ぎなんだ。最初に利かせ過ぎるとあとのサビが盛り上がらんだろうが・・・。お前、演歌の心がわかってないな。わからんかなあ・・・」

「わかんないよ・・・」

 何が悲しくて、久しぶりに会った父親と、初めて入った知らないスナックで、演歌の歌唱指導をされながら、デュエットしなければいけないのでしょうか。


 

 その日。

 母からの連絡で父が帰ってくることを知らされ、兄たちにも電話をしました。ところが、

「オレ、忙しくてさ。手が離せないんだ。悪いな」

「行きたいんだけど、バイト休めなくてさ。ミオ頼むよ」

 兄たちが父を避けるのは昔からでした。

 小さいころから特に長兄にはとても厳しく、末っ子で一人娘のわたしにはとても甘い父でした。彼には彼なりの考えがあったのでしょう。

「ハヤカワの家を守ってゆくのはお前なんだから」

 昔の人でしたから、少しでも兄の成績が落ちようものならすぐに殴りつけていました。そのせいで、長兄は次第に父を避けるようになり、父が帰ってくるとよく友達の家に泊まりに行ったり、急に一人旅に出たりしていたのです。父がわたしに甘々だったのは、その反動もあったでしょう。父なりに寂しかったのだと思います。

 羽田まで迎えに行って到着ゲートで待っていると、作業ズボンに、もう初夏を迎えたというのにもかかわらずアノラックを羽織った父が出てきました。田舎の土木作業員みたいな風体でした。

「お父さん!」

「おう! ミオ。久しぶりだなあ。やっぱり、日本はいいなあ・・・」

 思えば、親戚の冠婚葬祭以外に父がスーツを着たのを見たことがありませんでした。

「お兄ちゃんたちにも連絡したんだけど・・・」

「ああ。いいさ。アイツらも忙しいんだろう。結構なことだ。それに、お前が元気そうで良かった」

 しばらくぶりに会った父の頭には少し白髪が増え、ニコニコ笑っているせいか、幾分皴も増えたような気がしました。スーツケースを上野駅のコインロッカーに預け、空港で買ったお土産をぶら下げて父と一緒に寮に行きました。

「これでもお前の親だからな。一度はごあいさつしなければな・・・」

 ちょうど夕食の準備で忙しい時間でしたが、おばちゃんズの二人は丁寧に応対してくれました。

「いつも娘が大変お世話になっております。ごあいさつが遅れまして・・・」

「いいええ。まあまあ。わざわざどうもー」

 そういうのを傍で聞いていると、なんだかちょっと、恥ずかしかったです。

 それから、ちょっと歌いたいな、と父が言うので初めてカラオケというものがあるスナックに入った、というわけです。インターネットのなかった時代は、海外で働く日本人にとってラジオの短波放送で流れて来る日本語放送だけが故国との唯一の接点でした。そのラジオから流れて来る曲を一度はカラオケで歌いたいと練習していたのだそうです。それを聞いていじらしくなり父に付き合っていたのです。

「お客さん。歌わないんなら次の人にマイク、回してもらっていい?」

 スナックのママに言われてステージを降り、カウンターに戻りました。わたしはビールを。父はトマトジュースを飲みました。父は下戸でした。

「お前。いつの間にそんな飲むようになったんだ。女のくせに・・・」

「オトウサン。近頃の大学生はみんなこんな感じですよ。先輩たちに付き合わされたり、ねえ・・・」

 ママが助け船を出してくれました。

「そこのカウンターのだんなさん、悪いけど、いまの「昭和枯れすゝき」歌っていいかね。おれ、歌いたかったんだ」

 どこかの人の好さそうなおじいさんが言いました。

 どうぞどうぞ。

 父はニコニコしながら頭を下げました。


 

 貧しさに負けた。いいえ世間に負けた

 この街も追われた。いっそきれいに死のうか・・・


 

「ところでオトウサン、初めてよね。この辺に住んでる?」

「いやあ、家は北海道でしてね。実は長らく出張してましてねえ・・・今日帰って来たところだったんですよ」

「あら、どこまで?」

「南アフリカ」

「アフリカ? アフリカって、あの暑くてゾウとかライオンとかがいる・・・」

「ああ、その辺りよりもっとずっとずっと南の先っぽでね。ここから飛行機乗り継いで三日もかかるとこなんですわ」

「三日?・・・。まあまあ、地球の果てだわね」

「ハイ・・・。さっき羽田に着きましてねえ、家に帰る前に東京にいる娘に会っておこうと思いましてねえ・・・」

 女子寮ですからわたしの部屋には泊められません。父と上野駅の近くのホテルに泊まることにしました。それでも父は上機嫌でした。

 予約した部屋は和室のはずでしたが、手違いでツインルームになっていました。

「和室、空いてないですかね」

 わたしは食い下がりました。

「申し訳ございません。全て満室になっておりまして」

「ミオ。その部屋でいいぞ」

「だって、せっかくなんだからさ。・・・あの、近くで空いてる旅館紹介してもらえませんか?」

 そこから少し離れましたが、八畳の和室のある旅館が空いていて、そこに泊まることにしました。急だったのですが、夕食まで出してくれると聞き、ホッとしました。

 風呂を貰い、旅館の浴衣を着、部屋まで運んでもらった夕食の膳を父と食べました。

「やっぱり畳の上はいいなあ・・・。風呂も良かった。刺身も旨い。帰って来たなって思ったよ。ありがとうなあ、ミオ・・・」

 日焼けしてゴツゴツした掌で何度も畳を撫でて感触を楽しみ、しみじみする父を見ているとじんわりするものを感じました。やはり少し老いた感じは否めませんでした。

「どれ。せっかくだからオレも一杯付き合うか」

 父のグラスにビールを注いであげました。ほんの一口飲みましたが、

「うひゃー、来るなあ・・・。オレはもういい。あとはお前が飲め」

 眠くなった、という父のために、膳を下げてもらい床を延べてもらいました。

「あー・・・。いいなあ。やっぱりオレは、ニッポンジンだなあ・・・」

 子供のころは岩のようだと思っていた父の背中はいつの間にか小さくなっていました。そのコチコチの肩を揉んでいるとあー、とか、うーとか、オレはしあわせだなー、とかいってずっと目を閉じていました。清潔なシーツを敷いたやわらかな布団の上に身を横臥(よこた)えた父のその言葉で、出張先の仕事の日々の過酷さがなんとなくわかりました。そんな大変な苦労をしてお金を稼いでくれている父に、わたしはまだ何もしてやれていませんでした。せめて言葉だけでもかけずにはいられませんでした。

「ありがとうね、お父さん・・・」

「はは・・・。あ、そうだ。忘れてた」

 急に起き上がってバッグの中を漁っていたかと思うと、茶色い紙に包まれ、所々何度もテープを張り直した跡のある怪しげなものを取り出しました。

「お土産。お前に渡そうと思ってな」

 何重にも包まれたそれを開くと、握りこぶしよりも小さなゴツゴツした石が二つ、入っていました。

「オレの掘った鉱山で採れたものだ。こっちが金。こっちが、ダイヤモンド。税関通すの苦労したぞ。会社に提出するサンプルだってな、書類も作ってなんとかごまかした。バレたらこれもんだからな。ゼンカイッパーン! うわははは・・・」

 両腕を前でクロスして、父は破顔しました。

 父が金といった方は金色ではなくて幾分青い錆びのようなものが浮かぶ模様がところどころ表面に浮いているように見えました。

「これを砕いて千度ぐらいで炙ると金が溶け出す。これでそうだな、二十グラムくらいにはなるか。それよりこっちの方が値が張るぞ。原石だから白っぽく見えるが、0・5カラットくらいにはなるはずだ。いや、もちっと小さいかな。掘り出してカットして台に据えると宝石屋の店先に並ぶ・・・」

 わたしは目を皿のようにして石を見つめました。

「お母さんにもあるんでしょ」

 父は首を振りました。

「いいや。お前にだけだ」

 父の、そんな幸せそうな顔はそれまで見たことがありませんでした。

 二人で布団を並べて寝るのは何年ぶりだったでしょうか。

 眠くなったという割には、父はお喋りでした。南アフリカの仕事場の様子やケープタウンの街の様子など、温泉からとうとうと溢れる湯のようにしゃべり続けました。

 それがいつの間にかふっ、と途切れたのに気付き、眠ったのかと思い隣を見やると、

「ミオ・・・」

 まだ起きていました。

「ミオ。・・・お前、カレシは出来たか」

 うん。中年の人でね、喫茶店のマスターしてる。でも身体の関係だけなの。それも大学の四年間だけ。卒業したら、別れることになってるの・・・。

 もしうっかりそんな本当のことを言えば、父は心臓マヒを起こしてしまうんじゃないかと思いました。

「どんな男でもいいが、相手は選べよ」

 一瞬、ドキッとしました。

「オレみたいに出張ばかりの仕事の男だけはやめておけよ。家族と一緒に居られないような男と一緒になると、苦労するからな・・・。この仕事のおかげでお前たち三人育てられたから文句は言えんが、なまじ腕があったばかりに、会社にいいようにこき使われるだけになっちまった・・・」

 

 この五年ばかり後、わたしの結婚式に出てまもなく、父は初孫の顔も見ずに旅立ちました。

 定年まであと半年というところでした。定年になったら東京に戻るかな。あれもして、これもして、ミオと一緒に住みたいな、と。その日が来るのを心待ちにしていた矢先のことでした。
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