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1972

06 Sous le soleil exactement

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 その日は日中零度くらいまで上がる天気のいい日でした。道の氷も緩み、日を浴びてキラキラと溶け出し、あちこちで車の巻き上げる雪解けの水しぶきが光り、何とも言えない、いいことありそうな予感がしました。

 図書館へは駅から路面電車が出ていました。

 タールの匂いのする車内の座席に座って乗客となっている様々な人々に目を留めます。不思議なことに、その日の家からの電車も路面電車の乗客の誰も彼も、老いも若きも男も女もみんな幸せそうに見えました。いつもの学校と家との往復だけの毎日から飛躍した時間だったからか、これから素敵な時間を迎えるのがわかっていたからなのか・・・。

 そんなことを考えていると、路面電車はすぐに図書館の前の停留所に着きました。

 そこから歩いて除雪された坂道を少し上ると白いペンキが塗られた木造りの図書館があります。

 尖塔のある天井の高いエントランスの窓に嵌ったステンドグラスの灯りが石を敷き詰めた床に射していて綺麗でした。まだ約束の一時には早かったのですぐには中に入らず、コートの前を寛げ、そのロビーのソファーに座って少し待ちました。そのほうが受けがいいように思えたからです。

 こういう時の時間はまったりと過ぎます。

 約束の時刻が来ましたが、まだワシオ君は現れませんでした。

 今なら即LINEしたり携帯電話で相手を呼び出したりするでしょう。何度もスマートフォンのサーフェイスを撫で、既読が付いた、無視された、直電だ、出ない、何をしているのか。すっぽかしか。遅れるなら遅れるで連絡の一つぐらい・・・。などと妄想を逞しくする人が多いのかもしれません。

 そのころは幸か不幸かそんなスマートフォンや携帯電話のようなものはありませんでした。待ち合わせより早く会えれば良し、たとえどちらかが遅れたとしてもそれほど相手を詰ったりはしなかったように思います。

 わたしはどちらかというと早く着く方で、その分、待つ方が多かったように思います。長い時で三十分、最長では1時間ぐらいは全然平気でした。その間ちょっと中座するときは行き違いにならないように伝言板に書いておきます。

「十分ぐらいで戻ります M・H 1315」

 伝言板にチョークで書いておけば相手が見てくれます。トイレから戻ったら相手が待っていた、なんてことも何度かありました。そういう伝言板はその頃駅とか図書館のような公共の場所のどこかしらにあり、そこを待ち合わせの場所にすることが多かったように思います。公共の場所であれば、市役所の係の人とか駅員さんとか、その図書館の場合は時々司書さんが見回りに来てくれ、有効時間の過ぎた伝言を消すと同時に、電話で引き受けた伝言を新たに書いてくれたりもしていました。

「WからM・Hへ。悪い。三十分ぐらい遅れる」

 遅刻しそうなときはそんな伝言も出来たのです。

 十五分ぐらい過ぎたころでしょうか。突然名前を呼ばれて立ち上がりました。

「あれ、ハヤカワ?」

 なんだ。

 ヤマギシ君でした。ジーンズにジャンパー姿で首からは高価そうなカメラをぶら下げていました。

「なんだよ、ハヤカワ。・・・お前、ジェーン・バーキンみたいだな」

 そう言われたくて前の晩に一生懸命コーディネートを工夫したのです。その日のわたしは彼女が好んで着ていた白の丈の短いワンピースの下に空色のニット。そして編み上げの茶色いロングブーツ。さすがに生足は寒すぎるので肌色のタイツを穿いていました。

 その言葉をワシオ君が言ってくれたなら、どんなにか幸せだったでしょう。その言葉の主が彼ではなくヤマギシ君だったのは残念でした。

「・・・悪いけど、あんたに言われてもあんまり嬉しくないから」

「何してんだよ。勉強か? 誰かと待ち合わせ?」

「関係ないでしょ。特にあんたには」

 そしていつもの彼とのやり取りをしているうちに、ある事実に気が付きました。ワシオ君と会っていることがみんなに知れるとマズイということにです。わたしはその日、ウソをついて練習試合をサボって来ていたわけですから。

 彼には一刻も早く、ここを立ち去ってもらわねばなりませんでした。

「あんたこそ何してんの。サッサとどっか行ってよ!」

「お前こそカンケーねえだろ。オレがどこで何をしようと・・・ここは公共の場所ですから」

 またしてもこのクソ、ムカツク・・・。

「人と待ち合わせしてるの。あんたに関係ない人だから。だから、お願い。早く消えて」

「条件がある」

 コイツ・・・。

 三回ぐらいコロしてやろうかとさえ思いました。

「・・・なによ。どうせ写真でしょ」

「どうしてわかったんだ。超能力者か、お前は」

「バカにしてんの?」

「撮らせるのか。撮らせないのか」

「わかったわよ! いくらでも撮らせてあげるから。ただしエッチなのはダメだからね」

「オレは紳士だ。そんなことはしない」

「わかったら、サッサと消えて。早く!」

「何をそんなに慌てているんだ。・・・さてはお前、実はロシアのスパイか。これから機密情報の受け渡しするのか」

「・・・あんた、ナメてんの? それともフザけてんの?」

 思わず拳を握り締めました。

「わかったよ。約束、忘れるなよな」

 シッ、シッ。

 犬を追い払うようにしてヤマギシ君を追い立て、やっと一人になれました。

 三十分が経っていました。

 コーヒーでも買ってこようかな。館内の談話室には紙コップに注ぐタイプの飲み物の自動販売機があったことを思い出し、伝言板にメッセージを残して行こうと席を立ちかけた時、あの愛すべき声が自分の名前を呼びました。

「ハヤカワ!  ごめんな、遅れちまって。待ったか?」


 

 ワシオ君と二人で談話室へ行きました。

「いつもと見違えるな。まるで女優みたいだ」

 言葉としてはヤマギシ君のほうがよかったけど、言う男の子が違えば言葉の枝葉末節などは全く問題にはならないのです。

「ありがとう。・・・嬉しい」

 彼は恐らくはアメリカ軍の放出品だったのでしょう、迷彩色の防寒ジャケットの下にチェックのボタンダウンシャツとジーンズという姿でした。もちろん学校の詰襟姿以外の彼を見たのは初めてでした。足の長い彼にはジーンズがよく似合っていました。

「今日はギター持ってないんだね」

「だって、ここ図書館だろう。ここで弾き語りして利用者さんがみんな聞き惚れちゃうと司書さんの立場がなくなるじゃないか」

 こういう気の利いたウィットに富んだユーモアは彼独特のもので、他の男の子にはないものでした。

 コーヒーで落ち着いてから、連れ立って書架室に行きました。

 わたしはそれをはっきり「デート」だと思っていました。ワシオ君も同じだと思っていました。当時の他の学校の人のことは知りませんが、わたしの学校でいえば、高校生の男女が学校の外で大っぴらに逢瀬をするというのがどこか憚られる風があったのです。


 

 あの頃のことが気になって孫娘のパソコンを借りネットで調べました。

 ある調査によれば、1974年と2017年を比較して、異性とデートした経験を持つ女子高生の比率は昭和49年と平成29年では共に50パーセント台後半であまり変わりませんでした。しかしそれがキスや性交の経験率では、平成がそれぞれ40台、20パーセント台であったのに対し、昭和ではキスは20パーセント、セックスはたったの5.5パーセントしかありませんでした。平成の女子高生のクラスの五人に一人がセックスを経験していたのに対して、昭和の女子高生は20人に一人か二人という結果だったのです。

 わたしはその、どこか憚られる「二十人に一人か二人」のうちに入っていました。

 その最初の相手がワシオ君だったのです。


 

 そんな風潮がありましたから、初めての本格的なデートの場所が図書館というのもワシオ君らしい配慮だなと思っていたのです。図書館なら仮に誰かに見られても勉強をしに来たと言い訳が成り立つのでした。

 ですので、書架の間をゆっくりと歩く彼にどんな本を探しているの、などとヤボな質問をすることはありませんでした。黙って彼の後ろをゆっくりと付いて歩きました。むしろ「まだ将来何をやりたいのかわからない」天才のワシオ君がどんな本に興味があるのか好奇心全開でいたのです。

 哲学・宗教の文字がある書架の前で彼の足が急に止まりました。書架の本の背表紙をキョロキョロしていたせいで鼻を彼の肩に強かにぶつけました。

「あた・・・」

「おいおい・・・。大丈夫か」

「ライヨブ、はは・・・」

 ワシオ君の顔が鼻先5センチぐらいに接近し、むしろそっちの方の昂奮で鼻血が出そうでした。彼の身体からはほのかにお香の香りがしました。

 読書室に移り、顔を天井に向けたわたしの前でワシオ君は本を読みました。彼は時折心配そうにわたしの方を見ていました。せっかくのデートなのに彼に面倒と迷惑をかけこんな赤っ恥をかくなんて想定外も極みでした。彼が心配そうにわたしを見るほどに胸がキュンキュンと鳴りました。なんだか申し訳ない思いでいっぱいになってしまっていました。

「ほんろ、ごめんらはい・・・。顔面レシーうしたことらって何ろかあるひ、ライヨブらよ。・・・うふ」

 鼻をハンカチで抑えながら、わたしはワシオ君に微笑みました。

「でもさ・・・」

 ここでわたしの悪知恵が働きました。まだ夕方までには間があり、せっかく練習試合まで犠牲にしたのですからせめてモトを取って帰ろうとしたのです。

「もひひんぱいひてくれるらら、わひお君ろぎらーききらい」

「ぎらーきらい?」

「ギター。ぎらー、聞きたひ・・・」
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