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04 Django
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人がやっとすれ違えるだけの幅を残して舗道の両側には膝の高さまで雪が積み上げられて凍っていました。ギターケースを下げたワシオ君とわたしは並んで、人とすれ違う時は前後しながら歩きました。この街では季節で歩き方を変えねばなりませんでした。夏のように踵で着地して爪先で蹴る歩き方をすると簡単に滑って転んでしまうのです。多少ズリ足気味で、凍てついた舗道に脚を取られないようにしながら、駅までの道を歩いてゆきました。
特にその日のわたしは気をつけねばなりませんでした。なにしろ、クリスマスの近づく街の通りを、憧れのワシオ君と学校以外で初めて二人きりになっていたのです。ドキドキしてフワフワして、ともすると身体が宙に舞い上がってしまいそうで、上手く歩けなかったのです。
「ハヤカワは電車だよな。なるべく駅に近い店の方がいいだろ?」
「うん・・・。ワシオ君は歩き? バス?」
「駅の向こうなんだ。ここから四五分くらいかな、歩きで」
「へええっ! いいね、そんなに近い所におうちがあるなんて。ワシオ君ちって、お金持ちなんだね」
「オレ、そこに下宿してるんだ。実は家は東京なんだよ。オレは島流しになったのさ」
「島流し?」
白い息を商店の灯りやネオンサインや街灯の灯りに煌めかせながら、彼は笑いました。
駅に近づくにつれ舗道の雪かきの幅は広がり、二人で並んで歩いてもすれ違う人を気にしなくてもいいほどになっていました。
「じゃあ、一人で暮らしているの?」
「うん」
と、彼は言いました。
「でも、親戚の家がすぐそばにあってさ。朝と夜はそこでメシ、貰うんだ」
学校には遠方からの生徒のために賄いつきの寮もありました。各学年でヒトケタ程度の生徒がそこで生活をしていることを知っていました。
ですが、朝起きたら当然のように母の作ってくれた朝ごはんがテーブルに並んでいる。それが当たり前だと思っていたわたしには、彼の「島流し」という言葉と同様に、「メシを貰う」という言葉が歯の間に挟まった魚の骨のように、残りました。
大通りから一本脇にそれた通りにその小さな喫茶店はありました。
レンガ造り。濃い色の木の窓枠とドア。店内は温かく、濃いコーヒーの香りと煙草の煙、重厚な低音の響くモダンジャズの調べが流れる、大人の雰囲気溢れる店でした。いつもぎりぎりまで部活をして急いで着替えて駅に走る日々を繰り返していたわたしには、そこは別世界のように映りました。
「いい店だろ。一日おきにクラッシックとジャズを交互に流してくれるんだ。今日はMJQだね」
「エムジェーキュー?」
「何にする? ちなみにこの店のオリジナルブレンドはおすすめだよ」
パイプを燻らして音に聴き入る、恰幅の良いハゲ頭のおじさんや、何やら妙に深刻そうな大人のカップルの席の間をすり抜けるようにして、奥の四人掛けのボックスに座りました。
「じゃあ、おすすめで」
彼は壁際にギターケースを立てかけると注文を取りに来たジーンズのお姉さんにオーダーし、しばし目を瞑って音に聴き入り、自分の世界に籠っていました。わたしはそれを黙って見つめていました。見つめ合うなんて恥ずかしすぎました。彼の視線を感じずに彼を見つめていられるのがうれしかったのです。
「あ、ごめんな。これ好きな曲だったんだ」
陶酔から覚めて、彼は言いました。
「へえ・・・。ワシオ君てジャズも聴くんだ。ビートルズ専門かと思ってた」
「いい曲ならジャンルを問わず聴くよ。音楽が好きなんだ。ハヤカワは?」
訊かれて初めて気が付きました。
わたしにはそれまで音を楽しむという習慣がなかったのです。
「・・・好きっていうか、ビートルズも、知ってはいたけど、これがビートルズなんだって、初めてワシオ君に教えてもらったような気がする。
・・・やだ、ごめんね・・・。なんか、恥ずかしい・・・」
テレビやラジオで。音楽は世の中にあふれています。それなのに、わたしはそれまで音楽をBGM、その場の雑音程度にしかとらえていませんでした。そのことが何故か急に恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じていました。
「恥ずかしがらなくていいさ。でも、楽しくないかい。このバイブラホンの転がるような音。このベースの、なんかこう、身体の奥を揺さぶるような音。ただ、感じればいいのさ。フィーリング。感じることが大事なんだ・・・」
彼の言葉の通りに音に意識を集中させます。すると、たったそれだけのことなのに、音の一つ一つが心に響き、心が身体を動かすのを初めて感じました。
音を楽しむ。
その夜のワシオ君の言葉をきっかけにして、それまで、これはクラッシック、これはポップス、これはジャズというおおまかな括りでとらえて聞き流していたものを、じっくりと、まるで虫眼鏡で観察するように撫で、その中に浸かり、気に入った音は愛でるようになりました。
今まで知らなかった感覚でした。天才が凡才のわたしの閉じていた扉を一つ、開けてくれたのです。こういうのを「開眼」というのでしょうか。それまで閉じていた新しい目を開かされたような、そんな気分になれたのは初めてでしたワシオ君のまた別の一面を垣間見たような気がしました。
恋は、それまで知らなかった別の世界の扉を開いてくれるのです。
レコードが終わり、また別の一枚がターンテーブルに載せられるまでの間、わたしはやっと一息ついて顔を上げました。
「ごめんな。ちょっと興奮しちゃった。・・・でも、いい曲だろう」
わたしだけに見せてくれた、ワシオ君の別の顔です。いい曲でないわけがありませんでした。
コーヒーが運ばれてきて、そのおすすめのブレンドを味わいました。
「・・・美味しい」
「だろ?」
雲の上の存在だと思っていたワシオ君が、その日一日でぐっと近くまで降りてきて、すぐに手の届く存在に思えました。急に降って湧いたようなシンパシーを感じ、彼との距離がグッと縮まったような気がしました。
「ところでさ、」
と、急にワシオ君が口調を変えました。
「・・・うん?」
あまりなフワフワ感にどこか、上の空でした。
「あのさ・・・、ハヤカワは卒業したら大学に行くのか?」
「・・・え?」
突然の質問に戸惑いました。
わたしは答えを持ち合わせていませんでした。そのことに気づき、動揺してしまったのです。そんな質問をされるなんて考えてもいませんでした。
進学校に入ったのだから大学へ進むのが当然だと。敢えて考えるまでもないことだと。そう頭から思い込んでいたのです。上の二人の兄も当然のように大学へ行きましたし。どの大学に行くかは悩んでも、大学そのものに行くか行かないかなどを悩んだことはありませんでした。勉強と部活と生徒会の活動できりきり舞いしていて、そんな根源的な疑問など考えたこともなかったのです。
でもそれはわたしだけではなくあの高校に通うほとんどの生徒に当てはまることだったのではないかと思いますし、あの高校だけではなく、その当時の全国の多くの高校の、もしかすると、孫娘の世代で今も共通する現象なのではないかと思うのです。
「たぶん・・・。行くと思う・・・」
「そうか・・・」
「え、もしかして、ワシオ君は行かないの? 大学・・・」
「行かないって決めたわけじゃないんだけど、大学に行って何をしたいのか、まだわからないんだ。だから、オレ、高校卒業したら旅に出ようかなって思ってるんだ」
と、ワシオ君は言いました。
「旅?」
「うん」
とワシオ君は頷きました。
「大学ってところは勉強するところだろう。しかもより専門的に。自分で対象を探して、研究して、真理ってのを探求するところだろう。なのに、何をやりたいかもわからないのに、理系か文系かすら決めかねているのに、行くわけにはいかないじゃないか。だから旅に出て自分は何をしたいのかを考えようかなって思うんだ。旅に出ても出なくとも結果は変わらないかもしれないけどね」
透き通った彼の目を、ずっと見つめていたような気がします。
わたしには言葉がありませんでした。
目からウロコというか、改めて考えてみると彼の言っていることのほうが正論でした。まともでした。一部の、きちんとした目的意識を持っている人は別にして、他の大多数の生徒はただ盲目的にそれがただ一つの道だと信じて大学へ行き役所や会社に入ってゆきます。大学に入って適当に出席して単位を取って卒業論文さえ書いてしまえば、あとは遊んでいても構いませんし、そもそもいい大学に入るために中学高校と必死に勉強した見返りに、大学に入ったら大いに遊ぶことを目的にしている人も少なくないのです。そして彼のように、そうした風潮の中でそれはおかしいと大きな声で言うのはとても勇気のいることなのでした。
今にして思えば、ニ三年前まで吹き荒れていた学生運動も、その元は、そうした「風潮」の産物ではなかったのかという気がします。だから、あんなにも跡かたなく消えてしまったのではないのか、と。
「・・・でもさ、ワシオ君でも悩むことがあるんだね。ちょっと、安心した」
「どうしてハヤカワが安心するんだよ」
「だって、ワシオ君って何でもできるスーパーマンみたいなひとだと思ってたから・・・。わたしみたいな凡人とは違うって、思ってたから・・・」
「オレだって、普通の人間だよ。これでも普通に悩んだり普通に苦しんだりしてるんだけどなあ・・・」
「・・・ごめんなさい」
「なんだよ。謝るなよ。まるでオレがハヤカワをイジメてるみたいじゃないか」
ふとおかしくなってクスクス笑いました。ワシオ君も頬を崩して優しい目で包んでくれているようでした。その場の空気が堅い人生の話からホンワカしたわたし好みものに変わりました。
「オレさ、この世で信じられるものは何だろうかって、ずっと考えてたんだ」
と、彼は言いました。
「ハヤカワには、そういうのはある?」
「信じられるもの? う~ん、お母さんとお父さん、かな・・・」
「ハヤカワの家って・・・、いい家なんだなあ・・・」
「・・・そうかな」
「そうだよ」
そこで店に入る前に彼が言った「島流し」という言葉を思い出しました。
「で、ワシオ君は、見つけたの? 信じられるもの」
「うん。見つけたよ。・・・これさ」
急にワシオ君の手が伸びてきてわたしの手を取りました。
ドッキン!・・・。え?・・・。
テーブルの上のわたしの手を自分の掌の上に載せて、ワシオ君は黒いインクの滲みついたわたしの指先を撫でました。
「オレが信じるのはモノだと人だとか言葉とか何かの存在とかじゃないんだ。
これなんだ。これなんだよ、ハヤカワ。このインクの、滲みなんだ。・・・わかるかな」
彼の質問に答えるどころではありませんでした。
急に手を取られ彼と肌が触れ合い、その切なくて甘すぎる刺激に舞い上がりすぎ、思考が追い付いてゆけませんでした。動悸が激しく胸を打ち、今にも心臓が破裂しそうなほどでした。要するに、わたしのアタマと胸は大混乱に陥っていたのです。
「毎回必ず来て、ガリ版切って、真っ黒なインクをローラーに塗って、印刷する。
そういう手間のかかるメンドウなことをきちんとやってくれるのは役員の中でハヤカワだけだ。そういう行動は尊いし、信頼に足る。そう思わないか。少なくともオレは、そういうのを、信じてる」
彼の指が絡んで、わたしの手をがっしりと握りました。
「わかってくれるかな」
もう、気が遠くなりそうでした・・・。
「オレ、好きだよ。ハヤカワの、この、手・・・」
それはまるで愛撫でした。彼の指先が、まだ処女のわたしの手指を愛してくれているような、身体の全ての官能を呼び起こすような、そんな刺激に眩暈がし、気が遠くなりそうでした。
彼がレジでお金を支払うのを待つ間も、その大きな衝撃を持て余していました。
オレ、好きだよ・・・。
彼の言葉が身体じゅうに木霊していました。
なんてこと言ってくれるんだと、なんてことをしてくれるんだと、思いました。
こんな、突然に。しかも手に、肌に触れてくれちゃって。手を握り締めて。指を絡ませてくれちゃって。
このあと、どうしてくれるんだと。この胸のバクバク、ドキンドキンを・・・。
今晩眠れるかどうか、自信がありませんでした。
あまりにも動揺し過ぎて口が利けなくなっているわたしを振り返り、
「じゃ、行くか」
と、彼は言いました。
喫茶店を出た後、二人とも無言で歩きました。
手を意識せずにはいられませんでした。彼の手が去っていったあとの喪失感は大きく、どうにかしてもう一度彼が手を握ってくれないかなと思いましたが、自分から言い出すなんて無理でした。
そこから駅まではすぐでした。
毎日の登下校で駅から遠い学校を恨んでいましたが、初めて駅がもっと遠ければいいのにと思いました。わたしはただひたすら、再び彼が手を握ってくれるのを待ちました。
「・・・ごちそうさま。コーヒー、美味しかった」
そう言わねばならないときが来ていました。
何か話さないと、このまま今日が終わってしまうと思いました。また来週の会報作りまで彼とこうした時間を持てないと思うと切なすぎました。それはあまりにも酷でした。
「・・・そういえば、あの曲、どっちが作ったのかまだ教えてもらってなかったね。ポールか、ジョンか・・・」
すると彼は立ち止まり、再び手袋の上からでしたが、わたしの手を取りました。
ドキン!
「あ・・・」
「ハヤカワさ、明後日、今度の日曜日って、部活は終日? 午後空いてるかな」
大通りを、もうすぐ行われる冬季オリンピックの看板をつけた路面電車が通り過ぎて行きました。その灯りがワシオ君の顔をちょっとだけ照らして去ってゆきました。
「・・・たぶん・・・」
「図書館に付き合ってくれないかな。答えはそこで。いいか?」
思ってもみなかった展開にまたしばらく思考が止まってしまいました。
「ダメかな・・・」
わたしは夢中で首を振りました。
「ううん。大丈夫。・・・空いてる。空ける・・・絶対」
何が何でも。どんなことをしてでも。
そう固く心に刻みました。
「よかった。じゃ、日曜日一時に図書館で。いいか?」
「うん!」
「今日はありがとう。オレ、こっちだから。じゃな」
と、ワシオ君は言いました。
「・・・ハヤカワの手って、柔らかくて、あったけえな・・・」
ギターケースを下げて茶色いマフラーを巻いた彼の後ろ姿を見送りながら、どうしたら手を濡らさないでお風呂に入れるかを考えていました。
特にその日のわたしは気をつけねばなりませんでした。なにしろ、クリスマスの近づく街の通りを、憧れのワシオ君と学校以外で初めて二人きりになっていたのです。ドキドキしてフワフワして、ともすると身体が宙に舞い上がってしまいそうで、上手く歩けなかったのです。
「ハヤカワは電車だよな。なるべく駅に近い店の方がいいだろ?」
「うん・・・。ワシオ君は歩き? バス?」
「駅の向こうなんだ。ここから四五分くらいかな、歩きで」
「へええっ! いいね、そんなに近い所におうちがあるなんて。ワシオ君ちって、お金持ちなんだね」
「オレ、そこに下宿してるんだ。実は家は東京なんだよ。オレは島流しになったのさ」
「島流し?」
白い息を商店の灯りやネオンサインや街灯の灯りに煌めかせながら、彼は笑いました。
駅に近づくにつれ舗道の雪かきの幅は広がり、二人で並んで歩いてもすれ違う人を気にしなくてもいいほどになっていました。
「じゃあ、一人で暮らしているの?」
「うん」
と、彼は言いました。
「でも、親戚の家がすぐそばにあってさ。朝と夜はそこでメシ、貰うんだ」
学校には遠方からの生徒のために賄いつきの寮もありました。各学年でヒトケタ程度の生徒がそこで生活をしていることを知っていました。
ですが、朝起きたら当然のように母の作ってくれた朝ごはんがテーブルに並んでいる。それが当たり前だと思っていたわたしには、彼の「島流し」という言葉と同様に、「メシを貰う」という言葉が歯の間に挟まった魚の骨のように、残りました。
大通りから一本脇にそれた通りにその小さな喫茶店はありました。
レンガ造り。濃い色の木の窓枠とドア。店内は温かく、濃いコーヒーの香りと煙草の煙、重厚な低音の響くモダンジャズの調べが流れる、大人の雰囲気溢れる店でした。いつもぎりぎりまで部活をして急いで着替えて駅に走る日々を繰り返していたわたしには、そこは別世界のように映りました。
「いい店だろ。一日おきにクラッシックとジャズを交互に流してくれるんだ。今日はMJQだね」
「エムジェーキュー?」
「何にする? ちなみにこの店のオリジナルブレンドはおすすめだよ」
パイプを燻らして音に聴き入る、恰幅の良いハゲ頭のおじさんや、何やら妙に深刻そうな大人のカップルの席の間をすり抜けるようにして、奥の四人掛けのボックスに座りました。
「じゃあ、おすすめで」
彼は壁際にギターケースを立てかけると注文を取りに来たジーンズのお姉さんにオーダーし、しばし目を瞑って音に聴き入り、自分の世界に籠っていました。わたしはそれを黙って見つめていました。見つめ合うなんて恥ずかしすぎました。彼の視線を感じずに彼を見つめていられるのがうれしかったのです。
「あ、ごめんな。これ好きな曲だったんだ」
陶酔から覚めて、彼は言いました。
「へえ・・・。ワシオ君てジャズも聴くんだ。ビートルズ専門かと思ってた」
「いい曲ならジャンルを問わず聴くよ。音楽が好きなんだ。ハヤカワは?」
訊かれて初めて気が付きました。
わたしにはそれまで音を楽しむという習慣がなかったのです。
「・・・好きっていうか、ビートルズも、知ってはいたけど、これがビートルズなんだって、初めてワシオ君に教えてもらったような気がする。
・・・やだ、ごめんね・・・。なんか、恥ずかしい・・・」
テレビやラジオで。音楽は世の中にあふれています。それなのに、わたしはそれまで音楽をBGM、その場の雑音程度にしかとらえていませんでした。そのことが何故か急に恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じていました。
「恥ずかしがらなくていいさ。でも、楽しくないかい。このバイブラホンの転がるような音。このベースの、なんかこう、身体の奥を揺さぶるような音。ただ、感じればいいのさ。フィーリング。感じることが大事なんだ・・・」
彼の言葉の通りに音に意識を集中させます。すると、たったそれだけのことなのに、音の一つ一つが心に響き、心が身体を動かすのを初めて感じました。
音を楽しむ。
その夜のワシオ君の言葉をきっかけにして、それまで、これはクラッシック、これはポップス、これはジャズというおおまかな括りでとらえて聞き流していたものを、じっくりと、まるで虫眼鏡で観察するように撫で、その中に浸かり、気に入った音は愛でるようになりました。
今まで知らなかった感覚でした。天才が凡才のわたしの閉じていた扉を一つ、開けてくれたのです。こういうのを「開眼」というのでしょうか。それまで閉じていた新しい目を開かされたような、そんな気分になれたのは初めてでしたワシオ君のまた別の一面を垣間見たような気がしました。
恋は、それまで知らなかった別の世界の扉を開いてくれるのです。
レコードが終わり、また別の一枚がターンテーブルに載せられるまでの間、わたしはやっと一息ついて顔を上げました。
「ごめんな。ちょっと興奮しちゃった。・・・でも、いい曲だろう」
わたしだけに見せてくれた、ワシオ君の別の顔です。いい曲でないわけがありませんでした。
コーヒーが運ばれてきて、そのおすすめのブレンドを味わいました。
「・・・美味しい」
「だろ?」
雲の上の存在だと思っていたワシオ君が、その日一日でぐっと近くまで降りてきて、すぐに手の届く存在に思えました。急に降って湧いたようなシンパシーを感じ、彼との距離がグッと縮まったような気がしました。
「ところでさ、」
と、急にワシオ君が口調を変えました。
「・・・うん?」
あまりなフワフワ感にどこか、上の空でした。
「あのさ・・・、ハヤカワは卒業したら大学に行くのか?」
「・・・え?」
突然の質問に戸惑いました。
わたしは答えを持ち合わせていませんでした。そのことに気づき、動揺してしまったのです。そんな質問をされるなんて考えてもいませんでした。
進学校に入ったのだから大学へ進むのが当然だと。敢えて考えるまでもないことだと。そう頭から思い込んでいたのです。上の二人の兄も当然のように大学へ行きましたし。どの大学に行くかは悩んでも、大学そのものに行くか行かないかなどを悩んだことはありませんでした。勉強と部活と生徒会の活動できりきり舞いしていて、そんな根源的な疑問など考えたこともなかったのです。
でもそれはわたしだけではなくあの高校に通うほとんどの生徒に当てはまることだったのではないかと思いますし、あの高校だけではなく、その当時の全国の多くの高校の、もしかすると、孫娘の世代で今も共通する現象なのではないかと思うのです。
「たぶん・・・。行くと思う・・・」
「そうか・・・」
「え、もしかして、ワシオ君は行かないの? 大学・・・」
「行かないって決めたわけじゃないんだけど、大学に行って何をしたいのか、まだわからないんだ。だから、オレ、高校卒業したら旅に出ようかなって思ってるんだ」
と、ワシオ君は言いました。
「旅?」
「うん」
とワシオ君は頷きました。
「大学ってところは勉強するところだろう。しかもより専門的に。自分で対象を探して、研究して、真理ってのを探求するところだろう。なのに、何をやりたいかもわからないのに、理系か文系かすら決めかねているのに、行くわけにはいかないじゃないか。だから旅に出て自分は何をしたいのかを考えようかなって思うんだ。旅に出ても出なくとも結果は変わらないかもしれないけどね」
透き通った彼の目を、ずっと見つめていたような気がします。
わたしには言葉がありませんでした。
目からウロコというか、改めて考えてみると彼の言っていることのほうが正論でした。まともでした。一部の、きちんとした目的意識を持っている人は別にして、他の大多数の生徒はただ盲目的にそれがただ一つの道だと信じて大学へ行き役所や会社に入ってゆきます。大学に入って適当に出席して単位を取って卒業論文さえ書いてしまえば、あとは遊んでいても構いませんし、そもそもいい大学に入るために中学高校と必死に勉強した見返りに、大学に入ったら大いに遊ぶことを目的にしている人も少なくないのです。そして彼のように、そうした風潮の中でそれはおかしいと大きな声で言うのはとても勇気のいることなのでした。
今にして思えば、ニ三年前まで吹き荒れていた学生運動も、その元は、そうした「風潮」の産物ではなかったのかという気がします。だから、あんなにも跡かたなく消えてしまったのではないのか、と。
「・・・でもさ、ワシオ君でも悩むことがあるんだね。ちょっと、安心した」
「どうしてハヤカワが安心するんだよ」
「だって、ワシオ君って何でもできるスーパーマンみたいなひとだと思ってたから・・・。わたしみたいな凡人とは違うって、思ってたから・・・」
「オレだって、普通の人間だよ。これでも普通に悩んだり普通に苦しんだりしてるんだけどなあ・・・」
「・・・ごめんなさい」
「なんだよ。謝るなよ。まるでオレがハヤカワをイジメてるみたいじゃないか」
ふとおかしくなってクスクス笑いました。ワシオ君も頬を崩して優しい目で包んでくれているようでした。その場の空気が堅い人生の話からホンワカしたわたし好みものに変わりました。
「オレさ、この世で信じられるものは何だろうかって、ずっと考えてたんだ」
と、彼は言いました。
「ハヤカワには、そういうのはある?」
「信じられるもの? う~ん、お母さんとお父さん、かな・・・」
「ハヤカワの家って・・・、いい家なんだなあ・・・」
「・・・そうかな」
「そうだよ」
そこで店に入る前に彼が言った「島流し」という言葉を思い出しました。
「で、ワシオ君は、見つけたの? 信じられるもの」
「うん。見つけたよ。・・・これさ」
急にワシオ君の手が伸びてきてわたしの手を取りました。
ドッキン!・・・。え?・・・。
テーブルの上のわたしの手を自分の掌の上に載せて、ワシオ君は黒いインクの滲みついたわたしの指先を撫でました。
「オレが信じるのはモノだと人だとか言葉とか何かの存在とかじゃないんだ。
これなんだ。これなんだよ、ハヤカワ。このインクの、滲みなんだ。・・・わかるかな」
彼の質問に答えるどころではありませんでした。
急に手を取られ彼と肌が触れ合い、その切なくて甘すぎる刺激に舞い上がりすぎ、思考が追い付いてゆけませんでした。動悸が激しく胸を打ち、今にも心臓が破裂しそうなほどでした。要するに、わたしのアタマと胸は大混乱に陥っていたのです。
「毎回必ず来て、ガリ版切って、真っ黒なインクをローラーに塗って、印刷する。
そういう手間のかかるメンドウなことをきちんとやってくれるのは役員の中でハヤカワだけだ。そういう行動は尊いし、信頼に足る。そう思わないか。少なくともオレは、そういうのを、信じてる」
彼の指が絡んで、わたしの手をがっしりと握りました。
「わかってくれるかな」
もう、気が遠くなりそうでした・・・。
「オレ、好きだよ。ハヤカワの、この、手・・・」
それはまるで愛撫でした。彼の指先が、まだ処女のわたしの手指を愛してくれているような、身体の全ての官能を呼び起こすような、そんな刺激に眩暈がし、気が遠くなりそうでした。
彼がレジでお金を支払うのを待つ間も、その大きな衝撃を持て余していました。
オレ、好きだよ・・・。
彼の言葉が身体じゅうに木霊していました。
なんてこと言ってくれるんだと、なんてことをしてくれるんだと、思いました。
こんな、突然に。しかも手に、肌に触れてくれちゃって。手を握り締めて。指を絡ませてくれちゃって。
このあと、どうしてくれるんだと。この胸のバクバク、ドキンドキンを・・・。
今晩眠れるかどうか、自信がありませんでした。
あまりにも動揺し過ぎて口が利けなくなっているわたしを振り返り、
「じゃ、行くか」
と、彼は言いました。
喫茶店を出た後、二人とも無言で歩きました。
手を意識せずにはいられませんでした。彼の手が去っていったあとの喪失感は大きく、どうにかしてもう一度彼が手を握ってくれないかなと思いましたが、自分から言い出すなんて無理でした。
そこから駅まではすぐでした。
毎日の登下校で駅から遠い学校を恨んでいましたが、初めて駅がもっと遠ければいいのにと思いました。わたしはただひたすら、再び彼が手を握ってくれるのを待ちました。
「・・・ごちそうさま。コーヒー、美味しかった」
そう言わねばならないときが来ていました。
何か話さないと、このまま今日が終わってしまうと思いました。また来週の会報作りまで彼とこうした時間を持てないと思うと切なすぎました。それはあまりにも酷でした。
「・・・そういえば、あの曲、どっちが作ったのかまだ教えてもらってなかったね。ポールか、ジョンか・・・」
すると彼は立ち止まり、再び手袋の上からでしたが、わたしの手を取りました。
ドキン!
「あ・・・」
「ハヤカワさ、明後日、今度の日曜日って、部活は終日? 午後空いてるかな」
大通りを、もうすぐ行われる冬季オリンピックの看板をつけた路面電車が通り過ぎて行きました。その灯りがワシオ君の顔をちょっとだけ照らして去ってゆきました。
「・・・たぶん・・・」
「図書館に付き合ってくれないかな。答えはそこで。いいか?」
思ってもみなかった展開にまたしばらく思考が止まってしまいました。
「ダメかな・・・」
わたしは夢中で首を振りました。
「ううん。大丈夫。・・・空いてる。空ける・・・絶対」
何が何でも。どんなことをしてでも。
そう固く心に刻みました。
「よかった。じゃ、日曜日一時に図書館で。いいか?」
「うん!」
「今日はありがとう。オレ、こっちだから。じゃな」
と、ワシオ君は言いました。
「・・・ハヤカワの手って、柔らかくて、あったけえな・・・」
ギターケースを下げて茶色いマフラーを巻いた彼の後ろ姿を見送りながら、どうしたら手を濡らさないでお風呂に入れるかを考えていました。
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