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エピローグ
最終話 エピローグ
しおりを挟む「帆を畳めー! 碇降ろせー! 」
一隻の風帆船が静かにエメラルドの入り江に入ってきた。
短艇(カッター)が降ろされ、水兵たちがオールを漕ぎ始めた。
巨大な低気圧はもう去った。大きかったうねりも収まり、今は穏やかな波が浜辺に打ち寄せていた。
オスロホルム港から東に100カイリ以上も離れた孤島。
旧文明の末期にはボリシェヴィク島と呼ばれていた島がある。
当時のメルカトル図法の地図を見ると、水没してしまったヤーパン列島のホッカイドーよりもはるかに大きく見えるが、実際にはその1/8程度の広さ。
今はアザラシと野生化した羊が何百頭か住んでいるだけの無人島である。
短艇を漕いでいるのはノール海軍の水兵。艫(とも)で舵を握っている水兵の他に3人、漕いでいない者が乗っていた。
そのうちの二人は男。いずれも黒い官服を着けこれも黒いトリコーヌを被っていた。
2人の内の一人はアンドレという。
つい先日までグロンダール卿配下の特別警察の職員だった。だが、今は同僚の内務省の職員と2人、絶海の孤島に上陸しようとしている。
表向きは栄転だった。俸給も増した。だが仕事は、あまり大っぴらにできない、特に特別警察がらみの雑用、後始末を行うという、実にタイクツなものだった。
その日の彼の任務は、一人の中年女性の囚人を島に護送する役目であった。
女の名前はソニア。ほんの数日前まではこのノールの絶対権力者だった女だ。だが今は煌びやかなドレスの代わりにみすぼらしい囚人服に身をやつした哀れな境遇に落ちていた。
「そこの男。もう一度言うが、悪いようにはせんから、見逃さぬか。礼は妾(わらわ)が後宮に戻ってからいくらでもする! 大臣に取り立ててやってもよい! 」
まだ諦めんのか。つうか、自分の立場が分からんのだろうか。往生際が悪すぎる!
そんな軽蔑の眼差しをアンドレは女に送った。
短艇の舳先が砂地に着いた。
銃を装備した水兵の護衛のもと、アンドレと同僚は女を引き立て舟から降ろし、波打ち際まで来ている低い灌木の連なりまで歩かせた。
「何ならいますぐ妾(わらわ)を抱いてもよい! 聞いておるのか! 」
アンドレは女囚人の手枷を外しながら、やっと返事をした。
「人にものを頼むのに、その言いぐさはなんだ」
ちょっと前ならば到底利けるはずのない言葉を、彼は吐いた。閑職にトバされた身にちょっとだけカタルシスを得ることができた。
「第一、まだお前を抱きたいなどという男がいると思うのか。アザラシか羊ならたくさんいるから、いくらでも相手にしてもらうがいい」
砂浜にペッと唾を吐いて、同僚に目配せした。
「この、無礼者めが! 」
ズダーンッ!
激高してアンドレに掴みかかろうとしたソニアは、水兵の威嚇射撃で身を引いた。
なにかもうひとつ言ってやろうかとは思ったが、声をかけるのもバカバカしいと思いなおし、すぐに短艇に戻った。これで彼の役目は終わりである。
これからこの人っ子一人いない孤島で、あの女がいかほど生き永らえるのか知らんが、別段興味もない。
浜辺を離れる短艇の上から、しばらくは恨みがましい目を送ってきていた女の姿を眺めていたが、それにも飽きて背を向けた。これから彼もまた、しばらくはタイクツな役所仕事に明け暮れねばならないのだ。ただでさえユーウツな気分を余計に害したくはなかった。
グロンダール卿は、いささか疲れていた。
王宮の国王の書斎「晴嵐の間」で、やっと今、今回の事の顛末の全てを報告し終えたところであった。
常ならば王宮の広間で。内密ならばこの国王の書斎で、ノールの国旗を背にデスクに掛ける国王に対し、各大臣皆起立したまま催す閣議だったが、その日は出席した大臣も内務卿と外務卿そして彼のみで、国王と彼の密かな配下、侍従であるクリストフェルの5人だけの極秘の会談であったため、全員がソファーに掛け、出来るだけ声を潜めたものになっていた。
「なんと・・・」
そう呟いたまま、あとはただ絶句している若き国王スヴェンの苦衷を思い、彼もまた、恭しく拝奉した。
一座の沈黙を破ったのは、例によって外務卿ワーホルム伯爵だった。
「事の性質上、やむを得ない仕儀であったかとは思うが、せめてひとこと、われらに知らせていただきたかった・・・」
隣に掛けた内務卿のシェルデラップ侯爵もまた、外務卿の言葉に無言で頷いた。しかし、彼は万事如才ない。
「左様。我ら国政を預かる長たる者。卿のお気持ちもわからんでもないが、今の卿ご自身の言葉の通り、任務の性質上、やむを得ない処置であったことは否めませんでしょうな」
急な招集にも拘わらず、銀のウィッグの下は白粉につけボクロのたしなみだけは忘れぬ男だった。
それにしても、若き君主、スヴェンの落ち込みようは、傍目にも気の毒なほどであった。
つい4日前には実の母の流刑を眉ひとつ動かさずに承認したというのに。
「この皇太后の軽挙妄動。ノールの賓客、帝国貴族を密かに弑せんとした暴挙は、まかり間違えれば帝国との間に深刻な国際問題を引き起こしていた。たとえやんごとなき身分であったとしても、いや、余の実の母である立場だけに、許しがたい! これまでの専横で官吏や衆を惑わせ苦しめてきた所業も重々不届きである! 極刑を宣してもまだ飽き足らぬところだ! 」と。
だが、その次の日の突然の訃報が、彼を地獄のどん底に突き落としていたのだ。
あの日。
バロネン、女男爵ヴァインライヒ卿は、ハーニッシュたちの武装蜂起を収めるや否や、にわかに病に倒れた。
国王自ら王都内の帝国大使館まで彼女を護衛し、帝国大使ルントシュテット伯爵に、
「余はすでにイングリッドと、内々にではあるが、婚儀の約束までした! 本来ならノールにて介護し、本復するまで余自ら看護したい! だが、イングリッドは帝国貴族。余も国王という立場がある以上、それは叶わぬ願いと思う。どうかくれぐれも手厚く療養されたく! 余は是非とも再び、イングリッドのあの笑顔にまみえたいのだっ! 」
そう懇願していたほどだったのだ。
しかし、それは叶わぬ願いであった。
スヴェンは棺の中のイングリッドにまみえることはできた。でも、最後のキスは、許されなかった。
ルントシュテット大使は丁重に諫めた。
「恐れながら、バロネンの死因には重篤な伝染病の疑いがあるとのこと。玉体に万一のことあらば一大事にて、伏して御勘如願う次第にて・・・」
そして昨日。
帝国海軍巡洋艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」に棺が載せられ、港をでていくのを、グロンダール卿と共に親しく見送ったばかりだった。
その、昨日の今日である。
「なんだと? イングリッドは、ノルトヴェイトの末裔などではない、帝国の諜報員、エージェントであったと申すのか! 」
すべては、ノールの国体を脅かす革命分子を抹殺するため。
だが、アタマでは理解できても、心がそれを許さない。
可哀そうだが、時が傷を癒してくれるのを、待つしかないであろう。
それが、その場に集う3人の大臣の等しく思う懐中であったが、もちろん、誰ひとり、そんな不敬を口にする者はなかった。
最後に、グロンダールが言った。
「そこで陛下。かねてより考えておりましたが、この際わたくしも特別警察の職を辞したいと思います。なにとぞ御裁可賜りますよう」
呆然としていたスヴェンは俄かに頬に赤みを取り戻し、居住まいを正した。
「なんだと! 卿も辞めると申すのか! 」
「左様でございます、陛下。それにこれは必要でもございます。
いかにノールのためとはいえ、陛下を謀り、大臣方を欺き、皇太后陛下の御命令とはいえあまりに多くの無実の方々をその職から遠ざけ、捕縛してきた罪はひとえにわたくしが負わねばなりません。
どうか、伏してお許し賜りますよう」
「なんと・・・」
そしてまた、国王は絶句した。
「で、後任の特別警察長官でありまするが、わたくしはこの者を推挙いたしたく、陛下と皆々様のご賛同を賜れば幸いにて・・・」
グロンダールがテーブルの上に置いた身上書に内務外務の大臣が額を寄せるように見入ってもなお、スヴェンの絶句は続いていた。
3人の大臣が退出してゆくと、やっと青年王は口を開いた。
しかも、目に大粒の涙を溜めて。
「クリストフェル・・・。余は、ぼくは、どうしても、どうしても、忘れられない! 諦めきれないよ!
イングリッド、じゃなくて、マルスか。
それでもいい! 帝国のエージェントでもなんでもいいんだ!
どうにかして、もう一度、彼女に会えないかな!」
3大臣を見送ったクリストフェルは再びスヴェンの傍に掛けた。弟のような可愛い国王。その手を取り、そっとその肩を抱きしめた。
「申し訳ありませんが、今は、耐えることです陛下。国王たるお立場では、それしか道はないものと・・・」
「帝国の皇帝に頼めばダメかな。手紙を書く! 届けてもらえるよう、手配してくれ! 頼むよ、クリストフェル! 」
青年王の肩を抱きつつ天井の片隅を見上げた国王付き侍従にしてグロンダール卿の配下クリストフェルは、まだ心根の幼い国王に聞こえないよう、小さな溜息をついた。
次の日。
王都オスロホルムの市街を囲む城壁を出た一台の粗末な馬車があった。
乗っているのはただ一人。
すでに官職を辞し、黒の官服の代わりに紺のコートに身を包んだスキンヘッドの初老の男だった。
馬車はゆっくりと西を目指した。
キャビンに揺られつつ、グロンダールは長かったミッションを振り返った。
返す返すも帝国の助っ人を得られたことは幸運だったし、それを進言した彼の後任の意見を受け入れてよかった。
「アクセルはどうも先走り過ぎるきらいがある。メインにはしない方がいいでしょう」
もし当初の計画通りにアクセルをメインにしていれば、ミッションの成功は覚束なかったかもしれない。
しかし、犠牲も払った。
最後の大捕り物で何人かを死傷させた。そして、アクセルも。
アクセルは、拷問の折の負傷がもとで救出の次の日に死んだ。「マルス」には最後まで伝えなかったが、それでいいと思った。
「いずれ時が経てば自ずと知れるでしょう。それが、この稼業の悲しいところではありますが」
彼をミッションのメインから外した後任者も電信で知らせてくれた。そのことも、グロンダールの心を幾分か慰めた。
途中、宿を取り、次の日にはハーニッシュの居留地に入った。
習わし通りに窓のシェードを下ろし、その隙間から農作業の粗末な黒服の民びとたちを垣間見た。
あの一斉蜂起の猛々しさなど微塵も感じさせず、彼らハーニッシュ達は黙々と日々の糧を得る生業に勤しんでいた。
あの蜂起が沈静して間もなく、長老ハンヴォルセンの訃報に接した。
すでに次の長老には別の者が就いたことだろう。それらの動静もまた、彼の次の長官がよろしく差配し運営してゆくに違いない。
とにかく、一切の刺激をせぬこと。
このハーニッシュ達を平穏のままにしておくには一にそれが肝要なのだ。
その思いを新たにし、彼は深く座席に沈んだ。
そうして、馬車は国境を越え、帝国領に入り、山を下った。
ライプチヒに入るのはもう何十年ぶりかになる。
オスロホルムやノールの多くの街に似て、ライプチヒもまた、いくつかの低い尖塔を持つ古い街並みを持っていた。
そのもっとも大きな建物の前に、馬車は止まった。
下男とノールよりはるかに軽装の制服に身を包んだドアマンたちに荷物を運ばせつつ、ホテルのフロントでチェックインを済ませ、フロントの横にある、あまりにも簡単すぎるイミグレーションで書類だけの手続きをしていた時。
「お客様。あちらのお客様から、これを」
ベルボーイが示した紙片を開くと、ノール語で短くこうあった。
「Velkommen (ヴェルコメン。ようこそ)! 」
帝国のスパイマスターは、はるばるノールから来た前スパイマスターを親しく歓待した。
東に聳える国境の山々を眺める見晴らしのいいラウンジの片隅で、二人のスパイの親玉は額を突き合わせるようにして小声で挨拶を交わした。
「此度(こたび)は本当に世話になりました。多少のギセイは伴いましたが、おかげさまで大蛇を仕留めることができました。改めて閣下と『マルス』にお礼申し上げます」
「お互い様です」
ウリル少将はアイボリーのテュニカの上に分厚い赤と緑のチェック柄のショールを巻いたこの地方独特のいでたちでグロンダールを迎えた。
「作戦の成功で、帝国もまた動員をかければ費やされるはずだった多大な軍費と損害を回避できたのですから。むしろ代わりにそれを為してくださった。我が皇帝陛下もすこぶるお喜びの様子でありました」
「それはなにより。そのお言葉で、こちらも心休まる思いが致します」
コーヒーとハーブティーが運ばれてきたのを潮に、型通りの挨拶がより詳しい情報の交換に、機密を要するものに変わった。
「時に、引退をされると伺いました。後任は、やはり、あの方で? 」
「これは参りましたな。もうお耳に? 」
「まあ、お互い、それが仕事でありましょう」
「左様です」
グロンダールはカップにブラウンシュガーのかけらを2つほど入れ、ソーサーを取りスプーンを使った。
「あの男なら、後を託せます。もう、お会いになっていますね」
「はい。クィリナリスにもおいでいただきました。彼なら、信頼できます。短い時間に『マルス』にずいぶん仕込んでいただきました。おかげでアヤツも無事に任務を果たせました」
「そうですか。それを聞いて、安心しました。それでわたくしのこの『引退旅行』の目的も大部分果たせました」
「お互いの信頼が、最も重要ですからな」
少将もまたカップから立ち上る香りを愉しみ、口をつけた。
「情報収集も、ですな。お互いに」
「お互いに」
2人のスパイマスターは同時に不敵な笑みを浮かべた。
「閣下より詳細をいただいてから、いろいろ調べました。『もぐら』のことです」
「はい」
「ヤツは、ニコライ・ヴァシリエビッチ・メンデレーエフは、確かに我が第十三軍団の軍籍簿に記録が残っておりました。
徴兵は規定通り終えたようですが、どうも帝都スブッラのヤミ賭博場で多額の借金をこさえたようですな。首が回らなくなって姿を消したのだと思われます。元々天下国家を憂いたり希死念慮(きしねんりょ)※1 のようなものがあったのかどうかは、定かではありませんがね」
「やはり・・・。どうせそんなところだろうと思っておりました。ああした手合いというのは多くの耳目を惹きつけるためにことさらに自分を飾り立てるものです。なるほど。そうした輩でしたか・・・」
「たとえ親や先祖が奴隷であっても、真っ当な生業(なりわい)を持ち、真っ当に伴侶と家族を得て、真っ当に、神々に恥じぬ暮らしを営み、人生を謳歌して生きている者はこの帝国にもノールにも大勢いるでしょう。ヤツは単なる甘えのゴロツキだったのですな。
で、大司教のほうは?」
「閨の技で後宮を壟断していた割には胆力のない男でしてね。大聖堂の壁の中に隠れスペースがあったのですよ。マルスが教えてくれて、見つけました。鉱山での終身労働刑で処置しました」
「なるほど」
グロンダールはソーサーを置いて話題を変えた。
「時に閣下。『マルス』は今どちらに? もう着いた時分でしょうね」
「ええ。そろそろマルセイユに着くはずです。その艦が、折り返しバカンスを楽しんだ方々を貴国にお送りする手はずになっています」
「出来れば、直に会って労苦を労いたいものですが・・・」
「そうですか。それを聞けば、アヤツも喜ぶでしょう。が・・・」
が・・・、の後の続きを、グロンダールは目で促した。
少将は、とぼけたような顔を東の山々に向けて呟いた。
「残念ですが、アヤツはすぐに次の任務に就く予定でしてな」
「そうですか・・・」
「根っから任務が好きなのですよ、アヤツは」
「うえっくしょいあうんっ! 」
晴れ上がった南国の空と煌めく海、そして爽やかな海風。
救難連絡艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」の艦上。ブリッジの端で壁に背中を預け片脚を操作卓の縁に上げて風に身を任せていたヤヨイは、まるでどっかのオヤジみたいな大きなくしゃみをした。
「どうした、少尉。風邪か?」
舵を握る水兵の後ろで操艦指揮を執っていた艦長のムスリ少佐は、陸軍のカーキ色の軍服のヤヨイを振り向いた。
キール港で低気圧をやり過ごした「シュペー」は再びオスロホルム港に向かい、棺桶に入ったヤヨイを積み込んで帰国したのだった。似顔絵を運んだり棺桶を運んだり。「シュペー」はなにかとわけのわからない雑用の多い艦(ふね)だった。
「ええ、なんか、ちょっと。ズル。きっと、ドライアイスと一緒に棺桶に入っていたせいですわ。ズル。棺桶で寝るのは人生で初めてだったので、ちょっと動揺したのかもしれません、ズル・・・」
いつも仏頂面で神経質なムスリ少佐も、ヤヨイのジョークには破顔した。
「はは! じきにマルセイユ港に入港する。オカの医者に診てもらうといい」
やっと「男装の貴族令嬢」の衣から、慣れた軍服に着替えられたヤヨイだったが、髪はまだ金髪のままだった。それに奥歯の毒薬もそのまま。医者に行く前に、まずはそれらを始末しなければ。そして、それよりも何よりも、今は、一刻も早く、タオに会いたい!
しかし、である。
ヤヨイには、それにもましてさらに片づけておかねばならない一事があった。
艦が母港のキールではなく、帝国本土の西、マルセイユに入港したのは、そのためにはちょうどよかった。
桟橋に接岸するとすぐ、ヤヨイは棺桶と一緒に下艦した。
彼女と入れ替わりに、真っ黒に日焼けした数十人の背の高い一団が乗艦していったが、 もちろん、ヤヨイにはそれらの人々の目的や行く先などは知るはずもない。もうミッションは終わったのだ。
これは余談だが。
その「真っ黒に日焼けした一団」とは。
ウリル少将がグロンダール卿に話した「バカンスを楽しんだ方々」を指す。
先に皇太后の命で多数の無実の者がグロンダール卿の組織に捕縛されていたことはすでに述べたが、彼ら彼女らはノールの刑務所に入れられていたのではなかったのである。
これもウリル少将の手配で、密かに、帝国のリゾート地でもありヤヨイが中途半端なハネムーンを過ごしたマルセイユの保養地に送られ、滞在していたのだった。
南国だから、日々ショアで日焼けしたり寝そべって本を読んだりすることの他にやることがなかった。そのお陰で、無実の罪で捕縛された人々は皆真っ黒に日焼けし、多少体重が増加してもいた、というわけなのである。
だが、それら背の高い日焼けした一団の中の、ショールを深く被った、ひと際長身の男にはさすがのヤヨイも気づかなかった。
「シュペー」は、今来たばかりのオスロホルムに再び向かい、マルセイユから乗艦した日焼けした一団を港に下ろした。
その「ショールを深く被った長身の男」は、下艦する前に黒いコートに半ズボンのブリーチズというノール官吏伝統の制服に着替え、真っ先に王宮に向かった。国王より親しく信任状を授与されるためである。
王宮の大広間で、背の高い金髪の男はノール国王に拝謁し、恭しく礼をした。
「この度、特別警察長官を拝命いたしました、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ※2でございます。これより、粉骨砕身、この身を擲(なげう)って職務にあたる所存でございます! 」
ノール国王スヴェンの27世は信任状を授与するとともに、この新しい「秘密警察長官」に爵位も授けた。新しいノールの「スパイマスター」は、新たに伯爵家を興すことになった。
さて、ヤヨイである。
下艦するや、ヤヨイは彼女の家と勤め先のある帝都にではなく、チナ戦役で新たに帝国領となった旧チナ領へ、さらに西に向かった。
彼女の夫であるラインハルト・ウェーゲナー陸軍中尉が、新領地の主要都市のひとつであるアイホー駐在の陸軍事務所に勤務していたからだ。
今回の彼女の任務でもっとも印象に残ったのは、「もぐら」でも国王でもない。
恋人を一途に想う、ノラの存在だった。
オスロホルム港を出るまで身を寄せていた帝国大使館でペールの死を知った。それ以来、最愛の恋人を喪ったノラの心情を思うたびに胸が傷んでいたのである。
ゴルトシュミットやかつてのノルトヴェイト家臣の末裔たち、ハーニッシュの長老ハンヴォルセンや若き国王など。ノールを去るにあたって是非もう一度あいさつしたい人たちは大勢いた。
だが、ヤヨイの任務の関係上、そんなことが叶うわけもないこともまた、知っていた。
今後未来永劫、限られたごく少数の人たちを除いて、ノルトヴェイトの正体が帝国のエージェント、ヤヨイであることは絶対に知られてはいけないのである。これも、スパイの悲しさ・・・。
でも、ノラにだけは、もう一度会いたかった。
彼女は、ノラは、ヤヨイの中で燻っていたこだわりを断ち切ってくれた恩人だったから。
ヤヨイは今、そのこだわりとしがらみをキレイに清算するために、西に向かっていたのだった。
アイホーの駅に着いてすぐ。
ヤヨイは駅近くにある陸軍事務所に向かった。
「あの、ラインハルト・ウェーゲナー中尉はいますか? 」
事務所の受付で、手近にいた女性の曹長に尋ねた。
「少尉殿、恐れ入りますが姓名をお願いします」
「ヤヨイ・ヴァインライヒです! ウェーゲナーの、妻です! 」
先のチナ戦役でも、官姓名を名乗ると、
「おお! 貴官があの『アイゼネス・クロイツ』の英雄か! 」
が始まってしまい、質問攻めや握手攻めに遭うことが多かったからそれは覚悟していたのだが、この事務所では、何かが違った。
受付の背後に幾人かの軍服が机に向かって執務していたのだけれど、どうも、みんなよそよそしいのである。
「ちょ、ちょっと、お待ちください、少尉殿!」
逃げるように奥に入った曹長を待つこと数分。
その間、彼女はいろんな人の机を回って何かを尋ねているように見えた。で、尋ねられた下士官や士官たちがみんなメイワクそうな雰囲気を醸し出したりしているのである。
どうしたんだろ・・・。
妻が夫の勤務先に来ちゃいけないという軍律はなかったはずだが・・・。
などと思っていると、一番奥に座っていた事務所の所長らしき男の大尉が気まずそうにやってきてこう言った。
「あー、すまんが、彼は今日、非番なのだ」
と言った。
「では宿舎を教えてください」
すると、今度は明後日の方を向いて嘯(うそぶ)いた。
「あ、あのな、少尉。余計なことかも知らんが、今日は行かない方がいいと思うがな」
「は? 」
「あ、いや、その、日を改めて、だな」
「大尉! わたしは、彼の妻です! 妻が夫の許へ行くのになぜ日を改める必要があるのですか?! 」
「ま、その・・・、その通りなんだが・・・」
そんな問答をしていても、一向に埒があかない。
「わかりました。では、日は改めますのでとりあえず宿舎を」
ところが、それも本人の同意が無ければダメ、教えられないという。そんな、バカな!
「もういいです! 自分で調べます! 馬を貸してください!」
死線を超えた任務を終えて、休む間もなく来て、この対応か!
辛うじてブチ切れるのを抑え、事務所の建物を出たところに、さっきの受付の女性曹長が追ってきた。
「少尉! 待ってください! 」
「? 」
なにがなんだかわからないがよくよく話を聞いてみるとマジでブチギレそうになった。
「なんですって?! 現地妻あ?! 」
「そうなんです! 士官下士官の妻帯者で単身で来てるひとたち、全部なんです! 占領したばかりで貨幣価値が天と地で。みんなこのあたりの女の人を囲ってるんですよ、イヤらしいっ!
で、奥さんが訪ねてくると、ああやってみんなでかばい合うんです! も、あたしたちアタマに来てて! 今度転属願い出すつもりなんです! 」
「ちょっと待って。じゃ、ウチのも、ってこと? 」
「これ、宿舎の住所です! それとこれもっ! 」
「ナニコレ? 」
「もし宿舎においでにならなければ、行ってみてください。ただし、血管ブチ切れないように、ご用心になってください! 」
曹長からもらったメモ。宿舎は留守だった。
で、馬を飛ばしてもう一枚のメモの住所を訪ねた。
中に入らなくても、その街道沿いのチナ街風の店の性質はわかった。店の看板が帝国語とチナ語で書いてあった。
「Jäger der Liebe 愛的獵人」
愛の、狩人・・・。
曹長のアドバイスもあったのに、ヤヨイは完全に、ブチ切れた!
なにこれ! 淫売宿じゃないのっ!
「ごめん下さい! 」
アクセルと待ち合わせしたノールの淫売宿よりはるかにセンスの悪い、いかがわしさ1000%の、悪所!
暗い店内にはいろんな色の紙で葺いた小さな行灯が吊るされてて、なにやらクラクラするような煙も充満してて、怪しげな弦の響きが聞こえてくるような、そんな店内。
何かの植物のタネをスダレにしたのをじゃららと掻い潜って受付で待っていると、ヤヨイよりちっちゃいのにヤヨイより出るとこ出まくっている化粧の濃すぎるちょっと歳の行った紫の身体の線がバッチリ出てるドレスのチナ女が出てきた。
「あら、Hallo(ハロ)、Willkommen、歡迎 ファンニン・・・。稼ぎたいのね? 最近多いのよ、帝国兵の女。今月はあんたで5人目かな。ウラへ回って。ここ店先・・・」
危うく必殺技の左まわし蹴りを繰り出しそうになったけど、なんとか抑えた。
「違いますっ! 」
「アラ、チナ語喋れるのね。じゃ、何しに来たの? 」
「ダンナを探しに来たの。部屋、全部見せてもらうわよ! 」
無理やり奥に入ろうとすると、胸をドンと押された。
「ちょっと、チョーシに乗らないで! 見せられるわけ、ないでしょ? 帰りな、お嬢ちゃん! でないと用心棒呼ぶわよ!」
「何人でも何十人でも呼べば? 全員返り討ちにしてやるから! 」
「ちょっと! 店先で何してるのさ! 」
すると、店の奥から同じチナドレスの北欧系の美女が出て来て、度肝抜かれた。
「あ、あなたは! 」
危うくコードネームで呼びそうになったが、それだけは辛うじて踏みとどまった。
「あら! 『アイゼネス・クロイツ』じゃないの! 」
奥まったところにある、彼女の執務室のようなところに通された。
ノール風でもなく、帝国風でもなく、チナ風でもない。店内のゴテゴテの淫靡な風とは隔絶の感がある、白い珪藻土を塗り込んだ、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
ウォッカのストレートを勧められたけれど、断った。
ヴェンケ、いや、「ジュピター」は、落ち着いた風情で長いキセルに紙巻タバコを差し込むと、蝋燭の火で煙を吐いた。
「そう。無事任務完了ってわけね。おつかれさま。ま、落とし穴に落とされてメソメソしてたわりには、健闘したんじゃないの? 」
助けられた立場だから、反駁もできない。実際、その通りだったから。
「でも、まさかこんなところで貴女にお会いするとは、思いませんでした」
「ホントよね、うふ」
ジュピターは穏やかに笑った。
「だいぶ前から、準備していたの。長いことないな、と。あまりに野放図が過ぎたからね、あの女・・・」
皇太后のことだ。
「島流しになったそうじゃないの! よくあのボウヤ国王が決断したわよね。あれなら、ノールもしばらく安泰。帝国の東も安泰。
で、あの女狐がいなくなれば、あたしの役目も終わり。そう思ったの。
チナ戦が終わってから、向こうから手紙で指示して、少しずつお金を送って・・・。絶対需要があるはずと思っていたからね。ノールも帝国もチナも。男はみんな同じよ、バカだもの」
なぜだか目の前のジュピターに、初めて任務に就いた時のレオン少尉に感じたのに似た尊敬の気持ちが湧いた。それに、興味も。
「質問してもいいですか? 」
「いいわよ。わかってると思うけど、あんな稼業してたから、漏らしちゃいけないコトは山ほどある。でも、あんたは同業だし、同じボスを仰いでたしね。あんただけの胸にとどめてくれる条件で、話してあげるわ、なんでも」
「あなたは、いつから? 」
「ノールの後宮に入ったか、ってことね。先代の皇帝陛下の御代からよ。丸20年。初めてノールの後宮に入ったとき、あたしまだ処女だった・・・」
「じゃあ、皇太后が輿入れする前、ということですね」
「教えてあげましょうか」
ノールの後宮で女官長をしていた時の冷たい印象はかけらもなかった。
目の前の「淫売宿の女将」は、人生の酸いも甘いも苦楽も全て経験しその身に包み込んだ女傑。そんな感じがした。
「ソニアが先代の国王に見染められ入内することになったとき、あたしは、『これは使える!』と当時のボスに報告したの。ウリル閣下の前任に当たる人にね。
そしたら、ボスから指令が来た。
『ある男を送るから、皇太后に接近させる工作をしろ』ってね。
誰だか、もうわかるでしょ? 」
「それって、もしかして、大司教ですか?! 」
「やっぱり! あんたって、カンがいいのね!
そうよ。ソニアに、後に大司教になる巨根男、『マレンキー』を近づけたのは、帝国であり、あたしなの♡ 」
思わず、ゾッとした!
では、今回の「もぐら」の一件も、元はと言えば・・・。
「でも、誤解しないでね。『もぐら』のことだけは、ノーマークだった。
当時のボスも、まさか自分が道具に使う人間に、そんな恐ろしいヒモが付いていたなんて夢にも思わなかったんだと思う。ウリル閣下も、着任されてからノールの革命騒ぎのウラに『もぐら』が、ニコライがいるのを知ったのよ。
ある意味で、ウリル閣下は前任のスパイマスター、つまり、あたしの最初のボスの尻拭いをした、ということになるのよね」
ヤヨイは戦慄を抑えかねた。
でも、そうまでして帝国がノールの中に腐敗と反乱のタネを撒いたのは、どうしてだろう・・・。
「今回のミッションをやり遂げたあんたなら、もうわかるはず。
帝国は、ノールを一枚岩の強力な国にしたくなかったのよ。
そのためには、あのハーニッシュとノール王家の間に深い確執を作る必要があった。純粋清廉なハーニッシュと、やや腐敗したノール王家が対立する構図を維持する。密かに、帝国軍の廃銃がハーニッシュに渡るように工作したのも帝国だしね。たぶん、あたしのボスのその前のボスの仕事ね。
それが、帝国の東の国境を守ることにつながってきたの。
あんたの今回のミッションは、その壮大な戦略を補強するために必要な工作だったのよ。
もし、それが無ければ、帝国はもう2個か3個の軍団を東の国境に展開させ続けなければいけない事態になったかもしれない。そのために膨大な国費と、兵員が必要とされたはず。あんたはそれを未然に防いだ。
あんたがしたミッションは、実に3個軍団のプレゼンスに匹敵するものだったのよ。
これでもう、全部わかったでしょ?」
なんて壮大で、深くて、ある意味で陰険で、業の深い、奥行きのありすぎる謀略の歴史・・・。
国家の役割は国民の生命と財産、そして自由を守ること。
それは多額の軍費を要する軍備だけで守るのではないのだ。工作や謀略が時に数個軍団にも匹敵する戦果を産む。
「話変わるけどね。男と女のいたしてる部屋に踏み込むなんて、野暮はやめなね。そういうのされると、あたしの商売、困るのよ。
あんたの亭主のご乱行はね、あんたにオトコ見る目がなかっただけ。ただそれだけの話なの。許せないなら、帰ってから役所に書類出せばいい。それだけよ。
帝国の法律はね、どっちか一方が届け出すだけで離婚が成立するの。あっけないのよ。
離婚話が出る、ということは、その夫婦からはもう子宝が期待できない。だったら、早く別れて別の女や男探しなさいって。法律の専門家も要らないし、そのほうが、男も女も幸せになる。子供も増える。国は、より強くなるわ。
よく言うでしょ。『犬も食わない』って。踏み込むなんて、なんのトクにもならないから、やめなね? 」
一方的に言われるだけ言われまくった感じだけれど、不思議にハラは立たなかった。その通りだと思ったからだ。ダメなら次行ってみよう! そのほうが、あとくされなくていい!
「実はね、ウリル閣下に誘われたの。現場じゃなくて、作戦で閣下を援けないか、って。
でも、ジョーダンじゃありません! ってお断りしたわ」
ジュピターは気持ちよさげにケラケラ笑った。
「だってこの商売、スケベな男がいれば勝手にゼニ落としてくれるし、浅墓なカネコマの女はいつだってゴロゴロいるわ。何もしなくても需要と供給が勝手に回ってくれるんだから、こんなにボロい商売ないのよ。いまさらウザい宮仕えなんて・・・。
今度ナイグンにも店出そうと思うの。今はまだ政情が安定してないけど、そのうち、アルムにも出したいわ!
帝国女はね、特にチナ人の金持ちに高く売れるのよ。あんたなんかカワイイからすぐに売れっ子になるわよ。
時々遊びに来なよ。いつでも大歓迎するから! 」
百戦錬磨のヤヨイもたじたじになるほどに、ジュピターは二枚も三枚も上手のヤリ手だった。いっそ清々しいほどに。あれだけかっ飛んでいれば、いちいち、ちまちま悩むのがバカらしくなる! いい先生かも、と思った。
愛想尽かしの亭主と別れようと思って来た西の占領地だったが、もう閨に踏み込む価値さえ見いだせなかった。どうでもいいわ、と。任務ですり減った心に元気をもらって、ヤヨイは帝都に帰る列車に乗った。
車窓から流れ込んでくる爽やかな潮風に、まだ金色の髪を弄らせながら空を見上げた。
大きな鷲を見つけた。
その姿に、思わず笑みがこぼれた。
大鷲さん・・・。
大鷲は、満足していた。
七つの丘の娘が帰ってきた!
やっぱり、あの娘はカワイイ! すこぶる元気な姿で七つの丘の街に戻ってきてくれた!
その一方。
東の優しいオーラの娘は沈んでいた。大鷲にも、なんとなく理由は分かった。
やはり、見守ってやらねば。
そうして大鷲は再び東に向かった。
大きな嵐も過ぎ去り、ノールの古都に久方ぶりの青空が広がっていた。
その青空の下。
オスロホルム郊外にある共同墓地では一件の葬儀が営まれていた。
共同墓地だから、深くて広い墓穴には先に葬られた人の遺体が小麦袋をつなぎ合わせたのにくるまれて落とされてあり、上から石灰を撒かれていただけだった。
今、白い司祭の祈りを捧げられている故人の式が終われば、それもまた穴に落とされ石灰をかけられて終わりである。
参列している者はわずか。
ゴルトシュミット卿とかつてノルトヴェイト家に仕えた者たちの子孫たち、そして、ノラだった。
司祭の祈りが終わった。
荷車に載せられた棺桶が傾けられ、中の小麦袋に包まれた遺体が滑り落とされ、墓掘り人夫がスコップで石灰を撒いた。
もう少し遺体が増えれば埋められるとのことだが、今日のところはこれで終わりである。墓碑銘にも名前は刻まれない。仮に刻まれたところで、里を追放になったときに苗字は剥奪されているから単に「Peer」としか刻まれないだろう。
司祭が去り、ノルトヴェイト家の家来の末裔たちが去り、それでも動こうとしないノラはゴルトシュミット卿に肩を促されてとぼとぼと墓地を去ろうとしていた。
ノラをエスコートするゴルトシュミットにしても、まだ痛手から立ち直れないでいた。
旧王家ニィ・ヴァーサ朝復活の切り札であったヴァインライヒ女男爵を急病で失ったばかりだったからである。使用人の子孫たちも同じで、葬儀にさえ立ち会えなかった。
暴政によって市民たちの怨嗟の的(まと)だった皇太后と大司教が遠島と強制労働刑を受けることになり、大聖堂で革命分子が一斉に摘発されたことと合わせて市民たちに明るいニュースを提供していたのだったが、それすら彼らの暗い表情を和らげることはなかった。
次の日も王都を雲が厚く覆うことはなかった。
旅支度を整えたノラは、この屋敷に来た時と同じ、裏の通用口に立った。
「では、参ります。いろいろありがとうございました」
「気をつけてな。ハーニッシュの方々にも、よろしくお伝えしておくれ。ハンヴォルセン殿の葬儀にも出られず、申し訳なかったと。
落ち着いて、お前の気が変わればまたこの屋敷に戻るがいい。お前のご家族が再びお前を受け入れてくれるよう、祈っているよ」
「ありがとうございます、旦那様。では」
ノラは、屋敷を出た。
実を言えば、再び里がノラを受け入れてくれる当てなどはなかった。
ただ、ペールが亡くなったこと。そして、ノラにとっても幼馴染だったクリスティアンはじめ何人もの里の若者が命を落とした場に居合わせたものとして、ご家族へ報告だけはしたかったのだ。本心も、最愛のペールを喪ったあとでは、再び父母の許で暮らしたいという気持ちはなかった。気持ちの整理のため。それがこの帰郷の旅の目的と言えば目的だった。
辻馬車を拾えても、ハーニッシュの里へなど行ってくれるはずもない。
ゴルトシュミット卿からは少なくない慰労金ももらったが、先にあてなどない以上、大切に使わねばならないから贅沢はできない。
多少怖くはあったが、途中二泊ほどすれば歩いても辿り着けると思っていた。
陽が落ちかけ、新市街が終わり、民家も少なくなり、家々の灯りが頼りなげになってきた。最寄りの宿まではあと一時間は歩かねば。
そう思っていたところに、ふいに馬車が通りかかった。
「もし、お嬢さん。どこまで行きなさるね」
この辺りではあまり見かけない、異国風の顔だちのおじいさんが御す馬車がノラの傍にとまった。
「西です・・・」
か細い声で、ノラは答えた。どうやら、山賊や夜盗の類ではなさそうなことに、少しく安堵した。
「西というと、どこまでかね」
「あの、ハーニッシュの里までなのですが・・・」
「ちょうどよかった。これからそのはー、なんだかの里を通って帝国へ帰る途中での。よかったら乗っていくかね? 」
「いいのですか? 」
「こんなおいぼれだから、ロクに話し相手にもならんだろうけんども」
「いいえ、そんなこと! 助かります! 」
そうしてノラは、カバンを荷台に乗せ、御者台に乗った。
それからしばらく。
ノラの姿はノールから消えた。ゴルトシュミット卿の屋敷に戻ることもなく、彼女の里であるハーニッシュに現れることもなく。
ただ、このところ頻繁に上空に現れる大鷲だけは、ノラの行く先を知っていた。
3週間後。
帝都の北東にある、クィリナリスの丘。
その地下にあるウリル少将のオフィスに、電信室からの電報が届けられた。
「閣下。在ノールの大使館から暗号電が入りました! 」
ウリル少将は届けられた電文を開いた。
そこには、すでに解読されたこのような短い文章があった。
「新しいジュピターは、本日、予定の軌道に乗った」
これだけでは、仮に電報が傍受されていても部外者には何のことかサッパリわからない。
だが、この発信者とウリル少将にはわかる。
少将は電文の紙片を帝国軍支給のオイルライターで燃やすと、天窓の上を仰いだ。
「がんばれよ、新しいジュピター!」
皇太后ソニアが流刑に処され、大司教だったマレンキーが鉱山送りになった後。
年中ぐずついた空ばかりのオスロホルムの空にも、夏の盛りだけは湿気が去り青い大空を望める日が続く。
ノール国王スヴェン27世は親しく布告を発し、今後後宮を廃止し、王家の政治・国事儀式の一切は王宮のみにて行うこととした。またカトリック教会も人事を刷新、大量の逮捕者を出し欠員が目立つ大聖堂の司祭を全国の司教区から広く集め、新たな大司教には修道院長であったトロンハイムを据えた。
後宮にいた素性の知れない女たちは一斉に解雇。新たに大臣諸侯の推薦を受けた者のみを採用することとなった。無実の罪で大量に逮捕拘禁されていた者たちが思いがけなく元気な姿で帰国してそれぞれの家に帰り、ノール国内の人心も大きく安堵し、王宮への親愛の情も徐々に高まりを見せていたのである。
国王側近である侍従クリストフェルがその面接を行ったが、南部の貴族の推薦による若く美しい金髪の女性が特に彼の興味を引いた。ノールの郷土騎士(ライヒスリッター)の中でも指折りの由緒ある家柄。その推薦だ。
つぶさに推薦状に目を通したクリストフェルは、デスクの向こうの秀麗な女性のエメラルドの瞳を覗き込んだ。
「ふむ。紹介状の内容は申し分ありませんね。あらためて、お名前を」
「ノラ・マリー・クヴィスリングと申します! 」
「ノラ・・・。あの、クヴィスリングさん。以前どこかでお会いしましたか? 」
「いいえ。生まれてよりこの方、ずっと南のノール岬近くで育ちましたので。王都に来るのもこの度が初めてです! 」
「あの、もしかして、歌がお得意とか。そういうの、ありませんか? 」
「いいえ。歌は、歌いません」
「そうですか・・・。わかりました。では、国王付きの侍女として採用いたしましょう。いつから始められますか? 」
「いつからでも! 今は王都内のホテルに滞在しておりますので」
「わかりました。では、明日からご出仕いただきたい! 」
クリストフェルは、起ち上ってデスク越しにその麗しい金髪の女性の手を握った。
「よろしくお願いします!」
そのクヴィスリングという女性が出て行った後も、クリストフェルは、過去の記憶と格闘した。
おかしいなあ、どこかで会ってないかなあ、と。
ノール王宮自慢の美しい庭園を馬車だまりまで歩きながら、ノラは晴れ上がった古都オスロホルムの空を見上げた。
歌は歌うわ。でも、悲しい歌は、もう歌わない!
すると、一羽の大きな鷲が彼女のアタマの上を悠々と舞っているのが見えた。
ああ、あれはハーニッシュの里で見かけた鷲だわ。
「よろしくね、大鷲さん! 」
青く澄んだ大空を見上げ、ノラは大きく笑った。
了
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