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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
81 反撃
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激しかった雨はようやく衰えを見せ始めた。
気の遠くなるほどの太古から空を舞っているから、この程度の雨などはどうということはない。ただ、不快ではある。
大鷲はこの東の国の都でひと際高い塔の上にある十字架にとまり、バサバサと翼を振り雫を落とした。
そして、もう一つの不快はこの東の国の山すそに棲む黒装束の民たちが大勢で今大鷲のいる都に向かっていることである。しかも、禍々しい武器を持って。
お前らもか! またぞろ殺し合いをしようというのか!
まったく! 嘆かわしいとはこのことだ!
が、不快ではあるが、達成感はあった。
あの鼻持ちならない上から目線の「雷の神」とかほざく無礼者の言ではあったが、雲の下に降りたおかげで彼の大好きな可愛い人間の若い女のオーラと、この東の国に来て新たに感じていた優し気なオーラとが一つ所に集っているのが間近に感じられたからである。
人間の若い女は、可愛い♡!
若い女の可愛いオーラに接すると、そのたび彼は若返る。それがゆえに、悠久の時間、彼は大空を舞い続けてこれたのだ。
一時は見失ったが再び接することができた7つの丘の国の若い娘。
しかし、今またその美しくもたくましいオーラがなにやら危機に瀕しているのが大鷲にはわかった。
これはかわいそうに!
何とかしてやりたいものだが・・・。
悠久の時を生きることができる反面、大鷲は直接人間に関わる術を持たない。
それがなんとも、もどかしい!
ただ、唯一の救いは、あの優し気なオーラを振りまく東の国の娘からは大きな慈愛が感じられることだ。
可愛い逞しさと、可愛い慈しみを備えた愛。
愛すべき二つの可愛いオーラが再び一つになる。
可愛い娘たちよ!
どうかおろかな人間どもを諫め、争いを止めさせておくれ!
さもなくば、人間たちを守護する彼の役目もまた終わる。彼の存在する理由が失われてしまうのだ。
彼は、守護神。輝く未来を信じて生きる人間たちの守り神なのだから。
グロンダール卿の配下たちは、路地から出てきた黒装束の2騎に一斉射撃を浴びせた。
銃は帝国製だが、消耗品である銃弾はノールが独自に生産したものだった。
黒色火薬の成分は木炭の粉末、細かく砕いた硝石、 そして硫黄である。それらはノールでも産出される。帝国の火薬はそれらに加え石油から採れる成分を混ぜ合わせて爆発力を増し発火時の煙を抑える工夫がされているというが、それだけに高価であり、経済規模で帝国の数分の一しかないノールの台所事情にはそぐわなかった。
故に、一度発射するともうと煙が上がって一時的に視界が遮られる。
その煙の中から一騎が飛び出して包囲線を突破しようとしたのでさらに銃弾を浴びせた。
が、そのスキをついてさらに二人乗りのもう一騎が猛速で突っ込んで来たから泡を食った。
「なにをボヤボヤしとるっ! 撃て撃てっ! 」
だが、あれよというまに最後の一騎は彼らを飛び越し、大聖堂のエントランスの中に馬ごと入ってしまった。しかも、その扉までが閉ざされた。一年365日24時間。信者の前には常に開かれておらねばならぬはずの大聖堂の大扉が、閉ざされた。
主身廊の床は磨かれた化粧石張りで、馬の蹄鉄が利くわけはない。
全速力で飛び込んだペールとノラの馬はそのまま滑るように側廊とを隔てる石柱にぶつかり、乗っていた二人を放り出して転倒した。
「きゃ! 」
「大丈夫か、ノラ! 」
「う、う~ん・・・」
「ペール! 」
その時初めて気づいた。
常ならば馬や馬車などが入れるわけもない大聖堂の神聖な回廊に、4頭立ての馬車が止まっていて鼻づらを出口に、正面ドアに向けていた。馬車は大司教が王宮へ赴いたり地方の司教区を訪問するときに使う、白くてドアに金の十字架がレリーフしてある正式なヤツ。だが、それが大聖堂の中に、主身廊の真ん中にどーんと置いてあるのは初めて見た。
「・・・ア、アニキ! 」
アニキはその屋根のない馬車のステップに立って、ペールを見下ろしていた。
「ペール! 」
アニキは大司教の衣装、黒く長い床を引きずるようなカズラに黒い帽子。そして、馬車の中には、白いカズラにフードを着けた・・・、
イングリッド様?
「仔細、聞いた。ハーニッシュを焚きつけてくれたそうだな。わたしの手間をだいぶ省いてくれた。よくやったぞ、ペール! 」
そのとき。
ペールは茫然自失し、無我の境地に行った。
ハーニッシュを追放され、アニキに拾われ、ホメられたのはこれが初めてだったのだ!
それまでの数々の苦労、心労、屈辱や苦悩が、全て洗われ、報われる思いがした。
「イングリッド様! 」
カン高いノラの叫びで我に返った。
柱で首を打って死んだか気絶でもしたらしい。床に長々と横たわった馬の陰で、ノラは悲痛な貌を馬車に向けていた。
フードの下のイングリッド様がチラ、とこっちを見たような気がした。
「ちょうどよい! ペール! これからバロネンとわたしはハーニッシュと王国軍が対峙する最前線に赴く。そこでバロネンにアジっていただく。
『目指すは国王の首だ』と。『王都に向かって進軍せよ!』とな。
お前はその露払いをせよ」
え?
ハーニッシュを止めるのではなく、さらに進軍させる? 焚きつける?
元はと言えば、それはペールが最初に始めたこと。それなのに。
思いがけなくアニキにホメられたことで、彼を衝き動かしていた破壊衝動、破滅願望のようなものが雲散霧消してしまっていたのだ。
「だめよ、ペール! 行っちゃダメ! イングリッド様! イングリッド様! 」
え?
そうだ。
なぜイングリッド様が、ここに。アニキと一緒に?・・・。
「バロネンは、ヴァインライヒ卿は、わたしとともにハーニッシュの旗となってノールの現王家打倒にご協力してくださることになったのだ。
さあ、起つのだペール!
ドアを開けて、西の戦場に向かうのだ! 」
大聖堂の向かい、大蔵省の二階の一室から事態の推移を見守ってきたグロンダール卿も、ここへ来てようやく腰を上げた。
もう、包囲を秘匿する必要はなくなった。事ここに至れば実力行使あるのみ!
帝国の助っ人、コードネーム「マルス」と、彼の配下であるアクセルの安否が気にかかるが、もう待てない!
「強行突入する! 各員に伝達! 」
キリスト教国ノールにおいて最も神に近い神聖な場所である大聖堂へ、禍々しい武器を携えた一団が北から東から南から、ほぼ同時に聖域を侵すべく肉薄しようとしていた。
グロンダール卿もまたアンドレを伴って通りに出た。
「怪しい影が見えたら躊躇せず撃て! 北面と東面の者は窓ガラスを破って侵入を図れ! 」
と!
大聖堂正面の二階。バルコニーの扉が開き、カズラを纏いフードを被った司祭の一人が出でた。
司祭は声を張り上げた。
「不敬にもこの世の神の代理人のおわす聖所に銃を向ける、神をも畏れぬ愚か者ども!
よく聞け!
ただいまより、大司教猊下と帝国貴族バロネン・ヴァインライヒ卿が西のハーニッシュ族の軍勢に向かい、神の祝福を授け、争いをやめるようお諫め申すために参られる! 」
なんだと?!
グロンダール卿は思わず傍らのアンドレと顔を見合わせた。
「平和の使者となられる神の代理人と帝国の賓客に弓引きたければ引くがよい。必ずやそなたたちの上に神罰が下るであろう! 」
その宣言が終わるや、再び大扉が開き、中から4頭立ての馬車が出てきた。
屋根のない無蓋の馬車には、先ほどの口上通り、法衣の大司教と白いカズラにフードを被った人影があった。
「大司教の姿の男の隣にいるのは、あれは、マルスか?」
「よくわかりません! そのようにも、見えますが・・・」
この界隈の役所や貴族の邸宅の建物の中には雨と銃撃を避けて大捕り物の推移を見守っている数多の目があるはずだ。
大聖堂の中だけでコトを納められれば、「もぐら」共々大司教を弑する事態になってもなんとか誤魔化せる。だが、表に出てこられると・・・。
しかも、「マルス」は絶対に公にはできない。この密謀に帝国が加担していることは絶対に秘密にせねばならないのだ!
一歩、遅かった! 先手を取られた!
傍らのアンドレが言った。
「グロンダール卿! いかがなさいますか! 」
さすがのノールのスパイマスターも手立てがなかった。二の足を踏み、歯噛みする以外には。
馬車の先頭にはペールが立った。
師匠であり恩人であり今ノールを救わんとする救世主のようなアニキと、
ハーニッシュの恩人でありこの世の神の代理人にも等しいクラウス様の血を引く麗人。
その二人を先導している!
オレが、このノールの未来を創るのだ!
今、彼は生涯の絶頂にいた。
しかし、中途半端な生き方のせいで故郷を追われたペールの、一番悪い部分が露骨に出ていたのを、もちろん当の本人は知る由もなかった。
それが彼の、不幸だった。
馬車を導くペールが、グロンダール卿が敷いた警戒線であるスタッフたちが構える銃列の真ん前に立った。
「道を開けてください!」
ペールは言った。いや、叫んだ。
急に背後の雲が切れ、晴れ間がのぞき、陽の光が射した。
ノラは、覚醒した。
斃れた馬の鞍からハーニッシュの旧式銃と弾帯とを引っ張り出し、大扉を出て行った馬車を追った。
ノール陸軍の正式銃は帝国製の払い下げであるが、ハーニッシュ達が装備していたのはさらに大昔の、これも帝国製だった。
100年ほど前に最初に帝国で使用された銃はマッチロック式、いわゆる火縄銃で、丸い弾丸を銃身に詰めた火薬の爆発で押し出す式のものだったが、火薬の発火を火皿を用いた火縄に頼っていた。
しかし、これでは乾燥した帝国ならいいが、雨の多いノールでは使えなかった。
その後にライフル(旋条)こそ彫られてはいないが弾丸を火薬を詰めた薬莢式で打ち出す雷管式が採用されて帝国軍全軍に普及した。
今ハーニッシュ達が持っているのはこの時の大量の廃銃だったのである。
一発撃つごとに尾部の閉鎖器を開けて薬莢を出し、次弾を装填するタイプ。
ノラは、父や兄が撃ったり手入れをしたりするのを見て扱い方は知っていたが、実際に撃ったことはなかった。
その古い銃を構えて、怒鳴った。
「イングリッド様! 大丈夫ですか?!
止まりなさい! ペール、止まって! さもなければ、撃つわ! 」
「このアマッ! 大司教猊下に銃を向けるとは! 」
背後の大聖堂から誰かの罵声を浴びた。でも、ノラは怯まなかった。
まだ小雨が降り続いていた。だが、小雨が背後からの陽射しを浴びてまるで星屑が降り注いでいるように見えた。
「あれは、大司教じゃない! 」
「あの、小娘・・・」
大蔵省の玄関の陰に身を潜めたアンドレが額を抱えた。
「小娘? なんだあやつは! 小娘とはどういう意味だ! 」
隣のグロンダール卿の懸念に、仕事のできない部下は答えた。
「例のペールの女です。ハーニッシュの・・・」
「なんと! 女か! 」
「一挙に捕縛しましょう! さもなくば、この際いっそのこと全員撃ち殺して口を・・・」
「待て! とにかく、待て!」
グロンダールには、この期に及んでも黙ったままの「マルス」が不可解だった。
彼女は健在なのか? 拘束されてでもいるのか? 何を考えている?
そのとき。
グロンダールには馬車の後部座席で項垂れるフードの奥で何かがキラ、と光るのを見た。
馬車の「大司教」、その実は「もぐら」であるニコライは、隣に掛けている後ろ手手錠で拘束されたヤヨイにナイフを突きつけていた。どこまでも用心深い男だった。
しかし、完全勝利を目前にした彼は、どこか焦ってもいた。
「チッ! 使えぬ者どもめらが! 」
やおら長いカズラの合わせ目からソード・オフ、つまり、銃身と銃床を短く切り詰めた拳銃のような短銃を取り出すや、馬車の後方、男装したハーニッシュ出の小癪な小娘に向けようとした。
ズガーンッ!
しかし、田舎の小娘の放った旧式銃の暴発にも似た発砲のほうが、早かった。
早くはあったが、やはり暴発だったのだろう。弾は大司教に変装した「もぐら」ではなく、馬車の車体の側面を掠って4頭立ての輓馬の右後方の最も馬力の大きな重輓馬の尻に命中した。
体重もあり、馬力も大きな馬が暴れ出すと、他の3頭もたまったものではなかった。馬車は大きく揺れ、当然にヤヨイたちも揺れた。なまじ高級な、サスペンションの効いた馬車であっただけに、その揺れは半端ではなかった。
― 今だ! ―
ヤヨイが待ちに待っていたスキ、絶好のチャンスが、訪れた。
尻を起点にして体を時計の針のように瞬時に90度曲げたヤヨイは、渾身の力で大司教に化けたニコライを蹴り飛ばし、馬車から突き落とした!
「ノラ! 」
そして、すぐ後方に居たノラのそばに、飛んだ。
飛びながら両脚を器用に丸めて後ろ手の中に入れ、前に回した。
「次の弾、込めて! 」
ノラもさすがに驚いた。
帝国の深層の令嬢、貴族のお嬢様とばかり思っていた方が、突然にまるでムササビのように宙を舞って降りてきたのだから。
「ハ、ハイッ! 」
慌てて銃身を折り、熱いカラの薬莢を取り出して次の弾を込めた。
するとイングリッド様は馬車の車輪の上に両手を拘束する手錠の鎖を被せ、
「撃って! 」
ノラに叫んだ。
仕損じたら、などと考えている間はないと思った。
すぐ1フィートもない目標に狙いを定め、
ズガーンッ!
撃った。
「ありがと、ノラ! 」
気が付くと、発射煙も覚めやらぬのに、もうイングリッド様の姿はなかった。
あの大司教に扮したニセ者の姿もなかったし、ペールの姿もなかった。
「大聖堂の中に逃げたぞ! 」
「追えーっ! 」
怒号を上げながら大聖堂に突入していく、黒い官服の男たちに翻弄されつつ、立ち尽くしていたばかりだった。
気の遠くなるほどの太古から空を舞っているから、この程度の雨などはどうということはない。ただ、不快ではある。
大鷲はこの東の国の都でひと際高い塔の上にある十字架にとまり、バサバサと翼を振り雫を落とした。
そして、もう一つの不快はこの東の国の山すそに棲む黒装束の民たちが大勢で今大鷲のいる都に向かっていることである。しかも、禍々しい武器を持って。
お前らもか! またぞろ殺し合いをしようというのか!
まったく! 嘆かわしいとはこのことだ!
が、不快ではあるが、達成感はあった。
あの鼻持ちならない上から目線の「雷の神」とかほざく無礼者の言ではあったが、雲の下に降りたおかげで彼の大好きな可愛い人間の若い女のオーラと、この東の国に来て新たに感じていた優し気なオーラとが一つ所に集っているのが間近に感じられたからである。
人間の若い女は、可愛い♡!
若い女の可愛いオーラに接すると、そのたび彼は若返る。それがゆえに、悠久の時間、彼は大空を舞い続けてこれたのだ。
一時は見失ったが再び接することができた7つの丘の国の若い娘。
しかし、今またその美しくもたくましいオーラがなにやら危機に瀕しているのが大鷲にはわかった。
これはかわいそうに!
何とかしてやりたいものだが・・・。
悠久の時を生きることができる反面、大鷲は直接人間に関わる術を持たない。
それがなんとも、もどかしい!
ただ、唯一の救いは、あの優し気なオーラを振りまく東の国の娘からは大きな慈愛が感じられることだ。
可愛い逞しさと、可愛い慈しみを備えた愛。
愛すべき二つの可愛いオーラが再び一つになる。
可愛い娘たちよ!
どうかおろかな人間どもを諫め、争いを止めさせておくれ!
さもなくば、人間たちを守護する彼の役目もまた終わる。彼の存在する理由が失われてしまうのだ。
彼は、守護神。輝く未来を信じて生きる人間たちの守り神なのだから。
グロンダール卿の配下たちは、路地から出てきた黒装束の2騎に一斉射撃を浴びせた。
銃は帝国製だが、消耗品である銃弾はノールが独自に生産したものだった。
黒色火薬の成分は木炭の粉末、細かく砕いた硝石、 そして硫黄である。それらはノールでも産出される。帝国の火薬はそれらに加え石油から採れる成分を混ぜ合わせて爆発力を増し発火時の煙を抑える工夫がされているというが、それだけに高価であり、経済規模で帝国の数分の一しかないノールの台所事情にはそぐわなかった。
故に、一度発射するともうと煙が上がって一時的に視界が遮られる。
その煙の中から一騎が飛び出して包囲線を突破しようとしたのでさらに銃弾を浴びせた。
が、そのスキをついてさらに二人乗りのもう一騎が猛速で突っ込んで来たから泡を食った。
「なにをボヤボヤしとるっ! 撃て撃てっ! 」
だが、あれよというまに最後の一騎は彼らを飛び越し、大聖堂のエントランスの中に馬ごと入ってしまった。しかも、その扉までが閉ざされた。一年365日24時間。信者の前には常に開かれておらねばならぬはずの大聖堂の大扉が、閉ざされた。
主身廊の床は磨かれた化粧石張りで、馬の蹄鉄が利くわけはない。
全速力で飛び込んだペールとノラの馬はそのまま滑るように側廊とを隔てる石柱にぶつかり、乗っていた二人を放り出して転倒した。
「きゃ! 」
「大丈夫か、ノラ! 」
「う、う~ん・・・」
「ペール! 」
その時初めて気づいた。
常ならば馬や馬車などが入れるわけもない大聖堂の神聖な回廊に、4頭立ての馬車が止まっていて鼻づらを出口に、正面ドアに向けていた。馬車は大司教が王宮へ赴いたり地方の司教区を訪問するときに使う、白くてドアに金の十字架がレリーフしてある正式なヤツ。だが、それが大聖堂の中に、主身廊の真ん中にどーんと置いてあるのは初めて見た。
「・・・ア、アニキ! 」
アニキはその屋根のない馬車のステップに立って、ペールを見下ろしていた。
「ペール! 」
アニキは大司教の衣装、黒く長い床を引きずるようなカズラに黒い帽子。そして、馬車の中には、白いカズラにフードを着けた・・・、
イングリッド様?
「仔細、聞いた。ハーニッシュを焚きつけてくれたそうだな。わたしの手間をだいぶ省いてくれた。よくやったぞ、ペール! 」
そのとき。
ペールは茫然自失し、無我の境地に行った。
ハーニッシュを追放され、アニキに拾われ、ホメられたのはこれが初めてだったのだ!
それまでの数々の苦労、心労、屈辱や苦悩が、全て洗われ、報われる思いがした。
「イングリッド様! 」
カン高いノラの叫びで我に返った。
柱で首を打って死んだか気絶でもしたらしい。床に長々と横たわった馬の陰で、ノラは悲痛な貌を馬車に向けていた。
フードの下のイングリッド様がチラ、とこっちを見たような気がした。
「ちょうどよい! ペール! これからバロネンとわたしはハーニッシュと王国軍が対峙する最前線に赴く。そこでバロネンにアジっていただく。
『目指すは国王の首だ』と。『王都に向かって進軍せよ!』とな。
お前はその露払いをせよ」
え?
ハーニッシュを止めるのではなく、さらに進軍させる? 焚きつける?
元はと言えば、それはペールが最初に始めたこと。それなのに。
思いがけなくアニキにホメられたことで、彼を衝き動かしていた破壊衝動、破滅願望のようなものが雲散霧消してしまっていたのだ。
「だめよ、ペール! 行っちゃダメ! イングリッド様! イングリッド様! 」
え?
そうだ。
なぜイングリッド様が、ここに。アニキと一緒に?・・・。
「バロネンは、ヴァインライヒ卿は、わたしとともにハーニッシュの旗となってノールの現王家打倒にご協力してくださることになったのだ。
さあ、起つのだペール!
ドアを開けて、西の戦場に向かうのだ! 」
大聖堂の向かい、大蔵省の二階の一室から事態の推移を見守ってきたグロンダール卿も、ここへ来てようやく腰を上げた。
もう、包囲を秘匿する必要はなくなった。事ここに至れば実力行使あるのみ!
帝国の助っ人、コードネーム「マルス」と、彼の配下であるアクセルの安否が気にかかるが、もう待てない!
「強行突入する! 各員に伝達! 」
キリスト教国ノールにおいて最も神に近い神聖な場所である大聖堂へ、禍々しい武器を携えた一団が北から東から南から、ほぼ同時に聖域を侵すべく肉薄しようとしていた。
グロンダール卿もまたアンドレを伴って通りに出た。
「怪しい影が見えたら躊躇せず撃て! 北面と東面の者は窓ガラスを破って侵入を図れ! 」
と!
大聖堂正面の二階。バルコニーの扉が開き、カズラを纏いフードを被った司祭の一人が出でた。
司祭は声を張り上げた。
「不敬にもこの世の神の代理人のおわす聖所に銃を向ける、神をも畏れぬ愚か者ども!
よく聞け!
ただいまより、大司教猊下と帝国貴族バロネン・ヴァインライヒ卿が西のハーニッシュ族の軍勢に向かい、神の祝福を授け、争いをやめるようお諫め申すために参られる! 」
なんだと?!
グロンダール卿は思わず傍らのアンドレと顔を見合わせた。
「平和の使者となられる神の代理人と帝国の賓客に弓引きたければ引くがよい。必ずやそなたたちの上に神罰が下るであろう! 」
その宣言が終わるや、再び大扉が開き、中から4頭立ての馬車が出てきた。
屋根のない無蓋の馬車には、先ほどの口上通り、法衣の大司教と白いカズラにフードを被った人影があった。
「大司教の姿の男の隣にいるのは、あれは、マルスか?」
「よくわかりません! そのようにも、見えますが・・・」
この界隈の役所や貴族の邸宅の建物の中には雨と銃撃を避けて大捕り物の推移を見守っている数多の目があるはずだ。
大聖堂の中だけでコトを納められれば、「もぐら」共々大司教を弑する事態になってもなんとか誤魔化せる。だが、表に出てこられると・・・。
しかも、「マルス」は絶対に公にはできない。この密謀に帝国が加担していることは絶対に秘密にせねばならないのだ!
一歩、遅かった! 先手を取られた!
傍らのアンドレが言った。
「グロンダール卿! いかがなさいますか! 」
さすがのノールのスパイマスターも手立てがなかった。二の足を踏み、歯噛みする以外には。
馬車の先頭にはペールが立った。
師匠であり恩人であり今ノールを救わんとする救世主のようなアニキと、
ハーニッシュの恩人でありこの世の神の代理人にも等しいクラウス様の血を引く麗人。
その二人を先導している!
オレが、このノールの未来を創るのだ!
今、彼は生涯の絶頂にいた。
しかし、中途半端な生き方のせいで故郷を追われたペールの、一番悪い部分が露骨に出ていたのを、もちろん当の本人は知る由もなかった。
それが彼の、不幸だった。
馬車を導くペールが、グロンダール卿が敷いた警戒線であるスタッフたちが構える銃列の真ん前に立った。
「道を開けてください!」
ペールは言った。いや、叫んだ。
急に背後の雲が切れ、晴れ間がのぞき、陽の光が射した。
ノラは、覚醒した。
斃れた馬の鞍からハーニッシュの旧式銃と弾帯とを引っ張り出し、大扉を出て行った馬車を追った。
ノール陸軍の正式銃は帝国製の払い下げであるが、ハーニッシュ達が装備していたのはさらに大昔の、これも帝国製だった。
100年ほど前に最初に帝国で使用された銃はマッチロック式、いわゆる火縄銃で、丸い弾丸を銃身に詰めた火薬の爆発で押し出す式のものだったが、火薬の発火を火皿を用いた火縄に頼っていた。
しかし、これでは乾燥した帝国ならいいが、雨の多いノールでは使えなかった。
その後にライフル(旋条)こそ彫られてはいないが弾丸を火薬を詰めた薬莢式で打ち出す雷管式が採用されて帝国軍全軍に普及した。
今ハーニッシュ達が持っているのはこの時の大量の廃銃だったのである。
一発撃つごとに尾部の閉鎖器を開けて薬莢を出し、次弾を装填するタイプ。
ノラは、父や兄が撃ったり手入れをしたりするのを見て扱い方は知っていたが、実際に撃ったことはなかった。
その古い銃を構えて、怒鳴った。
「イングリッド様! 大丈夫ですか?!
止まりなさい! ペール、止まって! さもなければ、撃つわ! 」
「このアマッ! 大司教猊下に銃を向けるとは! 」
背後の大聖堂から誰かの罵声を浴びた。でも、ノラは怯まなかった。
まだ小雨が降り続いていた。だが、小雨が背後からの陽射しを浴びてまるで星屑が降り注いでいるように見えた。
「あれは、大司教じゃない! 」
「あの、小娘・・・」
大蔵省の玄関の陰に身を潜めたアンドレが額を抱えた。
「小娘? なんだあやつは! 小娘とはどういう意味だ! 」
隣のグロンダール卿の懸念に、仕事のできない部下は答えた。
「例のペールの女です。ハーニッシュの・・・」
「なんと! 女か! 」
「一挙に捕縛しましょう! さもなくば、この際いっそのこと全員撃ち殺して口を・・・」
「待て! とにかく、待て!」
グロンダールには、この期に及んでも黙ったままの「マルス」が不可解だった。
彼女は健在なのか? 拘束されてでもいるのか? 何を考えている?
そのとき。
グロンダールには馬車の後部座席で項垂れるフードの奥で何かがキラ、と光るのを見た。
馬車の「大司教」、その実は「もぐら」であるニコライは、隣に掛けている後ろ手手錠で拘束されたヤヨイにナイフを突きつけていた。どこまでも用心深い男だった。
しかし、完全勝利を目前にした彼は、どこか焦ってもいた。
「チッ! 使えぬ者どもめらが! 」
やおら長いカズラの合わせ目からソード・オフ、つまり、銃身と銃床を短く切り詰めた拳銃のような短銃を取り出すや、馬車の後方、男装したハーニッシュ出の小癪な小娘に向けようとした。
ズガーンッ!
しかし、田舎の小娘の放った旧式銃の暴発にも似た発砲のほうが、早かった。
早くはあったが、やはり暴発だったのだろう。弾は大司教に変装した「もぐら」ではなく、馬車の車体の側面を掠って4頭立ての輓馬の右後方の最も馬力の大きな重輓馬の尻に命中した。
体重もあり、馬力も大きな馬が暴れ出すと、他の3頭もたまったものではなかった。馬車は大きく揺れ、当然にヤヨイたちも揺れた。なまじ高級な、サスペンションの効いた馬車であっただけに、その揺れは半端ではなかった。
― 今だ! ―
ヤヨイが待ちに待っていたスキ、絶好のチャンスが、訪れた。
尻を起点にして体を時計の針のように瞬時に90度曲げたヤヨイは、渾身の力で大司教に化けたニコライを蹴り飛ばし、馬車から突き落とした!
「ノラ! 」
そして、すぐ後方に居たノラのそばに、飛んだ。
飛びながら両脚を器用に丸めて後ろ手の中に入れ、前に回した。
「次の弾、込めて! 」
ノラもさすがに驚いた。
帝国の深層の令嬢、貴族のお嬢様とばかり思っていた方が、突然にまるでムササビのように宙を舞って降りてきたのだから。
「ハ、ハイッ! 」
慌てて銃身を折り、熱いカラの薬莢を取り出して次の弾を込めた。
するとイングリッド様は馬車の車輪の上に両手を拘束する手錠の鎖を被せ、
「撃って! 」
ノラに叫んだ。
仕損じたら、などと考えている間はないと思った。
すぐ1フィートもない目標に狙いを定め、
ズガーンッ!
撃った。
「ありがと、ノラ! 」
気が付くと、発射煙も覚めやらぬのに、もうイングリッド様の姿はなかった。
あの大司教に扮したニセ者の姿もなかったし、ペールの姿もなかった。
「大聖堂の中に逃げたぞ! 」
「追えーっ! 」
怒号を上げながら大聖堂に突入していく、黒い官服の男たちに翻弄されつつ、立ち尽くしていたばかりだった。
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それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
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