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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。

75 囚われのヤヨイ

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 またしても、抜かった。それは事実だった。

 その「もぐら」のオフィスは、階下の袖廊の敷地そのままより若干狭いだけの広さをもっていた。王宮の大広間には比べるべくもないが、国王との懇談に使われた談話室よりははるかに広い。

 その出入り口はヤヨイが招じ入れられたドア1か所しかない。

 もはや本人の名乗る通り「ニコライ・ヴァシリエビッチ・メンデレーエフ」と呼ぶべきかもしれないヤヨイのターゲット、僧服姿の「もぐら」がその唯一のドアを背に立っていた。

 一方、階下の主身廊を見下ろすステンドグラスのすぐそばの壁にニッチのように設えられていた袋に十字架が据えられており、そこに猿轡されて血塗れになったアクセルが張りつけられている。拷問が行われていたことはすぐわかった。

 彼の肩や腕、脚にはそれぞれ一本ずつ、短いナイフが生えていた。ワザと急所を外し、しかもかなりの痛手を負わせる。それだけで、かなりの腕前、ナイフの遣い手なのだと知れた。「もぐら」は、手強そうだった。

 そして、ドアのそばのニコライとアクセルを結ぶ線を一辺とした正三角形の残る頂点の位置にヤヨイはいた。

 しかも、拘束されて。

 椅子に掛けた両手は背もたれの後ろで縛られ、すぐそばには、あの悪魔のような形相を持つ長身の大司教がいた。大司教は怪力だった。縄は固くきつく縛られ、さすがのヤヨイにも容易に解くのは難しそうだった。


 

 このオフィスに招じ入れられてすぐ、ヤヨイの頭脳はフル回転した。

 武芸者、戦闘者というものは普通の人間とは思考法とスピードが違う。

 ヤヨイは言語ではなくイメージで、しかも複数の異なる事象を並列的に高速で処理した。戦闘中に敵の繰り出してくる手をいちいち理屈で逐次的に予想・処理していては到底間に合わない。優秀なファイターほど考えられ得るあらゆるオプションを同時並列的に思考し瞬時に判断を下すものだ。まるで、コンマの後におびただしいゼロがつくほどの極めて短い時間で起きたと言われるビッグ・バンのように。

 この時点でヤヨイの取るべきオプションはいくつかあった。

 拘束されて拷問を受けているアクセルを目の当たりにし、まず二つに一つを選択せねばならなかった。

 このまま「バロネン・ヴァインライヒ」としての演技を続けるか、あるいはそれまでの偽装を全てかなぐり捨て、今ここで「もぐら」と雌雄を決するか、を。

 演技を続けるならば、ヤヨイは取り乱すべきだった。血だらけで拘束されているアクセルを見て、すぐに。「バロネン・ヴァインライヒ」は帝国に亡命したノール貴族の末裔で帝国貴族の末席に連なる男爵家の相続人である。本来はこんな修羅場とは無縁の、別世界の高貴な血筋なのだ。

 しかもヤヨイとアクセルは主人と従者というだけではなく、幼いころから共に育った幼馴染という伝説を演じていた。そんな半ば兄妹のような存在が地獄の責め苦を受けている場に突然置かれ、取り乱さない方がおかしいのである。

 だが、ヤヨイは取り乱さなかった。努めて平静を維持した。

 つまり、この時点でそれまで積み上げてきた演技を、伝説を捨てたのである。

 まず、アクセルが囚われてしまった時点で、もうバレているのがわかったからだ。なぜバレたのかはわからないが。

 単独でここに来たアクセルから丸一晩も連絡がなかった時点でこういう事態が予測できたからだ。しかも「ジュピター」の助言もあった。それなのに、わざとらしく取り乱して見せるのは、プロとしてあまりにも稚拙、ムダな行為だ。

 第二に。

 ひとりならこの場で暴れることはできた。だが、アクセルを人質に取られているも同然な情況では為す術がなかった。戦艦ミカサの折にもチナの拿捕部隊に艦隊司令長官を人質に取られたが、あの場合とでは情況が違いすぎる。できればなるべく早くしかるべき手当をしてやらねば。

 第三に。

 今まで「もぐら」がしっぽを掴ませなかったのは、危険を感じればすぐに逃げていたからだ。その彼が今、目の前にいる。ということは、まだ彼は危険を認識していない。自分に勝ち目があると思っているか、ある程度のリスクをとっても達成すべき魅力的なゲイン、何らかの利益を確信しているからだ。そこに、ヤヨイの勝機があると思った。

 第四に。

 これは優先順位が低いが、アクセルからどの程度情報が漏れたかを確認せねば。ヤヨイとアクセルの素性とか、目的。拷問されたアクセルがそれらをどの程度漏らしたか。それによって今後の採るべき行動オプションが変わってくる。

 できればなぜアクセルがしくじったかも知りたい。「もぐら」の情報収集の手がどこまで及んでいるのかはグロンダール卿もきっと知りたがるに違いないからだ。

 そして、第五に。

 ヤヨイの素性がバレてはいけないのは王宮とノール政府、そしてハーニッシュに対してであって、「もぐら」に対してではないのだ。

 それは当然だった。ヤヨイが任務を達成するということは、最終的に「もぐら」を抹殺することなのだから。

 ヤヨイの平静は、そのような原則、推論、推測、計算の上にあった。


 

 まるでダーツに興じるように、ニコライはアクセルをいたぶり傷つけつつ尋問をしていたのだろう。

 くっそ・・・!

 血も涙もない。そういう形容が似つかわしい男だ。

 だが悲憤に血を湧き立たせる前に、ヤヨイにはやることがある。

 ヤヨイの両手を縛り終えると、大司教はその顔をぐっと近寄せた。

「ぐっふっふっふ・・・」

 汚ったない歯並び! も、サイアク! いかにもな下卑た笑いが強烈な口臭と共に吐き出された。

「Это так красиво! (エト・タック・クラシーヴォ!)

 任務のため、これまでにヤヨイはチナ語やノール語を学んできた。が、大司教の口から発せられた言葉はそれらとは全く違っていた。強いて言えば、最初の任務で知り合った北の野蛮人出身の軍属アレックスの地の言葉? 音感がそれに似ていた。

「Я определенно хочу попробовать его на вкус(ヤオプレデノ・.ハチュ・ポプロボヴァ・ヤゴ・ナ・フクス)」

 皇太后だけでなく、後宮の女たちや国王の姉たちにあたる内親王まで毒牙に掛けたと言われる好色男。そう聞いていた。どうせ、下卑た意味の言葉だろう。意味不明な言葉を吐きつつ、その異様なほど長くて臭い舌を出してヤヨイの頬をベロン、と舐めあげた。

 オエッ・・・。

 吐き気がした。不覚にも背筋が凍り、鳥肌が立った。

 皇太后というのは、よくもまあこんな男にご執心できるものだと思った。やはり、「巨根」だからか。

「Прекрати(プレクラチ)!  Это ценный инструмент(エト・ツェンニェン・インストゥルミェン)! Держись(デュジス)! 」

 メンデレーエフが、ニコライが何か叫んだ。

 咎めるような、否定的なニュアンスの言葉だ。

 大司教は素直にヤヨイの背後に下がった。父親だと言っていたが、案外力関係は逆なのかもしれない。

 ニコライの言葉の中の「インストゥルミェン」という言葉が引っかかった。帝国語の中のMusikinstrument、「楽器」という単語の後半部分に発音が似ていた。道具とか、そういう意味か? ヤヨイは何かの道具に使えるからやめろとでも言ったのだろうか。ということは、まだ伝説の通り、ヤヨイ扮する「ノルトヴェイト」が何かに利用できると考えているということになる。同時にそれはヤヨイの勝機を増やすことにつながる。

「もぐら」が道具として「ノルトヴェイト」を利用する。

 だとすれば、この状況ではそれは一つしかない。

 ハーニッシュだ。


 

 下がり際に、名残を惜しむように、大司教は借り衣装である国王の正装、近衛騎兵の制服のジャケットの上からヤヨイの胸を掴んだ。

 くそ! 調子に乗りやがって!

 根っからのスケベオヤジというのは、本当らしい。

 だが、この男はどこから登ってきたのだろう。どこかに隠し階段のようなものがるのか?

 まあいい。とりあえず、それは後回しだ。

 この危機的情況においても、ヤヨイは充分に覚めていた。あの地獄のような暗闇の地下牢よりは数倍マシだ。それにまだ、何か挽回できる余地はある! 必ずある!

 死をも覚悟したあの地下牢から生還したことが、ヤヨイにそれまでとは違う力を与えていた。

 と。

 ニコライが十字架に掛けられている血まみれのアクセルに歩み寄った。

「共に利益になり、皆が幸せになる道について、話をしようではありませんか、美しい人」

 もう一度、今度は帝国語で、ニコライは繰り返した。

 ニッチのような壁に穿たれた袋の奥は黒く塗られた木の板を打ち付けてあった。気の毒なアクセルの身体に当たらなかったナイフが何本か、十字架の周りに刺さっていた。

 痛みへの恐怖による拷問か。なかなかに、エグいな・・・。

 アクセルの身体の周囲に突き刺さったナイフはいずれも身体スレスレに、何本かは彼の服を切り裂いて刺さっていた。非常なほどの手練れだ。

 ヤヨイに背を向け、ナイフを引き抜きながら、「もぐら」は言った。余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。それがいかにも小憎らしい。

「アクセル殿からいくつかお聞きしようと思ったのですが、どうも彼は口下手のようでしてね。あまりお話していただけなかったのです。代わりに貴女にお伺いいたしたいのですが、ご協力いただけますね」

ニコライはアクセルの身体に刺さったナイフにも手をかけた。

「うごあああああっ!」

 ニコライはまっすぐに引き抜かずにワザとグリグリと回しながらナイフを抜いた。

 相当な痛みであろうことはヤヨイにもわかる。ヤヨイが協力せねばもっと痛めつける。そうした意味がその行動にはある。

「旧文明の末期には様々なヒーローなどに仮装する遊びが流行っていたと、バカロレアの図書館にあった歴史書で読みましたよ。

 貴女が誠意をもって応対いただければ、すぐにでもアクセル殿をこの「キリスト・コスプレ」から解放しましょう。

 おわかりですね、バロネン? いや、『帝国のエージェント殿』、ですかな?」

 よし!

 ここは、乗ってみるか!

「・・・ヤヨイ」

 は?

 そんな意外な貌をニコライは浮かべた。

「わたしの本名だ」

 すると、ニコライはゆっくりとヤヨイに歩み寄ってきた。

「よろしい!」

 全ての光を吸い込んでしまう、ブラック・ホールのような底の知れない暗闇を宿すメデューサの瞳がヤヨイの鼻先にあった。

「実り多い話をしようじゃありませんか、ヤヨイ殿」

 アクセルの血糊が付いた冷たいナイフの腹がヤヨイの頬に当てられた。

 白い肌を深い紅が流れた。
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