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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
52 密謀の皇太后、謎の大司教
しおりを挟む中庭に降り続く雨の向こう。
美しいブラケットの灯りが照らす庇(ひさし)の下の回廊を、ふたりが、若き国王にしてソニアの息子が、あのにっくきノルトヴェイト一族の末裔である女と!
せっかく掴んだこのヤンベルナドッテ王朝の頂点、このノールの支配者である自分をその地位から引きずり下ろしかねない危険な女と!
しかも、本来なら今ごろはあの大司教肝入りの手練れとやらに消されておるはずの女と!
この母の苦悩、焦慮をも知らずに能天気にも、楽しげに、時折顔を見合わせては親し気に、仲睦まじげに散歩などしおって!!!
何故にあの女が、まだ生きておるのか?!
大司教! まさか、妾(わらわ)をたばかったのではあるまいな・・・。
「なぜにまだあの女が生きておるのか!」
「陛下、お声が・・・」
リンダは窓を閉めた。
歯ぎしりする皇太后ソニアは、豪奢なビロードのカーテンの金モールのタッセルを掴み、怒りを込めて引き千切り、濡れた床の上に激しく叩きつけた。
「・・・陛下。・・・皇太后陛下。あの、もしよろしければ、・・・わたくしめが・・・」
「なに?」
ソニアは怒りで血の気を失いそうなほど真っ青な顔を上げた。
特に才や美貌があるわけでなし。忠誠だけが取り柄の田舎者。その思いつめたようなリンダの顔に、一縷の望みを垣間見て覗き込んだ。
「代わりにわたくしめが、あの帝国の女を・・・」
「そちが、か?」
「はい。あの不届きなベアーテを消した如くに」
「そうか!」
先だって。
後宮から修道院への献金、お布施の一部を度々掠めていた卑しき女を一人、消したが、その手を下したのがこのリンダであったのを思い出した。
「そうか! そちが、やってくれるか! 嬉しいぞ! わらわは嬉しいぞ、リンダ!」
「そのかわり、皇太后陛下。大変不躾ではございますが・・・」
ソニアは俄然気色を取り戻した。ノールに君臨する女帝の、あり余る野望を秘めた瞳の輝きを取り戻した。
「わかっておる! 案ずるでない!こたびのことが成就した暁には、いずれヴェンケの後釜にそちを据えるよう、すぐに副女官長の地位に就けてやる! 」
下賤の女はたちまちに内なる醜女の素顔を輝かせた。
「ありがとうございます! きっと、必ずや、あの帝国の女を屠(ほふ)ってごらんに入れます!」
修道士長トロンハイムは、カンテラを下げ、後宮からから大聖堂への暗い、秘密の地下通路をこつこつ木靴を鳴らし急いでいた。
木綿の僧服の上に黒いマントを着け目深にフードを被っていた。王宮の者たちに顔を見られ素性を知られるのを恐れたが故だった。ノールの修道士長がなぜに秘密の通路を歩いているか、と。
しかも、首から下げたロザリオを固く握りしめ、何度も胸に十字を切りながら。
彼は己の罪の大きさと重さに震え、戦慄(おのの)いていた。
いかに大司教の命とはいえ、ウソを語り、しかも、人一人殺める謀(はかりごと)に与してしまったとは!
あな、恐ろしや!
ああ!
他ならぬ神は全てご存じであろう! お見通しであられよう!
間違いない。今度こそ、この身に神罰が下る!
ああ! 早く懺悔せねば!
「はい、一切。大司教猊下肝入りの者と伺っております。
痕跡も残さず、必ずや、かの帝国の女をこの世から消し、神のみもとに送らせましょう」
今帝国訪問中の第三王女、アンジェリーカ内親王が、まだこの世に生まれ出る前。
皇太后陛下の肝いりで、醜悪で奇怪な容姿の謎の男が現れた。
その男は、いつの間にか厳そかなる大聖堂や神聖なる修道院に入り込み、いぶかるトロンハイムたち修道士たちを尻目に、あれよというまに老衰でお隠れになり神のもとに旅立った前大司教の後釜に座ってしまった。
以来、素性も知れないいかがわしき男たちを次々に修道院へ招じ入れ、夜な夜な都の卑しき女どもを集めては神をも恐れぬ淫猥なる戯れに耽るようになった。
この世で最も神に近い場所であったはずの大聖堂と修道院は、瞬く間に世俗の汚猥に塗れた悪の巣窟になり果てた。
しかも、大司教就任以来、彼は一度も説教をしたことがない。すべて修道士長たるトロンハイムが代わりを務めた。大司教は儀式に出、いにしえより伝わる型通り右手を挙げて祝福するだけ。
敬虔な、心ある求道者の幾人かは絶望して修道院を離れ下界に落ちた。だが、トロンハイムを含め、まだわずかな者たちが信仰を守り、教会と院を守っていた。
もちろん、己のためではない。
わたしたちがここを離れれば、本当にこの都から神の御座所が消えてしまう。
あくまでも、その清い信心の故であった。
しかし・・・。
そのためには、目をつむって耐えねばならぬ試練が多すぎた。
大司教や皇太后の、数々の無体な要求が、それであった。
トロンハイムは焦っていた。
いつも地下水が浸み出している石畳が壁のブラケットにぬらぬらと鈍く光る。修道士長はともすれば木靴の足を取られて転びそうになりながら、帰り道を急いだ。
やっとのことで大聖堂地下に通じるドアに辿り着いた。ドンドン、と扉を叩いた。
ドアの向こうで声がした。大聖堂に詰めている宿直(とのい)の若僧が、ドナショーン、寄付がおありですか? と尋ねてくる。いつものごとく、寄付の金貨を携えた後宮の使いを迎えたと思ったのだ。
「わたしだ!」
マントのフードを脱いだ。
「これは、兄弟、修道士長! いかがなされましたか」
「いいから! 早くここを開けるのです、弟よ!」
ガチャガチャと閂(かんぬき)を開ける音ももどかしく、湿った木のドアがギイと鳴いた。
「お帰りなされませ、修道士長」
まだ年若い、漂白していない生(き)の木綿の僧衣を着た宿直が十字を切り手を組む。数少ない、トロンハイムと同じ真面目で敬虔な修道士の一人だ。
応じた修道士長もまたせわしげに胸の上に十字を描いた。
だが、焦りの汗が滲んだ彼の口から出たのは、お定まりの神と修道士を祝福する文言ではなかった。
「大司教猊下は? 司教室か? それとも、修道院か?」
「さきほど聖堂にお戻りになられました。今は司教室においでになられますかと」
トロンハイムは急いで木靴を鳴らし石の階段を駆け上がった。
「行って参りました、猊下」
大聖堂の大扉から入る前室、そこから内陣に向かってまっすぐに伸びる主身廊を見下ろす袖廊の上にある大司教のオフィスに入った。
黒い僧服に身を包んだ大司教は、窓から見える、雨に煙る丘の上の古びた修道院とその向こうに霞む城壁、そしてオスロホルムの新市街の街並みとを眺めていた。
トロンハイムの言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか。彼は窓の外を見つめたまま身じろぎもしなかった。
修道士長が再度声をかけようとしたとき、彼は振り向いた。
6フィートをはるかに超える長身。修道院での乱れた姿を微塵も感じさせない、黒一色の長い僧衣の首には大きな金のロザリオが輝く。だが、その異形の貌はそのまま。向かって右目の黒に左の白く濁った眼球でトロンハイムをじっと見つめた。
「ごくろうだった」
歯並びの悪い口を開き、まるで地の底から滲み出したタールのような声で大司教は言った。
「首尾よう済んだか」
「は、はい。すべて仰せのごとく・・・」
修道士長は頷いた。
「しかし、大司教猊下。あれでよろしかったのでしょうか? 本当に、帝国の賓客殿には危害はないのですか?」
それが彼の、最大の危惧だった。
皇太后にはあの女装した男を「刺客」と紹介したのだが、その実は皇太后の意思に反して件(くだん)の女男爵を守り参らせるための者と聞いていた。だから、トロンハイムは使いの役目を引き受けた。
しかし、それは人を偽る言葉。
神の言葉の中にある、「偽りを言う者」の一人になってしまったのが、しかも、人を殺めることなどに与することになってしまったのが、修道士長の苦悩を生んでいた。
「それはすでに申したはず。アレが言うがごとくにすればよい」
アレ。
大司教が、皇太后の再三の求めに応じて修道士長たるトロンハイムに紹介役を命じた、女装の男である。
「しかし、大司教猊下。あの者はいったい、誰なのですか? 猊下とはどういうご関係の方なのですか?」
「それも、申したはず。そなたが知る必要なない」
「はい、それはもう・・・。ですが・・・」
大司教は右手を挙げた。祝福を施す際の仕草。
「アレは、神の僕(しもべ)だ。神がお命じになった。それを叶えるために遣わされたものである」
「で、では、いったい何を。神は何を、あのお方にお命じになったのですか?
そもそも、猊下とはどういうご関係なので・・・」
「それは、わしも知らん」
「は?」
「神が、このノールを守らせたもうため、アレを遣わされた。それだけだ。いずれ近いうち、そなたにもわかる日が来よう。疑問や疑いは無用である!」
「・・・かしこまりました」
やむなく、トロンハイムは、内心の疑義を押し殺し、十字を切って神に祈った。
トロンハイムが司教室で大司教と接見している、同じころ。
大聖堂の階下。側廊の懺悔室のうち、カーテンが開いた小部屋にアクセルの姿があった。
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