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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
42 功を焦るアンドレ。着々と布石するヤヨイ。困惑する黒猫
しおりを挟む努力は必要なかった。
はるばる帝国からやってきたヤヨイが抹殺すべき、ターゲット。「もぐら」の顔は一度見たら忘れられないような恐ろしさを秘めていた。やっとターゲットの顔を知った。ヤヨイの中に獲物を狙うハンターの静かな昂奮が芽生えた。
充分に見た後、部屋の窓を開けて似顔絵の写真を全て燃やした。
もう夜も更けたというのに、他の部屋からは依然艶めかしいアノ声が聞こえて来ていた。
まったく、スキな人たちだこと・・・。いったい、どんだけすりゃ満足するのかしらね。
傲慢にも、ヤヨイは愛欲三昧のノールの恋人たちを卑下した。
自分だってたった半年前は、
「身も心も最高に相性のいいパートナーに巡り合えた!」
と、夫ラインハルトとの肉欲に溺れていたというのに。
念の入ったことに、アクセルはウィスキーの小瓶を取り出し、コルクの栓を抜いて中身を自分にふりかけた。芳醇で強い香りが、淫売宿兼逢引専用宿屋の部屋に漂った。キリスト教を一に奉ずるノール王国だが、こうも愛欲の吐息と酒臭さが充満していては、この「愛の巣」だけは神の慈悲も行き届かないかもしれない。
酔ったフリのアクセルに肩を貸しつつ、心優しいあるじの演技をしながら、「愛欲の巣」を出、雨の中、「もぐら」の手下ペールの仲間かも知れないノラの待つゴルトシュミットの屋敷に向かった。
アクセルに似顔絵を届けヤヨイにそれを知らせた使いの男、グロンダール卿のスタッフの一人はオフィスに戻った。そしてアンドレに驚くべき情報を報告した。
似顔絵のひとり、若い方の下手人が、ゴルトシュミットの屋敷に出入りするハーニッシュを追放された、その名をペールという若者であることがわかった、と。
折しも、ノール全土に渡る革命騒ぎが活発になりつつあった。
内務省と共に、秘密警察もまたその扇動者を摘発する任務にあたってきたわけだが、急報に接した秘密警察のオフィスは、俄かに色めき立った。どれだけ労を費やしてもその手掛かりすら掴めなかった革命騒ぎの黒幕、「もぐら」が、やっと地の底から這い出てその姿を現した、と。
「そのペールという若い男を尾行すれば、『もぐら』のアジトが知れるではないか!」
当然、オフィスに集うスタッフたちの誰もがそう思い、もちろん、なにかと功を焦るアンドレもそう考えた。
「はい。ですが、アクセルはこうも申しました。
何事もグロンダール卿の指示に従うように、と」
アンドレは憤懣を堪えかねた。
「はあ? なにを小癪な!」
純正のノール人でもない、帝国生まれの若造が、差し出がましさもここに極まれりだっ!
常日頃からグロンダール卿に叱責ばかり受けている。だから、思わず息まいたアンドレだった。
だが、先走り過ぎてまんまと「もぐら」を取り逃がしてしまった前回の轍は踏みたくない。そんなことをすればまたまたグロンダール卿の怒りを買い、彼に対する評価はさらに急降下し、もしかすれば今度こそは首が危うくなる。
だが、このチャンスは彼にとって隠忍自重するにはあまりにも魅力的すぎた。
「君、すぐにグロンダール卿の屋敷に赴き、お知らせしてくれたまえ! 」
そして、秘密警察のスタッフ一同を集め、訓示した。
「いいか、みんな!
ゴルトシュミットの屋敷の監視を強化するぞ!
そのペールという若い男の後を尾行け、アジトを突き止めるのだ。そして密かに監視し、アタックチームの作戦を補助する。だが、構えて軽挙は厳禁だぞ。あくまで監視に留め、絶対に手は出すな。いいか、くれぐれもそれだけは張り込みのスタッフ達に徹底するのだっ!」
アクセルの忠告を伝えたスタッフの手前、そう言わねばならなかった。
だが、アンドレにはもう一枚、別の腹があった。
あの小生意気な帝国生まれの若造と、アイゼネス・クロイツだか何だか知らんが、出しゃばりで、かつ、目障りな帝国女の鼻は、絶対にオレが明かしてやる! と。
酔ってへべれけになった従者を抱えるようにして、イングリッド様が帰館したのは真夜中を過ぎていた。
執事のエリック、女中頭のマッタ、門番のグンダーと共に、旦那様の大切な賓客を出迎えたノラは、もう一度湯を沸かし直すべく、バスルームに急いだ。
木桶を使って陶器製のバスタブに熱い湯を注いでいると、立ち込めた湯気の向こうのドアが開いた。
「ああ、ノラ。夜遅くにごめんなさいね」
帝国の高貴な女性の柔らかな声が浴室に響いた。
密かに彼女の動静をペールに報告しているとも知らず、イングリッド様は優しい言葉をかけて下さる。その罪の重さに、またもノラの心は沈んだ。
「お手伝いいたします!」
イングリッド様のお傍にたち、濡れて重くなったコートをお脱がせした。雨はウェストコートの下のシャツまでを濡らし、彼女のすべらかな肌にぴったりと張り付かせていた。男装の女男爵はコルセットではなくステイズを着けていた。イングリッド様が前で留めた紐を解くと、ノラはそれを外した。同じ女性ながら、彼女の白い肌にはムダな肉がなく、均整が取れていた。むしろ筋肉質と言ってもいい、中性的な妖しげな魅力を放つ白い肌。
「ありがとう、ノラ。
そうだわ! ノラ、あなたに伝えておかなくては!」
短い金髪を掻き上げ、留めてさしあげようとしたら、クルリと振り向かれた。
「あのね、ノラ。ハーニッシュの里で、あなたのお父様に会ったの」
ドキ・・・。
動揺するノラをよそに、一糸まとわぬ素裸となられたイングリッド様は、楚々とバスタブに歩み寄るとそのまま身を沈められた。
「ああ・・・。生き返ったようだわ。いい気持ち・・・」
タオルを手にしたまま、衝立を挟んでノラは立ちつくした。
イングリッド様は父に逢われた。
父や母、兄の様子を訊けたら・・・。
「ノラ、あなたのお父様はお元気そうでいらしたわ」
ぴちゃん!
湯の跳ねる音が聞こえた。
もうノラには堪えきれなかった。
「父が・・・。父は・・・」
だが、罪の意識が邪魔して、そこから先が続かなかった。何も知らずに自分を信じて下さっているイングリッド様なのに、それなのに・・・。能天気に自分の家族の様子を尋ねるなど・・・。
「そうそう。館に帰って来て早々にペールがどこかに行ってしまったの。だから、わたしがあなたに伝えなければね」
え?
「彼はわたしと一緒に里に入ったわ。それで、やはり里の方たちに取り囲まれて・・・」
やっぱり・・・。
里を追放された者が受ける、無言の石つぶてだ。やっぱりペールもあれを受けたのだ。なんと可哀想に・・・。
「でもね、聞いて、ノラ。彼は、あなたのペールは、わたしの従者としてなら里への出入りを許されることになったのよ。残念だけれど、追放自体は解けないと言われてしまったのだけれどもね・・・」
なんと・・・。
「ほ、本当ですか!」
そんなことが許されるとは!
思わず衝立の陰から身を乗り出していた。湯気の中のイングリッド様は、お優しそうなお顔を上気させて微笑んでくださった。
「本当よ」
と彼女は言った。
「わたしがノール滞在中、あと幾度かハーニッシュの里を訪れることもあるかもしれない。その時はペールと一緒に行こうと思うの。彼にあなたのご家族への伝言を託すといいわ」
「なんて・・・。そんなことが・・・。あ、あり、ありがとうございます、イングリッド様! 」
「やめてよ、ノラ。それぐらいしか力になれなかったのに」
「いいえ! そんなことはありません。過分なほどでございます! 本当に、なんとお礼を申してよいやら・・・」
「そう言ってくれると、気が休まるわ」
イングリッド様はザッと湯船から身を起こした。
「あなたの里の長老様にも申し上げたの。わたしは、出来る事ならもう一度、ノルトヴェイト家の家門をこのノールに復活させたいの。もし、それが叶えば、あなたとペールをわたしの家に迎えることもできるわ。そうなれば、あなたもペールも、再びハーニッシュの里に出入りできるようになるかも。約束は、まだできないけれど、ね?
あ、もう夜も遅いわね。あまり長湯すると、あなたが休めないわ」
こんなわたしを気遣って・・・。なんとお優しい方・・・。
お体をお拭きしようと思い差しのべたタオルを、彼女は「ありがとう」と礼を言って取り去ってしまった。
「あ、そうだ! これもあなたにお願いしておかなくてはね」
タオルをお使いになりながら、イングリッド様はこうおっしゃった。
「わたし、また国王陛下にお招きいただいているの。ご訪問のお手紙を書くから届けて貰えないかしら。それから、わがまま言って悪いけど、朝もう一度お湯に浸かりたいわ。用意してくれる? ノラ」
「も、もちろんですとも、イングリッド様!」
ペールに連れられるまま里を飛び出してよりこの方。今日ほど嬉しい日はない!
条件付きとはいえ、愛するペールが再び里に戻れるようになった。そして、もしかすれば、もう一度お父様やお母さまに会える日が来るかも知れない!
それだけで、小さなノラの胸は、充分に満ち足りた。
その夜。
早くも舞い上がる心を抑えかねつつ、仕事を終えて屋根裏の自分の部屋に戻ったノラは、待っていた愛する男の影を迎えた。
細工は流々。仕上げを御覧じろ。
もちろん、
「ぐでんぐでんになって帰館して寝床に直行」したフリ。
のアクセルの部屋などには入らない。
彼の部屋の前で、帝国語で呼びかけた。
「アクセル、寝たの?」
そう言いつつ、
とんとことんの、すっとんとん。
ドアを叩いただけだ。それで充分、彼にはわかる。
予定通り、ノラに仕込みを終えた。
そういう合図だった。
これでいい。
国王とのデートが明日になるか、明後日か。それはわからないが、その情報が「もぐら」に届くことこそが重要なのだ。
一大イベントを終え、明日への仕込みも終わり、ついでに風呂に入ってリラックスもして、ヤヨイはベッドへと向かった。
にゃあお・・・。
黒猫が守る夜の倉庫街、第13番倉庫。
倉庫の入り口で一息入れていた、帝国語で言うシュバルツ・カッツェ、黒いオス猫は、いつも来る、いけ好かない若い人間の男を迎え、居場所を譲った。
若い男は、来るたびに彼に手を差し伸べようとする。だが、その触り方がキライなのだった。
黒猫はわりに鼻が利いた。
若い男からは重い雨の匂いと汗の匂いがした。
黒猫は、感じた。
この若い男は、何か、焦っている、と。
黒猫は、焦っている人間が何故か好きになれなかった。何故、と言われると困るのだが、キライなのだ。
だからその時も、彼とは距離を置いた。
やがて若い男は、ドアの中に消えた。
・・・と。
それまで人通りの無かった夜の雨の倉庫街が、にわかにざわついた。夜目の利く彼にもわからないほどに、えたいの知れない人間たちが集まってきているようだった。
いったい、なんなんだ、こいつらはっ!
彼本来の任務であるネズミのハントを邪魔する、こいつらは、いったい、誰だ!
黒猫は、困惑した。
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