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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
37 秘密警察のボス、手配書に接する。そして、「最後の晩餐」
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ヤヨイたちがハーニッシュの里に到着する二時間ほど前。
私邸で朝を迎えたグロンダール卿は、王都内に設けた事務所からの急報に接し、自ら馬を駆ってオフィスに急いだ。
すでに執務室にはアンドレが待っていた。
「長官、帝国からの似顔絵が届きました!」
デスクに着くのももどかしく、アンドレが差し出した書類の封筒をひったくるようにして奪うとチョッキのポケットから片眼鏡を取り出してその写真に見入った。
似顔絵は3枚あった。
内2枚はどちらも顔の造りは同じ30代ほどの男のものだった。だが髪の色と髪型、そして目の色が違った。一枚は肩までの金髪に緑色の目。もう一枚が黒い短髪に黒い瞳。だが、どちらの顔も見入るほどに不気味な空恐ろしさを感じさせた。
これが「もぐら」か・・・。
恐ろしさを感じるのに、そこから視線を外せなくなるような強烈な何かを放つ瞳を持つ男。メデューサ?
やっと目にした「顔のない男」の顔に見入ったあと、3枚目に移った。最後の一枚はずっと若い男だ。黒髪に灰色の目。最初の2枚とは違い、優し気な印象を受ける。とてもノールの政府と王家を転覆させようなどという悪だくみを秘めた者には見えない。
ノールの秘密警察のボスは写真を持ったまま片眼鏡を外し、緊張した面持ちの部下を睨んだ。
「この変装の顔がある方が『もぐら』だな? で、この若い方が手下か」
「はい。帝国のメッセンジャーからはそのように聞いております」
「・・・で?」
グロンダール卿としては、その後アンドレがどのような手配をしたのかを聞きたい。当たり前だ。
「は、はいっ! すでにこの似顔絵を国内の各出先に配布しております!」
「何と言って配ったのだ。まさかとは思うが『もぐら』の名などは出しておらぬだろうな」
「それは、もちろんでございます!」
まだ秘密警察内部にも「もぐら」のことは極秘事項だった。「帝国のお雇いアサシン」が関わる作戦の全容を知っているのはグロンダール卿とこのアンドレ、そして帝国のオスカルとレーヴェンショルドなど、ごく限られた者だけだった。
「オスロホルムの二三の貴族邸に盗みに入った強盗犯の疑いがある人物、と。そして、発見した場合は絶対に手出し無用。即刻ここに連絡するとともに密かに監視を続けよ、と。そう言い含めた上に、でございます!」
ふむ。
今朝入港した帝国の巡洋艦から受け取ったばかりにしては手際のいい処置だ。
ひとつ息を吐くと、グロンダール卿はアンドレに向けた愁眉を開いた。
「なるほど・・・。貴官にしては上出来だったな」
そして、自分のデスクに深く腰を掛けると、この「使えなかったけど、まあ、なんとかそこそこの仕事はこなしたかもしれない」部下を見上げた。
「で? 作戦中のアタック部隊には?」
「はい。現在、アクセルと『女男爵』は近衛騎兵の護衛付きでハーニッシュ訪問中にて、彼らが帰都次第、接触する手筈を整えてございます!」
自分のボスがやっと仕事をホメてくれた! それに気をよくしたアンドレは、息を弾ませて姿勢を正した。
「くれぐれも、慎重にな。背後に我ら特別警察がいることをターゲットに気取られぬように。絶対に、だ。細心の注意を払って事を運びたまえ」
「かしこまりましたっ!」
そう言ってオフィスを出て行こうとするアンドレの背中を見送るうちに、ふと気になった。
「待て、アンドレ!」
と、やや「使える」ようになったかもしれない部下を呼び止めた。
「は?」
振り向いた部下に、「秘密警察のボス」は問いかけた。
「クリストフェルにも伝えたであろうな」
「は? ・・・いえ」
グロンダール卿は「はあ~っ・・・」と、深い溜息を吐いて額を抱えた。
「何が、いえ、だ。
当初よりクリストフェルもこのミッションに関わっておる。王宮内に侍従に扮して『もぐら』が関わって来るかも知れぬと。それは貴官も存じておろうが!」
久々にホメられて高揚していたアンドレは、ふたたび意気消沈して顔を青くした。
「・・・ごもっともでございます」
「早急に、処置したまえっ!」
「かしこまりましたっ!」
やっぱり「使えない」部下が出ていったドアを見つめ、「はあ~・・・」グロンダール卿は再び深くて長い吐息を吐いた。
その広場に面してハンヴォルセンの家はあった。一行は広場に向かって開いた軒下に案内された。すでにそこに座が設けられていた。広場を埋め尽くしたハーニッシュの人々が観客だとすれば、そこはまるでステージのようだった。
ヤヨイたちと共に副連隊長も赤い軍服で座に着いたが、彼以外の護衛の一個分隊は村の入り口に馬を繋ぎ歓談が終わるまでそこで待機となった。
そして、長老たちの先導で祈りが始まった。
広場を埋め尽くしたハーニッシュの人々はみな片膝をつき、両手を組み、目を閉じ、一心に祈った。もちろん、ヤヨイも、ゴルトシュミットも、一行全員、共に祈った。
祈りつつ、広場を埋め尽くした人々を観察した。
誰も彼も、ヤヨイが「ハーニッシュ族を救った聖クラウスの子孫」と信じて疑わないように見える。
ようやく、ここまで来た。
顔を変え、付け焼き刃ながら「敬虔なクリスチャン」である「ノール貴族の末裔」に扮し、ノールに入国し、ゴルトシュミットというかつてのノルトヴェイト家の家臣の子孫の後ろ盾の元ノールの貴族社会に潜入し、国王の謁見を経て、近衛騎兵連隊の護衛という鳴り物入りで、ターゲットが絶対に食らいついてくるはずの武装集団ハーニッシュの里にやって来た。
この中に、「もぐら」はいるのか。
居るなら、出て来い!
祈りの内側で、ヤヨイは静かに吼えた。
しばしの神への祈りの後。無数のテーブルが広場に出され、食卓が設えられた。木の皿に盛られたパンとチーズ。それに小さな木の樽と木造りのカップである。
豪華で贅沢過ぎる王宮の晩餐会などには比べるべくもない、あまりにも質素すぎる常のハーニッシュたちの食事同様、貧しいたたずまいではあるが、木の小樽だけはこうした特別の場だけしか見られないものだった。にわか仕込みの一夜漬けに近いものだったが、聖書を予習していたヤヨイには、この食卓の意味が分かった。キーは、木の樽だ。
女たちが数多のテーブルについて木の小樽の栓を抜き木の盃に中身を注ぎ始めた。それは赤い液体だった。ワインだ。
聖書にあるキリストの最後の晩餐を模した祭りなのだろう。まだ陽は高かった。が、里の公式の礼遇で「ノルトヴェイト家の末裔」をもてなし、共に神に感謝を捧げようとの意図だろうと察した。一夜漬けではあったけれど予習はムダではなかった。
ヤヨイとゴルトシュミットの前にも卓が据えられ、長老たちと共に席に着いた。アクセルや旧家臣の子孫たちもまた、近くの卓に座を占めた。
それを見て民たちもまためいめい幾多のテーブルに座り、みなが盃を手にしたころ合いで、ハンヴォルセンは立ち上がった。
「皆の衆! 今日この里に、我らの恩人であるノルトヴェイト家の血をひく高貴なるお方をお招きできたことは誠に喜ばしきことであり、神のお引き合わせに深く感謝するものである。この良き日を皆と共に祝い、あらためて神の御業を畏れ敬おうではないか!
ここで、これにおわす亡きクラウス様のご子孫であられる帝国貴族、バロネン・イングリッド・マリーア・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒ殿に、一言お言葉を賜ろうと思う」
ハンヴォルセンに促され、杯を持ち、ヤヨイも立ち上がった。
こういう場では沈黙が金だ。それは心得ていた。だが、このような「ステージ」に立たされた以上、何かは言わねば。
ここはやはり「予習」したテキストを諳んじるのが無難だろう。
「ハーニッシュの皆さま。わたしは、ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒです。
神のお導きにより、我が先祖の故郷であるこのノールに参ることができ、長年の思いでありました先祖の墓参も叶い、そして思いがけなくも先祖と深いつながりのあった人々のご子孫である皆さまにこうしてまみえることが出来ました。只今のハンヴォルセン長老のお言葉にもありました通り、これもひとえに天の神の思し召しの賜物であると、深く感謝しております。
では、ここで、ご挨拶に代えまして聖書の一節をご披露させていただきたく存じます」
ヤヨイは、話し始めた。
「夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。
そして、一同が席について食事をしているとき言われた。
『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている』
弟子たちは心配して、ひとりびとり『まさか、わたしではないでしょう』と言い出した。
イエスは言われた。
『十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである』
たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた。
『取りなさい。これはわたしのからだである』
また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
イエスはまた言われた。
『これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である』」
聖書の一節、マルコ伝の「最後の晩餐」の部分。我ながらグッドチョイスだと思った。
ヘタなことを考えて言うよりも、その「付け焼刃の一夜漬けの丸暗記」の方が、敬虔な信者であるハーニッシュの人々の心をより深く、強く、打つだろう。ヤヨイの策は、その目論見は、大いに当たった。
一同が感激のあまり目を潤ませるのを慈愛の籠ったまなざしで見回しつつ、心の中では、「よっしゃー!」と、勝鬨をあげていた。
会食の後、ヤヨイはハンヴォルセンの家の中に招かれた。
「子爵。アクセルも来てください」
広場の周りにある家々同様に質素で簡素な家。
外観同様、家の中の造りも質素そのものだった。不揃いな板張りの壁の隙間は丁寧に漆喰で埋められ、やはり積み上げた石の隙間を漆喰で固めた暖炉の上には少し赤錆びた十字架が掛けられていた。専門の祭司を持たず、教会も作らない彼らの、典型的な家の佇まいは清潔を感じさせた。
近隣の村々の長老たちも同席し、小さな家はたちまちに人で埋まった。
十字架を仰いで跪き、両手を組み、身を低くして小さく祈った。そして長老衆を振り返った。
ハンヴォルセンを皮切りに、長老たち一人ひとりがヤヨイの前に跪いて彼女の手を取り、キスを捧げた。
ハンヴォルセンは言った。
「バロネン・ヴァインライヒ。いいえ。わがハーニッシュ族の恩人にして今は亡き尊きクラウス様の高貴なるご子孫よ。
本日は大変ありがとうございました。
王宮でも申し上げましたが、このハンヴォルセンだけでなくここに集う里の長老たちも、家の外に集う多くの者達もみな等しく心の安らぎを覚えました。まさに神の御手に抱かれたるごとく、さらに寿命の伸びる心地がいたしました」
ハーニッシュの長老一同はあらためて深く首を垂れた。
「そのような・・・。
もったいのうございます、ハンヴォルセン殿」
ヤヨイは皺枯れた長老の手を優しく取り、言った。
「このわたしにとりましても、今日という日は格別の日になりました。
いつの日か故郷のノールに帰り、先祖の菩提を弔い、先祖が艱難辛苦を供にしたあなた方ハーニッシュの里に参る。
幼い頃より父母から受けた薫陶をようやく実現できたことは、わたしにとり何物にも代えがたい喜びであり、皆様とこうしておひきあわせ下さった神の思し召しに深く感謝するものであります」
ヤヨイは黒装束の長老たちが胸の上で十字を切り手を組んで祈りを呟く様を目の当たりにした。
そして、ハンヴォルセンは言った。
「ノール政府との取り決めにより、陽が落ちる前にあなた様を王都にお返しせねばなりません。それがなんとも辛ろうございます。
ですが、これだけは問いたださせていただきたい」
彼は老齢で濁った灰色の瞳に、残り少ない余命の最後の光を灯すように、老いた命の最後の力を身体中を振り絞るようにして、その口から吐きだした。
「ノルトヴェイト様・・・。
あえてそう呼ばせていただきます。
ノルトヴェイト様は、このノールに再びお家を再興なされるお気持ちはおありですか?」
予期していたことだが、ハーニッシュの長老はもっとも困難な課題を口にした。
「もし、そうした思し召しをお持ちであるなら、このハーニッシュ族の全ての者が、貴女のご希望を叶えるべく、立ち上がる所存にございます!」
居並ぶハーニッシュの長老たちを見渡した。皆々、思いは同じだ。誰もがその瞳に切実な色を浮かべてヤヨイの返事を待っていた。
つくづく、ノルトヴェイト家というのはスゴイ家門だと思ったし、その家門を偽り、子孫を偽り、敬虔な信者たちを騙して作戦している、「罪」を思った。
しかし、ここは敢えてその「罪」をより深く犯す!
そうすれば「もぐら」は、必ず「絶好のチャンス」だと捉え、ヤヨイ扮する「ノルトヴェイト家の末裔」に接近してくるはず。それが作戦の成否を左右するのだ。
「幼き頃より父母の願いを聞いて育ち、『いつかは』の思いを胸に過ごして参りました。
この度、ありがたくもこのノールに還り来て、わたしの志はもはや、誰はばかることなく叫びあげたい気持ちだけになっておりまする。
このノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒは、是が非でも我が先祖の名を、このノールに再び立てたいと切に願っておりまするっ!」
全てが予定通りに運んでいる。
あとは、「もぐら」が現れるのを待つだけだ。
私邸で朝を迎えたグロンダール卿は、王都内に設けた事務所からの急報に接し、自ら馬を駆ってオフィスに急いだ。
すでに執務室にはアンドレが待っていた。
「長官、帝国からの似顔絵が届きました!」
デスクに着くのももどかしく、アンドレが差し出した書類の封筒をひったくるようにして奪うとチョッキのポケットから片眼鏡を取り出してその写真に見入った。
似顔絵は3枚あった。
内2枚はどちらも顔の造りは同じ30代ほどの男のものだった。だが髪の色と髪型、そして目の色が違った。一枚は肩までの金髪に緑色の目。もう一枚が黒い短髪に黒い瞳。だが、どちらの顔も見入るほどに不気味な空恐ろしさを感じさせた。
これが「もぐら」か・・・。
恐ろしさを感じるのに、そこから視線を外せなくなるような強烈な何かを放つ瞳を持つ男。メデューサ?
やっと目にした「顔のない男」の顔に見入ったあと、3枚目に移った。最後の一枚はずっと若い男だ。黒髪に灰色の目。最初の2枚とは違い、優し気な印象を受ける。とてもノールの政府と王家を転覆させようなどという悪だくみを秘めた者には見えない。
ノールの秘密警察のボスは写真を持ったまま片眼鏡を外し、緊張した面持ちの部下を睨んだ。
「この変装の顔がある方が『もぐら』だな? で、この若い方が手下か」
「はい。帝国のメッセンジャーからはそのように聞いております」
「・・・で?」
グロンダール卿としては、その後アンドレがどのような手配をしたのかを聞きたい。当たり前だ。
「は、はいっ! すでにこの似顔絵を国内の各出先に配布しております!」
「何と言って配ったのだ。まさかとは思うが『もぐら』の名などは出しておらぬだろうな」
「それは、もちろんでございます!」
まだ秘密警察内部にも「もぐら」のことは極秘事項だった。「帝国のお雇いアサシン」が関わる作戦の全容を知っているのはグロンダール卿とこのアンドレ、そして帝国のオスカルとレーヴェンショルドなど、ごく限られた者だけだった。
「オスロホルムの二三の貴族邸に盗みに入った強盗犯の疑いがある人物、と。そして、発見した場合は絶対に手出し無用。即刻ここに連絡するとともに密かに監視を続けよ、と。そう言い含めた上に、でございます!」
ふむ。
今朝入港した帝国の巡洋艦から受け取ったばかりにしては手際のいい処置だ。
ひとつ息を吐くと、グロンダール卿はアンドレに向けた愁眉を開いた。
「なるほど・・・。貴官にしては上出来だったな」
そして、自分のデスクに深く腰を掛けると、この「使えなかったけど、まあ、なんとかそこそこの仕事はこなしたかもしれない」部下を見上げた。
「で? 作戦中のアタック部隊には?」
「はい。現在、アクセルと『女男爵』は近衛騎兵の護衛付きでハーニッシュ訪問中にて、彼らが帰都次第、接触する手筈を整えてございます!」
自分のボスがやっと仕事をホメてくれた! それに気をよくしたアンドレは、息を弾ませて姿勢を正した。
「くれぐれも、慎重にな。背後に我ら特別警察がいることをターゲットに気取られぬように。絶対に、だ。細心の注意を払って事を運びたまえ」
「かしこまりましたっ!」
そう言ってオフィスを出て行こうとするアンドレの背中を見送るうちに、ふと気になった。
「待て、アンドレ!」
と、やや「使える」ようになったかもしれない部下を呼び止めた。
「は?」
振り向いた部下に、「秘密警察のボス」は問いかけた。
「クリストフェルにも伝えたであろうな」
「は? ・・・いえ」
グロンダール卿は「はあ~っ・・・」と、深い溜息を吐いて額を抱えた。
「何が、いえ、だ。
当初よりクリストフェルもこのミッションに関わっておる。王宮内に侍従に扮して『もぐら』が関わって来るかも知れぬと。それは貴官も存じておろうが!」
久々にホメられて高揚していたアンドレは、ふたたび意気消沈して顔を青くした。
「・・・ごもっともでございます」
「早急に、処置したまえっ!」
「かしこまりましたっ!」
やっぱり「使えない」部下が出ていったドアを見つめ、「はあ~・・・」グロンダール卿は再び深くて長い吐息を吐いた。
その広場に面してハンヴォルセンの家はあった。一行は広場に向かって開いた軒下に案内された。すでにそこに座が設けられていた。広場を埋め尽くしたハーニッシュの人々が観客だとすれば、そこはまるでステージのようだった。
ヤヨイたちと共に副連隊長も赤い軍服で座に着いたが、彼以外の護衛の一個分隊は村の入り口に馬を繋ぎ歓談が終わるまでそこで待機となった。
そして、長老たちの先導で祈りが始まった。
広場を埋め尽くしたハーニッシュの人々はみな片膝をつき、両手を組み、目を閉じ、一心に祈った。もちろん、ヤヨイも、ゴルトシュミットも、一行全員、共に祈った。
祈りつつ、広場を埋め尽くした人々を観察した。
誰も彼も、ヤヨイが「ハーニッシュ族を救った聖クラウスの子孫」と信じて疑わないように見える。
ようやく、ここまで来た。
顔を変え、付け焼き刃ながら「敬虔なクリスチャン」である「ノール貴族の末裔」に扮し、ノールに入国し、ゴルトシュミットというかつてのノルトヴェイト家の家臣の子孫の後ろ盾の元ノールの貴族社会に潜入し、国王の謁見を経て、近衛騎兵連隊の護衛という鳴り物入りで、ターゲットが絶対に食らいついてくるはずの武装集団ハーニッシュの里にやって来た。
この中に、「もぐら」はいるのか。
居るなら、出て来い!
祈りの内側で、ヤヨイは静かに吼えた。
しばしの神への祈りの後。無数のテーブルが広場に出され、食卓が設えられた。木の皿に盛られたパンとチーズ。それに小さな木の樽と木造りのカップである。
豪華で贅沢過ぎる王宮の晩餐会などには比べるべくもない、あまりにも質素すぎる常のハーニッシュたちの食事同様、貧しいたたずまいではあるが、木の小樽だけはこうした特別の場だけしか見られないものだった。にわか仕込みの一夜漬けに近いものだったが、聖書を予習していたヤヨイには、この食卓の意味が分かった。キーは、木の樽だ。
女たちが数多のテーブルについて木の小樽の栓を抜き木の盃に中身を注ぎ始めた。それは赤い液体だった。ワインだ。
聖書にあるキリストの最後の晩餐を模した祭りなのだろう。まだ陽は高かった。が、里の公式の礼遇で「ノルトヴェイト家の末裔」をもてなし、共に神に感謝を捧げようとの意図だろうと察した。一夜漬けではあったけれど予習はムダではなかった。
ヤヨイとゴルトシュミットの前にも卓が据えられ、長老たちと共に席に着いた。アクセルや旧家臣の子孫たちもまた、近くの卓に座を占めた。
それを見て民たちもまためいめい幾多のテーブルに座り、みなが盃を手にしたころ合いで、ハンヴォルセンは立ち上がった。
「皆の衆! 今日この里に、我らの恩人であるノルトヴェイト家の血をひく高貴なるお方をお招きできたことは誠に喜ばしきことであり、神のお引き合わせに深く感謝するものである。この良き日を皆と共に祝い、あらためて神の御業を畏れ敬おうではないか!
ここで、これにおわす亡きクラウス様のご子孫であられる帝国貴族、バロネン・イングリッド・マリーア・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒ殿に、一言お言葉を賜ろうと思う」
ハンヴォルセンに促され、杯を持ち、ヤヨイも立ち上がった。
こういう場では沈黙が金だ。それは心得ていた。だが、このような「ステージ」に立たされた以上、何かは言わねば。
ここはやはり「予習」したテキストを諳んじるのが無難だろう。
「ハーニッシュの皆さま。わたしは、ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒです。
神のお導きにより、我が先祖の故郷であるこのノールに参ることができ、長年の思いでありました先祖の墓参も叶い、そして思いがけなくも先祖と深いつながりのあった人々のご子孫である皆さまにこうしてまみえることが出来ました。只今のハンヴォルセン長老のお言葉にもありました通り、これもひとえに天の神の思し召しの賜物であると、深く感謝しております。
では、ここで、ご挨拶に代えまして聖書の一節をご披露させていただきたく存じます」
ヤヨイは、話し始めた。
「夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。
そして、一同が席について食事をしているとき言われた。
『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている』
弟子たちは心配して、ひとりびとり『まさか、わたしではないでしょう』と言い出した。
イエスは言われた。
『十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである』
たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた。
『取りなさい。これはわたしのからだである』
また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
イエスはまた言われた。
『これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である』」
聖書の一節、マルコ伝の「最後の晩餐」の部分。我ながらグッドチョイスだと思った。
ヘタなことを考えて言うよりも、その「付け焼刃の一夜漬けの丸暗記」の方が、敬虔な信者であるハーニッシュの人々の心をより深く、強く、打つだろう。ヤヨイの策は、その目論見は、大いに当たった。
一同が感激のあまり目を潤ませるのを慈愛の籠ったまなざしで見回しつつ、心の中では、「よっしゃー!」と、勝鬨をあげていた。
会食の後、ヤヨイはハンヴォルセンの家の中に招かれた。
「子爵。アクセルも来てください」
広場の周りにある家々同様に質素で簡素な家。
外観同様、家の中の造りも質素そのものだった。不揃いな板張りの壁の隙間は丁寧に漆喰で埋められ、やはり積み上げた石の隙間を漆喰で固めた暖炉の上には少し赤錆びた十字架が掛けられていた。専門の祭司を持たず、教会も作らない彼らの、典型的な家の佇まいは清潔を感じさせた。
近隣の村々の長老たちも同席し、小さな家はたちまちに人で埋まった。
十字架を仰いで跪き、両手を組み、身を低くして小さく祈った。そして長老衆を振り返った。
ハンヴォルセンを皮切りに、長老たち一人ひとりがヤヨイの前に跪いて彼女の手を取り、キスを捧げた。
ハンヴォルセンは言った。
「バロネン・ヴァインライヒ。いいえ。わがハーニッシュ族の恩人にして今は亡き尊きクラウス様の高貴なるご子孫よ。
本日は大変ありがとうございました。
王宮でも申し上げましたが、このハンヴォルセンだけでなくここに集う里の長老たちも、家の外に集う多くの者達もみな等しく心の安らぎを覚えました。まさに神の御手に抱かれたるごとく、さらに寿命の伸びる心地がいたしました」
ハーニッシュの長老一同はあらためて深く首を垂れた。
「そのような・・・。
もったいのうございます、ハンヴォルセン殿」
ヤヨイは皺枯れた長老の手を優しく取り、言った。
「このわたしにとりましても、今日という日は格別の日になりました。
いつの日か故郷のノールに帰り、先祖の菩提を弔い、先祖が艱難辛苦を供にしたあなた方ハーニッシュの里に参る。
幼い頃より父母から受けた薫陶をようやく実現できたことは、わたしにとり何物にも代えがたい喜びであり、皆様とこうしておひきあわせ下さった神の思し召しに深く感謝するものであります」
ヤヨイは黒装束の長老たちが胸の上で十字を切り手を組んで祈りを呟く様を目の当たりにした。
そして、ハンヴォルセンは言った。
「ノール政府との取り決めにより、陽が落ちる前にあなた様を王都にお返しせねばなりません。それがなんとも辛ろうございます。
ですが、これだけは問いたださせていただきたい」
彼は老齢で濁った灰色の瞳に、残り少ない余命の最後の光を灯すように、老いた命の最後の力を身体中を振り絞るようにして、その口から吐きだした。
「ノルトヴェイト様・・・。
あえてそう呼ばせていただきます。
ノルトヴェイト様は、このノールに再びお家を再興なされるお気持ちはおありですか?」
予期していたことだが、ハーニッシュの長老はもっとも困難な課題を口にした。
「もし、そうした思し召しをお持ちであるなら、このハーニッシュ族の全ての者が、貴女のご希望を叶えるべく、立ち上がる所存にございます!」
居並ぶハーニッシュの長老たちを見渡した。皆々、思いは同じだ。誰もがその瞳に切実な色を浮かべてヤヨイの返事を待っていた。
つくづく、ノルトヴェイト家というのはスゴイ家門だと思ったし、その家門を偽り、子孫を偽り、敬虔な信者たちを騙して作戦している、「罪」を思った。
しかし、ここは敢えてその「罪」をより深く犯す!
そうすれば「もぐら」は、必ず「絶好のチャンス」だと捉え、ヤヨイ扮する「ノルトヴェイト家の末裔」に接近してくるはず。それが作戦の成否を左右するのだ。
「幼き頃より父母の願いを聞いて育ち、『いつかは』の思いを胸に過ごして参りました。
この度、ありがたくもこのノールに還り来て、わたしの志はもはや、誰はばかることなく叫びあげたい気持ちだけになっておりまする。
このノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒは、是が非でも我が先祖の名を、このノールに再び立てたいと切に願っておりまするっ!」
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あとは、「もぐら」が現れるのを待つだけだ。
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