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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。

36 「救世主」ヤヨイ

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 柵があるわけでも看板が立っているでもない、まだ青い小麦畑の始まった辺りで副連隊長である中佐は小隊長に命じた。

「全隊止まれ! これより下馬せよ。馬を曳き徒歩で里に向かう」

 小隊長が号令し、30騎の赤い騎兵たちは一斉に馬を止め下馬した。ノルトヴェイト家の血をひく帝国貴族と随員たちも近衛騎兵たちに習い馬を降りた。もう村落の家々の屋根を望めるところまで来ていた。騎馬のままなら十分もかからずに到着してしまうところだ。だが、これは親善訪問だ。

「歩くよりも速く移動してはならない」

 そんな掟のあるハーニッシュたちを刺激するのは極力避けねばならなかった。

 おかげでさらに一時間近くも歩かねばならなかった。途中で小麦畑の間の道の向こうから歩いてくる黒い人影を迎えることになった。

 特徴的な黒い鍔広帽子、白いシャツに黒のチョッキと長いズボン。

 ノールの伝統的な華やかなア・ビ・アラ・フランセーズに半ズボン、ブリーチズと白のソックスといったいでたちとはだいぶ趣が違う装束の二人連れが、彼らの習わし通りに歩いて出迎えに来てくれたものと思われた。

 中佐のすぐ後ろには信号弾の発射機を携えた兵が一人付き従っていた。万が一の事態になれば、彼が打ち上げた信号弾によって背後の丘に残して来た残りの中隊百数十騎全てがハーニッシュの里に殺到し、ノールの国賓とも言える帝国のバロネンを救出する手はずまで整えていた。

 だが、まずそのような大事は起るまい。

 中佐はそっとその兵を振り返り、言った。

「それは馬の鞍にでも差しておけ」

 中佐は楽観していた。落ち着いてその黒装束の出迎えを受けようと思った。極力警戒しているのを気取られぬように気を遣った。

 ふと隣で馬を曳く帝国の女男爵を顧みた。

 むとんじゃくなのか貴族特有の鷹揚というのか。また若い女性なのに落ち着いている。手綱を引いて歩く姿も堂に入ったものだ。帝国人というのは男も女も馬に慣れているものと見える。男も女も等しく徴兵を受け、貴族は皆士官になるのだとも聞いたことがある。そのせいだろう。

 向こうから歩いてくる二人連れはいずれも30台ほどの男で一人は豊かなあごひげを蓄えていた。あごひげの方がゆっくりと両手を広げた。

「お迎えに上がりました」

 小隊長がサッと片手を上げた。近衛騎兵の一隊は止まり、バロネンの後ろにきれいに整列した。

 ハーニッシュにまみえるときは、ノール人の男でさえも気が引き締まる。敬虔な新教の信者というだけでなく勇猛な武装集団であることを知っているからだ。

 だが、まだ若い女性の帝国貴族は大胆にもずいと進み出た。

「わざわざのお出迎え、ありがたく存じます。わたしがバロネン・ヴァインライヒです」

「おお!・・・。おお!・・・」

 二人のハーニッシュはサッとつば広帽を取って胸に抱き、道の上に片膝を突いた。

「これは・・・。まさしく言い伝えのノルトヴェイト公クラウス様の面影が・・・。

 ようこそ、我が里へ。この神のお導きに感謝いたしますとともに、あなた様を歓迎いたします」

「アーメン」

 バロネンもまた、手綱を従者に預け、片膝をついた。

「アーメン」

 近衛騎兵連隊の副連隊長は若い女性の帝国貴族の肝の太さに、脱帽した。


 


 

 そのハーニッシュの一郷の周囲には同じような黒いロバ車が数えきれないほど止まっていてまるで黒い垣根のように見えた。今日のヤヨイたちの来訪を知り、急遽近隣の村々から集まってきたものらしい。数十台、いや、下手をするとケタが一つ多いかもしれない。

 さすがのヤヨイも、思わず目を見張った。

 黒い馬車の溜まりの間にわずかに空いた道を通って、二人の出迎えの男に先導されたヤヨイたち一行は、晩餐会で会った長老ハンヴォルセンの村の中に足を踏み入れた。

 馬車の群れの陰で見えなかったが、村の中心の広場にはすでに多くの黒装束の人々が集っていて、ヤヨイたちを認めるや、皆一斉に地に片膝をついた。

「おお!」

「なんと、クラウス様ではないか!」

「おお、神よ!」

 男も女も老いも若きも。黒い人々はみな口々に二人の先導役の男と同じような感嘆を漏らし、胸の上で十字を切り、手を組んで神への祈りを捧げていた。皆澄んだ瞳をまっすぐにヤヨイに向け、中には感極まりすぎて涙を滲ませている者もいた。

「これは・・・。スゴいな。まるでヒーローじゃないか」

 傍らのアクセルが思わず漏らした帝国語のつぶやきに、ヤヨイも頷いた。

 話には何度も聞いていたし、むしろそれを織り込んだ作戦ではあったが、彼らハーニッシュが今は亡きノルトヴェイトを慕う気持ちがこれほどでも熱く大きく、深いものであるのを知り、あらためて驚かざるを得なかった。

 例えばもし、今ヤヨイが、

「ハーニッシュの皆さん! いざ、銃を取って都に進軍しましょう!」

 とでも言おうものなら、彼らは躊躇なく銃を携えて彼女に従うのではないだろうか。旧式の滑腔銃と言えども30万に及ぶ武装勢力に取り囲まれては数万でしかない首都防衛軍は到底太刀打ちできまい。

 シェルデラップ侯爵やワーホルム伯爵をはじめとするノール政府が何よりも最も恐れていたのは、これだったのだ。そういうことが自然に理解できる。

 おそらくはヤヨイが男装していることも影響しているだろう。それが余計に「ノルトヴェイト家の末裔」を演出しているのに違いない。150年前のノルトヴェイト公クラウスは僅かな供を従えただけで自ら馬を駆って国境を越えて帝国領に赴き、軽挙して帝国軍の駐屯地に居座ってしまったハーニッシュたちを宥めたというから。

 もしヤヨイがローブやドレスで、馬車に乗って現れたとしたなら、これほどの反応が期待できたかどうか。ヤヨイのコルセット嫌いのせいで急遽「伝説」に細工を加えたのだったが、ウリル少将に手間を掛けさせただけの甲斐はあったというものだ。こういうのを「瓢箪(ひょうたん)から駒」と言うのか。

「アクセル、里を出るまで、帝国語はナシよ」

 帝国から来た貴族と従者だから別に帝国語で話してもおかしくはない。だが、ここでは少しでも不信を招くような言動をするべきではないと思った。ハーニッシュにも、護衛の近衛騎兵たちにも、だ。せっかくのハーニッシュたちの「盲信」はとことん大事にして利用するの一手だ。

 今はただ、あくまでも控え目に。彼女の主目的である「もぐら」の現れるのを見逃さないように。細心の注意を払い、それだけに注力すべきだ。

 と。

 ヤヨイたちを出迎えた大勢の人がきを縫うようにして晩餐会で会った老人の姿が歩み寄って来た。長老ハンヴォルセンは近隣の長老たちを後ろに従えるようにしてヤヨイたちの前に立ち、恭しく首を垂れ、両手を組んだ。

「これは、バロネン! ご到着をお待ちしておりました。ようこそ、わがハーニッシュの里へ!」

「お約束通り、参りました。わが先祖の関わりましたる信仰深き人々が代を経てなお皆お健やかにお暮しになっておられるのを拝見し大変祝着に存じております」

 ハンヴォルセンは満足の体で頷いた。

「さ、これへ。御覧の通り信仰一筋に静かに暮らしているばかりのつましい我らなれば、ロクなおもてなしも叶いませぬが、共に神にこの良き日を感謝し、しばしの歓談の時を過ごし、旧縁を語り合いましょう」

 そうして、ヤヨイは「対『もぐら』用の最高級のエサ」、ハーニッシュの里に入ることに成功した。
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