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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。

35 いざ、ハーニッシュの里へ

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 その日の夜も更けたオスロホルム港の桟橋の沖合。


 

 港を覆った濃い霧も港口の防波堤近くではやや薄れ、厚い雲もはるか海上までは覆い尽くせず星明かりを黒い海が照り返すほど。そのお陰でたまにやって来るその艦影が防波堤の沖合に姿を現したのが薄れゆく夜霧の向こうにハッキリ見えた。

「船影見ゆ! 帝国海軍『アドミラル・グラーフ・シュペー』と認む! 」

 高いマストの上に昇っていた船員が叫んだ。

「来たか・・・」

 この日のためにチャーターした石炭運搬船「シュバルツ・カッツェ(黒猫)」号のブリッジで、船員たちと同じセーラーを着たアンドレが呟いた。

「『シュペー』より発光信号! 『我、石炭補給を求む』、です!」

「カピティーン(船長)!」

 傍らの船長に帝国語で促すと、亜麻色の髭で顔半分を覆った青い目の船長は肩を竦めつつもウム、と頷き、指示を下した。本来なら夜の夜中に、しかも接岸せずに洋上での「瀬取り」で石炭補給などはしない。不承不承、イヤイヤながらなのがおもいっきり態度に出ていた。

「微速前進。面舵」

 港口近くの防波堤の内側に停泊していた真っ黒な石炭船はゆっくりと動き出した。

 ノールの船籍には蒸気機関を搭載した船はまだない。帝国の貴族の経営する海運業者が石炭や木材の輸入のためにオスロホルム港に回していた蒸気輸送船。アンドレはその石炭運搬専用船の一隻をこの日だけ借り切り、帝国から来るクーリエに備えていたのだ。

 すでにまる一日かけて南の岬まで早馬を走らせ暗号も送った。「シュペー」号は予定よりだいぶ早く到着したが、彼の計画した通りに発光信号を送って来た。グロンダール伯爵から叱責を受けてもいた。
アンドレは万に一つの齟齬もないように、慎重にことを運んでいた。

「発光信号送れ! 『入港し、防波堤南に停泊せよ』」

 ブリッジの脇から「シュバルツ・カッツェ」号の船員が発光信号を送った。ほどなく「了解」の返信があり、30分ほどして両船はランデブーを果たし、接舷した。

 夜の夜中。船長と同じく、超過勤務でヤル気のない船員たちが帝国海軍の軍艦に舫を投げ、デリックを操作し始めると、帝国船のセーラーに扮したアンドレは「シュペー」号の甲板に向かって叫んだ。

「石炭補給の件で協議したい。乗艦許可を求める!」

 すぐに返事が来た。

「乗艦を許可する!」

 単身、アンドレは帝国の巡洋艦に飛び乗った。

「どうぞ、こちらへ」

 すでに話が通っているのだろう。

 彼はブリッジではなく二本の煙突の間に設けられた上部構造物の中に案内された。

 そこはいくつもの簡易ベッドが並んだ救護室のような部屋だった。

 帝国陸軍のカーキ色の軍服に身を包んだ士官以外には誰もいなかった。

 カンヴァス地のベッドに腰掛けていた金髪の士官は、アンドレが入室すると立ち上がり、敬礼も自己紹介もなくイキナリ本題に入って持ってきたバッグを開け、書類袋を取り出した。

「容疑者2名の似顔絵の写真です。こちらの二種類が頭目格と思われる男のもの。変装していたのでそちらの分もあります。そしてこちらが手下と思われる男のものです。すでに20枚ずつ焼き増ししてあります。お急ぎでしょうからね」

 これで絵師に複写を依頼する手間が省けた。帝国は万事ソツがない。

「いや、これはありがたい! 助かります」

 この二年ほどの間、彼ら秘密警察が追っていた顔のない「もぐら」にアンドレは初めて対面した。

 短い黒髪。底知れない深淵のような一度見たものの目を惹きつけて離さない、まるでその姿を見たものを石にしてしまうというメデューサの恐ろしささえ感じさせる冷たい目。金髪の方はだいぶ軽い印象を受けるけれど、その眼の冷たさは同じものだ。

 これが、「もぐら」か・・・。

「では、ミッションの成功をお祈りしております」

 これでアンドレの用は済んだ。長居は無用だった。

 持参した防水カンヴァスの袋に書類をしまい込み、アンドレは一礼して部屋を出た。


 

 ノールの秘密警察の手の者が石炭船に戻ったのを見届けると、リヨンはブリッジに向かった。

「艦長。荷物の受け渡しは終わりました。キールに帰りましょう」

「わかった!」

 リヨンの任務の終了を今か今かと待っていたムスリ少佐はすぐに動いた。

「石炭の荷受けは終わりだ。ハッチを締めろ。舫を解け。港外に出るぞ!」

 結局、石炭の搬入はバケットたった一杯分しか行われなかった。だが、「シュペー」号の乗組員たちは誰もそれを不思議に思わなかった。

 この艦に燃料の追加など必要ないことはクルー全員が知っていたし、これまでこの特異な巡洋艦は海難救助の傍ら何度もこのオスロホルム港にやってきていた。その都度、政府の密命を帯びた者が乗ってきてヘンテコなコトばかりやらされてきた。今度もそんな要件だろうと誰もがたかをくくっていただけだった。

 そんなことよりも早く仕事を終わらせて食堂で出される夜食にありつきたいもんだ、ウヒッ・・・♡。

 甲板作業に出ていた食いしん坊の水兵たちのアタマの中にはそれしかなかったのだ。

「神経質な伯爵」は微速後進をかけてゆっくりと石炭船から離れると、回頭して今入ってきたばかりの港口に向かった。

 艦尾の手摺に掴まり、次第に速力を上げて遠ざかるオスロホルム港の灯りを見つめ、リヨンは誰に言うともなく呟いた。

「無事で帰って来いよ、ヤヨイ・・・。」

 強力な低気圧がやってくる前に、キールの港に帰り着かねばならない。港口を通過し、外海に出るや、艦長は命じた。

「機関最大! 前進全速! 進路180!」

 最大速で再び来た航路を引き返す。「アドミラル・グラーフ・シュペー」は今辿って来たばかりのノール岬を再び回って帰投するべく、舳先を真南に向け一路帰国の途についた。


 


 


 

 そして、夜が明けた。


 


 

 きらびやかな金モールを下げた華麗な赤の軍装に身を包んだ完全武装の騎兵の一団が首都オスロホルムの城壁を出てどんよりした空を透かして地を照らす朝日を背中に浴びつつ、西に向かっていた。

 その総勢は約200。その物々しい馬蹄の響きは沿道の家々や商店の店先を揺るがすほどで、蹄が巻き上げた濛々たる土埃が「何事か?」と通りに出て来た住人たちを包んだ。

 ヤヨイは、その赤い騎兵団の先頭にいた。

 ノール陸軍近衛騎兵連隊の副連隊長の中佐がすぐ隣にいた。もちろん、ゴルトシュミットと、彼が急遽招集したノルトヴェイト家の旧家臣の末裔たち、そしてアクセルが一緒だった。

「中佐! ノールの編成は帝国とは違いますのね!」

 ヤヨイは、一隊を指揮する典型的なノール人である背が高くガタイの大きな騎兵中佐に尋ねた。

 帝国軍でもこのノールでも、中隊程度の総指揮は中尉か大尉ほどの士官が担う。だが今回の「バロネン・ヴァインライヒ」の護衛については連隊司令部からやって来た副連隊長が直々に指揮を執ることになったという。それだけ、「ヴァインライヒ女男爵」と言う存在が重要だからであり、彼女とハーニッシュの間にトラブルなどが無いようにとの思惑があるからだろう。

 中佐は快活に答えた。

「さよう! 我が軍の最小戦術単位である小隊は60名編成なのです、バロネン!」

 帝国陸軍の場合はその半分の30名。ヤヨイが最初に配属された、対北方異民族専任部隊である第十三軍団の独立偵察大隊の小隊に至ってはさらに半分の15名だったから、その兵数の多さにまず驚いた。

 だが、一小隊あたりの兵数が多いからと言って必ずしも戦場で有利に働くとは言えないとも思った。むしろ、その逆だろう、と。同じ兵数を比較した場合、ノールの軍に比べて帝国軍は2倍の指揮官と下士官がいることになるのだ。

 帝国軍は常に兵力不足に悩まされている。末端の兵は徴兵されたての新兵が多い。戦場では経験の少ない兵は指揮官や下士官を見て動く。二倍の指揮官がいるということは、それだけ帝国軍はノール軍に比べて兵を有機的に動かせるということになるのだ。

 さらに、もし一人の指揮官が倒れても全隊の崩壊にはつながりにくいこともまた帝国軍の強さの一つと言えた。兄弟の多い家の子供よりも少ない家の子の方が親の目が行き届く道理だった。ノール陸軍は士官の数が足りないのかもしれない。

「バロネンは軍隊の編成に興味がおありかな?!」

 馬上手綱さばきも鮮やかに、精悍な騎兵中佐は大声で帝国の女男爵に語り掛けた。

「これでも帝国の生まれですので! 貴族と言えども徴兵は済ませております、中佐!」

「なるほど! 帝国の女性は我が国の女性よりも頼もしく逞しいですな! ハッハッハ!」

 歴戦の騎兵らしいおおらかな気質の副連隊長は風を喰らうようにして笑った。

「中佐、お願いがあるのですが!」

「なんでしょうか、バロネン!」

「ハーニッシュ訪問中、彼らの里の中に付き添っていただくのは分隊程度にしていただけませんか?! あまり大勢だと彼らを無用に刺激してしまうと思うのです!」

「確かにそうですな!」

 快活な中佐はすぐに同意した。

「ここだけの話ですが!」

 そう言いながら、近衛騎兵連隊副連隊長は周囲に聞えるほどの変わらない大声で叫ぶように言った。

「小官も貴殿の護衛に1個中隊は過分だと思っていたのです! それだけ上はハーニッシュに対して警戒感を持っているからなのでしょうがね!

 わかりました! 貴殿の訪問中は他の兵たちには里の外で待機させましょう! なあに、彼らは貴殿の来訪を歓待しこそすれ、危害を加えるなどまずあり得ません!」

「ご理解いただけて何よりですわ、中佐!」


 

 ヤヨイのすぐ後方にはゴルトシュミットが着けていた。

 彼の視線は、華麗な男装に身を包み、騎走しながら騎兵連隊の高級士官と言葉を交わす絶世の美女に釘付けになっていた。彼女の存在こそが、彼の未来を切り拓く切り札だった。

 思えば、今年の年明けすぐ。

 ゴルトシュミットは何の前触れもなく突如特別警察、悪名高い秘密警察長官の来訪を受けた。

「まさか、密かなわたしの企みが露見したのか。捕縛の手が回ったのだろうか」

 一度は殺気立ったが、長官たるグロンダール卿は警官たちも伴わず供一人だけを連れていただけだった。

「新年早々突然の訪問をお許しいただきたい。

 実は、わが輩の遠縁の帝国貴族から貴殿を紹介されたしとのたっての希望でしてな・・・」

 グロンダール卿はそう言っただけで一通の封筒を残し、辞していった。

 何かのワナだろうか。

 半信半疑ながらその帝国貴族に海路手紙を送ったところ、驚くべき一報が帰って来たのだ。

 かの帝国に150年前にノールから亡命していった忘れられた名門ノルトヴェイト家の遺児が存命しているという。かつてのゴルトシュミット家の主筋であり、先の王朝に繋がる名家中の名家。世が世ならば今王宮に君臨していてもおかしくないほどの高貴な血筋にあたる。

 その帝国貴族の名は「バロン・ヴァインライヒ」

 後で確認したが、帝国紳士録にも名のある、しかも元老院議員も務めている下級ではあるが名のある貴族であることが判明した。

 そして、かのノルトヴェイト家の末裔は、今や帝国貴族ヴァインライヒ男爵家の財産と爵位を継承し、女性ながら「バロネン」女男爵として健在であるという。

 その女男爵がなんとこのノールに先祖の墓参を希望して、その後ろ盾、保護役をゴルトシュミットに依頼して来たのだった。

 ゴルトシュミットが長年願って来た先の王朝ニィ・ヴァーサ朝の復活が現実のものになる! 夢想が確信に変わり、そして今、その夢の扉が開いたのを実感していたのだ。

 今日を境にバロネンにはこのゴルトシュミット子爵家に加え30万の武装勢力でもあるハーニッシュが後ろ盾に加わる!

 おお、神よ! なんと喜ばしき哉! 我は汝の足下にキスを捧げん!

 もちろんゴルトシュミットは、彼が己が未来の切り札としているバロネン・ヴァインライヒが、かの秘密警察長官グロンダール卿の仕組んだフェイクであり、ノール王国転覆を企む通称「もぐら」を捕捉・抹殺するために帝国が派遣したエージェントであることは全く知らないし夢にも疑っていなかった。

 

 そして騎行するヤヨイにはもう一人、同行者がいた。

 目の覚めるような青いジャケットに身を包んだ若い紳士が、ヤヨイのすぐ後ろのゴルトシュミットに並走するように付き従っていた。

 ペールもまた、彼が付き従っている騎乗の女男爵が「アイゼネス・クロイツ受章の帝国の最強女アサシン、ヤヨイ・ヴァインライヒ特務少尉」であることを知らない。「もぐら」ことアニキの指示で「ノルトヴェイト家の末裔、帝国貴族バロネン・ヴァインライヒ」の身近に接近することに成功したと思い込んでいた。


 

「バロネン。彼はペールといいます。彼もまたハーニッシュの出で、ノラの幼馴染でもあるのです。訳あって里を追放された者ですが、同道頂ければ何かと役に立ちましょう」

   今朝、ゴルトシュミットの屋敷で再び会った可愛いノラの恋人くんは昨夜の恥ずかしい一件など無かったように、しれっとエントランスに立っていた。

「はじめまして、バロネン。ペールと言います」

 もちろん、ヤヨイは、

「あら! 昨夜ノラの屋根裏部屋で会ったわね!」

 などという無粋は言うはずがない。

 わたしのアドバイスした通りに堂々と挨拶しに来たのね。

 可愛いノラの密かな煩悶も知らないヤヨイは、むしろ好感を持ってこのまだ幼さの残る顔に逞しい身体を持った好青年を歓迎し、しかもハーニッシュ訪問の同道をも許した。追放された身かもしれないが、ハーニッシュを知る者が一人でも多い方が心強い。そんな単純な考えで。

 もちろんヤヨイは、この段階ではまだ、この立派な紳士として再び現れた好青年が帝国の首都で徴兵明けの女性を殺害し、ヤヨイとノールの秘密警察が血眼になって追っている「もぐら」の手下であることなど知る由もない。彼女に真実を伝えるべき似顔絵を携えたアンドレはまだ港から秘密警察の事務所に帰ったばかりでグロンダール卿でさえ未だその写真に接していなかった。

 まだ、この時までは。


 


 

 厚い雲の上の太陽が真上に至りさらに小半時が過ぎたころ。

 およそ200騎の騎兵の一団はようやくハーニッシュの里を遠望する小高い丘の上に到着した。

「これより第一小隊の一部だけでバロネン・ヴァインライヒ殿の護衛に当たる。後の者はこの丘にて別命あるまで待機。訪問組は小休止の後出発することとする!」

 そうして30名の近衛騎兵とヤヨイたちの一行はハーニッシュの郷の一つに向け丘を駆け下りた。

 だがこれもまた、この時のヤヨイは知らなかった。

 ハーニッシュの里に近づく彼女の人となりをすぐそばで見定めるべく、彼女たちが追っているその正に本人である「もぐら」が、傍近くに姿を変えて潜んでいることに。
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