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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
32 眠れぬ夜を過ごした者達の、それぞれの朝。王宮にて
しおりを挟むギリシャ神話における「マーキュリー」は、「神々の使者」の意味を持つ。
ノール岬に遅れること二十数分。
帝国の特務部隊司令官ウリル少将の密命を受けたコードネーム「マーキュリー」ことリヨン中尉は、ヤヨイのターゲットである「もぐら」と目される男の似顔絵をノールの秘密警察に手交するべく、ノールの首都オスロホルムへ向かっていた。
彼が乗っている船は帝国海軍巡洋艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」。
すでにノール岬をぐるっと回り込み、進路を真北に変えて全速力でオスロホルム港を目指していた。
そして、「シュペー」号が向かう、旧文明の中世欧州を思わせる曇り空の古都にも、朝が来た。
古めかしい石積みの城壁に縁どられた古都には、眠れぬ夜を過ごした男と女が幾人かいた。
理由はそれぞれ。
ことに、都の中ほどにある華麗なる王宮に住まう二人の、眠れなかった理由は似ていた。それは「愛の煩悶」と言うべきものだった。
一人は、神の前にその罪深きを悔いているがゆえに清廉であり、いま一人は、神のご意思、神の御業など全く歯牙にもかけず、己の欲望にのみ忠実だった。
まず、清廉なるがゆえおのれの欲望と神への畏れとの相克に苦しむ若い男。
青年は、西の帝国からやってきたアサシン・ヤヨイに恋焦がれていた。
実は、彼が恋しているのは「『かつてのノール貴族ノルトヴェイト家の末裔にして帝国貴族ヴァインライヒ女男爵』という架空の美女」に対してなのだが、もちろん、本人は「架空」であることを知らない。ある意味で、不幸な恋ではあった。
王宮内の自室で国王付きの侍女からの異変を聞いて起こされたクリストフェルは、国王の書斎である晴嵐の間に続く寝室に急いだ。
国王の寝室の前で、その中年の侍女が待っていた。
「いったいどうしたというのです、ボネヴィー夫人」
その侍女は実直で生真面目な性格らしく、今朝の国王の様子について事細かに話しはじめた。
「はい。いつものように7時にお伺いし、朝のお支度を差し上げようとしたところ、気分が悪いからそっとしておいてくれと。コーヒーなどお持ちしたのですがお手を付けられたご様子もなく、もしやご病気ではとお熱を測ろうとしたところ、放っておけといっているではないか、とお怒りになって・・・。
侍医を呼ぼうかと思ったのですが、クリストフェル様にお知らせしてからのほうが、と思いまして・・・」
責任感の強いらしい侍女は、ひどく恐縮しながら目を伏せた。
思うところあったクリストフェルはホッと息をついて穏やかな笑みを浮かべた。
「それはよかった。お知らせいただきありがとうございます。まだ誰にも言わないでください。侍医にも。特に皇太后陛下には。
ここはわたしが代わりましょう。ご苦労でした、夫人」
クリストフェルは生真面目な侍女を下がらせ、ドアをノックした。
「陛下、クリストフェルです。失礼いたします」
返事を待たずにドアを開けた。
16歳の若き国王。スヴェンは、まだベッドの中にいた。ベッドサイドには冷めたコーヒーのカップと朝食の盆が置かれていたが、手を付けられた様子はなかった。
まだ若い国王は入って来たクリストフェルに気付くや、プイ、と背を向けてシーツの中に潜り込んだ。やはり、どうみても重病というほどではない。幼いころから共に育った仲だ。彼の、時として見せるこんな様子はもう慣れっこになるほど見て来た。
「おはようございます、陛下。お加減がお悪いと伺いました」
返事はなかった。
「ボネヴィー夫人がとても心配していらっしゃいましたよ。もしやご病気では、と」
やっぱり、返事はない。
「お顔色を拝見できませんか? 臣下や侍女たちに心配をかけるのは、よい君主とは言えませんよ? 陛下」
「うるさいな! 放っておいてくれと言っているじゃないか! ぼくだって、ぼくだってなあっ!・・・」
「大変失礼いたします」
クリストフェルはつとベッドに近寄り、強引にシーツを剥いだ。そしてスヴェンの額に手を当てた。
「ふむ。お熱はないようですね」
そうして傍らの椅子を引き寄せ、ベッドの際にかけた。
「昨夜はよくお休みになられましたか?」
「・・・」
「あまりお休みになれなかったようですね・・・」
「・・・苦しいんだよ、クリストフェル・・・」
クリストフェルに背を向けたまま、国王は辛そうに呟いた。
「会いたいんだ。会いたくて、たまらないんだよ・・・」
やはり、か・・・。
これは、ノール一の医師にも直せなかろう、「恋の病」というヤツだな・・・。
自分にも覚えがあるが、この、まだ思春期の真っ只中にいる青年国王も、やっとそういう歳を迎えたのだ。
クリストフェルは、彼を兄とも慕う幼馴染であり弟のようなこの若き国王に、あたたかい感慨を覚えた。
「陛下。あのバロネンに、ヴァインライヒ女男爵に、恋を、なさったのですね?」
この場合は無言が、図星を射たのを如実に表していた。
だが・・・。
裏の事情を知るクリストフェルとしては、まず絶対に悲恋に終わることわかりきっている彼の恋路の手助けもできない。彼の思い人は、全くのフェイク、「ウソ」なのだから。
若き国王が恋している「ノルトヴェイト家の末裔、帝国の美貌の女男爵」は、ニセモノなのだ。その実はかの帝国とこのノールの秘密警察が共謀して仕組んだ、エージェントなのである。ノールの安寧を脅かす「もぐら」を退治するために。
ノール国王に拝謁が叶ったことで、彼女の、帝国のエージェントの王宮での露出は高まり、ターゲットの興味は間違いなく引いたはず。だが、この幼馴染でありノールの若き国王の求めるまま足繁く王宮通いが続いては、せっかくのターゲットがエージェントに接近しづらくなってしまうは必定・・・。
餌を付けた釣り針はむやみやたらに動かしてはならない。せっかくの魚が警戒して餌を食べなくなってしまっては、すべてが水の泡になる。
狙った魚が餌に食いつくまで、静かに待つ。今はそれが大事なのだ。
宥めても諫めてもムダだろうな、とは知りつつ、まことに可愛そうだが、一応はこう言うしかなかった。
「ですが、陛下。まだ昨日の、今日でございます。さすがにそのように繫くは・・・。
陛下御身お一人の問題ではないのですよ。我がノールと、そして帝国との国際的な問題・・・」
「でも、会いたいんだよっ! どうしても会いたくて堪らないんだっ! 」
急に起き上がってこちらを向いたスヴェンの顔は気の毒なほどに憔悴し、目は赤く、目の下にはクマまで出来ていた。きっと昨夜はほとんど寝ていないのに違いない。
「ああっ! どうしたらいいんだ、クリストフェル! 苦しいんだ! 苦しくて、たまらないんだよ!
そうなんだ。ぼくは、彼女が、イングリッドが、好きなんだ。恋してしまったんだよ!
好きで好きで、堪らないんだよ、クリストフェル!」
ううむ・・・。
いささかクスリが効きすぎたようだな。
やはり、あの色情狂の母親の血をひいているのは間違いない。
だが。さすがのクリストフェルにもそれ以上はどうすることもできず、しばし彼のやるかたない熱情を受け止めてやるしか手がなかった。それがこの場での彼の任務でもある。
ベッドの上で、頽れ憔悴しきった青年王の手をとり、クリストフェルは穏やかに諭した。
「陛下。今は、時が必要です」
と。
「いずれ時が経てば・・・」
そう。
時が経てば極秘のミッションは終わり、「ノール貴族ノルトヴェイト公爵家の血をひく帝国貴族ヴァインライヒ女男爵」の任務も終わる。かの絶世の美女は、この世から消える。彼の恋はおのずと悲恋に終わるだろう。
そう思いつつ、いかにすべきか考えあぐねていると、青年王は彼に抱きついて来た。可愛そうなほどに、彼は震えていた。
「では陛下、お手紙でもお書きください」
クリストフェルは、スヴェンの震える肩をポンポンと宥めつつ、提案した。
「『昨夜はとても素晴らしい時を過ごすことができ、たいへんうれしく思っております。またお会い出来たらこの上なき喜びです』。
そんな風に。
そして、美しい花なども添えましょう。
今はそれが、陛下にお出来になる精一杯の、そして唯一のお気持ちの表現です。それ以上は、いかにやんごとなき御身分であらせられても、いいえ、このノールの君主たる御身分であらせられる以上は、それが限度です。
どうか、どうか。お聞き入れくださいますよう。このクリストフェル、伏してお願いいたします!」
そして、スヴェンの一段と逞しくなりつつある若い肩を優しく離し、涙にぬれた青い瞳を覗き込んだ。
「メッセンジャーには、このクリストフェル自ら、たちましょう」
湯気が出そうなほどに熱情を迸らせた若き国王は、やっと顔を緩ませた。
クリストフェルの指示で王宮からの使いがオスロホルム一番の花屋に向かった頃。
王宮に隣接した後宮にも眠れぬ夜を過ごした者がいた。
ただしそれは、彼女の息子の清らかなる恋心とは似ても似つかない、ドロドロとした肉欲の満たされない不満によるもの、であったのだが。
しどけない部屋着できらびやかな化粧台に向かっている後宮の主、皇太后の顔におしろいをはたくパフを持つマリアの手は、震えていた。
皇太后の朝の支度は初めてではない。だが、昨夜侍女部屋で聞いた怖いウワサ話が、マリアの胸にこびりついて離れなかった。
ゆうべ、ベアーテという侍女が皇太后の使いに出たまま侍女部屋に戻ってこなかった。なにか粗相でもしてヒマを出され田舎に帰ってしまったのだろう。そう言う者がいる一方で誰かが、
「いいえ、それは違うわ。帰ったのではなく、消されたのよ」
そう言いだすと、また別の誰かが、
「確かにね。ベアーテの荷物はそのままだったし。荷造りもされていなかった。昨夜遅く彼女の荷物を女官長と古株たちが運び出しているのを見たわ」
「ウソ、ホントに?」
「こんなの、初めてじゃないのよ。挨拶して辞めていくのもいるけど、ある日突然いなくなる子が多いのよ」
「考えてもごらんなさい。王宮の侍女たちは年嵩が多いでしょう? 務めている年数の多い人たちばかり。それに比べてここはどう? 年嵩と言ってもせいぜい30かそこら。他はみんなあたしたちみたいな若い女ばかりなのよ。みんな2、3年でいなくなるの。入った片端から、次々にね。なにか、あるのよ」
「えー、ヤダー・・・。破格のお給金に釣られてきたけど、考えようかな・・・」
「あたしはもうそのつもりよ。あんな、ワガママ女のお世話なんてもうまっぴらだわ! 」
「ちょっと、シィーッ!」
「あたし、今週のお給金もらったら、ここを出るわ。こんな恐ろしいところにはもう一分一秒も居たくないモン!」
「・・・何をしている」
皇太后の野太い声がして、マリアはハッと我に返った。
「も、申し訳ございません!」
竜の逆鱗に触れた! もしや、消される?
「化粧ひとつでなにをモタモタしておるのだっ! ええいっ、もうよいわッ! 下がれっ! 妾(わらわ)が自分でやる! 」
「はい、かしこまりました。申し訳ございませんでした」
今にも消え入りそうな声で頭を下げ、アフロディーテの間に続く寝室を退出しようとすると、
「待て!」
「ひっ!」
いきおい、マリアは硬直した。
「朝食は要らぬ。それからシェリーを持てと伝えよ」
「あ、朝から御酒をお召に・・・」
「要らぬことを言うでないっ! 黙って配膳の者に伝えればよいのだ! それから、ヴェンケ・・・」
「あ、はい?・・・」
「・・・いや、いい。女官長は呼ばぬともよい。では、下がれっ!」
まったく、腹の立つ! こちらは昨夜も眠れぬ夜を過ごしたと言うにっ!
ついいつものクセで女官長を呼ぶところだったが、こんな時にあのイヤミたらたらの女の小言など聞いてしまっては余計に癇癪が大きくなりそうな気がしたのだ。
寝ぼけ半分の侍女に八つ当たりしつつ、ソニアは自らおしろいをはたいた。寝不足の日々が続き、肌が荒れて化粧ののりが悪いのはわかっている。それだけに怒りが再燃し、彼女のただでさえ乏しい忍耐力をグサグサにした。
「ええいっ、ドイツもコイツもっ!」
陶器製のおしろいの瓶とパフを目の前の鏡に投げつけた。鏡は見事に割れ、白い粉が舞い散って真っ白になり、肌の曲がり角などとっくの昔に過ぎてしまった哀れな四十目前中年女の姿をさらに醜く穢した。
美貌の皇太子妃、そして絶世の美しさを誇る王妃と謳われ、ほめそやされ、仰がれたのももうはるか昔となってしまった。今では自分の娘たちや女官長とまで寵を競わねばならぬありさま。
結局昨夜も大司教の「おわたり」はなかった。
「ほんに、腹の立つ! 一体誰のおかげで大司教という地位に就けたのか。あの、恩知らずのスケベ坊主めが! いっそのこと解任してくれようか!」
いいえ、それはダメ。
そんなことをすれば、もう二度とあの男に思う存分に抱かれ、彼の逞しくて熱い滾りを我が身の中に迎え入れることは出来なくなる・・・。それだけは、絶対に、出来ぬ・・・。
それほどに、ソニアはもう、大司教という奇怪な男の言いなり。愛の奴隷にまで成り下がってしまっていた。
「ああ・・・。いったい、わらわは、どうすればよいのじゃ・・・」
結局、彼女の寝れぬ夜に訪れたのは、またぞろ浅ましき泥棒ネズミを一匹闇に葬ったというどうでもいい知らせと、深夜日付が変わろうとするころになってやっとやってきたグロンダール卿だけであった。
「皇太后陛下、お召とのことにて参上つかまつりましてございます・・・」
皇太后たるこのわらわを散々待たせておきながら、いささかも悪びれもせずにやってきた、あのハゲ!
「遅いっ! 今までいったい何をしておったのだっ!」
イライラを極限までこじらせたソニアは、頭ごなしに怒鳴り上げた。
「国内の反体制分子の摘発に奔走しておりまして・・・。遅参の段、平にお許しをいただきたく・・・」
慇懃無礼の見本のような、不遜極まりないタイドで、卿はうそぶいた。
「して、当職をお召しのご用件とは?」
「すでに申しておるではないか! 早く、あの帝国の女狐を始末せよと!」
「陛下、真夜中にございますれば、いささかお声が大きうございます・・・」
「やかましいわ! つべこべ申さず、サッサときゃつを消してしまうのじゃ!」
「畏れながら、その儀につきましては、閣議で申し上げた通りにて。
不慮の事故を装うのも、また、慣れぬ異国の地で原因不明の病に倒れるのも、はたまた精神異常なる正体不明の暴徒に襲撃されてあえなく絶命、などなど。人一人この世から消し去るバリエーションはいかようにも取りうるのでございますが、国防大臣のビョルンソン大将も申しておりました通り、かの女男爵の遭難の報に激高したハーニッシュたちのまさかの武装蜂起に備えた体制が整うまで、いましばらく待つべきだと・・・」
「だからそれは一体、いつになるのかと申しておるのじゃ!」
「左様でございますな・・・」
まるでハナクソでもほじりながらのような、いかにももったいぶったバカ丁寧な物言いに、ソニアの堪忍袋はバクハツ寸前になっていた。
「北の野蛮人どもへの対応として配置した陸軍部隊を首都防衛に呼び戻すことができるころ・・・。そうでございますなあ、今年の秋口にでもなりましたら、ボチボチととりかかろうかと存じまするが・・・」
「遅いっ! それでは遅いのじゃ、グロンダール卿!」
「それに、そのころにはもう、件の女男爵は我が国での滞在を終え、帰国の途についているやもしれませぬが・・・」
「だから、それでは遅いと言うにっ! 禍の根をきれいさっぱり、未来永劫、絶ってしまわねば安心できぬと申しておるのじゃ!
グロンダール卿、そちも聞いていたであろう。あの女狐は先の王朝所縁(ゆかり)の者、断絶したはずのニィ・バーサ朝の係累に当たるのじゃ、と。その血を盾にしてわが王家の血筋に対抗しようとしておるのだと」
「はぁ・・・」
あまりにも無気力なグロンダール卿のタイドに、ついにソニアの怒りが爆発した。
「もうよいっ! 下がれ、下がれ! 下がれと言っておるにっ!」
「左様でございますか。では、これにて失礼をば・・・。
おお! ひとつ陛下にお伝えせねばならぬことを失念しておりました」
辞し際、グロンダール卿は自分のハゲ頭をピシャリと叩くと、そんなことを言い出した。
「何事か」
「はい。
陛下がご欠席になった晩餐会で、件の女男爵のハーニッシュ訪問が決まりましてございます」
「なに?! よりにもよってあの女狐をハーニッシュの許へ訪問させるだと?
なにゆえそのような愚行を!」
「はい。女男爵のたってのご希望とか。それに国王陛下のご同意もあり、本日長老のハンヴォルセンとの面会もございました。いずれハーニッシュからの要求もあることだから、と。ことが大きくなる前に、言わば『ガス抜き』を図ろうとの思惑でございましょう。
かの女男爵の抹殺はますます時期尚早となる仕儀にございます」
「あの不肖の息子めが! またまた余計なことを!・・・」
わが王家に禍をもたらすかもしれぬ者に!
我が息子スヴェンの無思慮と軽挙にハラを立ててから、ソニアは、問い返した。
「・・・して、それは何時なのじゃ?」
「まだ日は決まっていない由にございますが、いずれ内務卿から御報告がございましょうほどに・・・。
ではこれにて。遅参の儀、大変申し訳ございませんでした。ごゆるりとお休み下さいませ」
あの女狐をのうのうとのさばらせて置かねばならぬ上に、さらにまた・・・。
たわけたことを申すな!
それでは、この王朝にとって代わろうとするあの女狐に大軍勢の加勢を付けるようなものではないかっ!
あまりの怒りに、彼が去ったドアにその辺の花瓶を投げつけようかと思った。だが彼も、これまで彼女の下した絶対に公にできない秘密の任務、つまり彼女の気に喰わない者達を「反政府勢力」、あるいは「ノール政府の転覆を企てる危険人物」として粛清、投獄してきた命を遂行して来た者なのだ。無暗に冷遇するは彼をして敵に回し、自分に離反する原因を作ることになる。
手練手管の限りを尽くして一介の下級貴族の娘からのし上がって来たソニアは、いかに怒りで我を忘れそうになろうとも、その辺りの計算は出来る強かさは残っていた。
それにしても、あの帝国の女男爵の美しさは・・・。
あれもこれも。そのことごとくにハラの立つ今は、あの名門ノルトヴェイト家の血をひく美貌の女男爵がことに疎ましく、小憎らしいのを通り越して深い憎悪さえ覚えてくるのだった。
それにしても、さしもの皇太后ソニアも、まさか帝国の女男爵の正体が、
「ノール王国の名門貴族の末裔に化けた、帝国特務部隊所属、『アイゼネス・クロイツ』受章の最強女アサシン、ヤヨイ・ヴァインライヒ少尉」
であることまでは夢にも気付かなかったし、その黒幕が、今回のミッションの総指揮者が、深夜後宮を辞しつつ「やれやれ・・・」と安堵の吐息と共に馬車に乗り込んで去って行った、当の秘密警察長官グロンダール卿その人であることも、全くもって、気付きもしなかった。
ソニアはただ、満たされぬ身体の疼きと、実体のないウソの王家転覆の企てに苛立ちをつのらせていたに過ぎなかった。
皇太后陛下!
ドアの向こうで聞き覚えおある声がした。憤懣やるかたなしのソニアの許に、呼びもしないものがやってきたのだ。
また、イヤな時にイヤなヤツが来おったわ・・・。
「ヴェンケにございます。お早うございます」
「・・・苦しゅうない。入れ」
無残に割られた化粧台の前の椅子に四肢を投げ出したソニアは、失礼を致します、と入って来た黒い官服の女官長をギロ、と睨んだ。
いつものように寸分の隙もなく身なりを整えたヴェンケは、無残にも砕け散った化粧台の鏡を見てもマユひとつ動かさず、小さな吐息をついて、冷たく、言った。
「ご朝食は要らぬとのことですが、どこか、お加減でも?」
「・・・白々しい。全て知っておるクセに、ぬけぬけと・・・」
小生意気な女官長と視線を合わせるのが気に入らず、ソニアは、足を組み、腕を組んでソッポを向いた。
「して、何用か。まさか身体に悪いから朝食は摂れと、酒は控えろと言いに来ただけではあるまい」
「はい。
先ほど、王宮から街の花屋に使いの者が出た由。命じたのは国王陛下の侍従クリストフェルだとのこと。なんでも、花束を所望とか。カネに糸目をつけずに、一番豪華なものを、と」
「・・・それがどうしたというのだ」
「わかりませぬか? 」
と、ヴェンケはいった。
「恐らくは、国王陛下のメッセージに添えるためでしょう」
「誰に? いったい、誰へのじゃ!」
ふふ。ヴェンケは低く笑った。
「あの帝国の女男爵に、でございますよ。国王陛下もお年頃になられたということです」
ガーンッ・・・。
ソニアの脳裏で警鐘が鳴った。
密かな思慕というほどならばまだ許せる。だがもうそこまで、なのか・・・。
いよいよ、来るべきものが来たということだ。恐れていたことが、にわかに現実のものになりつつあるのだ。
あの女がスヴェンの寵愛を受けて妃になれば、間違いなくここに、この後宮に入ってくる。
片や、まだ若く美しい、先王朝の正当な血をひく高貴なノール貴族の末裔。
そして。
片や、中年になり美しさもハッキリ陰りを見せ始めた、貴族とは名ばかりの由緒も何もない家から出た、先王の未亡人。
その差は、明らかだ。
大司教の寵愛を失いかけ、若さも美貌も失いつつある中年女の醜い嫉妬が、すでにソニアの全てを支配していた。
「・・・それは、まことか」
「昨日の謁見と晩餐会のご様子を拝見すれば、容易に察せられるというものです。陛下は、あのヴァインライヒ女男爵に恋をなさっておられるのです」
吐息と共に椅子の背に深く凭れ、天井を仰いだ。
「・・・して、わらわにどうせよと言うのだ」
「ご体調がすぐれずに晩餐会をご欠席になられたのは致し方ないとして、その挽回をなさればよろしいかと。バロネンを後宮にお招きになり、今一度女同士で、『サシ』にてご歓談いただき、何か記念になる品物を御下賜になれば・・・」
「わらわが、あの女狐をか!」
「それが陛下の御身の御安泰につながるのでございます。
かのバロネンにはハーニッシュという強力な後ろ盾があるのですよ。これを篭絡することが出来れば、この王家に対するハーニッシュの信望を勢い高めるは必定でございます。
大司教との逢瀬をお控えになるのと同時に、かの女男爵との友誼を深めることが、陛下の未来を約束するのですよ」
「そちは内務卿らと同じようなことを申すの」
そこで、ソニアはなにやらふと、閃いた。
昨夜の「手癖の悪い泥棒ネズミ」の一件を、である。
(あの女が後宮に来るのならば、むしろ好都合ではないか・・・)
「なるほどのう・・・。
あいわかった。万事よしなに、の」
「後ほど修理屋をお呼びいたします。では」
無残な化粧台の方を見やりつつ、「いつになく物分かりがいいが・・・」とでも言いたげな怪訝な顔をして、女官長はソニアの寝室を出ていった。
ソニア皇太后は割れた鏡の破片に映った自分の左目の奥の冷たい炎を見た。
「帝国の女狐めが・・・。来るなら来てみよ。目にモノ言わせ、闇に葬ってくれようぞ」
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