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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。

31 クーリエ「アドミラル・グラーフ・シュペー」

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 夜が明けた。

 大鷲は今日も東の空を飛んでいた。

 だが、七つの丘の土地に比べ、東の空は雲が厚かった。

 その雲の下の方から、あの銀色の大きな翼を操っていた娘の明るいオーラが出ているのはわかるのだが、このところはどうもそれがぼやけている。

 つまらん・・・。

 人間の若い女が大好きな大鷲は、落胆した。

 おや?

 はるか南、厚い雲が切れた向こう側の青い海の上を、白いウェーキを引き素晴らしいスピードで走っている船が見えた。

 船は、赤い旗を掲げていた。七つの丘の人間が勝手に彼の姿を描いたヤツだ。

 バカに急いでいるじゃないか。

 どれ。

 あの可愛いオーラを放つ娘の姿も見えないことだし、ひとつ暇つぶしに見守ってやるとするか・・・。

 大鷲はその大きな翼をぐわんと翻し、雲海の上を滑るようにして南に向いぐっと高度を下げていった。


 

 一隻の帝国海軍所属巡洋艦が進路を南東に向けて真っ青な大海原をひた走っていた。

 艦名を「アドミラル・グラーフ・シュペー」という。帝国海軍が通報艦や索敵巡洋艦として建造した「アドミラル・シェーア」級の3番艦である。

  旧文明の二十世紀初頭。現在の帝国の南にあったらしい「チンタオ」というところに、ドイツ帝国海軍の東洋艦隊の基地があった。その司令官が「海軍提督シュペー伯爵」だった。それが艦名の由来である。

 リードシップである「アドミラル・シェーア」は第二艦隊の通報艦に。2番艦「リュッツオー」は第一艦隊に編入されたが、3番艦の「シュペー」は主砲の70ミリ砲と魚雷発射管を取り外し、武装は20ミリ機銃2門だけ残して上部構造を変更し、「救難連絡艦」とも言うべき艦種に改装されていた。そのため姉妹艦の他の2隻に比べブリッジも上甲板上のキャビンにもだいぶ余裕がある。

 ノールの南は南にぐっと突き出た広大な半島になっていて、その先端は暗礁が多く、常に霧が深くて波が荒い。ノールやキールの漁師たちには海の難所として知られていたのだが、いきおい遭難や救援要請が多い。そんな時、キールを母港とする「シュペー」が活躍するのだった。

 ちなみに、純正帝国語では「アトミラール」と発音すべきところ、乗組員だけでなく海軍の上層部までもが「アドミラル」と発音してしまっていて結局そのままになってしまっている。どちらかというとおおらかな帝国人の性格を反映したのか、帝国語には文法や語形変化や発音がいい加減なところがある。だから「ごちゃ混ぜ語」になってしまったのだが。


 

 この「アドミラル・グラーフ・シュペー」という艦名にはどこか悲劇的な色が付き纏っていた。

 初代の「シュペー」号は、旧文明の二十世紀初頭にドイツのウィルヘルムスハーフェンの造船所で起工されたが竣工を迎えることもなく廃棄された。第一次世界大戦がドイツの敗戦で終わったからである。

 二代目は1939年8月に同じウィルヘルムスハーフェンを出港。洋上で第二次世界大戦開戦の報を聞き、通商破壊作戦を行った。何隻もの連合軍側輸送船を撃沈・拿捕し、途中補給を受けつつインド洋にまで進出したが、イギリス艦隊に捕捉され南米ウルグアイのラプラタ川の河口の沖で海戦を行った。結果重大な損傷を受けて包囲され、艦長ラングスドルフ大佐は乗組員全員を退艦させた後艦を自沈させ、自らも艦と運命を共にしようとしたところ、艦長を慕う乗組員に強引に下艦させられ、抑留先である中立国のアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで軍艦旗を身体に巻き付けピストルで自決した。

 イギリス海軍との交戦で戦死した乗組員を水葬する際、他の乗組員や従軍牧師までがナチス式敬礼、すなわち右手を斜め前に上げるローマ式敬礼をしていた中、一人ラングスドルフ大佐だけは海軍式の額に右手を翳す敬礼を送ったという。


 

 だが、千年の時を経て復活した帝国海軍の「海軍提督シュペー伯爵」号は、先代の悲劇を偲ぶ暇もないほどに忙しい艦であった。

 速力は姉妹艦の「リュッツオー」や「シェーア」と同じだが、航続距離が倍近い。無補給でキールとノールのオスロホルムとの間の約1,000海里、1800キロを往復できる性能を持つ。漁船などの救難活動の他にも、帝国とノールの政府間の連絡用に重宝されてきた艦なのであった。出動回数も帝国海軍中ダントツで多い。だから、忙しいのである。

 乗組員は帝国海軍の他の艦同様に南の国の出身者が大半を占めていて、艦名にまつわる悲劇などまるで頓着しない。海軍に入ってメシの豪華さと美味さに度肝を抜かれた水兵が多く、三度のメシの時間がなによりスキ♡ というお気楽な乗組員が大勢いた。

「メシ、めっちゃウマッ!」

 そんな乗組員を指揮するのが同じ南の国出身のムスリ少佐なのだが、この人、南の国の出身者に似合わず万事細かくて心配性で神経質。そのせいなのか、部下の信望厚かった二代目「シュペー」のラングスドルフ艦長とは正反対で、兵たちの受けが悪かった。

 だが、いくさというものは豪傑やヒーローばかりではダメなのである。その陰で細々と気を遣い、気を配る者が不可欠なのだ。

「艦長、まもなくノール岬です」

 波に大きく翻弄されるブリッジで海図台をギュッと掴んで睨んでいた航海長が言った。

「うむ。暗礁の警戒を怠るなよ。それと、三角波な。この辺りは好漁場だ。漁船も出ているかもしれん。油断するな!」

 ネービーブルーの軍服に茶色の樫の葉の階級章を付けた生真面目な少佐は、やはり大きな揺れに耐えるべくブリッジの壁に背を預け、操作卓に足を乗せて身体を支えつつ、さっき入電したばかりの気象情報に見入っていた。

 帝国海軍は昨年のチナ戦役で占領したチナのハイナン諸島の基地に測候所を置いていたのだが、その予報がターラントの司令部経由で知らされてきたのだった。

 どうも、西から強力な低気圧が近づいてきているらしい。

 マズいな・・・。

 ムスリの、根っからの心配性がムクムクと頭をもたげ始めていた。

「艦長! ノール岬の灯台から発光信号です! あれは、数字です! 読み上げます。5、8、1、0、0・・・」

 監視の水兵が叫んだ。

 波の荒い海。海上に漂う霞の向こうに白い灯台が見えて来ていた。夜なら等間隔で瞬く灯りを送って来る灯台からチカチカと不規則な点滅が発せられていた。

「・・・何でしょう?」

 暢気な航海長が呆けたように口にした言葉に思わずムッとした。

「バカ者! それは 暗号だ! おい、誰か書きとれ! それから『お客さん』を呼んで来い!」

「は? 『お客さん』?」

 ブリッジにいた信号兵が素で聞き返して来たから、カチンときた。

「キールから乗って来た陸軍の軍服がいるだろうが!」

「あ、わかりました。アイ、サー! 呼んできます」

「・・・ったく。わが艦の水兵どもときたらどうしてこうもカンの鈍いのが多いっつーか、メシ食ってクソ垂れるのは一人前のクセしてからにホントにもうっ!  メシの食いすぎで脳ミソ腐っちまってんじゃねえのか・・・」

 ムスリはブツブツと独り言ちた。幸いにして全速力で航走しているエンジンの音と絶え間ない風と波を切る音で彼の呟きはブリッジの他の乗員に聞えることはなかった。

 異国の灯台からいきなり意味のない数字を送って来るなんて本来はあり得ない。だが艦長は今回の「荷物」が、なにやら政府の重大な任務に関わる「情報」であることだけは知らされていた。それで、ノールのその筋からの「暗号」かと思ったのである。

 ちなみに。

 ノール王国の国名の由来は、彼らの先祖の土地、旧文明のノルウェー最北端にあった岬の名前だ。

 Nord ノールとは。元々「北」を意味する。大災厄で船に乗って先祖の土地を脱出した先祖たちは、襲って来た信じられないほど巨大な大波を、ノール岬の入り組んだ島やフィヨルドの陰に入って逃れた。祖先たちにはその複雑な海岸線が、地獄の中に差しのべられた神の手のように思えたらしい。それで、辿り着いた土地とその南端にあるこの複雑に入り組んだ岬を祝福し、南にあるにもかかわらず「ノール岬」と名付けたのだと言い伝えられている。

 波しぶきが吹き上がり大きく揺れる甲板を、手すりにつかまりながらやって来た陸軍士官は、この艦で唯一カーキ色の軍服を半ばまで濡らしてしまっていた。

 リヨン中尉は手渡されたメモをしげしげと眺めた。

「暗号ですな」

「やはりな。そう思ったから呼んだのだ」

 艦長は言った。

 中尉は飛沫で濡れた金髪を掻き上げると操作卓の前に陣取り、メモをクリップに挟んでポケットから黒い革表装の小さな本を取り出した。ノールとの間で取り決めた乱数表である。短いエンピツを取り出し大きく揺れるブリッジに耐えながらその場で解読した。

 まもなく顔を上げた中尉は、言った。

「港外で一度停泊し、平文にて『我、石炭補給を求む』と発光信号して欲しいそうです」

「それが『名目』というわけだな」

「そうらしいです」

「やれやれ。面倒なことだな。発光信号をよこすほどなら、ここからランチで上陸してしまえばいいのに。それに偵察機から通信筒でも落としゃいい。そのほうが手っ取り早い」

 艦長は焦っていた。

「仕方ありませんね。飛行機なんか飛ばすと住民を刺激してしまいます。急進的なキリスト教徒がいるんですよ。それにノール政府にも内密の作戦らしいですから。地元民に見られるといろいろとマズいのでしょう」

「長くはいかんぞ、中尉。どうやらデッカイ嵐が近づいているらしいからな。その前にキールに帰りたい」

「わかっています。接岸も上陸もしません。『荷物』を引き渡したら、終わりです」

 リヨン中尉は解読したメモをクシャクシャに丸め海に投げ捨てた。左舷の厚い雲の下の、岩でゴツゴツして見える入り組んだ海岸線に目を向けた。

 もう吹っ切れた。

 そう思ったからこの伝書使クーリエの役目を買って出た。だが、この厚い雲のはるか先にいる彼女に、ヤヨイに近づいていると思うと、自然に胸が高鳴ってしまう。港に着いたところで上陸もできない。上陸できたとしても会うわけにはいかないのに。

 やれやれ。どうしてこう、心ってヤツは思い通りにならないんだろうな。クソッ!

「はは。いっそのこと、シャルル・『ピエロ』・リヨン、って改名しようかな・・・」

「は? なんか言ったか中尉」

「いえ。では部屋に戻ります」

「明日朝の到着予定だったが、釜をいっぱいに炊いたから恐らく今夜中には入港できるだろう」

「わかりました」

 リヨンは逃げるようにしてブリッジを離れた。

 全速で航走する艦が吹き上げる水飛沫を顔に受け、ノールの土地を眺めた。

 他の誰かには任せたくなかった役目だったが、やっぱり代わってもらった方がよかったかな。

    くそ。なんでぼくはこうも女々しいんだ!

 背後で艦長の怒鳴り声が聞こえた。

「アンサーを上げておけ!」

「アイ、サー!」

「アドミラル・グラーフ・シュペー」の高いマストの上に、スルスルと「了解」の意味の信号旗が上がった。

「ポートスティア、090!(進路090を維持せよ)」

「090、アイ!」

 悲劇の二代目から千年後の「ちょっと神経質な伯爵」は無事にノール岬沖を通過し、一路オスロホルム港を目指した。リヨンが波間に投げ捨てた数字だらけのメモがふやけてしまうころにはもう、艦尾の赤い軍艦旗も見えなくなり、長いウェーキも泡になって消えてしまった。
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