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第三部 歌姫は悲しい歌を歌う

30 長い忍耐から解き放たれたマルスの娘。密かに愛を交わす歌姫。そして、地の底から這い出て姿を表した「もぐら」

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 イングリッド様よりも一足早くゴルトシュミット邸に帰ったノラは、もう屋根裏の自分のベッドに就いていた。

 女中頭のマッタはいつになく優しかった。

「今日はもう仕事はいいからお休みなさいな。大役を果たして疲れただろう?」

 そう言ってくれたのだ。

 その言葉に甘えて湯を貰って身体を洗い、屋根裏に引き上げて来たところだった。

 大役は果たした。幼いころからの念願だった、大好きな歌を大勢の前で誰はばかることなく自由に歌う。その夢が叶った。本当なら、大きな幸せに包まれて眠りに就けるはずだった。

 だが、ノラにはしこりがあった。

 今夜もまた、ペールがやってくる。嬉しいはずの恋人との逢瀬が、どうしても素直に喜べない。お世話になっている館の主と、主の大切なお客様を裏切っている。その現実が、ノラの心に重い枷を嵌めていた。

 蝋燭の灯りを頼りに、手鏡を持ち、髪を梳かしていると、やはり、彼は来た。

 ゴトゴト。

 屋根裏の出窓の窓が開き、生暖かい風と共に、ペールは這入って来た。

 辛うじて消えなかった蝋燭の灯りに照らされた愛する男の顔は、暗かった。

「ノラ・・・。来たよ」

「・・・ペール」

 屋根裏の床は薄い。ペールは足音をしのんでゆっくりとノラのベッドに来た。

 ひし、と抱き合った。やはり、彼の身体は冷たかった。

「・・・どうした、ノラ」

 彼にはわかってしまったみたいだった。ノラの心の、重い枷が。

「もうやめたいの、ペール。旦那様とお客様を騙すのが、辛いの」

「別にだましてるんじゃない。彼らの様子を聞きたいだけだ。お前は俺の恋人だろう? 

 さあ、話してくれ。今日は晩餐会があっただろう。ゴルトシュミット卿とあの帝国の女男爵はどんな様子だった? 誰と、どんな話をしたんだ」

「ごめんなさい。わたし、言いたくない。神は、全てご存じだわ。わたし、いつか罰を受けるわ」

 ペールは、黙った。

 そして、愛する女をじっと見つめていたかと思うと、やおらノラを抱きしめ、その柔らかな唇を奪った。

「ペール・・・」

「お前は俺のものだ。俺の言う通りにしていれば、お前は幸せなんだ!」

 そしてノラの柔らかな身体をを押し倒し、その上に強引にのしかかっていった。


 


 


 

 ああ、疲れた・・・。

 王宮での今日一日の全てのスケジュールをこなしたヤヨイは、ゴルトシュミット卿と共に例の六頭立ての超高級馬車で彼の屋敷に帰館した。


 

 感触は上々、とは言えぬまでも、出来る限りの手は打った。

 晩餐会の最後に招待についての謝辞を述べたバロネン・ヴァインライヒことヤヨイは、その席で他の卓にまで聞こえるようにこう申し出た。

「先ほどお会いしたハンヴォルセン殿にも申し上げましたが、せっかくこうしてノールまでお招きいただいた以上は、是非ともハーニッシュの皆様に直接ご挨拶をいたしたく、訪問をお許しいただたければと・・・」

 予想通り、ヤヨイの着いたテーブルだけでなく、他のテーブルの貴族や役人たちの雑談が消え、不穏な静寂が辺りを満たし、室内楽の調べだけが虚しく響き渡った。

「さて、バロネン。貴女のたってのお望みと存じますが、その儀については、いささか・・・」

 事が上手く運んでいたと思っていたのだろう。内務大臣のシェルデラップ卿は不意を突かれたのか語尾を濁した。諸手を挙げて同意することは出来ぬが、さりとて、正面切って反対するわけにも行かぬ。そんな逡巡がありありと見て取れた。

 そこを、さらに押した。

「いけませんでしょうか。わたくしも、わが先祖とハーニッシュの方々との経緯は多少なりとも教えられておりました。それだけに、はるばるノールまでおじゃましておいて、彼らを無視して帰ることも出来ぬのです。なにとぞご承知いただけないでしょうか」

 内務卿に代わって諫めに入ったのは外務卿のワーホルム伯爵だった。

「バロネン。経緯をご存じならばなおのこと。わがノール政府としては150年前のこととはいえ国内だけならばまだしも、国際紛争に発展する恐れ無きにしも非ずな事柄を、安易にお勧めすることはいささか、その・・・、難しい事案になるか、と思われます」

「やはり、ダメでしょうか。国王陛下。非礼を承知で申し上げますが、せめて挨拶だけでもお許しいただけませんでしょうか。それでなくては、先祖に対する義理と、ハーニッシュの方々に対する義理が立たないのでございます」

 さて、「帝国のイングリッドちゃん」にぞっこんなご様子の国王陛下は何というか。

 ヤヨイはバカロレアで散々やってきた科学の実験に対するのにも似た冷静な態度で若き国王から発せられる言葉を待った。

 ノール国王スヴェン27世は、ナプキンで口元を払うと、こう言った。

「シェルデラップ卿、そして、ワーホルム卿。卿らの言わんとすることもわからぬでもない。だが、バロネン・ヴァインライヒ殿はわがノール王家がお招きした大切な賓客。できればお客様のお望みに対し出来る限りの誠意をもって対したいと、余は思うのであるが・・・。いかがであろうか」

 よし! これで決まった!

 内心の勝鬨をあげたい思いをひた隠し、ヤヨイは優雅に微笑んで感謝の意を表した。

「国王陛下、忝(かたじけの)うございます。これで先祖の霊にも顔向けできるというもの。このヴァインライヒ。陛下のご厚情に深く感謝するもので・・・」

「わかりました!」

 突然、シェルデラップ侯爵が手を上げた。給仕を呼ぶつもりが、それを待てぬほど焦っていた彼はすっくと席を立った。

 宴席の途中でゲストであるバロネン・ヴァインライヒを差し置き、ホストである国王をも差し置いて席を離れるは非礼だが、敢えて卓を離れて隣のテーブルにいた陸軍卿のビョルンソン大将に歩み寄るとこう言った。

「ビョルンソン大将。わがノールの賓客バロネン・ヴァインライヒ殿におかれてはハーニッシュの里を表敬のため訪問されたいとのご希望である由。ついては、貴殿に護衛隊を組織していただきたく、お願いいたす」

 伯爵ビョルンソン卿はナプキンを置いて厳かに立ち、深紅の軍服の胸を張った。

「では、あらためて表敬訪問の日時をお伝えいただこう。一個小隊をバロネンの護衛にお付けする」

「いや、大将。ぜひ一個中隊でお願いしたい」

 こうして、ヤヨイのハーニッシュ訪問が、決まった。

「ハーニッシュの里で採れましたチーズを使いました、チーズケーキでございます」

 ある意味で大変な修羅場であるにもかかわらず、給仕たちは何事もなかったようにコースの最後のデザートを給して回った。

 


 

 同伴してくれたゴルトシュミット卿には丁重に礼を言った。

「子爵。本日は国王陛下をはじめとしてノールの主だった方々にまみえ、望外の歓待を頂き大変うれしく存じますとともに、かねてよりの念願であった先祖の墓参だけでなく、先祖が大変世話になったというハーニッシュの方々にも訪問の望みが叶う運びとなりましたこと、ひとえに卿のお力添えのおかげと、大変に感謝しております」

「もったいなきお言葉を・・・。世が世であれば、このゴルトシュミットが主と仰がねばならぬお方。この程度のことは当然の仕儀にてお気遣いなどまったくの御無用にございます。それに、代を経ても旧恩を忘れぬそのお心がけは清々しくも素晴らしい! 確かに人徳溢れるクラウス様のご意思を継承されるお方と、このゴルトシュミット、まことに感服の思いでございます」

 恭しく首を垂れられて逆にホメられた。

「ところで、バロネン。早速ですがハーニッシュご訪問の日時はいかがなさいますか?」

「卿のご予定やノール政府のご都合などもございましょうが、出来るだけ早く実現したいものです。出来るならば、明日、明後日にでも!」

「かしこまりました。さすがに明日は無理かもしれませんが、さっそく内務省に使いして早々に実現するべく調整に尽力いたしましょう。

 今日はお疲れでしょう。さ、今宵はこれにて。よろしければお飲み物などお部屋まで持たせましょう」

 そうして自室に引き上げてやっとその日独りになれたヤヨイは、思わず両手を上げた。

「よっ、しゃあああああああっ!」

 長い、長すぎる忍耐の時間がようやく終わりを告げた。その思いが、自然に彼女をしてガッツポーズを取らせたのだった。

 さて、そうと決まったからには早くアクセルと打ち合わせをしたいが・・・。

 こんな時に、一体彼はどこにいるのだろう。おおかたハンヴォルセンの尾行をしに行ったのだとは思うが・・・。早く戻らないものかなあ。

 などと考えていたら、大事なことを忘れているのに気が付いた。

 最後に出たチーズケーキが殊の外美味しかったので、はしたないのは承知の上で先に館に帰ったノラのためにお土産にしてもらったのをすっかり忘れていたのだ。

 たしか、ゴルトシュミット卿のお付きの方が持って帰ってくれたはず。女中頭のなんといったかしら、そう、マッタさんに言っておかなくては。

 ヤヨイはあたふたと自室を出て階段を降りて行った。

 屋敷のキッチンに顔を出した時。あの美味しいチーズケーキはすでにその大部分が使用人たちの胃袋の中に消えてしまった後だった。

「大変申し訳ございません! てっきりノラはもう頂いたものとばかり・・・」

 辛うじてふた切れ程は確保できたが、女中頭のマッタは恐縮することしきりだった。

「彼女のお部屋まで持っていってあげたいと思います。温かいショコラを淹れて下さいませんか?」

 その上に大切なお客様に給仕などさせられぬと言い張るマッタを宥め、ケーキとショコラのカップが載った盆を捧げて3階の屋根裏部屋まで昇っていった。

 ドアのそばまで来た時、中から話し声とは違う、男女の睦みあう艶めかしい色のついた声が聞こえて来て思わず顔を赤くした。

「ああ! ペール! 素敵! 愛しているわ」

「お前は俺のものだ、ノラ! 誰にも渡さないぞ!」

「ああ、もっと。もっと深く愛して!」

 どうしたらいいんだろう・・・。

 しばし、ドアの前で、悩んだ。

 が、彼女の立場を思い、彼女の若さを思った。若い過ちとはいえ、屋敷の使用人が主に断りもなく恋人を引き入れて愛を交わす不作法を見過ごすのはよくないと思い至った。それで、

「あー、おほんっ!」

 咳ばらいをひとつして、ドアをノックした。

「ノラ? もう寝た? 今夜の晩さん会でデザートに美味しいケーキが出たの。素晴らしい歌を聴かせてもらったお礼に、お土産にもらって来たの。よかったら、食べて」

 いきなり入るのはあまりにも無粋すぎる。どうやってカレシを引き入れたのかは知らないが、せめて服を着る間は待ってあげよう。そう思った。

 しばらく待って、ドアを開けた。

 蝋燭の灯りに、ベッドの上で恥ずかしそうに上掛けを引っ張り上げているノラと、ベッドの向こうで半ズボンのブリーチズのボタンを留めている若い男の子の逞しい背中が浮かび上がっていた。

 無粋ではある。だが、このようなことを繰り返させてはいずれはバレる。「使用人の分際で!」となって、ノラは居場所を失くしてしまうだろう。そう思ったから、年長者として一言は言わねばと思った。ノラと、相手の男の子。彼女はペールと呼んでいたな。その二人に言い聞かせた。

「あのね、気持ちはわかるけど、こういうのは良くないわ。今回は黙っていてあげる。だからこの次は、ちゃんと旦那様にご挨拶をしてから会いなさい」

 ヤヨイだってまだ21になって三月が経ったばかりだ。だが、すでに夫がいる身でその結婚も破綻しかけてしまっている。素敵な若いカップルが、こんなくだらないことで生活の糧を失い路頭に迷うのは見ていられなかったのだ。

「申し訳ありません、イングリッド様・・・」

 そして、男の子の方も、

「すいませんでした・・・」

 シャツとベストを羽織って出窓にヒラリと身を翻した。その刹那、逞しい体つきの割に可愛らしいほど端正な若い顔が月明りに浮かんだのが見えた。

 ノラのカレシはオスロホルムの生暖かい夜風と入れ替わりに窓から出ていった。

 ヤヨイはそれを微笑ましくも羨ましくも、見送った。

 そして、早々にノラの屋根裏部屋を辞した。この後もクドクド説教したり相手の男の子のことを根掘り葉掘り訊くのはそれこそ無粋の極み、中年女のやることだからだ。

「じゃあね、お休みなさい」

 そう言って部屋を出る間際、

「あの、イングリッド様!」

 上掛けを被ったままのノラがヤヨイを呼び止めた。

「・・・なあに?」

「あ、あの、・・・やっぱり、いいです。ありがとうございました」

 チーズケーキのお礼か、それとも密会を黙っていてくれることへのか。それを訊くのも無粋だ。

「うふ・・・。今日のノラの歌、素晴らしかったわ。じゃあね」

 ヤヨイはドアを閉めた。


 

 あの可愛らしいノラが、あんな大胆なことを・・・。

 自室で寝支度をしていても、さっきの若い二人の愛のシーンを思い出して顔が火照った。ヤヨイの初めては、あんなにピュアじゃなかった。羨ましさが再燃した。

 根っからの理系。リケジョのヤヨイだが、リセにいた時に学校の図書館で戯曲を読んだ記憶がある。

「あれ、なんていったっけな・・・。仲の悪い家同士の男の子と女の子が恋に落ちて、んでどうしても会いたくて、男の子が女の子の家のバルコニーによじ登って愛を語る。う~んロマンティック! でも、あの話は最後二人とも死んじゃうんだよな・・・」

 ノラには是非とも恋を成就させてほしい・・・。


 コンコン。

 ドアが叩かれた。

「はい」

「アクセルにございます、お嬢様」

 やれやれ。やっとご帰還か。

「どうぞ」

 ぎい、と開いたドアから、アクセルの疲れた顔が入ってきた。

「お帰りなさい」

 顔を見ればわかる。あまり収穫はなかったのだろう。

 その代わりに、ヤヨイの成果を話した。ハーニッシュの里への表敬訪問を、ノール陸軍の一個中隊の護衛付きで行うことになった事を、である。

「ホントか! ・・・やるな」

 アクセルは疲れた顔に気力のなさそうな笑顔を浮かべた。

 今夜は、ノラの素晴らしい歌と若い二人の羨ましいほどの愛の交歓に免じて彼を問い詰めるのはやめておこう。そう、思った。


 


 


 

 

 久々の汚れた王都。そして、何十年ぶりかの世俗の垢にまみれた贅沢三昧の魔窟のような王宮・・・。

 だが、それを忍んで敢えて赴いた価値は十分にあった。

 あれは見紛うはずがない。里の者達の噂は真実だった。

 帝国から来た女男爵は、代々伝わる肖像画によく似ておられた。あれは間違いなく大恩あるクラウス様のご末裔。その高貴なお血筋が、あのようにお美しい貴婦人となって帝国で命脈を保たれておわしたとは・・・。

 御年70は超えるハーニッシュの最長老。

 上着もズボンも真っ黒。同じく真っ黒なつば広のハットの下の長い髪と長いあごひげだけはシャツと同じ真っ白。ハンヴォルセンは、さらに寿命の伸びる心地を抱きつつ、もうとっぷりと日の暮れた里への帰り道を、ゆっくりと進むロバ車の心地よい揺れに身を任せ、黒いリボンで背中に縛った白髪の先をあたたかな夜風になぶらせつつ、遠ざかる王都の灯りに目を細めていた。

 馬車と言っても、今日王宮に招待された六頭立ての超高級車には程遠く、キャビンは二人掛けで後ろ向き、屋根というにはあまりにも簡素な黒い布張りの庇があるだけの粗末すぎるものだ。馭者はキャビンのハンヴォルセンとは背中合わせに、少し高い馭者台に座っている格好になる。

「トール、急がずともよいでな。日は暮れようが、幸い今夜は南風が心地よいでのう・・・」

 背中ごしに、馬車を御している男に声をかけた。返事はなかった。前にも何度か、トールが馬車を馭しながら居眠りをしていたことがあった。幸い、馭者よりも賢いロバが正しい道を歩いてくれていたので大事に至ることはなかった。勤勉は褒むべきことで神も嘉したもう。だが、正直者の精勤の故、疲れによる気の緩みを咎められることはなかろう。

 なにしろ、わがハーニッシュにとっての大恩人であるその人。その末裔に相まみえられると、朝から大張り切りのトールだったのだ。彼にとっても今日は気の張る一日であったに違いないのだから。

 若衆のトールだけではない。

「もしや、あのノルトヴェイトの、クラウス様の御落胤ではないか?」

 たった一人が遠目からそのお姿を一望しただけのことなのに、その噂は瞬く間に数十郷もあるハーニッシュの里全てに広がり、気の早い者や血の気の多い者たちは、いざ、クラウス様のお血筋を守らせ参らん! と銃をとって騒ぎ立てる始末。

 ハンヴォルセンをはじめとして長老クラスの者達が総出で手分けし、そうした若い者達の軽挙を宥めるのが一苦労なほどだった。だが、その志はハンヴォルセンもまた、長老であるだけに誰よりも深く心の内に秘めていたのだ。

「なんとかしてあの大恩あるクラウス様のお血筋を再びノールに! なんとかして、あの高貴なノルトヴェイト家をこのノールに再興できぬものか!」

 そして、今日ようやく。その正統なるお血筋である、女男爵の爵位を持つイングリッド様にお目にかかることができた。よもや、この老い先短い身で、もはや伝説と化していたノルトヴェイト家の末裔に相まみえることが出来ようとは!

 この世に生まれ出でてよりこの方。もう老境にかかって久しい今までずっと神第一に生きて来た。だが今日ほど、神の御心の偉大さと素晴らしさを感じたことはない。

 ハンヴォルセンは、まさに神の懐に抱かれるような、至福と言っていい境地にいた。

「神よ! 今日伝説のノルトヴェイト家のご末裔にお引き合わせくださいましたこと、このハンヴォルセン、深く感謝いたします・・・」

 そうして、今。今日すでに何度目かになる十字を胸の上で切り、両手を組んで、祈った。

「アーメン!」

 だが・・・。

 車上祈りをささげ終りふと、辺りの夕景を見回した。陽の落ちた道をトコトコ進む馬車の里へ帰る道が、朝とは少々違っていることに、ハンヴォルセンはやっと気づいた。

 やれやれ。

 これでは自分で手綱を取った方がいいかもしれんな・・・。

「トール、起きているか? いささか道が違うようだ。疲れているなら、わしが代わってしんぜよう」

 それでも、トールの返事はなかった。

「馬車を停めろ、トール。いい加減に、起きんか!」

 激高するほどのこともない。やや声を励ましたハンヴォルセンは、大儀そうに少し外に身を乗り出し、背後の馭者台を振り返ろうとした。

「そのまま、ご乗車願います。ハンヴォルセン殿」

 いつものトールの間延びした声とは違う、低音の、硬質で金属質とさえ感じさせる、異質な声。

 ハーニッシュの最長老であるだけにハンヴォルセンの信心は誰よりも篤い。その彼の篤い信仰心が育んできた心の内におわす神の、厳しいながらも慈愛に満ちた香りとは全く異質の、悪魔の声とはかくやとも思われる、一度聴いたら耳について離れないような異様な声音だった。

「そなたは、誰だ」

 これは里の者ではない! 

 背後の馭者台で馬車を曳くロバを操る、正体不明の黒い影に尋ねた。

「名乗るほどの者ではありませんが、強いて言うなら、そう、『もぐら』とでも申しておきましょう」

 男は馬車を停めようという気はなさそうだった。だから、ロバは依然トコトコと歩き続けている。異様な声音。「もぐら」と名乗るふざけた謎の男は、異様な空気、強烈なオーラさえ発散していた。自他ともに認める敬虔な神の下僕であるハンヴォルセンは、勢い、「悪魔」を思い浮かべた。

「何者だ! トールはいかがしたのかっ?!」

「ご心配なく、ハンヴォルセン殿。彼は我が手の者が無事に確保してございます。話が終われば、無傷でお引渡し致しましょう」

「どこの誰とも知らない者が、何の断りもなく我が里の者を誘拐(かどわか)し、今また話を強要しようとする。このような非礼、無礼極まる所業に心落ち着けて耳を貸そうとする道理はない。今すぐ馬車を停められよ。そしてトールをここに連れ戻して参れ!」

「今一度申します。貴殿との話が終われば、馭者と貴殿を解放いたします。今しばし御辛抱を」

 昂奮し居丈高になることもせず。「もぐら」を名乗る謎の男は淡々と馬車を進めた。

 日はすっかり落ち、王都の街の灯りのかなた、東の水平線から暗闇が立ち昇って来た。馬車はただゴトゴトと車輪を鳴らしながら田舎道を進んでいる。揺れるカンテラの灯りが、妖しい影を辺りに跋扈させていた。

 自分に危害を加えるつもりならば、とうにそうしているだろう。だが、無礼ではあるが、わがハーニッシュ族全てを敵に回すほどのバカではないらしいし、そのつもりもないらしい。

「・・・要件とは、なんだ」

 まず、相手の話を聞いてから。あとはそれからのことだ。王都からも里からも離れている今、ハンヴォルセンには他にとるべき道はなかった。

「長老様。今日貴方は王宮に招かれ、帝国貴族の御令嬢と会われました。あの、ノルトヴェイト家の血をひく、高貴なお方に。・・・そうですね?」

 なぜ、それを知っている?

 たしかに、バロネン・ヴァインライヒ様は豪勢で華やかな王宮差し回しの馬車でパレスに入り、国王直々の出迎えを受けたと人づてに聞いた。だが、王家は都中に触れを回したりはしていなかった。存外に王宮の内部の事情に精通した者のようだ。

 ハンヴォルセンが沈黙したままなのに、男は構わず続けた。

「貴殿の御一族の中ではもう、件の女男爵の来訪が知れ渡り、中には女男爵を奉じてこのノールの王家に直訴しノルトヴェイト家の再興を願い出ようとか、それが叶わぬならば一族総出で武装し国王に圧力をかけるべし! そう息巻いている者達が少なくないとか。

 そうですね?」

「察するに、お前はそれを咎めだてようというのか。お前は王家の、政府の使いの者か」

「今、お認めになりましたね」

 ハンヴォルセンの問いには答えず男は、「もぐら」は言った。

「御一族の少なくない者たちが、あなた方の恩人であるノルトヴェイト家の末裔のお家再興を願っていると。そして、ハンヴォルセン殿。貴殿ご自身もまた、心中密かにそれを願っている。

 そうですね?」

 これは危険だ!

 老練な長老は感じた。ここは迂闊に返事をするべきではない。

 かつて若かりし頃のハンヴォルセンもまた、今の若い者達以上に急進的な、アグレッシヴな信者だった。もし、今日の僥倖があの若かりしころにあったなら、一も二もなく銃をとって声を掛け合い都に向かっていたかもしれない。

 だが、年老いて分別が着いた今は、無思慮な軽挙が不幸しかもたらさぬのも知った。

 一族の恩人に報いるためであれ、軽々しく武器をとって集合したりなどすれば、必ずノールの国体との対峙を生む。宗派の違うカソリックとて同じクリスチャンであり神のしもべ。旧文明の中世にはカソリックと新教との争いが絶えず、多くの人々が殺し合い、命を落としたと聞くが、神がしもべ同士のそのような無益な諍いをお慶びになるとは、彼には到底思えなかった。

 ハンヴォルセンが沈黙を守り続けていると、「もぐら」はさらに続けた。

「わたしは政府の手の者ではありませんし、ましてやあなた方ハーニッシュに敵対する者でもありません。

 その逆です。

 わたしは、あなた方の内なる熱い想いと願いを共にする者です。

 既に断絶して久しい、あなた方が恩人と敬うノルトヴェイト家の、帝国で命脈を保っていたその尊きお血筋のノールご来訪を歓迎し、これを機会に同家の再興を目論む者です。

 そして、不埒かつ不信心な、神をも畏れぬ現王家を打倒し、このノールを真に神を奉ずる者の国にしようと願う者です。

 もし、あなた方が決起されるなら、わたしは国中に張り巡らせた細胞を糾合して共に立つ用意があります。わたしには、その力がある」

「もぐら」を名乗る男は、誰はばかることなく謀反の、革命の意思を口にした。

 ノールには国家に反逆する者達を取り締まる秘密警察があるのはハンヴォルセンも知っている。

 だがもし、この男の言う通りにことを起せば、事態は秘密警察どころではなくなる。我が里は否応なしにノールの国と武器を持って対峙しなければならなくなるのだ。

 ここが思案のしどころだ。

 ハーニッシュの最長老は、自然に肝を引き締めた。
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