ソルヴェイグの歌 【『軍神マルスの娘』と呼ばれた女 4】 革命家を消せ!

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第三部 歌姫は悲しい歌を歌う

26 もぐらの「天命」

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 曇りがちの空からは、時折思い出したように小雨が降って来る。

 黒猫は魚の匂いが染みついたレンガ造りの倉庫の庇の下で恨めしそうに曇り空を見上げた。

 まあ、小雨ならいい。でも、このごろは西の空からやってきたらしい大きな鷲がこの街の曇り空の下を舞う日が増えた。もっとも、大鷲は彼のような小物には興味がないらしいが。でも、鬱陶しいことこの上ない。

 やがて曇り空を見上げるのに飽きた黒猫は倉庫の窓の破れから中に這入った。そして、高く積み上げられた小麦の袋の隙間を忍び入り、暗がりの中でじっと闇だまりの中に目を凝らした。ネズミを仕留めて人間の許に持ってゆけばミルクにありつけるからである。

 さあ、獲物め。出て来い!

 と。

 黒猫はふと顔を上げた。

 にゃあ・・・。

 重々しいオルガンの響きが聞こえる。それはこの地下の奥深くから聞こえてきた。

 彼はすっと腰を上げしっぽをぴんとたてた。そして、地下深くに降りて行く螺旋階段の降り口に佇み、形のいい鼻をヒクヒクさせて地の底に溜まっている闇の奥に目を凝らした。縦に切れた彼の瞳孔が、ぐっと開いた。


 

 地の底の部屋では蓄音器が回り、そのすぐそばの一人がけのソファーには短かく刈り込んだ黒髪の男の姿があった。蓄音器のそばにカンテラが置かれていたのだが、低すぎて黒髪の男の顔までは見えない。カンテラがもう少し高ければ、メデューサのような恐ろしさを秘めた黒い瞳が固く閉じられているのが見えたことだろう。男は蓄音器が奏でる「アルビノーニのアダージョ」に聴き入っているように見えた。

 その奥のテーブルではペールと向き合う小太りの男の姿があった。金髪の額がやや後退しているが、歳はさほど食ってはいない。メデューサの瞳の男よりもむしろやや若いくらいだ。小男はペールが差し出したずっしりと重い革袋を大事そうに自分の黒皮のバッグにしまい込んだ。

「では、アニキ。行きます」

 大事そうにバッグを抱えた金髪の小太り男の声はやや上ずっていた。男から漂う微かな汗の匂いにペールは気づいた。

「どうしました? なにかご不安でも?」

「いや、別に」

 男が螺旋階段に出るドアのノブに手を掛けようとしたとき、

 シュッ!・・・。

 ダンッ!

 小太り男の鼻先数インチほどを高速で何かが掠めた。

 立ち止まった男は、戦慄した。

 横のレンガの壁の目地に刃渡りの長いナイフが突き刺さっていた。

 男は、自分が「アニキ」と呼んだ蓄音器の側の影を恐る恐る顧みた。呼吸が荒かった。唾も、飲んだ。

「金を掛けた分、革命はより早く大きく実らねばならない」

 蓄音器の側の男、アニキの顔は陰になっていてよくわからなかった。だが、それだけに恐怖がいや増した。

「お前がその革袋から自分のポケットに移した金貨の分だけ、革命は遠退き、小さくなる」

「そんな! わたしはそんなことは・・・」

 シュッ・・・

 ズゴッ・・・。カラン・・・。

 2番目のナイフが小太り男の脚の間に飛んだ。今度は目地に突き刺さらなかった。その代わりに男の半ズボン、ブリーチズの布を微かに切り裂いた。もう2、3インチ上だったら。小太りの男は今後女を抱くのに不自由したことだろう。

 蓄音器の男が席を立った。

「もぐら」は恐怖で硬直している男にゆっくりと近づき、鋭いナイフの先を小太りの顎に突きつけた。ナイフの鋭い切っ先が男の分厚い顎の皮膚を裂き、わずかに血が流れた。

「もぐら」の黒い、底知れない闇の目が小太りの男を刺した。

「わたしは嘘は許さない」

 と「もぐら」は言った。

「もしお前の言葉に嘘があった時、お前の首からはこのような赤い血がはるかに夥しく噴き出すことになる」

 男の顎から滲み出た血を、「もぐら」は指先で拭い、それを、男の頬に擦り付けた。

「わかったか?」

「わ、わかりましたっ!」

 男はもう、顔を蒼白にして引きつらせていた。脂汗がひどかった。

「わかればいい。・・・行け」

 小太り男はバッグを抱えると恐る恐るドアを開け、次の瞬間身を翻して螺旋階段を駆け足で登って行った。その太った体躯に似合わない、身の軽さで。一刻も早くこの魔窟から逃れたい。そんな内心が去ってゆく足音に滲み出ていた。

 再びアニキは蓄音器のそばに身を沈めた。そして、レコードが終わって空回りしている針をもう一度「アルビノーニのアダージョ」の最初に持っていった。重々しいオルガンの響きが再び流れ出した。

 怖い人だ、アニキは・・・。

 一部始終を目撃したペールは息を吞んでいた。

「・・・あの、アニキ・・・」

「・・・なんだ」

 こんな事を言えば怒り出すのじゃないだろうか。そんな恐れがあったが、言うべきことは言わねばならない。声を震わせて言った。

「あの、今ので資金が・・・」

「カネが、なくなったか」

「はい・・・。底をつきました」

「・・・そうか」

 よかった・・・。𠮟られなかった。

「・・・すいません」

「カネは使えばなくなる。なくなったら補充すればいい。それだけのことだ」

 と、アニキは言ってくれた。

「ペール。来い」

 恐々とアニキのそばに立った。蓄音器の上で銀色のレコードが回っていた。

「そこに跪け。お前が神に祈る時のように」

 石の床に膝をついた。そして、恐ろしいアニキの顔を見上げた。

 アニキは数インチもある刃渡りのナイフの腹をペールの頬につけた。鋭利な刃物の肌がゾッとするほど冷たかった。

「わたしはお前を信じている。なぜだか、わかるか」

 何と答えればいいのだろうか。ペールが口ごもっているとアニキは言った。

「それはお前がハーニッシュだからだ。ハーニッシュだったからだ」

 とアニキは言った。

「ハーニッシュだって悪事ぐらいは働く。普通の人間のように。だが、決してウソはつかない。悪事を働いたことを神に懺悔し、許しを請う。ウソを吐くと死後に神の国に行けなくなる。そう信じているのだろう? ん?」

 ナイフの腹がペールの頬をピタピタと叩いた。

「ペール。お前はウソはつかない。ただ正直であればいい。

 なぜならば、わたしは神だからだ。お前にとって、わたしが神だからだ」

 見上げる暗がりの中で底知れないほど暗い黒い瞳が光ったように見えた。

「案ずることはない、ペール。わたしを信じ、わたしの言う通りに動けば、それでいい。

 わかったな?」

「・・・はい」

 アニキはそう言ってふっ、と笑った。ように見えた。

 テーブルの上にカランとナイフが置かれた。急に気が抜けるのがわかった。

 曲が終わった。

 アニキの手が蓄音器の側の懐中時計を取った。帝国製の、高価なものだと聞いている。時計の蓋がパカンと開かれた。

「もうこんな時間か・・・。そろそろ行かねばな」

 再び懐中時計の蓋がパチンと閉じられた。

「今、王宮ではあの帝国から来たノルトヴェイトの末裔を歓迎するセレモニーが開かれている。お前の女も行っているそうだな」

「・・・はい」

「女が帰ってきたらきょうの様子を聞いておけ。それと・・・」

 アニキは立ち上がって蓄音器の針を上げ、銀色の円盤が回るのを止めた。

「カネを補充しておけ。前に教えた通りに」

「あの、大聖堂の・・・」

「そうだ」

 刃渡りの長い、鈍く光るナイフを腰の鞘に差したアニキは懐中時計もチョッキのポケットに収めた。

「アニキ・・・」

「なんだ」

「ひとつ訊いていいですか」

 以前から聞きたかったことを、今なら教えてくれそうな気がしたのだ。

「・・・言ってみろ」

「どうしてアニキは革命を起こそうとしてるんですか」

 王家の専制を打倒しノールの人々に平等と幸せをもたらすため。

 そうした言葉は美しいし神々しく誰の胸にも優しく響く。

 だが、その言葉には血肉がない。

 上っ面の肌触りの良いきれいごとではなく、この人のホンネが知りたかった。

 なぜ、これほどまでにして革命を起こしたいのか。

 ゾッとするような冷たい黒い瞳でペールを見下ろしていたアニキは、やがて口を開いた。

「では逆に訊こう。ペール、お前は何故この世に生を受けたのだ」

「え?」

「物事には原因と現象がある。結果には必ず理由がある。

 お前がこの世に生まれ出でた理由はなんだ、ペール」

 一体何を言い出すのだ、と思った。そんなことは誰にもわからないではないか。人は皆、その生涯の中でそれぞれにその答えを見出して行くものだ。

「・・・まだ、わかりません」

「強いて言えば、なんだ。お前はハーニッシュだっただろう。ハーニッシュなら、何と答えるか」

「それは・・・。何事も、神の思し召し、と・・・」

「では、お前の問いに対するわたしの答えも同じだ。

 神の思し召し。神がわたしに命ずるから。だから、わたしはノールに革命をもたらす。

 これは天命なのだ、ペール。天が、わたしに、命じるのだ」


 
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