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第二部 歌姫と夢想家

21 謁見前夜。恋人の身を案じるノラ、苦悩する若き国王、そして身悶える皇太后

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「長きにわたり我々労働者の権利を奪って来た王制を打倒せよ!」

「国王の専制を許すな! ノールは我々労働者の国だ!」

「革命だ! 革命だ!」

 ゴルトシュミット家は、使用人まで含めると10人になる大所帯だ。

 賄いの買い出しのために魚河岸に来たノラは、漁港の一角を占拠して騒いでいる港湾労働者や、商店街に集って道にあふれる人々の群れに度々行く手を遮られた。

「そこのお嬢さん! あなたも署名してください。現王朝を打倒し、このノールを労働者の国にするための請願書です!」

「す、すいません! わたし、わかりません!」

 バインダーと羽ペンを片手に近づいてくる勧誘を逃げるように振り切り、ノラは急いでその場を立ち去った。

 すると数騎の馬の蹄と大勢のブーツの響きが石畳の街路に響き渡った。

「警官隊だ! みんな逃げろ!」

 あたりに警笛が鳴り響き、魚河岸の一角を占拠していた群衆はたちまちに散り散りに霧散した。

「無許可の集会は違法である! 即時解散せよ! 従わねば逮捕する!」

 なんだかわからないながらも逃げる人波に押されるようにしてノラも魚河岸を後にした。

 そうして飛び込んだ八百屋でも店のおばあさんの愚痴を聞かされた。

「ここのところ、こんな騒ぎが増えてねえ・・・。あたしの息子も仕事も何もかもほっぽり出して朝から集会だなんだかんだってねえ・・・」

「はあ・・・」

「ずっと昔にあたしのひいおじいさんが言ってたのを想い出すよ。昔はもっと穏やかな国だったがなあって。いつの間にかみんながギスギスしてるような、そんな落ち着かない国になっちまったってさあ・・・。

 そういえばあんた、この辺りじゃあ見かけない子だねえ・・・」

「あの、すぐ先のゴルトシュミット様のお屋敷に・・・」

「ああ! あのお屋敷にご奉公に上がったのかえ。ゴルトシュミット様のお屋敷には昔から御贔屓にしてくださってねえ・・・。そうかえ。じゃあ、これおまけしとくよ」

 おばあさんはそう言ってほうれん草の一束をかごに入れてくれた。

「ありがとう、おばあさん」

「ほんとにねえ・・・。平民は平民らしく、貴族は貴族らしく。身分の上下があったって誰の上にだって神様は公平に目を掛けて下さるんだから。それで十分に幸せなのにねえ・・・。革命だかなんだか知らないけれど、そんな物騒なことしなくてもねえ・・・」


 

 食材を満載した手車を曳き、石畳の街路をコトコト車輪を鳴らしつつ、ノラは屋敷に戻る道を急いだ。

 出来るだけ質素に、穏やかに日々を過ごし、神の言葉に耳を澄ませる。そんな時間の中で育ってきたノラにとって、初めて来た都会はあまりにも騒々しいところだった。

 皆が目の色を変え、心をざわつかせ、何かに酔ったようにわけのわからない言葉を口走っている。

 里を追放された身とはいえ、ノラは今でも神のしもべのつもりだった。神を信じ日々の祈りで心の平穏を保っていた。この世には天なる父と神と精霊と信仰しかない。幼いころから叩き込まれたそんな考えがノラには染みついていた。革命などと言われてもノラにはさっぱりわけがわからない。

 彼女は思った。

 きっとペールも、あんな騒ぎの渦中にいるに違いない、と。

 どうか、目を覚まして。心を済ませて神の言葉を聞いて。

 天の父なる神よ、どうか愚かなペールをお救い下さい。彼の迷いを覚まし、心穏やかに生きられるようお導き下さい。

 そう祈らずにはいられなかった。

 


 


 


 

「母上、お待ちください!」

 石造りの王宮の回廊。幾本もの石の柱が立ち並んだ左側は中庭に面し、風雅な噴水の周りに露に濡れた草花が美しく咲き乱れている。

 スヴェンは必死に母を呼び止めようとしていた。

 この先は後宮となる。現王の妃である王妃や先王の妃である皇太后の住まいになるエリアである。

 幼子だったころは自由に行き来できた。が、成人して国王として即位し、だがまだ妃を持たぬスヴェンは、たとえ国王であっても立ち入ることは許されない。そこに入られては話が出来なくなる。

「国王! 何度も申したはず。回廊と言えども公の場では言葉をわきまえよと!」

 多くの女官たちを従え、いささかも歩調を緩めることなく歩みを止めようとしない母をスヴェンは追った。その若き国王を近侍の者達がさらに追いかける。

「では、皇太后陛下! しばしお待ちください! どうか我が居室にお立ち寄りください! 先ほどの件で是非ともお話ししたき儀があるのです! 皇太后陛下!」

 しかし、懇願もむなしく、母皇太后は後宮への入り口となる金箔を施された分厚い樫の木のドアの向こうに消えた。

 最後の女官のドレスの裾がドアの向こうに去り、無情にもガチャンという冷たい音で施錠されたのを知り、スヴェンは閉じられたドアを見つめた。

 まずい! この上なくまずい・・・。

 スヴェン27世は、焦っていた。

 急逝した先王である父の跡を襲って若干16歳で即位してよりこのかた、母である皇太后の専横が、目立つ。

 たしかな証拠もなく、裁判にもかけられず、母や王家を批判したという言いがかりにも近い嫌疑だけで善良な市民や有能な官吏を次々に拘束し投獄する暴挙が続いていた。あのマレンキーとかいう怪しげな坊主が現れてからは、特にその傾向が激しい。

 母のあの様子ではまたもや無体な命が下される。先刻の御前閣議では「歓待する」方針が決まったわけなのだが、あの母なら、やるかもしれない。

 それがスヴェンの気掛かりだった。

 しかも今回はノール人ではない。外国人。しかも、あの強大な帝国の貴族に列せられる身分の女性だというではないか!

 何代か前はノール人だったかも知れないし、亡命したその公爵には国家転覆の容疑がかかっていたのかは定かではないが、いずれにしてもすでに150年も昔の、先祖の話だ。その程度の法的な知識の素養はスヴェンにもあった。

 外務大臣が指摘していたように、母の無体な指示が実行されれば、必ずや国際問題に、大問題になる!

 強大な帝国との間に紛争が起きる。いやその前にハーニッシュたちが一斉蜂起し、それでなくても昨今街を騒がしている労働者たちの勢力と結びついたら・・・。

 代々受け継がれてきたこのノールの伝統ある国体が消滅してしまうやもしれぬ!

 自分の代でそうなるのだけは、なんとしても、是が非でも避けねばならぬ。ここは何が何でも母を諫めねば!

 聡明で温厚な若き王は苦悩していた。

「居室に帰る」

 スヴェンは左右の近侍たちに告げ、そしてさらにこう命じた。

「クリストフェル・・・」

 若き王は近侍の中のひと際背の高い金髪の好青年に語り掛けた。

「はい、陛下・・・」

 ノール人は背が高い。スヴェンもすでに6フィート(約180センチ)を超える背丈を持っていたが、若き国王よりも5、6歳年長になるこの金髪の好青年は、自身が仕える君主よりもさらに数インチは背が高かった。

 父王の急な崩御によって慌ただしく即位したスヴェンにはまだ腹心となる大臣がいなかった。その代わりに何かにつけて意見を聞き、ものを尋ね、頼りにしてきたのが、彼の側近中の側近であるこのクリストフェルだったのだ。10年か、15年後か、いずれ来るであろう大臣たちの代替わりの時には彼がその列に加わるようになるかもしれない。スヴェンは密かにそれを期待していた。

 兄のようなこの近侍を見上げ、スヴェンは言った。

「グロンダール伯に会いたい。至急呼んで来てくれ」

 クリストフェルはすぐには返事をしなかった。

「陛下、しばしお待ちを・・・」

 そして口をつぐんだまま、国王の居住エリアへ主を誘い、書斎へと案内した。「ブロ・シュトルム(晴嵐)の間」と名付けられたこの執務室は、若く聡明な君主の居室にまことに相応しい名と風格とを持っていた。

 そして他の近侍たちに人払いを告げ、ドアを閉め、弟のような若き国王をソファーにかけさせた。

「陛下、まずお諫め申し上げねばなりません」

「なにをだ」

「あのような公の場でみだりに皇太后さまをお呼び申し上げたり、後を追われたりなさってはいけません。御用があれば侍女なり臣を通じて用向きを告げさせればよろしいかと」

 豪奢な造りの書斎の壁には代々のノール国王の肖像画が掛けられていた。見上げるクリストフェルの背後から、代々の王たちがスヴェンを見下ろしていた。

「それはわかっている。だがそのような暇はない! ことは急を要するのだ!」

「すべて存じております、陛下。ですが、君主は慣例や規則や法を守らせるもの。自ら破ってはなりません。臣下や臣民に対する示しがつきませぬ」

 兄とも慕うクリストフェルの冷静な淡々とした諫言にスヴェンの若い逸った心も幾分和らぎ、君主らしい落ち着きを取り戻させた。居住まいを正して青年王らしい威厳を取り繕い信頼する近習を見上げた。

「わかった。

 では君もかけてくれ。見上げていると首が痛くなる」

 クリストフェルは微笑した。そして、では失礼を、とソファーにかけた。

「陛下。先ほどの思し召しについて、少々申し上げたき儀がございます」

「もったいぶった言い方はよせ。君と余の間ではないか。他に人もいない。直截に言って欲しい」

 やっといつもの率直さを取り戻した国王に、クリストフェルもゆっくりと身を乗り出した。

「では、申し上げます。

 陛下。陛下は先刻の閣議でシェルデラップ卿とワーホルム卿になんとお命じになりましたか?」

「聞いていたのか。人払いをしたはずなのに」

「お答えください、陛下。閣議でどのような結論に達し、内務大臣と外務大臣に、陛下はなんと命じられたのです?」

「件の帝国人女男爵の一件については王室あげて歓待することになり、両大臣協力して良きように取り計らうようにと・・・。そう命じた」

「そうです。陛下はすでに臣下にそうお命じになられました。

 然るに、でございます。

 もし今陛下が先ほどの思し召しのごとくグロンダール卿をお召になり秘密警察に何事かをお命じになられた場合、そして、それが他の大臣方のお耳に入ったとしたら、シェルデラップ卿とワーホルム卿はどのようにお感じになられるでしょうか。あの場にはグロンダール卿もおいでになったのですよ。

 国王陛下は閣議での決定を反故にし、内密に秘密警察に何事かをお命じになった。

 そうした憶測を生む結果となった場合、閣内に深刻な亀裂を生じさせる要因となるやもしれません。しかも、国王御自らの行動が原因となって」

 ノールは専制君主の国家ではない。

 国王は君臨し、統治する。

 されど、王は左右の輔弼(ほひつ)の臣たちの進言をよく聞き、より良き道を選ぶという伝統があるのだ。臣たちを差し置き、独断専横を恣(ほしいまま)にしてきた王が退位させられたり暗殺されたりして排除された例はままあった。ノールにはそうした歴史がある。即位する以前から、スヴェンも代々のその王家の歴史を学んでいた。

「そのようなつもりは全くない! 余はただ、母上の行き過ぎを留めようと・・・」

 急に昂奮し始めた若き君主の手を、冷静な近習は穏やかに抑えた。

「存じております、陛下。

 陛下が常よりご母堂皇太后陛下のご乱脈にお心を悩ませておいでになる。

 そのご苦衷、臣は心よりお察し申し上げております。このクリストフェル、陛下のご幼少のみぎりよりこのかた、ずっと陛下をお見守りしてまいりました。心はいつも陛下と共にあります。

 ですが、ここで感情のままに行動してしまってはご母堂と同じ所業を為すことになりまするぞ」

 その通りだ。

 兄とも慕うクリストフェルの錨のように重い一言にスヴェンは口をつぐんだ。

「英明なる君主は臣下に信頼され、かつ臣下を信ずるのです。さあればこそ機能する王制。ここは諸大臣方を信じお任せになりますよう。

 陛下のご安寧と王国の安泰とはその中にあるものと存じます」

「その通りだ、クリストフェル。余は考え違いをしていた。許せ」

「やっといつもの陛下にお戻りあそばしましましたな。それでこそ我ら臣下の仰ぐ明君にございます。そのようなお言葉は無用にございます、陛下。これが臣たる者の務めにございますれば」

「クリストフェル、どうかこれからも余に至らぬところがあれば注意してくれ」

 クリストフェルは恭しく首を垂れた。

 席を立ち侍女を呼ぶベルの紐を引いたクリストフェルは、ここでさも失念していたのを想い出したとでもいうように額に手を当てた。

「陛下、大変申し訳ございませんが、お伝えするのを忘れておりました」

「なんだ」

「さきほど外務省の者が参りまして。件の帝国の女男爵との謁見が明日に決まったそうにございます」

「・・・それは、早いな」

「はい、しかも・・・」

「なんだ。もったいぶらずに早く言え」

「はい・・・。その女男爵ですが、大変な、美形だとか・・・」

「美形?」

「ノルトヴェイト家は代々絶世の美女を輩出した家柄であると官吏たちが申しております。その噂にたがわぬものだと、はや官吏たちの間で噂になっているようです」

 クリストフェルは自分の言葉が青春真っ只中の青年王の心の内に深く染み入った様子を見届け、微笑した。

「さ、そろそろ夕餉の刻限。お召替えの前にしばしご休息なされませ。温かいショコラなどお持ちさせましょう」

 ドアがノックされた。参った侍女に用向きを伝え、まだ見ぬ帝国の女男爵をあれこれ夢想しているらしい青年王が侍女に促されて書斎の次の間の寝室に誘われるや、クリストフェルも「晴嵐の間」を辞した。そして王の居住エリア傍にある自室に下がった。

 デスクの上の一片の紙を取り上げ、羽ペンで立ったままスラスラと何事かを書きつけるやひらひらとインクを乾かしつつ窓を開けた。

「フレディー!」

 さほど大声を出さぬとも届くほどのところでバラに施肥をしていた庭師を呼んだ。

 壮年の庭師が窓辺にやってくると、クリストフェルは窓辺に手をついてこういった。

「東の花壇に散り遅れの花が目立っていた。刈り取ってくれ」

 そう言いながら何気に手にした紙片を差し出した。

 紙片を受け取った庭師はそれをサッとチョッキのポケットにしまうや、

「かしこまりました」

 庭師は庭仕事に戻った。

 そうして、クリストフェルは窓を閉めた。

 外務省の使いなどという者はまだ来ていなかったし、勅使が出発するのはまだこれからであり、官吏たちの間で帝国の女男爵の容貌が噂になるにはまだ早すぎた。だが、謁見が明日行われることに決定したのは事実であり、クリストフェルはすでにそのような決定がなされることを知っていたのだ。

 実は、この若き国王の近侍たるクリストフェルもまた、秘密警察の長であるグロンダール卿が密かに国王に張り付けたスタッフの一人だったのである。

 スヴェン27世がまだ幼い皇太子であったころ。

 秘密警察の長、グロンダールは、まだ先王存命中から浮ついた言動を為し、複数の良からぬ男たちを寝室に引き入れては不埒を繰り返している王妃の情報を得た。

 未来の国王が曲がらぬよう守らねばならぬ。

 そう考えたグロンダール伯爵は、皇太子と共に勉学に励んでいた学友の一人を密かにスカウトし、徴募した。皇太子が道に迷い足を踏み外さぬようにするためのサポート役にするためだった。

 グロンダール卿の危惧は的中し、先王薨去後、皇太后となったソニアは早くもその乱行の度を重ね、ついには怪しげな坊主を後宮に引き入れ、今に至っている。

「鯛は頭から腐るという。この意味がわかるか? クリストフェル」

 表向きは宮内省の職員である彼の、真のボスである秘密警察グロンダール卿のその言葉は、若輩より共に育った青年王の守役としての彼の内に今も深く刻まれていた。


 

 施肥をしていた庭師に渡したメモには今日の若き国王の状況を彼のボスであるグロンダール卿への報告が記されていた。国王は「若獅子」、皇太后は「牝獅子」。主語はそのような符丁、隠語で表現されている。

 いよいよ、プリマドンナのお出ましか。やっと、始まるな。

 さて、帝国の「アイゼネス・クロイツの女戦士」とやらは、どんな演技を魅せてくれるのか・・・。

 メモを託した庭師が道具を取りまとめて足早に去ってゆく後姿を見つめながら、クリストフェルはその長身をそびやかし額にかかった金髪を掻き上げつつ、静かに逸る心を抑えた。


 


 


 


 

「告解がしたい。大司教を呼べ」

 後宮の自室である「アフロディーテ」の間に引き上げた皇太后ソニアは、正装を召しかえる侍女にそう告げた。

 王宮が旧文明の中世を感じさせる石造りの重厚な風格を持っているのに比べ、後宮はより可憐な近世バロック・ロココ調風味の宮廷意匠を凝らした造りになっていた。後宮の主である皇太后の居室「アフロディーテ」の間は特に豪華で美しく、瀟洒な趣の佇まいを魅せていた。

「今すぐに、でございますか、Deres Majestet(ユア・マジェスティー。陛下)」

 恐る恐る質した侍女に、ソニアは一喝した。

「そう申しておる!」

 怒鳴りながら着座したソニアは、冠を外す侍女が震える手で顎紐を解くのを煩わし気に睨みつけた。

「ですが、皇太后陛下。これより夕餉にて・・・」

「告解よりも夕餉が大事と申すか! この不信心者めが!」

 侍女は若かった。後宮の最高権力者の逆鱗に触れ思わず肩を竦めた。が、同時に皇太后のいう「告解」の意味が普通のキリスト教徒である彼女のそれとは全く違うことも知っていた。本来の「告解」とは、司祭に神の許しを得るための告白をいう。侍女は首を竦めつつも、その若い眼には密かな軽蔑の色を宿していた。

「なんだ、そなたのその目は! もうよい! 女官長を、ヴェンケを呼べっ!」

 若い侍女を手で払いのけ、宝冠を保管する木箱を捧げ持つ宝飾品管理係のやや年嵩の侍女に申し付けた。

 すると間もなくドアがノックされた。

「お呼びでございますか、陛下」

 ソニアよりもやや歳のいった目つきの鋭い黒衣の女。入れ替わりに宝冠を抱えた侍女と着付けを担当した若い侍女とが「アフロディーテの間」を去ると、女官長はドアにカギを掛け、皇太后の召し換え続きに手を掛けた。

「ヴェンケ、大司教を呼んでまいれ」

「今週はもう3度目になります、陛下」

「3度でも4度でも、妾(わらわ)が呼べと言ったら素直に呼んでまいればよいのじゃ!」

 常から他の侍女たちにもキツい物言いの皇太后ではあったが、相手がこの古株の女官長ともなればさらに威厳と取り繕いをかなぐり捨てた、素の中年女の浅はかな体も露わに吐き捨てた。

「これはこれは・・・。皇太后陛下におかれましては、随分と欲求不満であらせられますようで・・・」

「やかましい! いつものことながら、そちは一言多いのじゃ!」

 やんごとなき最も高貴な女人である皇太后ともあろう殿上人にこのように気やすい口を利く。常ならばもってのほかの態度ではある。

 しかし、それを咎める皇太后にもある種の気安さがあった。それほどまでに、ソニアの身体の奥底には溜まっているものがあったし、この目つきの険しい女官長との間に並々ならぬものがあったのだった。


 

 下級の貴族の末娘としてこの世に生を受けたソニアは、17歳で当時皇太子であった先の国王の許に嫁いだ。

 貴族とはいえ下級も下級。満足に持参金も工面できぬ、裕福とは程遠い低い家柄。その末の娘ともなれば、常ならば同じ下級貴族の、さらに次男か三男と娶せられれば御の字。はたまた平民の中の多少の小金を持った者に嫁ぎ、さして平民と変わらぬ平凡な一生を終えていたであろう。それが本来ソニア程度の女が生まれもった、定められた未来ではあった。

 それが・・・。

 持って生まれたその類まれなる美貌が、彼女の運命を変えた。

 ふとしたことで皇太子の目に留まり、そして見初められ、世の人々があれよという間に皇太子妃へ、そして王妃へと、まるで旧文明の古いお伽噺にあるシンデレラのような大出世を果たすことになった。

 だが・・・。

 天にまします神は誰の上にも等しく目を掛けたようである。

 その抜群の美貌によって人も羨む高貴な地位に上り詰めたソニアであったが、女の幸せまでは掴むことが出来なかったのだ。彼女には決定的に、徳がなかった。

 したたかで、強欲、悪辣、陰険。

 これはある意味で先王の責任でもあったかもしれない。

 ただ美貌のみで妻を選び、その性質や育ち方、ノール全ての女の範たらねばならぬやんごとなき王妃としての資質の有無をも確かめることもなく、周囲の諫めも聞かなかった。

 皇太子妃となり女として位人身を極めたソニアであったが、婚姻の当初すでに処女ではなかったのだ。実家の身分卑しい下男との間に相当な関係を持っていたのだった。

 しかも、過去の男関係が露見することを恐れたソニアは、秘密裏に人を使ってこの下男を弑した。

 2人の王女に続き第一男子であるスヴェンを身籠り、出産したまではよかった。だが、生来病弱であった先王は国王に即位して間もなく重い病に床に伏せがちになり、当然に以降の子種はおろか、閨の交わりも一切なくなった。ソニアは女として半ば捨て置かれたまま、何年かが過ぎた。

 殿上人というのは存外に不自由なものだ。婚姻前のように軽々しく下男や官吏に色目を使うこともできず、一人悶々と無聊をかこち、誰に愛でられることもない妖艶に開花した女の花を持て余していた日々を変えてくれたのが当時新任気鋭の女官長、このヴェンケだったのだ。

「皇后陛下。今社交界である僧侶が話題になっているのをご存知ですか? 」

 話を聞けば、その僧侶はこれまでに何人もの重い病をたちどころに快癒させ奇跡を起こしたのだという。

「マレンキー・ウラジーミロヴィチ・イーブレーニヤと申します、皇后陛下」

 女官長の手引きによって王宮に現れたその僧侶は、陰気な顔に底知れない暗い瞳を持った怪しげな男であった。

 先王の病の床に招かれた怪しげな男は、怪しげな呪文を唱え、怪しげな薬を調合し、ついでに怪しげな言葉をソニアにつぶやき、先王の病の快癒はともかく、ほどなくしてソニアはこの怪しげな「マレンキー」に篭絡された。

 一夜のうちに、ソニアは染まった。

 元々その素質があったのかもしれぬが、ソニアはたちまちのうちにこの怪しげな僧侶に屈服した。彼が先王の診察に訪れる日は朝から落ち着かず、その診察が終わるのも待ち遠しく、いそいそと閨の支度をするほどになった。ある意味で調教されてしまったといっても過言ではないほどに。

 そうして幾月もの時が過ぎ、第三王女アンジェリーカ内親王となる女子を懐妊した時には、すでに先王の病は救いがたいほどに悪化していた。

 アンジェリーカの胤はあの僧侶しかあり得なかった。

 この、官位にすれば中級以下の位でしかない女官長にソニアがその秘密の全てを握られることとなったのは、だから至極当然の成り行きではあった。

 療養の甲斐もなく先王が薨去し、現王である息子のスヴェンが即位しても、「施療」を「告解」に変えてその危うい関係は続いていた。

 それだけではない。

 マレンキーの寵愛を失うことを何よりも恐れたソニアは、まるで下僕のごとく男の求めるがままノール教会の最高峰である大司教に抜擢し、宮廷費を横流しし、果ては2人の娘の貞操まで献上してしまったのである。

 げに性に狂った女の狂おしいほどの浅ましさ・・・。

 そして狂おしいと言えば何よりも、官吏としては中級ほどに過ぎぬ身分であるこの目つきの険しい女官長に彼女の全ての秘密を握られてしまっていることである。

 ソニアが、身も心もそして皇太后たるその立場も全てこの女に依存している関係もまた変わってはいなかった。

 後宮の乱れは国の乱れ。

 古代のシナで言い慣わされてきたこの言葉は、世の東西を問わず、数千年後の現在もまた、真理であると言えた。

「今夜はほどほどになされませ。明日は大事がございますれば」

 衣装の召し換えを終えた女官長は、後宮の主たる皇太后の淫らな欲求をピシャリと封じた。

「なに? 明日の大事とはなんじゃ」

「例の帝国の女男爵の一件ではありませぬか。国と王宮を上げて歓待すると、閣議でそうお決めあそばされた由・・・」

 人払いして行われた秘密会の内容が、すでに後宮を取り仕切る女官長にまで。しかも・・・、

「明日の国王陛下の謁見には陛下もご臨席になられると」

「誰が言った?」

「外務省と宮内省とでそのように・・・」

「妾(わらわ)は何も命じておらぬし承知しておらぬ!」

「すでに決まったことと伺いました。ご承服なされませ」

「会わぬと言ったら会わぬのじゃ! 」

「それは叶いませぬ!」

 女官長ヴェンケは年下の皇太后のわがままをにべもなくはねつけた。

「何故じゃ! 何故皇太后たるわらわがわざわざ先の王朝に繋がる女に会わねばならぬのじゃ!」

「それが陛下の、御身の御安泰につながる故にございます」

 ズイ、と身を乗り出した女官長は、他の者ならば不敬極まりない所作を、つまり、皇太后の鼻先に身を乗り出し、その身を圧し潰すかのように覆い、そして、言った。

「役人たちの間では、すでに噂の域を超えるほどになっておりまするぞ。

 陛下と大司教との関係は、知らぬものとてない公然の秘密と相成っておりまする。人の口に戸は立てられぬと申します。これもあまりな頻度で陛下が大司教をお召になったがゆえ、にございます」

「わらわのせいと申すか」

「左様にございます」

「・・・知っておるぞ!」

 そのやんごとなき身位にふさわしくなく、ソニアはまるで下賤の女のごとく圧迫する女官長を手で払いのけた。嫉妬の炎をその双眸に燃やしつつ。

「そちとて、大司教の寵愛を受けておろうが! 」

 急に押し黙った女官長に、ソニアは追い打ちをかけた。

「わらわが公務で忙殺されている隙に、そちは大司教と閨に籠る魂胆であろうが! どうじゃ、図星であろうが!」

 されど、ヴェンケの沈黙は皇太后の指摘の故ではなかった。

 やんごとなき身分。一国の皇太后とも思えぬ、あまりに浅ましすぎる赤裸々な中年女の肉欲と嫉妬が露わになったその言葉に、同性ながら同情を禁じえなかったのだ。

 女官長ヴェンケは長い嘆息を吐いた。

「陛下、いま一度、御身のために申し上げます。

 ほどほどになされませ。さもなくば、いまに御身を滅ぼしまするぞ!」

 

 フンッ!

 退出するヴェンケの後姿を憎々し気に見送ったソニアは、落ち着か無げに部屋をうろついたかと思うとまたもやソファーに身を沈めた。

 こうなったのもそもそも、お前が手引きした故ではないか、と。

 いや、それよりも何よりも。

 あの帝国から来たノルトヴェイトの末裔というものが気になって仕方がなかった。

 ただの墓参りというだけではなかろう。一体何の目的でやってきたのか。もしや、前王朝の復活、再興を目論んでのことでは。家臣たちはハーニッシュとの結託を恐れて歓待せよというが、サッサと始末してしまえばいいものをグズグズグダグダ御託を並べるばかりで要領を得ない。スヴェンのバカもなまじ気性が穏やかなものだから簡単に家臣どもの口車に乗る。誰も彼も、どいつもこいつも! まったく、苛立たしいことこの上ない!

 生来の短気で無思慮の上に酷い欲求不満までが重なり、まだ30代半ばの女の盛りを持て余した。

 ソニアは苦し気に身悶え、長い嘆息を漏らした。

 ああ、堪らない・・・。

 今すぐにも大司教のあの強大な槍で身も心も深々と刺し貫いてもらいたい!

 そうでなければ、この身が持たぬ・・・。


 

 古今東西。貴賤を問わず。

 肉欲の虜となった女を正気に戻す妙薬は、存在しない。
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