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第二部 歌姫と夢想家
19 ペール、故郷に立ち寄る
しおりを挟む彼女は、温かくて、柔らかくて、豊かで、生気に満ち満ちていた。
互いに肌を重ね合い、激しく求め合い、その素晴らしい感触を確かめ合ったばかりのリサの身体から、命の焔が徐々に失われてゆく生々しい感覚が、まだ右手にしっかりと残っていた。
生れて初めて、ペールは人を殺めた。
「革命の大義のためだ。その前には帝国女の一人や二人、殺めたところでどうということはない」
無理やりにアニキの言葉を反芻し、自分の心を落ち着かせようとする。
そうだ。これは大義のためだ。
神の国であるノールを守るための大義がアニキにはある。
そのアニキの命に服した俺にも、大義はある!
だが、あの子にだって幸せに生きる権利はあった。
「あのね、あたしたち、きっと合うと思うの。どうかな、これから一緒に暮らさない?」
あの子はただ幸せになりたかっただけだ。ノラや、俺のように。
俺みたいな男に関わりさえしなければ・・・。
ああ、ノラ! 俺を助けてくれ! ノールでも帝国でもない、どこか知らないところへ連れて行ってくれ! 俺はここから逃げ出したいんだ!
東の終点ライプチヒに向かう列車の中で、ペールは一人、頭を抱えた。
俺はビッグになりたいんだ!
愛するノラの前ではそう嘯いたペールだったが、「大義」という名前の幻想を弄ぶには、ペールは心が弱すぎた。
彼こそ、アニキのような男に関わるべきではなかった。
不埒を重ねハーニッシュを追放されたのは仕方がない。
だがそれはそれとして、オスロホルムで真面目に仕事を探しいずれはノラを迎えて二人で平凡な人生を生きて行く道はあったのだ。
自分の幸せに至る橋を、彼は自ら焼き落としてしまった。あとに残されたのは「修羅の道」、ただ一つだった。おぼろげながら、ペールにはそれが見えて来てしまった。
彼の感じている焦燥やどこかうすら寒い想いはそれが原因だった。
「失礼。どこか気分でも?」
見上げると冷たい顔をした中年の女の車掌が彼を覗き込んでいた。
「ああ、大丈夫です。ちょっと帝都で遊び疲れたかも、はは・・・」
笑いを取ろうとしたつもりだったが彼女は乗ってくれなかった。
「乗車券を拝見出来ますか?」
人殺しをするような冷酷な人間とは対極の、正反対の人間だと思わせたかった。犯跡を眩ますためというよりは、オレは悪人じゃない、というアピールに近かった。
「好き嫌いとか善悪などという感情や概念などナンセンスだ。目的達成のために有用か無用かで考えるのだ」
アニキならきっとそう言う。
だが、共に国境を越えて来た馬を預けていた牧場に寄った折にも、努めて明るい男を演じた。
「久々にキールの友達に会いに行って楽しかった!」
ライプチヒからは真っすぐ南下して港町キールに向かう路線もあった。だからその作り話を用意しておいたのだ。
いくばくかの金を払い礼を言って黒毛を引き取り、北に向かうと見せかけて牧場が見えなくなると東の山に向かった。
イミグレーションのある街道から大きく北に外れたその台地は、150年前に帝国とノールとが戦った古戦場の跡だった。
長い年月が過ぎた今は当時を知るよすがになりそうなものは何ひとつ残ってはいない。季節は初夏だが高原の風は涼しく、白樺や背の低い高山植物がちらほらと見かけられるていどの何もないただの空き地に過ぎない。両軍合わせて一万を超える戦死者を出した激戦地であったなどとはちょっと想像できないほどのどかなところだ。
聞くところによれば、そのいくさの発端はほんの些細な出来事だったという。山へ狩りに入ったハーニッシュと帝国人との間にイザコザがあり、ハーニッシュの首に掛けたロザリオを帝国人が取り上げて冒涜し地に叩きつけ、サンダルの足で踏みにじった。
帝国人には単なる嫌がらせ程度に思えることでも、ハーニッシュたちには言語道断。神をも畏れぬ許すまじき暴挙、悪魔の所業だったのだ。
決して私事で怒ってはならない。
そんな戒律を持つハーニッシュも神を冒涜されたとなれば話は別だった。
怒りに我を忘れたハーニッシュたちは手に手に剣や鍬を持って国境に殺到した。数万の軍勢に膨れ上がった彼らは帝国領に向かってなだれ込んだ。どの者がロザリオを冒涜したのかはその時はもう、どうでもよくなっていた。誰も彼の頭の中にも、帝国の人間を見つけ次第神の怒りを下す、それ以外の考えはなくなっていた。
ハーニッシュたちの怒涛のような集団は東の地を守っていたいくつかの軍団の宿営地に襲い掛かった。
当時はまだ銃がなく、剣と剣との切り合いど突きあい殴り合いが戦闘だった。
北から南まで、帝国とノールの国境を挟んで随所で見るもおぞましい殺し合いが、凄惨な殺戮が続いた。帝国は他の地区を担当していた軍団や帝都を守る近衛まで投入してやっとのことでハーニッシュたちを国境の向こうに押し返した。
だがそれ以降、帝国とノールとは急速に接近し同盟こそ結んではいないが商売のための条約まで結んでいると聞く。
戦いを収め、帝国との和議を推し進めたのはノールのある貴族だったということだ。その貴族はノールの王家から裏切り者呼ばわりされてまで和平を求め、結局国を追われて帝国に亡命してしまった。
例え汚名を着ることがあっても、地位を失うことがあったとしても、ただそれだけで死なずに済む兵たちの命が助かるなら、と。
その話はだいぶ昔、ペールがまだ子供だった頃に祖父から聞いたものだった。
「その貴族の名はクラウス様といってな。ノルトヴェイト公爵家のご当主であられた。もしクラウス様がいてくださらなんだら、我らハーニッシュは一人残らずこの世から消え去っていたに違いない。わしらにとってクラウス様とノルトヴェイト家は命の、民族の恩人、神の代理人とも言えるお方なのだ、ペール・・・」
そこでまたアニキの言葉を想い出した。
「人に良く思われたいなどという下らん考えに囚われている者は絶対に大きな仕事は出来ないし、大物にはなれない」
ノラにも、自らの手で殺してしまったリサにも、アニキにもよく思われたい、カッコイイと思われたい、悪いやつとは思われたくない、役に立つ男だと思われたい!
どだい、そんな考えはムリなのだ。
そんなことはわかっている。わかっているのに、その囚われから逃れられない。
そして、ノルトヴェイトのように、自分の身をギセイにしても人の命を助けようなどという考えにもいたらない。
自分は、どこまでも、俗物だ。
けものみちを通って国境を越える。
条約締結後、帝国とノールは双方国境から軍を引いた。
以来150年。両国とも国境に警備の兵は一兵も置いていない。互いに相手の国を侵す意思はなく、一般の者も国境の入国管理の喧しさともう一つの障害を嫌って陸路国境を越えようとするものなどほとんどいないからだ。
その「もう一つの障害」というのが、国境を越えたペールの眼下に広がるなだらかな山裾に住む住人たちだった。
ペールもまた、かつてはここの住人だった。追放されてからかれこれ3年が経つ。
陽はまだ高い。
だが、夜を待っている時間はない。
山を下った居留地の外れの雑木林の中に黒毛を繋ぎ、山から転がり落ちて来たらしい大岩の陰に隠れてペールは吼えた。
ウオオオオオーンッ! ウオオオオオーンッ!・・・。
オオカミの遠吠えのマネは子供のころからペールの得意技だった。
タバコを2本ほど喫って待ち、また繰り返した。
と。
居留地の方から鍬を担いだ人影が現れ山に向かって歩いて来た。
ペールが岩陰から姿を見せると影は何度も後ろを振り返りつつ、ペールの方ではなく山から伸びる尾根の陰の方に向かって歩いて行った。それでペールも尾根に向かって歩いた。
先に尾根のくぼみに入って待っていたのはペールの方だった。
「やあ、クリスティアン! しばらくだな」
「シッ!」
クリスティアンと呼ばれたペールと同い年ほどの栗色の髪の青年は困惑の表情で黒い鍔広帽を目深にかぶり直し唇に指を当てた。
「声が大きいぞ、ペール! それにもう、あのヘタクソなオオカミの物真似はやめろ。ワザとらしすぎだ!」
「そうかな、へへへ・・・」
「笑い事じゃないぞ。もしこうしてお前と会っているのを誰かに見られたらオレまで追放されちまうんだからな! で、何の用だ」
「そんな、冷たいじゃないか幼馴染なのに・・・」
「もう、幼馴染でもなんでもない。ノラまでかどわかしたくせに!」
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺たち、好きあってるんだから。ここじゃ一緒になれないからオスロホルムに連れて行ったのさ。
おい、お前、もしかして、ノラが好きだったのか?」
「うるさいよ! サッサと要件を言え」
きっと図星だったのだろう。クリスティアンの動揺が、ちょっと可笑しかった。
「それでな、こういうのはもう、これ限りにしてくれ。これからはもう、ヘタクソなオオカミの遠吠えが聞こえてもシカトさせてもらうからなっ!」
「じゃあ、次からコヨーテにしようかな」
クリスティアンの顔色を窺ったが冗談が通じる空気ではなさそうだったのでペールは本題を切り出した。
「明日か明後日、俺のアニキが長老を訪ねに来る。それを伝えて欲しい」
「断る」
「なんで?」
「それを誰から聞いたのだと言われるにきまってる」
「そう思って、ホラ」
ペールはテュニカの懐から手紙を出した。
「これをお前のオヤジに渡して畑に落ちてました、って言えばいい」
「でも、ムリだろうな」
「なんで?」
「上の人たちは、今それどころじゃないからさ」
「なんで?」
「ノルトヴェイト家が現れたんだよ」
「ノルトヴェイト?」
「少し殺気立ってる人もいる。お前もそんな帝国の服なんか着てこの辺チョロチョロしてるとぶっ放されるかもな。ズドーンッ! って。早くどっか行っちまえ」
「・・・そうか。わかった。ありがとう」
ペールは立ち上がり、雑木林に向かって歩き出した。
「ペール!」
ペールは幼馴染を振り返った。
彼はもう困惑も怒りも浮かべてはいなかった。子どものころに共に遊んだ懐かしい笑顔で、そして、言った。
「お前が今どこで何をしてるか、知らんし、訊かん。
だけど、ノラだけは幸せにしてくれ。不幸にしたら、許さんぞ!」
そう言って踵を返し、クリスティアンは居留地に向かって去って行った。
子供のころから山の中の夜明かしはお手のものだった。父と共にクマやイノシシやシカを追って長い時には一週間も山に入ったきりの時もあった。
適当なくぼ地を探して針葉樹の枝を切り取り柱や屋根にして寝床を整えてから、火を起こす。
猟銃を下げて共に山を歩き、そんなやり方を教えてくれた父もとうの昔に天に召された。ペールのあまりの乱行と不埒とに疲れ果ててしまったのだ。あげく里を追われた自分はとてつもない親不孝者だと思う。それだけに、ビッグになりたい、ビッグになって見返してやりたい、という思いが強かったのだったが・・・。
「ハーニッシュに渡りは付けたか?」
焚火に手を翳して物思いにふけっていると、ふいに背後から声を掛けられ、死ぬほど驚いた。
アニキはいつも心臓に悪い現れ方をする。
「・・・はい」
彼の「ひまわり亭」に訪ねて来たおりの金髪はすでに黒髪に戻っていた。
アニキは炎の向こう側にどっかりと腰を下ろした。
「で、長老には会ったか」
「じつは、アニキ。今里では大騒ぎになっているらしくて、とても話をするような状況にはないみたいです」
「意味が解らない。もっとわかりやすく話せ」
「ノルトヴェイト家が現れた、とかで。今、上の者達は大騒ぎになっているらしいんです」
急にアニキが殺気立った。
「・・・今何と言った? ノルトヴェイト、だと?」
「・・・はい」
彼はしばし思案している様子だったが、やがて黒髪を後ろへ撫でつけるやサッと立ち上がった。
「前に聞いていたお前の女、ゴルトシュミットの屋敷にいるといったな」
「・・・はい」
「お前はこれからすぐにゴルトシュミットの屋敷に行って女に会え。そしてこう言え。
『ノルトヴェイトが現れたら知らせろ』と。いいか? わかったな」
それだけ言うと、アニキは立ち上がり、またも暗闇の中に消えた。
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