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第二部 歌姫と夢想家

16 男装の麗人、ノールの王都に入る

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 あまりにノロノロな馬車の歩みのせいで、首都オスロホルムに入る前に日が暮れた。

 馬も休ませねばならない。ハーニッシュの居住地を抜けてすぐの街道沿い一番とゴルトシュミットがおすすめの宿屋に一泊することになった。

 そこで子爵に願い出た。

「閣下、お願いがあるのですが」

「なんなりと、バロネン(女男爵)」

「その・・・、汽車と馬車の中ばかりでいささか身体が鈍ってしまいまして。夕食まで一走り駆けさせたいのです。馬をお借りできませんか?」

「さすがは馬の産地帝国のお生まれですな。女性ではいらっしゃるが、乗馬はお手のものとお見受けします」

「それほどではありませんが・・・」

 ヤヨイの唐突な申し出を子爵は快く許してくれた。

「ただし、もうお分かりかと思いますが居留地へは不用意に立ち入らないでください。今までも度々揉め事があったのですよ」

「揉め事とは、穏やかではありませんね」

「さよう。いささか彼らは『特殊』なのです。ご滞在中においおいお話しする機会もありましょう」

「わかりました。心得ておきましょう。では・・・。アクセル、参りますよ!」

「・・・はい、お嬢様。ではお帽子をお召になられますよう」

 子爵とその従者の馬を駆って宿屋の厩を出、街道をギャロップした。こういう時、男装は何かと便利がいい。

 後ろを見るとアクセルもちゃあんとついて来ていた。役柄上従者が主人に付き従わないのはおかしいのだ。彼の顔にはしっかり、

「参ったな・・・」

 という言葉が浮かんでいたけれど。

 ハーニッシュの居留地を望む丘の上に駆け上がり、ヤヨイは馬を止めた。

 季節は初夏に向かうが背丈の低い草が覆われた丘は他に何一つとてない辺り一望の原野である。しかももう夕暮れ時。周りには誰もいない。

 はるか西を見渡せば、今日越えて来た国境の山々に陽が落ちようとしていた。その手前の、今しがた通過して来たハーニッシュたちの居留地も山影に入って暗く沈んで見える。

 追いついたアクセルはヤヨイのそばに馬を止めた。いやいやながら。不承不承がみえみえだった。

 ヤヨイは三角帽を脱いだ。帽子を馬の鞍の隙間に挟み、厳しい視線をアクセルに、「ヴァインライヒ女男爵に付き従って来た従者」に向けた。

「アクセル。もう、『待った』はなしよ」

 ヤヨイは言い放った。

「全部話してもらうわ。でなければ、わたし、このまま帝国に帰りますからね!」

 アクセルもまた被っていたトリコーヌを脱いだ。従者だからヤヨイのようにクラヴァット(フリルの付いたネクタイ)は着けず、ボタンで留めるシャツにはカラーがない。ヤヨイの厳しい視線を避け、その首筋のあたりをワザとらしくイヤイヤそうにポリポリと掻いた。

「はいはい、お嬢様」

「あのね、冗談で言ってるんじゃないのよ!」

 ヤヨイの碧眼がさらに深みを増した。

「わかるでしょ、わたしがこのまま帝国に引き返せばどうなるか。

 どれだけの月日、どれだけの費用や労力をかけたのか知らないけれど、あなたたちの用意した段取りも伝説も、全部パーになる。すでにゴルトシュミット子爵には会ってしまっているしね。他の伝説を用意するだけでもかなりの時間がかかる。その間はあの『ラスプーチン』から活動資金を得ている『もぐら』を捕捉するのも不可能になる。そして『もぐら』がハーニッシュたちと結束してノールに歯向かって来たら・・・。

 説明の必要はもう、ないでしょう? それを阻止するための作戦だものね。

 さあ、話しなさい。

 素のままの、『ノールの工作員』のアクセルとして、全部話しなさい!」

「わかったよ!」

 彼は吐き捨てるように言った。

「・・・ったく! もう少し大人しい女かと思ったのに。帝国の女ってな図太くてかなわん。アイゼネス・クロイツだか何だか知らないが、お高く留まりやがってよ!」

「フフッ。やっとホンネが出たわね。そうでしょう? 」

「ああ、そうだよ! オレだってこんな任務やりたくねえんだ! オスカルのやつが急に段取りを変えちまったもんだから・・・」

「最初の質問。オスカルは、あなたの上司、なのね?」

「ああ・・・」

「で、その『最初の段取り』とは?」

 厳しい眼でヤヨイを睨みつけるアクセル。

 だが、ヤヨイとて負けてはいない。

 まだ若干21歳の女だが、すでに数々の作戦に従事し武功を重ねてきている。それがノールにまで聞こえたために、今回の「助っ人ガイジン」の登用とあいなったわけだ。どれひとつとっても、誰にだって引けは取らないどころか、超一流のエージェントとしての自負もある。

「ねえっ! 最初の段取りって、なんなの?」

 アサシンであり、カラテの遣い手。数十人の部下を統率し実戦指揮官も務めた。そして、自分のお腹を痛めてはいないが、一児の母でもある。

 歳はヤヨイよりも上らしいが、ノールの実戦を経てもいない工作員とでは、ヤヨイは一回りも二回りも格が違った。

 それを認めたからか、あるいは認めたくないからか。

 アクセルは、ちぇっ! と舌打ちをすると、口を開いた。

「もともとオレ一人でやるはずだったんだ。今回の作戦はさ。オレが全部調べ上げて、計画して、あと一歩で『もぐら』を捕まえるってところまで行ってた。それを、オスカルのヤツが・・・」

 アクセルは馬の脛を覆うほどの草を足で蹴った。

「きっとオスカルは、あなたのそういう自制心の無さを恐れたんでしょうね。だからわざわざこんな、他国の女に頼ることになったんだわ」

 彼の歯ぎしりが聞こえるような気がした。アクセルの黒毛がブルルッ、と鼻を鳴らした。

「あまり怒ると馬が怯えるわよ」

 ヤヨイは手を伸ばし、アクセルの黒毛の首筋を優しく撫でてやった。

「さあ、話してちょうだい。ディナーには戻らなければ子爵閣下が怪しむわ。

 なぜゴルトシュミットなのか。ゴルトシュミット家とノルトヴェイト家の関係。前王朝とノルトヴェイト家の関係。そして、ハーニッシュとの関係・・・。

 洗いざらい全部、話してしまいなさい! 今、ここで!」


 


 


 

 幸いなことに、ゴルトシュミットはディナーの席ではノルトヴェイト家に関する一切、ヴァインライヒ男爵家にまつわる一切、そしてハーニッシュに関する一切を話題にしなかった。

 きっと宿の人間や他の宿泊客を慮ったのだろう。

 特にハーニッシュの居留地の近くで軽々しく彼らのことを口の端にのぼせることは憚られるのだろうと察した。

 その代わり、彼は先の帝国とチナとの戦争に関する話を聞きたがった。

「いささかディナーにはそぐわない話でしょうが、ですが、この度の戦役で帝国が旧文明の数々の『新兵器』を実戦配備したのはノールでも、とりわけ社交界でも話題になっているのです。『戦車』や『飛行機』や『飛行船』といった話がね。『空挺部隊』まで登場したそうじゃありませんか」

 なにしろ、それら「新兵器」を間近で見、実際に運用し参加した張本人が自分なのである。冷汗を隠すのがホネだった。

 戦争のことはよくわかりませーん。努めてそんな風を装った。

「ヴァインライヒ家を相続してより、わたくしも帝国貴族の一員に叙せられてはいるのですが、男子ではないため士官になることもなく、つい一年前に徴兵も帝都守備の近衛と陸軍省で終えておりました。ですので前線のことにも疎いもので・・・。ましてや、今回の戦役については、とんと・・・」

 なんとかそう答えておいた。

「新しく獲得した占領地に領地を拡大した貴族方もおいでになったのでは?」

 そのテの質問には答えられる。

「帝国の社交界でも開戦前からその話題が出ておりました。いずれチナとはいくさになる。勝てば新たに領土が増えるだろう、と。

 でも、我が皇帝陛下のご方針で新しい占領地は一切帝国の直轄地とする旨が布告されていました。現地の住民も元々の土地に居住を許されているようです。占領地の治安維持の一環、と伺いました」

「なるほど! 

 確かにそれならば占領地の人心も安らかに保たれましょうな。

 いくさに負け、さらに生まれ育った地を奪われては憎しみも後々まで尾を引きましょう。反乱に繋がるやもしれませんしね。しかも占領地の治安維持のために兵力を置いては軍費がさらに増すばかり。

それらの芽を未然に摘み取った、危機管理の一策、というわけですな。これは『見識』というものでしょうなあ。・・・」

「さすがはご慧眼のお噂の高いゴルトシュミット閣下。ご賢察の通りかと・・・」

 貴族同士のそのテの「ヨイショ言葉」はある程度そらんじていた。帝国貴族に関するマニア的とも言える知識の持ち主、ライヒェンバッハ伯爵夫人の家に居候しているのがこういう時に役に立つ。

「ですが、他国まで聞こえるほどの数々の新兵器の投入までなしたいくさです。さぞ戦費は膨大なものになったのではありませんか? 占領地の経営から上がる利潤も、実際にそれを手にするにはまだまだ先のことになりましょうしね。やはり、戦費の少なくない部分を戦時国債で賄われたのでしょうなあ」

「そう伺っています」

 ヤヨイは頷いた。

「ご承知の通り、帝国はその国のありようを古代ローマを標榜して定めております。いくさの折などにもその故事に倣う、とか。男子は陸軍士官たらねばならぬとされる帝国貴族も、国難に際してはまず率先して国債購入に協力する習わしなのです。わがヴァインライヒ家も、当主を受け継いだとは言え女の身のわたくしですので軍務を果たすことが出来ません。ですので、及ばずながら微々たる額ではありますが・・・」

「さようでございましたか・・・」

 ゴルトシュミットは納得の体で頷いた。

「さすがは帝国の紳士の中の紳士たる貴族。軍務にしても、軍費にしても、国難には自ら率先して痛みを受け模範を垂れる。実に帝国の根幹を支えるは堅固な愛国思想を堅持する帝国貴族、というわけですな。

 まことに真の貴族とはそうあらねばならない。

 身につまされますなあ。どこかの国の貴族共とは大違いだ。あ、これはわたくしとしたことが、少々口が過ぎましたかな・・・」

 いささか興奮気味にまくし立てていたのと、やけに「軍費」に関心を持つのが印象に残った。


 


 

 明日は首都に入ります。お疲れでしょうから今夜はここまでにいたしましょう。我が屋敷に到着したら改めて歓迎の宴を開きましょうほどに・・・。

 子爵の言葉でやっと自室に引き上げることが出来た。

 部屋着に着かえ、化粧台に向かってメイクを落とし、目の周りに埋め込んだ鯨骨の具合をチェックする。日に一度はコレをしなければならないのがメンドウだった。

 首都から離れているとはいえ、風光明媚な土地にあるこのホテルは度々王都の富裕層や貴族なども利用するのだろう。最高級とされた居室には広いリビングの他に3つの寝室と使用人や執事のための部屋も完備していた。

 鏡の中の『ノルトヴェイトの末裔』を見つめながら、ゴルトシュミットの大変な歓待ぶりを思った。

 ディナーの前にアクセルが明かした、ゴルトシュミット家とノルトヴェイト家の関係。そして、前王朝とノルトヴェイト家の関係・・・。

 それを聞いてからは、なおさら彼を欺いていることに罪深い感情を抱くのを禁じえなかった。もし彼がヤヨイの正体と真実を知ればどうなるだろうかといささか申し訳なくなる。

 だが、これも任務のうちなのだ。


 


 

「要するにさ、ゴルトシュミットは『国粋バカ』なんだよ」

 ハーニッシュたちの居留地を望む丘の上。騎乗のまま夕陽を背にしたアクセルの横顔は赤く染まっていた。

「『国粋バカ』?」

「憂国の士、ってヤツ。帝国にも居るだろう? 我こそは皇帝陛下のオンためにィ・・・てさ」

 ヤヨイが知っているのは、あの、ノールの内親王を歓待したブランケンハイム侯爵ぐらいだ。あの白おしろいと着けボクロはキモかったが、彼は『国粋』バカではない。第二近衛の旅団長でもある彼は、イザとなれば皇帝陛下の盾となって奮闘すにちがいない。バカなどとは誰も思っていないし、バカには出来ない。自身戦場にも出ているヤヨイにはそれが肌で分かる。帝国貴族とノールのそれは、だいぶ違うようだ。

「ノールの貴族はだいたいが日和見の集まりなんだ。ノールの歴史は頭に入ってる?」

「まあ、だいたいは・・・」

 ヤヨイは答えた。

「西のチナほどではないけれど、ノールでは過去2回、王朝が変わった。その度にうまいこと世渡りして生き延びて来たのがノールのほとんどの貴族どもなんだ。ゴルトシュミットはそういう貴族どものありようにガマンならないんだな。

 彼はね、未だに150年前の前王朝、『ニィ・ヴァーサ朝』カールグスタフ12世アドルフに忠誠を誓っている郷土貴族ってヤツなんだ。当然だけど日和見ばかりのノールの貴族の中では異色だ。それだけに、目立つ。

 彼の心願は、『ニィ・ヴァーサ朝』の復権、その王位の復活の成就なんだ。150年前の戦争の敗戦責任を取って退位させられ、滅亡させられた王朝の復活なのさ」

「『ノルトヴェイト公爵家』を復権させて前王朝の復活につなげようとしているのね?」

「その通り。だから今回のミッションに使えるんだよ。わかった?

 『日和見主義者の寄り集まり』ノール貴族の社交界では、彼は黙ってても目立つ。その彼に招かれた『ノルトヴェイト』が目立たないわけがない。しかも、ゴルトシュミットが心中密かに現王家を批判しているのは公然の秘密になってる。

 その繋がりがイマイチよくわからないけど、現王家に取り入ってるマレンキーとつるんでる『もぐら』の目的が最終的にノールと現王家の転覆にあるとすれば、必ずこの網に引っかかって来る、ってわけさ!」

「なるほどね。・・・でも、」

 ん?

 アクセルが顔を曇らせたヤヨイの「イングリッド」の顔を訝し気に覗き込んだ。

「でも、敗戦の責任は王様がとったんでしょ? それなら、どうして『ノルトヴェイト』まで亡命しなきゃいけなかったの?」

「さあね」

 事も無げに、彼は嘯いた。

「え、知らないの?」

「だって、もう『ノルトヴェイト』は断絶してるんだぜ。『ヴァインライヒ家』だって架空の帝国貴族だ。だから『伝説』に使えるんじゃないか」

「でも、亡命の理由は大事よ。少なくともゴルトシュミットは知っているわ。彼が知っていることをその亡命貴族の末裔のわたしが知らないって、オカシクない?」

「たぶんその戦争にカンケーすることじゃないのか? 王様が責任取った。その係累としてはノールの貴族社会に居辛くなったってトコじゃないの? 」

「トコじゃないの、って・・・。

 ハーニッシュたちの居留地を通るとき、彼は言ってたわ。やはりノルトヴェイト一族の血だな。150年前の亡命劇、その要因となった彼らが気になるんだな、って」

「なんか、あったんだろうね」

 まるで他人ごとのように、アクセルは言った。

 元がバカロレアの大学院で電波の研究をしていた学究肌、「リケジョ」だったから、ヤヨイは細部まで突き詰めないと気が済まない質だった。

 急に心細く、イヤな予感に襲われた。不完全な伝説。明らかに、彼らの準備不足だ。

 だが、いまここで計画を、作戦を中止するわけにも行かないだろう。

 帝国との戦争については特につぶさに調べた。だが、その部分については正史にも記述はないし、もちろん、ゴルトシュミットに質すわけにも行かない。

 それについては両親から聞く前に他界されてしまったので・・・。

 それで押し通すほかはないだろう。

 だが、気になる。

 西の山々の向こうに陽が落ちた。

「とにかく、これでオレの知ってることは全部だ。満足かい?」

「ありがとう。これでひとまずは納得がいったわ」

 ヤヨイは、右手を差し出した。

「あらためて、よろしくね、アクセル。わたしたちは、チームだから」

 不承不承、は変わらなかったが、彼の顔には先刻までにはなかったハニカミがあった。年下の他国の女に主導権を握られるのが悔しくも恥ずかしい。そんなところだろう。だが、ヤヨイの方が上なのだということは認めないわけには行かないのだろう。

 差し出された帝国の女の手を、ノールの男は握った。そして首を垂れてヤヨイの手の甲にキスをした。

「ご理解いただけて祝着でございます、お嬢様」

 おどけた風に、彼は言った。

「ではそろそろ宿に戻りましょう。ディナーに遅れるは礼を欠きますぞ!」

「わかったわ、アクセル。参りましょ」

 三角帽子をかぶり直したヤヨイは、ふと夕闇の丘の麓に彼女を見上げる一人の農夫の影を認めた。黒い鍔広の帽子。白いシャツにこれも黒の上下。

 間違いない。

 彼はハーニッシュの男だ。

 だが、ゴルトシュミットの言葉を思い出し、馬の首を巡らせて早々に丘を降りた。

 不用意に彼らに拘わらないこと。

 特に、ヤヨイとアクセルは「隠密」なのである。その忠告は金言だと思われた。


 


 

 コンコン。

 丘の上で聞いたアクセルの話を反芻しているところへ、使用人の部屋に続くドアがノックされた。

「お嬢様。もうお休みになられましたか」

「ええ、支度をしているところよ」

「お早めにベッドに入られますように。それでは、お休みなされませ」

 宿のメイドに聞かれているかもしれないことも考えたのだろう。念には念を。アクセルは「帝国貴族ヴァインライヒ家の使用人」の演技を崩さずに今日一日を終えた。

「おやすみなさい、アクセル」


 


 


 


 

 夕食前のお祈りを捧げ、今夜もいつもと変わらない献立を囲む。少量のジャガイモと野菜を煮込んだスープ。パンとヤギの乳で作ったチーズ。そしてヤギの乳、である。それら食物の載ったテーブルは菜種油の薄暗いランプで照らされ、テーブルを囲む壮齢の男とその妻、そして彼らの息子である青年の顔を暗く照らしていた。

 ふと、女がスープを掬った木の匙の手を止め、テーブルの一点を見つめたまま、動かなくなった。

 妻の様子を案じた夫が声をかけた。

「インゲ。どうしたね」

 夫の声に我を取り戻した妻は、いいえと答え食事に戻った。だがまたすぐに手を止めた。

「ノラは、あの子は今、どうしているでしょうか。もう、ふた月になります」

「インゲ、やめなさい」

 父の厳しい声音を耳にした、父同様に顎ひげを蓄えた青年もまた、ちぎったパンのかけらを口に放り込むや、両手を止め、項垂れた。

「この里を捨て、我らと縁を切った娘はもう、娘でもないし里の女でもない。どこで何をしているかも、我らには関わりの無い事。すべては神の思し召しのままだ。もう、口にするな。いいな、インゲ」

「・・・はい。わかりました、あなた」

 そうして食卓を囲む3人は再び粗末な夕食に戻った。

 と。

 トントン。ムンクさん、いるかね。

 扉が叩かれた。

 いったい、こんな時間に誰だろう。

 妻と目を合わせたムンクは、洗いざらしの古びたナプキンで口を拭うと席を立ってドアに歩み寄った。

「・・・はい」

 ドアを開けた。

「夕食時にすまない」

 背の高い、青白い顔にやはり顎ひげを蓄えた男が立っていた。彼はつば広の黒い帽子を取って突然の訪問を詫びた。

「おお、フォグトさん。どうしたね?」

「悪いが、食事が終わったら組長の家に集まってくれ」

「それはいいが、いったい何事だね」

 ムンクは、フォグトというその男に腕をひかれ外に出た。家人を憚る話であろうか。引かれるまま表に出て背中でドアを閉めた。するとフォグトは、白い顔をいっそう白く蒼褪めさせ、声を落とし、囁いた。

「ノルトヴェイト様が帰って来られたらしい」

「なんだって?」

「我らの守護者、神の代理人であられるノルトヴェイト様がお戻りになったのだ」

 そう言ってフォグトは両手を胸の上で組み首を垂れた。

 ムンクは、フォグトを見送り家に戻った。

「あなた、どうなさって?」

「いや、なんでもない」

 妻にはそう答えた。が、

「ヨハン。最後に銃を使ったのはいつだ。先週か?」

「いいえ。その前の週ですが。それが何か」

 食事を終えていた息子は、突然の来訪者を迎えた父の、これも突然の質問を受けて戸惑った。銃など猟に出るときぐらいしか使わないのに、と。

「明日は町に出るか?」

「特に用はないですが」

「明日の朝、私とお前の銃の手入れをしなさい。予備の弾薬も確認して、不具合や弾薬の不足があれば町で修繕を頼み補充しておきなさい。一丁100発。200は必要だ」

「・・・なにか、あったのですか」

 妻は不安げな面持ちで夫に尋ねた。

「いや、まだわからない。だが、念のため、だ」

 ムンクはそう言って自室に引き上げ、外出のために服装を整えた。整えつつ、

「今から組長の家に行ってくる。会合だ。カンテラを用意してくれ」

 そう、声を張り上げた。

 奇妙な胸騒ぎが彼を襲っていた。

 幼いころ彼の父親から聞いていた、遠い昔に彼の先祖たちに降りかかった災難。その古い昔話がもしかすると再び現実に起こるかもしれない。その不安が急に彼の心を占め始めたのだった。


 

 


 

 翌日。

 雨こそ降らなかったが、重く垂れこめた雲の下、ヤヨイたちは朝早くに宿を出た。

 ゴルトシュミットとその従者は馬車に同乗せず、まるで馬車を守る衛兵のように馬車の先に立って先導しつつ、青い麦畑を突っ切るようにして王都に向かった。

 そして・・・。

「バロネン。御覧なさい」

 馬車の横に並んだ子爵が前を指し示した。窓から首を出すと、街道のはるか東に古めかしい城壁とその中の教会、そして王宮の尖塔が見えて来た。不思議なことに、古代ローマの都に倣って建設された帝都カプトゥ・ムンディーよりも年代的には新しいはずのその様式は、帝都よりもずっと古い、長年の風雨に晒された歴史の風格というものを感じさせた。

「あれがわが王都、オスロホルムです」

 城郭が近づくにつれ、街道は次第に広くなった。農家を、民家を、集落をそこかしこに見ながら近づくと周囲を水堀に囲まれた高い石垣に穿たれた大門を目の前にした。

 馬車は跳ね橋を渡り大門をくぐる。

 ヤヨイはようやくノールの首都、オスロホルムの市街に入った。帝都を出てから丸4日経っていた。


 

 ゴルトシュミットの屋敷は市街を通り抜けた東の港近くにあった。

 市街のひと区画丸ごとの大きな敷地に建つ屋敷に入った。執事や使用人たちに出迎えられたが、彼は皆を下がらせ、エントランスすぐの客間に招いた。

「しばらく、誰も取り次がぬように」

 客間に足を踏み入れるや、ドアを閉めたゴルトシュミットはヤヨイの足元に跪いた。

「ようやくこの時を迎えることが出来、臣は祝着に、感無量にございます」

 と、彼は言った。

「150年の時を経て、臣下ゴルトシュミットは再び足下に侍し奉らん。わが主君、ノルトヴェイト公爵、いにしえのニィ・ヴァーサ朝の血筋を引く高貴なる御方よ」

 アクセルのようなおふざけ風味ではなく、謹厳実直な家臣の心からのキスを、ヤヨイは手の甲に受けた。


 

 もちろん、ヤヨイは、戸惑った。
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