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第二部 歌姫と夢想家

15 「少年探偵団」。そして、ペールの不埒

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 真っ赤な夕焼けを一杯に浴び真っ白な蒸気を盛大に吐きながら、マルセイユ発6両編成の列車は終点駅のナイグンに到着した。

 十数時間をひた走って来た機関車はその巨大な熱量をまだ十分に保っていて周囲の空気を温め揺らめかせていた。引っ張って来た列車からはカーキ色のテュニカの兵士たちが半分、あとは白や緑や黄色ピンクといったカラフルなのが半分。みなぞろぞろとステップを降りて来て俄作りの粗末な駅舎に向かって歩いてゆく。

 まだ熱い機関車が客車と切り離され単独で転車台に向かってゆく。機関車は明日の朝の始発上り列車を引っ張るためにここで向きを変え客車の先頭に繋がれる。

 黒い煙と水蒸気を吐きつつ機関車がゆっくりと移動してゆくと、その陰に潜んでいた2つの頭が顔を出した。

 二人とも同じような年頃、すなわち少年と青年との境目ほどの男の子で、一人は薄い緑のテュニカ。もう一人は浅葱の合わせの上着を帯で締め下は黒い股引の、この地に住む人々と同じチナ服を着ていた。

 テュニカの方が合わせの子のほうに何やら話しかけると、合わせの子が頷き、わかった、もう行けというように顎をしゃくった。テュニカがその場を立ち去ると、チナ服の方は駅舎とは反対の方向に歩き出した。


 

 この長いヤヨイの物語にお付き合いいただいている方々には覚えておられるだろうか。

 先のチナ戦役でナイグンのさらに西の大きな街アルムに降下した空挺部隊を援けた子供たちがいたことを。

 この浅葱のチナ服を着た少年こそ、その時の子供たちの頭目格であったフェイロンだった。

 親無し子だった彼は、戦後他の同じ境遇の子たちと共にアルムの空挺部隊を率いていた大隊長ハーベ少佐ら大隊の士官や下士官の家庭に引き取られ、帝国の住民の資格を得た。もちろん、成年すれば市民権も得られる。帝国の一般の人々と同じで国法に従い徴兵義務を果たすのが条件、ではあったが。

 彼らのうち、ある者はリセに進学し、ある者は軍の幼年学校に入学し、ある者は帝都や周辺の街で様々な職業の親方に弟子入りしてそれぞれ商売人や職人になる道を選んだ。

 フェイロンもまた学問をするかどこかの親方の許に弟子入りするか。身の振り方を悩んでいたところ、ある日見知らぬ金髪の若い男に声を掛けられた。

「折り入ってキミに頼みがあるんだ。どうだろう、僕たちの手伝いをしてくれないかな」

 男は涼し気な顔で流暢なチナ語を話した。

 ぺたしぺたしと草履を鳴らしつつフェイロンが向かっているのは、その男の許だった。

 先の戦役での最大の激戦地となったナイグン橋と川を挟んだ市街地。

 戦災を被った市街には徐々にではあるが住民が戻りはじめ、帝国の援助もあってか復興が始まっていた。

 その市街の北、川を望む台地の上に第十一軍団の連隊駐屯地が出来ていた。

 駐屯地入り口のゲートに歩み寄り、銃を携えた衛兵に話しかけた。

「マーキュリーに」

 それだけ言うと衛兵は黙って左手を振った。通れというわけだ。

 駐屯地の中にはいくつかの建物があり、厩があり、数十台のトラックが駐まっていて夜間の歩哨に出る兵隊や書類挟みを持った将校たちが行きかっていた。いい匂いが漂って来ているのは兵員宿舎で夕食が供されているからだろう。フェイロンはそれらのどこにも寄らずある一つの平屋の建物にまっすぐ歩いて行った。

 ドアをノックした。

「フェイロンです」

 ドアが開いた。

「やあ、ご苦労様」

 白い肌の金髪の中尉の階級章を着けた若い士官が笑顔で出迎えてくれた。

「入れよ。夕飯は食ったか?」

 その金髪の士官に促されるまま、フェイロンはドアの中に入った。

 

 身の振り方をあれこれ悩んでいたころ、もちろん彼の身柄を引き取って養子にしてくれたハーベ少佐にも相談した。

「どんな道に進んでもいいさ。学問が好きならリセ。手に職をつけたいならどこかの親方に弟子入りしたっていい。軍隊に入りたいなら幼年学校という手もある。いますぐ決めなくてもいい。しばらく帝都を見て回っていろんな職を体験してみてからでもいい」

 親無し子のフェイロンに、少佐は優しく諭してくれた。

 だが、元々はアルムの街で徒党を組み盗みを働いたりして暮らしていた悪ガキたちだし、フェイロンはその頭目格だった。腰を落ち着けて勉強したり真摯に技を身に着ける修行をするのが苦手だったし、気が重かった。

 そんなある日、少佐が一人の金髪の士官を連れて来た。

「やあ、キミがフェイロンだね。アルムでのキミたちの活躍は聞いたよ。身の振り方を悩んでいるなら、どうだろう、僕たちの手伝いをしてくれないかな」

 軍隊みたいなキュークツなところならまっぴらごめんだ。

 そう思ったので警戒していたら、

「僕はシャルル。ヤヨイの友達だよ」

 その金髪の士官は言った。

 その一言で、フェイロンは彼の話を聞く気になった。

 あのカラテの遣い手の女戦士。その雄姿が未だに彼の心に大きく残っていたのだ。

 聞けば面白そうな仕事だ。主に旧チナ領のミンの土地と帝都でリヨン中尉の指示する人物を監視尾行するというものだった。

「だけど、決して簡単じゃないよ。常に危険も伴う。それでもいいなら、手伝って欲しい」

 軍隊はイヤだが真面目に働くのも勉強ももっとイヤだった。シャルルという士官の話は彼にとってまさに渡りに船だった。

 話を聞いたフェイロンが声をかけると、かつてアルムの街を闊歩していた悪ガキ団の内4人ほどが彼に同調して仲間に加わった。

 こうしてフェイロンたち「悪ガキ団」は、ウリル機関の協力者として活動をすることになったわけだ。


 

 シャルル・リヨン中尉が取り寄せてくれた夕食を平らげつつ、フェイロンはここまでの成果を報告した。

「最初は一人だった。でも途中から黒い髪の若い男が同じ席に座ってしばらく話をしてた。それから男はアイホーで降りた。レイは終点(ここ)まで。彼女にはヨウランが張り付いてる。恐らくいつものアジトだと思うけどね」

「若い男? チナ人か?」

「いや、帝国人にも見えたけど、どっか帝国人っぽくなかったなあ・・・」

「というと? どういうところがそう見えたんだ?」

「なんかさあ、・・・こう、暗いんだよ。マジメそうでさ」

「というとさしずめ帝国人はみんな『明るいバカ』に見えるのか、お前の目には」

「ああ・・・、そういうことに、なっちゃうのかあ・・・」

 悪びれもせずに焼き上げた太いビュルストをカリッと齧り、モグモグしながら呟くフェイロン。間接的にではあるが面と向かって「明るいバカ」と言われた帝国人の一人であるリヨンは苦笑せざるを得ない。

「・・・まあ、いい。だが、ふ~む・・・。

 で、その男は? それからどうした?」

「今コンイェンとグンロンが尾行けてる。もしかすると午後の上り列車で帝国に帰ったかもね。もしそうだったらマルセイユ辺りから電信を寄越すと思うよ」

 と、フェイロンは答えた。


 

 

 チナ戦役後。

 旧ミンの豪族の配下だった者たちは一時は奴隷となって第三軍の預かりとなった。が、政府の方針でそれら戦時奴隷の解放が宣言されるや、皆こぞって帝国に帰順した。帝国と皇帝に忠誠を誓い、帝国の下で生きることを選んだのだ。それは占領地の治安を維持するための宣撫工作の一環であった。

 解放された奴隷たちは市民権を得た。その者達のほとんどが旧チナ領であり豪族ミンの所領だった土地に残り、生業を得て静かに暮らしていた。彼らはみな一人残らず住民台帳に記載され、徴税と兵役の義務に服していた。

 だが、豪族ミンの主だった幹部や主家の係累たちの内、住民台帳にも戦死者名簿にも載っていない者達が少なからずいた。

 リヨンの任務はそれら不明者の捜索探索と監視だった。

 もし彼らが組織的に旧ミンの勢力復活を図ったり、復讐のため帝国内に反乱を企図していたりすれば、大事になる前に芽のうちに摘み取り摘発せねばならない。

 目下、彼が追っているのは旧ミンの当主の娘であるミン・レイだった。

 戦艦ミカサの強奪を企てヤヨイに右手を切り落とされ、恐らくはアイホーやナイグンの防衛戦に加担し、それら拠点の陥落寸前に脱出し地下に潜ったであろう彼女。

 帝都とこの旧チナ領に彼女とその手下たちのアジトを構えていることまでは掴んでいて、そこに旧ミンの手下たちを集め、住まわせている気配は捉えていた。そうしたアジトに憲兵隊を差し向けて身柄を捕えることはできる。だが、捕えたところで、

「登録するのを忘れていた」

 そう言われればそれまで。帝国は法治国家だから未だ帝国に対し有害な企てをなしてもいない者を長期に渡って拘束などできない。

 誰彼をそそのかして反国家的行動を為すところを現行犯逮捕するか尾行を繰り返して証拠を積み上げるかしかないのである。


 

 リヨン中尉は食欲旺盛なフェイロンを見つめつつ、しばし思案した。

 未だ漠然としているが、どうにも腑に落ちない。もし、その男がレイの仲間で単なる情報交換が目的なら一緒に居た時間が長すぎる、と。

 リヨンが初めて彼女を捕捉し彼女のアジトを突き止めてからひと月が経っていた。これまでは彼女を「泳がせて」いたわけだが、彼女は帝都と旧ミンのアジトの間を行き来するだけで、これといった人物と接触することはなかったのである。

 明らかに彼女は慎重に振舞っていた。用心して来たと言える。その彼女にして、今回の謎の男との密会と言える出来事は異変と言えた。

 何かがある。

「フェイロン。今からクィリナリスに電話をする。その黒髪の男の人相と風体を口で説明できるか?」

 フェイロンの仲間がその男を見失った場合に備えて南駅で張り込みをしてもらう。午後の上り列車で帝都に向かったのなら最短でも帝都には明日の朝着く。今から手配しておけば十分に間に合う。

「ああ、いいよ。あの男の暗い顔はハッキリ覚えてる」

 お湯で割ったワインのカップを片手に、フェイロンは頷いた。

「よし! 頼もしいぞ、フェイロン」

 早速机上の電話を取ってハンドルをくるくる回しながら、リヨンはこのチナ人の少年を褒めた。

「小遣い貰ってるからな。そのていどは働かなくちゃ」


 


 


 

 マルセイユからナイグンまでの鉄路沿いには、かつてのチナとの国境を超えると順に、アイエン、ゾマ、アイホーと大きな街がある。南に突き出た半島の付け根の街ゾマとナイグンとを結ぶ直線を正三角形の直角を作る一辺だとすれば、もう一辺の先がこの一帯を治めるミン一族の館のある村落だった。

 ミン一族瓦解後もその村落はあった。

 一族が居館にしていた館は一族の手のものによって火が掛けられて消失していたが、一時は帝国の迫害を恐れて館から去っていた女たちが戻り、村落に棲みついていたのだった。

 だが、帝国人たちは自分たちとは違った。復讐に目が眩んで乱暴狼藉を働くような者達ではなかった。むしろ彼らは、未来永劫帝国と皇帝に対し反旗を翻さないと約束しさえすれば、彼ら彼女らの命を助けてくれたばかりか援助の手すら差し伸べてくれたのだった。

 陽が落ちてしばらくして、ナイグン駅から騎馬で帰還したレイはヒジャーブで頭を覆った変装のまま村落に入った。

 部落の家々にはカンテラの明かりが灯り夕餉の炊爨の煙が上がっているのがわかった。

 その明かりと三日月の照らすだけの暗い道を並足で行かせ、他の家々と変わらない、目立たない一軒の前で馬を降り、戸を叩いた。

「我だ」

 古びた木戸がガラッと開いた。

「お帰りなさいませ、お頭」

 出迎えたのは先のチナ戦役で最後までナイグンを占拠した帝国の空挺部隊を攻め続けた指揮官、ガンだった。

「今戻った」

 レイは彼女より若干若い、かつての豪族ミンの若き幹部に言った。

「夕餉の支度も出来ておりますが、先に旅塵を落とされますか?」

「うむ。そうしよう」

 レイはそこでやっとヒジャーブを脱ぎ顔を晒した。

 ガンは彼よりもだいぶ若い手下に頷き、湯殿の湯加減を見に行かせた。被り物を脱ぎ去った彼の女頭はその顔にいささか疲れが見えていた。

 湯殿に向かいつつ、レイは尋ねた。

「諸事、変わりないか」

「いつものごとくでございます」

 言いながら表に出、戸口に繋がれた馬を厩に入れ水と草を与え、家に戻った。すでに湯殿からは水音が聞こえ、やがて静かになった。

「ガン、いるか?」

 湯殿から女首領の声が上がった。ガンは湯殿の戸口に侍り膝をついた。

「おそばに」

「他人払いをして窓の下に」

 これは、何かあったか。

 そう思いつつ、下男たちを下がらせ、自らは表に出、湯殿の窓の下で焚口に薪をくべながら、頭の上の湯気を吐き出す連子窓を見上げた。

「お嬢、湯加減はいかがでございますか」

 一応、尋ねた。だが湯殿の中からは、湯加減とは別の言葉が降りて来た。

「もう一度訊くが、変わったことはなかったのだな? 例えば、怪しげな者が部落の周りをうろついていたとか・・・」

「我の知る限り、我が聞く限り、平穏そのものでございました。この十日ほどは帝国の役人も来ませんでしたし」

「そうか、わかった。ご苦労だった。湯加減は、ちょうどよい」

「はっ」

 

 ガンの草履の去ってゆく音が聞こえ、レイはざぶっざぶっと顔に湯を浴びせた。

 そして、列車で会ったあの黒い髪のノールの男の言葉を想い出した。

「私は貴女と志を共にするものです。共闘しませんか。我らに共通の敵、帝国に対して」

 レイは戦慄と共にしばし、その黒髪の男と対峙した。

「ノールの方と言われたが、貴殿は何か大きな勘違いをしているようだ。我はただ、かつての仲間の様子を見て回っているだけだ」

「貴女が西で立つ。そして私が東で立つ。共に立てばいかに帝国が巨大で強大だと言え、生半には対応できますまい。

 しかも、私には帝国の数個軍団を相手にしても互角に戦えるだけの戦力もある。遅くともこの半年、いや、3、4か月もすれば、東に向かって進軍できる手配を整えられる」

 これは、危険だ!

 レイは本能的に悟った。この目の前のノールの男は、危険すぎる。

 丁度列車はアイホーの駅に差し掛かり速度を落としつつあった。

 男は席を立った。

「願わくばご記憶いただきたい。貴女は決して独りではない。それだけは、ご記憶いただきたいのです」

 そして、彼は消えた。


 

 ぶるるるっ!

 湯は十分に熱いのに、レイはそこはかとない悪寒を感じて震えた。

 やはり、あの男は危険だ。

 彼は何もわかっていない、と。

 帝国という巨大な怪物に正面から戦いを挑んでも無駄だ。

 もし、帝国を倒す、あるいは弱体化させることが出来るとすれば、内部から腐らせるの一手だ、と。

 それまでの帝国との経緯の中で、レイはすでにそう結論付けていた。その見解は今も微動だにしない。

 かつてミンの支配の許にいた者達にしても、予想外の帝国の温情に触れ、すぐには立つ気概はないだろう。

 帝国が内部から腐り、弱体化して対外的な対応が困難なほどに国内が混乱するとき。

 もし我が立つとすれば、それは、その時だ。

 だから、それまでは隠忍自重あるのみだ。雌伏して英気を養い、密かに帝国の内部に腐敗の種を蒔く。その一手あるのみだ、と。

 あのノールの男は、危険だ。ガンにも、シャオピンにも、軽々しく関わりなど持たぬよう、重々言い聞かせて置かねば・・・。

 しかし、気にはなる。

 あの男は一体どうやって数個軍団に対する戦力とやらを用意するのだろうか。単なる口から出まかせとは思えない。

 まあ、いい。

 とりあえずは、高みの見物に徹し、足元をすくわれることが無いようにせねば。

 そう、心を決めると、レイは再び湯を被り、湯気の上がる湯船に深く身を沈め、疲れを癒した。


 


 


 

 あれから3日経ち、4日が経った。

 まだチナの、旧ミンの女首領から連絡はなかった。

 毎日、朝と夕方に掲示板を見に行った。アニキから何か連絡があるかと思ったのだ。だが、

「スブッラの『ひまわり』亭にいます。P」

 繁華街のはずれにある伝言板に自分の泊っているB&B(ベッドアンドブレックファースト。朝食だけ付いた簡易宿)の名を書いた。が、その伝言のそばには何も書き置きはなかった。

 朝になれば全ての伝言は消される。

 仕方がない。明日の朝、また来よう。

 そして、何をするでも、どこへ行く宛てもなく、帝都の盛り場をぶらつき始めた。

 帝都カプトゥ・ムンディーの歓楽街は夕刻を境にそこを歩く人々の顔触れが変わる。日用品や食材を買い求める平民や金持ちの屋敷の奴隷たちといった人々が、酒と食を愉しみ一時の快楽を得るために集って来た、主に若い男女へと。

 ノールならまだ夜は長袖の手放せない季節。盛り場と言ってもスタウト(黒ビール)や酒精度の高いジンを立ち飲みするスタンドバーぐらいだ。

 だがここ帝国では、男も女もみな薄い生地のテュニカから伸びた素肌を大胆に晒し、声高に笑ったり語り合ったりしながら盛り場を闊歩していた。

 酒の種類も豊富だ。東部チナ産の最高級のブドウから醸されたワインやブランデー。北の穀倉地帯で作られるビールやウィスキー。それに元は北の野蛮人で帝国に連れて来られて奴隷となっていた者達が解放されて市民となりふるさとの味として売り出したウォトカという火酒。今はドンと国名を変えた西の国から輸入されるコウリャン酒等々。それらを商い、供する酒場もノールの首都オスロホルムとは比べ物にならないほど多種多様で数も多い。

 すれ違う帝国人たちは皆、楽しそうだ。

「いいなあ・・・」

 しがらみも任務もなければ、ペールもまたその輪の中に加わって帝都の夜を楽しめたに違いない。

 店の外に出したテーブルに向かい合い、特大のビヤジョッキを傾ける人々や愛を語り合う男女の睦まじい姿を横目に、彼はただひたすら焦燥感を耐えていた。

 脅かしただけだとは言われたが、あのチナ人の女首領のアジトを尋ねた時は一時死も覚悟した。とりあえずは顔も見た。だが、あのチナ人たちがアニキとの会見に応ずるのかどうかはまだわからない。

 もし手ぶらで帰れば今度はどつかれるだけでは済まないだろうな。

 時折歓声を上げて盛り上がる帝国人の酔漢たちを他所に顔を伏せて歓楽の街を彷徨うペールの心は重かった。

 このまま宿に帰ってもまた昨夜と同じで眠れぬ夜が待っているだけだ。かと言っていつ連絡があるかもわからない。泥酔するほどには飲めない。気持ちはそれを欲していたけれど。

 さして食欲もわかない。せめて落ち着いたカウンターのある飲み屋で帝国産のウィスキーをひっかけて帰るか、ワインバーでチーズでも。

 そんなことを思いながらブラブラと賑やかな通りをトボトボ歩いていると、品の良いチナ産ワインの店が彼の目を惹き、その隣にこじんまりしたワインバーがあった。ノールと違い高価なガラスなどは使っていない窓からは落ち着いた店内が見えた。

 胸の部分だけのスウィングドアを押して店に入りカウンターに座った。

 カウンターの向こうにやって来た店員と思しき気配に、

「なんでもいい。テキトーに赤ワインとチーズを」

 そう言って今歩いて来た通りに目をやった。すると、

「あれ、ピーターじゃないの!」

 聞き覚えのあるコロコロ転がるような明るい声に顔を上げた。

 ニ三日前に馬車で乗り合わせた徴兵明けの女が、日焼けした深い胸の谷間を見せつけるような、軍服より肉感的で扇情的なテュニカ姿でカウンターの向こうに立っていた。

 ペールはおぼろげながら女の名前を想い出した。

 たしか、リサといったか・・・。

 馬車の中で僅かに触れた彼女の、軍隊生活で鍛え上げられた引き締まった、それでいて柔らかな肌の感触、そして彼女から漂う甘い身体の匂いが蘇った。それは不思議にペールの重い心と憂鬱な気分とを蕩かし、身体の芯に熱い塊を膨らませていった。


 
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