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第二部 歌姫と夢想家

13 チナの女首領

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 背中を刺す鋭いものの感触を受けとっさに振り向こうとしたペールは、こう窘められた。

「振り向くな。そのまま歩け。さもないと心臓に穴が開くぞ」

 背後から聞こえて来た男の声はチナ訛りの帝国語だった。

 刃物らしきものを持ったヤツとは違う手が素早くペールの身体に触れた。武器を持っていないか調べているのだろう。

 それから、男たちの言うがまま、右だ、左だ、と雑踏を抜けスブッラを出た。

 しばらく歩いて、繁華街に隣り合わせたエスクィリーノの丘に登る手前の庶民の住宅密集地に入った。

 馬車は通れない。人の曳く貨車がやっと通れるほどの狭い路地の彼方には高級住宅地を頂いた丘の灯りが見えた。その路地の並びにある一軒の家に連れ込まれた。

 帝都ではごくありふれた二階建ての集合住宅。貴族の家ならば普通にある噴水の噴き出るアトリウムの代わりに中庭があり、それを取り囲むようにしていくつかの部屋がある。その部屋の一つひとつが住人たちの家なのだ。長屋ともいう。

 ペールは、その中庭の真ん中に引き据えられた。

 すると周囲の部屋から続々と男たちが湧いて出て来てペールを取り囲んだ。みんな、ノールではほとんど見ることのない、東洋人だ。

 彼らが誰なのか、察しは付いていた。あのチナ人街の骨董屋に頼んでいた言伝がやっと伝わったのだ。やがて彼らの一人が発した言葉で、ペールは自分の推測が当たったことを知った。

「お前か。我らのお頭のことをコソコソ嗅ぎまわっている奴は」

 男たちの一人がそう言った。

「そうだ。あんたたちのお頭に会いたい」

「会ってどうする」

「会った時に言う」

「バカかお前は!」

 彼の周りを取り囲んだ一人がペールの背中を蹴った。

「ぐはっ!」

「理由も言わずに人に会いたいなんて、しかもどこの馬の骨かもわからんようなヤツをそう簡単に会わせると思うか」

 正面の一番年上らしき男が吐き捨てるように言い放ったが、ペールはめげなかった。

「オレはノールの者だ。ノールから来た」

「何だって? ノール?」

「そうだ」

 ペールは言った。

「あんたたちのお頭に伝えてくれ。帝国を倒すのがあんたたちの目的なんだろう、と」

 もし連中に捕まったらそう言え。

 ペールがチナ人たちに、たぶんミン一族の残党たちに捕まっても落ち着いていられたのは、アニキからそう言えと指示されていたからだ。

 だから、ここまでは想定内。

 だけど、ここから先は。

 ペールは目の前の細い眼の東洋人としばし睨み合った。

 と。

 中庭の片隅のドアが開いた。

 ペールを取り囲んだ連中が一斉に振り向き、そして片膝ついて礼をとった。

 やはり東洋人の、女だ。

 黒髪をキリリと結い上げた白人にはないアルカイックな相貌。美人だ。東洋人の歳はわかりにくいが20代の後半から30代の前半ぐらいだろうか。帝国の標準的なテュニカよりもちょっと裾丈の長めな紫の服。彼女からは今まで関わった女たちとも、もちろん、ノラとも違う、妖艶な大人の女の香りがした。

 女がペールの前に立った。

「ノールから来た、といったな」

 低い、腹の底に響く声がセクシーに感じる。彼女はなぜか肘までの長い手袋をしていた。

「試みに訊いてみよう。

 国境はどうやって超えた」

 返事が遅れた。彼女に見惚れていたせいだ。

「帝国語がわかるか? 国境はどうやって超えたと訊いている」

 ハッとして、答えた。

「普通に、歩いて」

「舟ではないのか」

「山を、越えて」

「ノールの国境管理は厳しいと聞く。帝国への入国はともかく、よく出国できたな」

「関所は通ってない。幹道を逸れて山の中を歩いて超えた」

「とすると、密入国か。憲兵隊に見つかれば逮捕されるぞ」

「見つからなければいい」

「ほお・・・」

 女は感嘆の吐息を漏らし、ペールの前に片膝をついた。左手で彼の顎をつまんで揚げた。

「だが、知っていたか?

 帝国人を殺せば問題になる。憲兵隊の捜査の手が及ぶかもしれん。だが、密入国となれば話は別だ。明日の朝、川にお前の死体が浮いていても誰も何も追求しない。

 この隠れ家を知られたからには、タダで放免するわけには行かない。覚悟の上か?」

 そう言って顔をグッと寄せて来た。

 誰だって殺されるのはイヤだ。だが、この女はたぶん、試しているのだ。帝国を倒すという目的を持った一団。その首領ともなれば、おいそれと意中を開くわけにも行かないだろう。でも、ドキドキしてしまうのを抑えられなかった。

「おぬし、なかなかいい面魂をしているな。度胸もある」

 女はペールの顎から手を離した。

「で、わたしに何の用だ」

「オレのアニキがあんたに会いたがっている」

「何のために」

「共に立って帝国を倒そう、共闘しよう、と」

 女はしばらくじっとペールの顔を見つめていたが、やがて立ち上がり腹を抱えて笑い出した。

「おい、お前たち聞いたか? 我らは帝国を倒す野望を抱いているらしい」

 手下の男たちもみんな笑った。

「おい、ノールの小僧。わざわざ密入国してまでわたしに会いに来た。その度胸は見上げたものだが、どこの誰から聞いたか知らんが、お前は何か大きな勘違いをしているようだな。さっきは脅かして悪かったが、我らはそんな人を殺めたりするような物騒な者達ではないぞ。

 たしかに我らは先のチナ戦役で故郷を追われた者のあつまりだ。だが、なんとかこの帝国で食って行こうと仕事や住処を失くした者達に仕事を与えるためにここに集っているだけだ。帝国本国の方がチナ、あ、今は『ドン』だったな。ドンよりもここの方が仕事にありつけるのだ」

 そう言ってペールの反応を見ている。

 ウソだ、とは思ったが口には出さなかった。それもあらかじめアニキから聞いていたからだ。

 チナのミンの残党は打倒帝国の意思を隠そうとするに違いない、と。

 ともかくも、これでペールの任は終わった。後は彼女らの反応次第。この場で返事を貰うつもりもない。アニキとの面会の段取りもその後のことだ。

「誰だか知らんが、そのアニキとやらに伝えるがいい。

 何をする気かは知らんが、話を持ってゆく先を間違えているようだ、と」

 その女が顎をしゃくると手下の一人が通りに出るドアを開けた。

「わかったらさっさと出て行け。

 あ、ちなみにお前にその見当違いの話をした『アニキ』とやらの名は何というのだ」

「知らない」

 ペールは立ち上がりながら答えた。

 すると、女はまた笑った。

「あっはっはっは。呆れたものだな。お前は名も知らない者の命令に従ってこんなところまでノコノコ来たのか」

「でも、ノールや帝国のその筋では『もぐら』と呼ばれている男だ」

 そう言ってペールは手下たちの輪を抜け通りに出るドアに向かった。ノブに手を掛け、振り向いた。

「オレの名前はピーター。返事を貰えるまで帝都にとどまる。泊まり先はまだ決まっていないが、フォルムの前の掲示板に書いておく。いい返事を、待っている」

 そして、通りに出た。

 

 

 ノール人の小僧が通りに出て行くと、ミン・レイは最も年嵩の手下を呼びつけた。

「シャオピン!」

「はっ!」

「迂闊だぞ。部外者を安易にアジトに入れるな」

「はい、申し訳ありません」

 シャオピンと呼ばれた中年の男はノール人を連れ込んだ若い衆を睨みつけつつ頭を下げた。

「指導しておきます」

「もう一つ。すぐにあの小僧の後を尾行けさせろ。・・・気になる」

「かしこまりました」

 シャオピンが手下の一人に「行け!」とでもいうように顎をしゃくった。一人が通りに出ていった。

「我らの悲願。『打倒帝国』がどうしてはるかノールにまで漏れ聞こえたのか。

 まあ、それはいいとしても大願成就の日までは隠忍自重あるのみだ。お前たちも改めてしかと肝に命じよ」

 手下たちは無言で頭を下げた。女首領の部下の統率は完璧だった。

「シャオピン、我はこれから一度ミンに戻る。別の隠れ家を探しておけ。ここは知られてしまったからな」


 


 

 先のチナ戦役終結後。

 帝国は、切り取った旧チナ領でありチナの豪族ミンの土地に驚くべき速さで鉄道を敷いた。

 半年前のチナ戦役西部戦線。

 その侵攻の主役となった南方軍である第三軍の、戦車を中核とした最新鋭の機甲部隊が進撃した街道。鉄路はその街道に沿って敷設された。

 帝国の西の港町マルセイユから発し、終点のナイグンまで。総延長は約500キロ。

 途中泥濘地もあり、丘陵地帯もあり、川幅の広い川に橋を掛けねばならない難工事がいくつもあったが、帝国は侵攻を担当した第三軍の全軍数万人の兵士を総動員し、つい先月全線開通を迎えたばかりだった。

 さらに驚くべきは近々マルセイユを経由しない、帝都からの直行線も建設されるという。そんな噂をレイは聞いていた。

 彼女は車窓の鎧戸を上げた。

 ヒジャーブで覆った顔を窓外を流れる田園風景に向けた。コウリャン畑が青々と風に畝る様が延々と続く豊かな農村地帯がそこにあった。

 そこはかつて彼女の一族が支配していた土地であった。

 西に向かうミン・レイは豪族ミンの娘であった。世が世であれば一族の頂点に君臨し、もしかすると今は旧王朝となってしまったチナに続く王朝の最初の女王となっていたかもしれない身だった。

 もしあの時こうしていれば・・・。

 もしあの時それをしなければ・・・。

 古今東西老若男女貧富を問わず今に不満を抱え過去に拘る者はいる。その多くが抱く過去の自らの行いへの悔恨と囚われ。彼女もまたそれら囚われの例外ではなかった。戦後しばらくはそうした種々の悔恨の中で煩悶する自分を持て余す日々を耐えねばならなかった。

 もし、チナ本国の言うなりに帝国の最新鋭最大の軍艦を拿捕しようなどという無謀を犯さず、帝国の宰相との間に結んだ和議の覚書を承認できていたら・・・。

 今ごろ傀儡ではあっても旧チナの遺領を支配していたのは同じ豪族であったドンではなく、ミンの自分かもしれなかった。


 

 先の戦役。レイの一族はいくさに敗れ、土地を失い、瓦解した。

 だが帝国は憎しみをぶつけるにはあまりにも間口が広く奥も広く深かった。

 百年以上前からチナと帝国は何度か干戈を交えた。その度に土地を奪われ続け、かつてチナの領土だった帝国の西は「東部チナ郡」と呼ばれ、帝国人たちが大挙して入植してきて主だった街には「ボルドー」だとか「マルセイユ」などといった横文字の名前が冠せられ、すっかり帝国の土地として定着した。

 帝国人は恨みとか憎しみという感情よりも混じり合い溶け合う方を選ぶ種族だった。そこに棲んでいたチナ人もやがて帝国人の一員となり、目端の利く者は帝都に上って商売で財を成し、ついには帝国一格式の高いホテルを帝都に構えるほどに成功したり、爵位を得て貴族の一員に名を連ねる者も出ているほどだ。

 敗者をも取り込み自らに融和させる寛容。能力さえあれば敗者をも引き立て栄達させ得る懐の深さ。

 これでは、帝国に敗れた者は帝国に感謝しこそすれ恨むこともできない。帝国に惹きつけられる者こそあれ、帝国に対する憎しみを保つのは困難なほどだ。

 だが。

 もし帝国さえいなかったら・・・。

 もう何度も繰り返した自問。

 それのみが、今のレイを支えるよすがだった。

「『武闘派の雄』であったからだ」

 レイは、独り言ちた。車窓に頬杖をつき流れこむ田園の風に頬をなぶらせつつ、手袋の下の、帝国の女エージェントに切り落とされた右手の擬手をしばし思った。

 今は亡きチナ随一の武闘派豪族、ミン。

 その生き残りであることが、今のレイを生かしていた。

 長い物には巻かれろ、という。帝国の懐に身を委ね、別の生き方をとる方が幸せだということぐらいはレイにもわかる。

 だが、唯唯諾々帝国のしとねに安住するはその強すぎる矜持が、血刀を振り回して未来を切り拓いて来たミンの誇りが、それを許さない。

 かつてミンの許で血をたぎらせていた部下たちもまた、そんな武闘派の血をひくレイを慕って集ってきている。彼らも、可愛い。

 故にレイは反抗の意思を秘め、雌伏の時を耐えていた。

 

 ふいに向かいの席に男が座った。

「失礼」

 短い黒髪。真っ黒な深淵のような人を惹きつけて離さない、黒い瞳。帝国に語り伝えられているギリシア神話の、見た者を石にするというメデューサのような恐ろしさを秘めた目がレイを捉えた。

「ミン・レイ」

 と、男は言った。

 とっさに自分が丸腰であることを思った。

 だが、ここはもう帝国だ。それにいくさが終わって半年経っている。再び瞬時に沸騰し始めようとする血を宥め、そして得体の知れない相手を前に、レイは沈黙した。

「昨日は、私の部下が失礼をしました」

 と、男は言った。

 この男の経緯や背景はわからぬ。だが、危険だ。彼女の内なる警報が鳴った。

「申し訳ありませんが、何を仰っておられますか? もしかして、人を間違えて・・・」

 ヒジャーブで覆った顔をさらに隠し俯かせたが、男はわずかに微笑を湛え右手を差し出してきた。

「私は『もぐら』。握手しましょう。手袋のままで結構です。擬手では外すのが大変でしょうしね」

 背中に冷たい汗が流れた。

「・・・なぜ我を知っている」

 レイは尋ねた。

「失礼でしたが手下の後を尾行け、あのアジトから出てくる貴女を尾行けました」

 男は答えた。

「手下が申し上げたと思いますが、私は貴女と志を共にするものです。共闘しませんか。我らに共通の敵、帝国に対して」

 レイは戦慄と共にしばし、その黒髪の男と対峙した。
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