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第二部 歌姫と夢想家
10 出発
しおりを挟むノールの首都でゴルトシュミット子爵が「衆目を一身に集める美女」と謳いあげたその当人は、帝都の7つの丘の一つ、チュリオにある潜伏先の部屋で日がな一日机に向かい、ノール語の習得と新しい「伝説」の丸暗記に務め、古い手紙をテキストに羽ペンをインク壺に浸しては署名の練習をしていた。
午後になると不愛想なノールの男がやって来る。
挨拶もそこそこ、彼は無遠慮にヤヨイの筆跡を覗き込み手紙の筆跡と見比べて、
「ふむ・・・。まあまあですな」
不遜な態度が鼻につく。
「出発までにこの手蹟を完璧にしてください。帝国では指輪が本人確認の『印鑑』となりますが、ノールでは筆跡が同じ意味を持つのです。ノルトヴェイト一族代々のそのクセを確実に自分のものにしてください」
名を名乗ってくれ、手あわせもしてやや打ち解けたと思ったのに。オスカルは再び最初のころの不愛想で厳格な教師に戻ってしまっていた。
だが、こうも毎日自習と筋トレばかり続くと気が滅入ってくる。
目のまわりの、かりそめの骨格。オスカルと同じくらいに不愛想なメイクアップアーティストが施した施術は定着した。メイクもバッチリ。自分でできるようになった。
外見は「衆目を一身に集める美女」になれた。自分でメイクしておきながら鏡の中の自分の顔に惚れてしまいそうになるほどに美しい。150年前にノールから姿を消し帝国に亡命したノルトヴェイト一族の血をひく美しい令嬢がそこにいた。
だがもちろん中身はそのままである。
グリルで炭火焼した肉汁滴るヴュルストにかぶりつき、スブッラの飲み屋で3パイント(約1.5リットル)のジョッキをグビグビ一気飲みしたい!
ワイルドで大雑把な女のままなのである。
ああ。
返すがえすも、学生時代やあの落下傘連隊の日々が、恋しいなあ・・・。
そんなふうに鏡の中の美女に愚痴を垂れることが増えていた。
「入国には首都直行の海路ではなく陸路を取ります。港を使うと目立つのです。余計な耳目を引きたくありませんからね。ノールの国境のイミグレーションは厳しいです。ですが敢えてそこを通っていただきます」
オスカルはさも涼しげにそう言った。
完全に他人ごとだと思ってるな。
そう思ったが、口には出さなかった。
「何か、疑問でも?」
「いいえ、別に」
抑えてはいるがストレスが溜まり過ぎてつい口調がキツくなるのが否めない。
「・・・そうですか」
ヤヨイの憤懣をアッサリスルーして、オスカルはまた新たなノートを取り出した。
「では、イミグレーションの問答練習をします。
すでにご承知いただいています通り、ノールはキリスト教国です。それを踏まえた上で受け答えしてください。私が入国管理官です。言うまでもありませんが、もちろん全てノール語ですよ。
では行きます」
オスカルは、うほん、と咳払いを一つして不愛想な上に奇妙な真面目くさった顔をした。そして、始めた。
「Frue! hva heter du?(奥様。貴女のお名前は?)」
ヤヨイは付け焼刃のノール語で答えた。
「(バロネン・イングリッド・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒ、です)」
「(ノールへは観光で? それとも商用ですか、バロネン)」
「(旅行ですが、滞在が少し長引くかもしれません)」
「(というと、どのくらいですか? )」
「(ひと月か、ふた月ほどになるかと思います)」
「(滞在期間中の宿泊先はもうお決まりで?)」
「(オスロホルムのゴルトシュミット子爵のお屋敷に。これが招待状です)」
ヤヨイは傍らにバッグがあるつもりでそこから招待状を出す、フリをした。
「(貴女の宗教は?)」
「(プロテスタントです)」
「(恐れ入りますが、洗礼名は?)」
「(『マリーア』です)」
「(『ノルトヴェイト』が家門名ですな。ふむ、よろしいでしょう。
ではノールご滞在中はファーストネームと家門名の間に洗礼名を名乗られるのが願わしゅうあります)」
「え、そんなことまで要求されるんですか?」
つい素に戻ってしまい、帝国語で尋ねた。
「されます」
と、オスカルもまた帝国語で応えた。
「外交関係の使節を除いて異教徒の入国は認められないからです。あくまでも建前上、ですがね。海路首都に直接上陸する場合はその限りではないんです。貴国の商人たちや輸送船の乗組員たちはほとんどフリーパスで上陸していますからね。それに・・・」
「それに?」
「むしろ『敬虔なキリスト教徒であり保守的な貴族』を演じることがあなたのミッションの一部なのです」
と、オスカルは言った。
「帝国との国境に勤務する入国管理官は中央の役人です。そのイミグレーションの厳しさを嫌って陸路国境を超える者は日に一人か二人程度しかいません。勢い、貴女のことは役人たちに強く印象されることでしょう。
役人は一週交替で中央に戻ります。戻れば貴女のことを上司や同僚にこう話すでしょう。
『あのノルトヴェイト一族の血をひくプロテスタントの絶世の美女が帝国から帰って来た!』とね。
役人たちの中には現在の王家に批判的な、さらに言えば今は亡き旧王朝、先の王家にノスタルジーを感じているものが少なくないのです。
ノルトヴェイト一族の歴史を学んだ貴女なら、もう説明の必要はないでしょう。貴女が扮するノルトヴェイト一族こそ、先の旧王朝に繋がる血筋なのです。そしてそれが、貴女に陸路で国境を越えていただく、一番の理由なのです。
役人たちがもろ手を挙げて貴女を歓迎すれば、現皇太后や皇太后を篭絡して国政を壟断するマレンキー一派は面白かろうはずがありません。必ず何か動きを見せるはずです。
同時に、例の『もぐら』も、巣穴から這い出して動き出すでしょう。現王朝を援けて貴女を排除しようとするか、それともこの機会に現王朝を排除して新たな政府を作り出そうと武力蜂起に着手するか・・・。
いずれを取るのかはまだ、我々にもわかりません。ですが、そこが、我々の狙い、なのです。『もぐら』は地面の上に顔を出さねば叩けませんから」
「ということは、陸路国境を超えるのはさしずめデモンストレーション、示威行為のようなものなのですね」
「のようなもの、ではなく、デモンストレーションそのものなのです」
「『もぐら』を誘き出すため」
「そういうことです」
厳しい教師とようやく一致点を見出し、ヤヨイとオスカルは互いに頷きあった。
そして・・・。
ようやくヤヨイの出発の日が近づいた。
オスカルに指示され、スブッラの例のヘアメイクアップアーティストの店を訪れた。
機密保持のためだろう。ヤヨイのケアをしてくれたのはあの不愛想なスタイリスト一人だけ。しかも人目につかぬよう裏口から入って店の奥の狭い個室に案内され、寝そべるような椅子に座らせられてまずは髪を金髪に染めた。染めたというよりは脱色か?
「よくお似合いですよ」
不愛想氏は取ってつけたような世辞を言った。
そして、最後に。
「口を開けてください」
と言われた。
「奥歯の一部を削ってこれを仕込みますので」
不愛想氏が銀色の小さなトレーに載ったゴマ粒よりは大きいくらいの、小さな白い玉を示した。
「・・・なんですか、それ」
「毒薬です」
アッサリと、彼は言った。
「コブラの神経毒を改良した即効性、致死性の猛毒です。ご使用になられる場合は何か硬いもの、小石でも骨でもなんでも構いません。右側の奥歯で噛み砕いてください。カプセルが割れ、中の毒薬が流れ出します。30秒ほどで効果が現れます」
ヤヨイが固まっていると口調も変えずに彼は続けた。
「任務を終えられて帰国されたら外します。それまでは硬いものを食べるときは注意してください。これはクィリナリスの指示なのです」
「ウリル少将の?」
白い琺瑯びきの洗面器に両手を浸しながら、不愛想氏は頷いた。
非情。
その言葉がヤヨイの心に重くのしかかった。
ヤヨイの最初の任務であった北の偵察部隊への潜入でも命の危険はあった。反乱を企むレオン少尉の抹殺に加え北の野蛮人の土地への威力偵察でもし野蛮人たちに捕らわれたら殺される可能性はあった。
次のミカサ事件でもそうだった。二個小隊もの敵兵がうようよしている戦艦にたった一人で乗り込み敵兵を全て排除、殲滅したが、もし失敗していれば確実に死んでいた。
そういう意味では、同じく敵中に孤立する任務だったがチナ戦役で空挺部隊の一小隊を指揮した時の方がまだ心は安らかだった。一人ではない。部下たち仲間たちに囲まれての任務だったからだ。
だが今回は。
まだ敵中に乗り込んでもいない。それなのに既に失敗した場合の自分の命の始末を命じられているのだ。
愛するタオとの生活から引き離され、長い間の潜伏生活で人恋しさが限界に達していたのに加え、無理やりに他人の姿に変えられ、その上に・・・。
ひたひたと押し寄せる形のない静かな恐怖がヤヨイを苛んだ。
たまらなくタオに会いたくなってしまった。
いちどそう思ってしまうともう、どうにもならなくなった。ヤヨイは、行ってしまった。
栗色だった髪は金色に。顔かたちも絶世という形容詞がつくほどに美しく変わっていた。
せめてもと、帝国陸軍の軍服に身を包み、無断で馬を拝借してクィリナリスに向かった。
もう子供たちが学校から帰って来るころ合いだろう。
並足しながらライヒェンバッハ家に着く時間を調整しつつ馬の歩みを進めていると、運よく黒い仔馬を門から引き出している愛すべき姿を認めた。
タオは私をわかってくれるだろうか。
他人を欺くために、他人を欺かねばならぬためのこの姿。だが、タオにだけは本当の自分を知って欲しかった。
でも、彼はわたしがわかるだろうか。
得も言われぬ不安が押し寄せた。
ヤヨイは馬を降りた。
「あの・・・。何か、用ですか?」
彼の眼が、いつもヤヨイへ向けられていた愛らしいものではなく、眉根を寄せて警戒する、赤の他人へ向ける冷たいものであることが心を刺した。
タオに近づいた。
「タオ・・・。わたしが、わかる?」
「え?」
愛する少年の訝しげな顔がゆっくりと融けていった。
たぶん、声でわかったのだろう。タオはいい耳を持っている。
「おねえちゃん? もしかして、おねえちゃんなの?」
よかった!
タオはわかってくれた。
ヤヨイはグッと顔を歪ませた。
「タオ!」
両手を広げて愛すべき少年を迎え入れた。
「おねえちゃん!」
彼のまだ小さい身体を抱きとめ、その甘い匂いを胸いっぱいに吸い込み、頬を合わせた。
「やっぱり、おねえちゃんだ!」
「ごめんね、ごめんねタオ。急にいなくなって」
「どうしたの、その顔。お仕事の、なの?」
残念だが、当然の彼のその疑問には答えられない。今だって禁を犯して会いに来てしまっている。彼はこれ以上知ってはいけない。
「長くはいられないの。またすぐ戻らなくちゃ。もう少し、ガマンして待ってて。御用が済んだら、きっと帰って来るから。ね?」
自分の言葉に感極まってしまい、むせび泣いた。
聡いタオはちゃんとヤヨイを「嗅ぎ分けた」。これだけで十分だった。今回の任務にどんな困難が待っているかはまだわからない。でもこれさえあれば、行ける。そう思った。
「わたしが会いに来たことは奥様にも誰にもナイショ。いいわね? ごめんね、タオ」
話したい事、言っておきたいことは山のようにある。だがもう行かねば。
「学校とピアノ、しっかりね。じゃあね」
身を切るような思いでタオの身体から離れた。
「おねえちゃん!」
タオの声に振り向いた。
「お仕事、頑張ってね!」
その健気な声に、また、泣けてしまった。
オスカルから明日出発しますと伝えられた、その日。
ヤヨイはあるメッセージを受け取った。
「モスクの真夜中の礼拝で待つ」
そんなことを伝えてくるのはヤヨイの知る限りこの帝国に一人しかいない。
陽が落ちてからなのでサングラスは要らない。テュニカにヒジャーブを着け、礼拝用の敷物を丸めたのを携えて、ヤヨイは丘を降りた。
チュリオとアヴェンティーノを結ぶ街道からさらに南に向かったところが主に南の国出身の人々が住む地区になる。モスクはその中心にあった。
丘を降りるころにはもう、真夜中の礼拝の声、アザーンが流れ始めていた。
「神は偉大なり、神は偉大なり・・・」
「神の他に神は無し、神の他に神は無し・・・」
「いざ礼拝へ来たれ。いざ救済のために来たれ・・・」
「神は偉大なり、神は偉大なり・・・」
帝国のほとんどの人々が信じる神々とは違い、南の国出身の民が奉じる信仰には専門の祭司たちがいる。
モスクの入り口にその祭司たちの一人が立って礼拝に訪れる人々に祈りを捧げていた。祈りに来た人々は祝福を授けてくれる祭司に右手を胸に当てて首を垂れ敬意を表す。ヤヨイもまた人々と同じように胸に手を当て、首を垂れた。
モスクの中は既に多くの信者たちで埋まっていた。
祭壇に向かって男は左に、女は右に。その間には低い仕切りが置かれていた。
みなきれいに列を作り、持参した敷物を黒御影石を敷き詰めた床の上に広げ、履き物を脱いで裸足になって膝をつき、祭司が謳いあげる経文の節に合わせて何度も額を床につけるようにして祈っていた。
帝国では個人の宗教の自由と尊厳は完全に保障されている。
祈りに集っている老若男女の多くは南の国の褐色の肌をしていたが、中にはヤヨイと同じく欧州系の白い肌に金髪や栗色の髪をヒジャーブで覆ったりターバンを巻いたりしている者もいた。
ヤヨイも向かって右の女たちの列の最後列に並んで敷物を敷き、サンダルを脱いで膝をついた。
祈りの最中、男女を仕切る衝立の向こう側でガタッと音がした。
「おい、じいさん大丈夫か」
「いやなに。軽く眩暈がしただけで。お祈りの途中ですが、ちょっと中座させてもらいましょうかね」
衝立の端にその老人の陰が見えた。足元がふらつくらしく、老人は出口に向かおうとしてまた転びそうになった。
ヤヨイは席を立った。
「大丈夫ですか、おじいさん」
ヤヨイはそのターバンを巻いた老人に手を差し伸べた。
「はあ、ありがとうございます。まったく、歳は取りたくないもんですのお・・・」
その老人の背中を擦り介抱するようにして礼拝堂に隣り合わせた休憩所に連れて行った。
休憩所にはすでに何人かの先客がいて。何台かあるテーブルのそことここに着き、モスクで供される薄く延ばして焼いたパンやココナツミルクを食べたり飲んだりしながらお喋りに興じていた。ある者は持参した料理を広げて愉しんでいたりもする。日に何度かある礼拝の度にモスクに集い、気の置けない仲間たちとの歓談がまた彼ら彼女らの楽しみになっているのだった。
ヤヨイはおじいさんを壁際のベンチへといざない、木のカップに注いだココナツミルクをもらってきて並んで腰を下ろした。傍から見れば礼拝に訪れた老人と孫娘か、嫁ぎ先の舅を世話する心優しい嫁に見えることだろう。
ミルクを一口飲んだ老人はほおっと息を吐くと辺りには聞こえないほどの小声で話しはじめた。
「ほう。さすがは帝国一の腕前を誇るスタイリストだ。見事に化けたな」
ウリル少将は改めてヤヨイの顔を一瞥し、そんな感想を述べた。そして、
「明日、出発するそうだな」
ミルクのカップに目を落として呟いた。
「はい。そう聞いています」
「あの連中のことだ。万事抜かりはあるまい。だが、あのスブッラのスタイリストの施術にお前が動揺したかもしれぬと思い、来てみたのだ」
「それはどうも。ご配慮、痛み入ります」
あの毒薬のことだろう。一応、イヤミに聞えぬように配慮はしたつもりだった。
「タオに会いに行ってしまったようだしな」
「・・・ご存じでしたか」
誰かに見られていたか尾行が付いていたか、だろう。
「お前のことだから無用かとは思ったが、今回は完全に敵地での単独の作戦行動になる。それに万が一にもこの作戦にわが帝国が関わっているのを知られてはならん。そのための措置だ」
「わかっております」
礼拝が終わった。まっすぐ家に帰る者もいれば、知った顔を見つけて休憩所にやってくる者達もいる。余ったテーブルが徐々に彼ら彼女らに埋められ始め、人々の会話は次第に喧騒と言えるほどに賑やかになっていった。戒律のために酒だけは無いからその喧騒はスブッラの繁華街ほどではなかったが。
「例の『もぐら』の魂胆は、恐らくは『ハーニッシュ』たちを焚きつけて現王家の転覆を図ることだろうというのがノールの推測だ。私もそう思っている」
「そんな力が『ハーニッシュ』にあるのですか?」
「ある」
と、スパイマスターは言った。
「150年ほど前、わが帝国とノールとの間に紛争が起こったのは学んだな」
「はい」
「その時ノールの主力になったのが『ハーニッシュ』だったのだ。常は大人しいが、彼らは一度『神の敵』と見定めてしまった相手に対しては死力を尽くして戦う。それに彼らは死を厭わない。『神の敵』と戦って死んだ者は必ず天の神の許に召されると信じているのだ。
当時はまだ銃がなく剣と槍の時代だったが帝国は持てる軍団のほとんどを防衛につぎ込んでやっと撃退したほどなのだ。なにしろ今では一家に一丁旧式ではあるが銃を持つ者達だ。その伝統が今も残っているとすれば、侮れん戦力になる。彼らが一斉に蜂起すればノールの正規軍も歯が立たぬ。決して彼らに大義名分を与えてはならぬし、決して糾合させてはならぬのだ」
「わかりました」
ヤヨイは悲壮な決意を胸に改めて身を引き締めた。
「閣下、ふたつほどお聞きしたいのですが」
「言ってみよ」
「ヴァインライヒ男爵家というのは、実在するのですか」
「お前、禁を犯して大学に問い合わせたそうだな」
「・・・はい。申し訳ありません」
「まあ、いい。自分のルーツを知りたくなるのは人情だ。だが国母貴族から生まれた平民がこぞってルーツ探しをしてしまうと国内の混乱のもとになる。それゆえの禁令だ。その辺りで留めておけよ」
「・・・はい」
タオに会いに行ったことも大学に問い合わせたことも全て知られていた。予想したことではあるが、あらためてウリル機関の情報収集能力の高さを思い知った。
「かつては実在した。だが、今は断絶している。
だからお前の『伝説』に使うことが出来たのだ。お前は断絶した帝国の『ヴァインライヒ男爵家』を相続した、かつてのノール王国『ノルトヴェイト公爵家』の末裔なのだ。実際の帝国の紳士録も細工してあるし、『ヴァインライヒ男爵家』の地所も整えてある。ノールの小うるさい貴族共が詮索してきてもボロが出る気遣いは一切ない」
「断絶は、いつ頃のことですか」
「本当のヴァインライヒ男爵家は30年ほど前に断絶している」
「30年前、ですか・・・」
「書類上はお前のルーツに繋がるものは残ってはおらん。それが知りたかったのであろう」
「・・・はい」
「悪いがそれ以上のことは私も知らない。それを知るには厚生省の国母貴族制度を所管する部局に問い合わせ斡旋名簿を閲覧する必要があるのだ。お前の母君であるレディー・マリコに推薦された『ヴァインライヒ氏』の素性をな。しかしさすがに作戦に関係があるという詭弁は通用せんのだ。冷たいと思うだろうがな」
「いいえ。そんなことは・・・」
「もう一つは、なんだ」
これから困難な任務に赴くヤヨイのために、少しでも後顧の憂いを取り除いてやろうという親心にも似た少将の気遣いを感じた。
「どうしてタオはあんなにも急速にピアノが上達したのでしょう」
「タオのことか」
固かった閣下の表情がやっと緩んだ。
「悪いが、それも私にはわからない。持って生まれたタオの才能としか。
はじめはピアノに合わせてデタラメな歌を歌ったり踊ったりしていただけだったのだ。やがて私の運指を真似て鍵盤で遊ぶようになってそこからは早かった。楽譜の読み方はある程度弾けるようになってから覚えた」
それまでとは打って変わり、ウリル少将の声は弾むように流れ出た。本当にタオが可愛くて仕方ない、とでも言いたげに。
「頭からではなく体で覚えたのだ、あの子は。これからどれほどの高みに昇るか想像もつかんほどだ。
言っておくが、タオは絶対に軍人にはせんからな。徴兵は致し方ないが、必ず音楽で身を立てられるようにしたいものだと思っている。あの才能を埋もれさすことは神の摂理に反することだ」
「閣下がそこまで思って下さっていると知れば、あの子も感謝するでしょう。ありがとうございます」
休憩所の一角から大きな歓声が上がった。何かとてもめでたいことがあったのだろうというような、賑やかな笑い声が巻き上がっていた。
「ああ、言い忘れていたが・・・」
「はい」
「当初は全くの単独作戦を想定していたが、万が一を考えやはり後方支援を担当する者をつけることにした」
「『マーキュリー』、ですか?」
「いや、リヨン中尉ではない。彼は今ノールとは反対方向のチナにいる」
「そうですか」
「リヨン中尉はしばらくはお前とペアを組みたくないそうだ」
「・・・なぜですかね」
「わからんか?」
閣下はほ、とため息をついて遠い眼をした。
「ま、わからんのだろうな。それがわかるほどならば、お前の夫君との間のこともここまでこじれることは無かったろうな」
急にデリケートなプライベートを詮索されていささか鼻についた。だが事実だから黙っていた。
「お前はずば抜けて優秀な頭脳を持ち、抜群の身体能力を持った優れたエージェントだ。ノールにまで名が知れ渡るほどにな。
だが、決定的に男心を理解する能力に欠けているところがある。
それがお前の、不幸だな」
翌日。
帝都の東駅から東に向かう普通列車の中に、テュニカにヒジャーブを纏った若い金髪の女性の姿があった。
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