ソルヴェイグの歌 【『軍神マルスの娘』と呼ばれた女 4】 革命家を消せ!

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第二部 歌姫と夢想家

09 『もぐら』の寝床

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 紺のナイトガウンを纏ったゴルトシュミット子爵は、艶やかな亜麻色の豊かな髪の30ほどの紳士だった。

「ノラ、と言ったね。お前も『ハーニッシュ』なのだね?」

 チラ、と戸口のペールに一瞥をくれ、あとは穏やかな微笑で雨に濡れた田舎娘であるノラを包むように対した。

「そう、でした」

 と、ノラは答えた。

「でした、か・・・。では、ペールと同じというわけだな。里を追われたのだね、お前も」

「・・・はい」

「お前は何ができるね? 料理や裁縫は?」

「できます。・・・それに、歌を歌うのが、好きです」

 ノラは必死だった。どういう経緯(いきさつ)かは知らないが、ペールがやっとこ探してくれた「就職口」なのだろう。そう思えばアピールにも懸命になる。

 頼りのペールもこれから西に向かうという。すでに生まれた里を追われた身だ。もしここで受け入れられなければ、独りそぼ降る雨の中、見知らぬ都の夜を湿った橋の下で明かすほかないのである。

「ほお・・・。歌か。讃美歌か?」

「お望みでしたら、讃美歌以外にも」

「そうです、旦那様! ノラは歌が上手です。もちろん、それ以外の家事も。絶対にお役に立ちます!」

 ペールもまた加勢をしてくれた。ノラにだけは不埒をすまいと思ってくれているのだろう。それだけでも嬉しかった。

 じっとノラを見つめていた子爵はふむ、と頷いた。そしてペールを顧みた。

「ペール。お前との約束はすっかり忘れていた。だが、むしろ丁度良かった。近いうちに帝国から客人がお見えになるのだ。その世話係が欲しいと思っていたところなのだ」

「旦那様!」

 主人の突然の言葉にマッタという女中頭は思わず声を上げた。今やって来たばかりの素性も知れない濡れ鼠の田舎娘に、そのような重要な役目を・・・。彼女の眼はそんな言葉を言いたげに、困惑の色を浮かべていた。

「マッタ。キミの言いたいことはわかる。でも、いいんだ。

 帝国人は古代ローマを標榜し質実剛健を国の礎にしていると聞いている。この辺りの軽薄な町娘や、ましてや華美な風ばかり追い求める貴族の娘などよりはよっぽど気質が合うに違いない。『ハーニッシュ』なら間違いはなかろう。わたしに任せてくれ。

 ペール、ご苦労だった。この娘は、ノラはわたしが預かろう」

 この館の主人と思しきこの男の一言が、ノラにとっては神の言葉に等しいくらいに、千鈞の重みを持って響いた。

「それで、ペール。お前はこれからどうするね?」

「私はこれからちょっと用が・・・。旦那様。どうか、ノラをよろしくお願いします」

「わかった。では、行くがいい」

「はい。じゃ、ノラ。必ず戻って来るから」

 そう言ってノラの愛する男、ペールは戸口の向こうに去った。

 ドアが閉まり、ノラは独り知らない屋敷の中に取り残された。

 館の主人は言った。

「では、マッタ。わたしはこれで休むとしよう。この娘、ノラに着替えとスープと部屋を与えてくれ。この娘に与える仕事については明日また話すとしよう。

「かしこまりました、旦那様」

「ノラ、とやら。今夜はゆっくり休むといい」

 女中頭がスカートをつまんで会釈するのに合わせ、ノラもまたエントランスを出て自室に引き上げて行く勤め先の主人に挨拶を送った。

 緊張の中にも安堵の吐息が漏れた。

 これで、少なくとも今夜だけは見知らぬ都の橋の下で得体のしれない浮浪の影におびえながら眠れぬ夜を過ごさなくても済んだのである。里を追い出されたとはいえノラは神のしもべだ。幼いころからの教えは重かった。無意識のうちに今日一日の幸運を神に感謝した。

「まったく・・・。旦那様のご酔狂にもほどがあるってもんさね」

 主人がいなくなると女中頭はすぐに地を出し、胡散臭げな眼差しをノラに浴びせ、ガラ悪く顎をしゃくった。

「ついておいで。あんたの部屋に案内するから」


 

 そうしてノラは野犬と同じ境遇に堕ちることから免れた。

 女中頭が用意してくれた夜着は粗末な着古したもので、カンテラに照らされた居室は埃だらけの屋根裏。明日雨が上がれば窓を開けて掃除すればいい。そう思い、濡れた服を脱いで夜着に着かえた。

「厨房に食事を用意したから。明日からはそこがあんたの仕事場になるからね」

 おまけにスープも冷めていた。竈の火は落ちているから当たり前なのだが、朝から何も食べていなかったノラにはそれでもありがたかった。

 屋根裏に戻り、つぎはぎだらけのカヴァーをめくってベッドに潜り込んだ。

 お祈りなしで食事を摂ったのもベッドに就くのも生まれて初めてだった。だが長年染み付いた習慣というものはなかなかに抜けない。おずおずと両手を組み、祈った。

 天にまします父よ。

 今日の糧と寝床をお与えいただき感謝します。地上の父と母、里の掟に背いたことをお許しください。明日もまたこの新しき地で日々の糧を得られるようお計らいください。愛するペールが無事に西から帰ることをお計らいください・・・。

 床の中でお祈りを呟いているうちに、いつしかノラは深い眠りに落ちていった。


 


 


 ゴルトシュミット子爵は書斎に戻った。

 揺れる蠟燭の炎を守りつつ、ライティングデスクの上に燭台を置いた。

 燭台のそばに先刻封蝋を破ったばかりの、読みかけの手紙を近付けた。見事な美しい手蹟。その文を今一度丹念に追った。

 その手紙は海路帝都から届けられたもので、文面は、あとひと月あまりのうちに帝国からある人物が子爵の許へ来訪することを伝えるものだった。手紙にはその人物直筆の挨拶状も同封してあった。一枚目のものと勝るとも劣らない見事な筆跡。送り主のものとは違い、一見して女性の蹟になるものであることがわかる、嫋やかなものだった。

「敬愛なるゴルトシュミット子爵閣下。

 初めてお手紙致します。イングリッドと申します。

 この度、養父であるワインライヒ男爵の遠縁にあたるグロンダール伯、そして閣下のご助力により、150年ぶりに晴れて一族の故郷であるノールを訪問できます事、感謝と共に光栄に存じます。閣下にお目にかかれる日を一日千秋の思いで過ごしております。

 この上は一族の悲願であるノルトヴェイト家再興の儀を是非とも成し遂げたく、今後もなにがしかの閣下のご助力におすがりするところ多々あろうかと存じます。その節はひとえによろしくお引き立ていただけますよう、伏してお願いいたしたく・・・」

 子爵は手紙から顔を上げて暗い天井を見上げた。

 なんと! 

 ノルトヴェイト一族の末裔は、女性だった!

 あの美男美女の系譜を誇るノルトヴェイト一族の血をひく女性とは、いったいどのような女(ひと)であろうか。やはり衆目を一身に集めるような美女に違いない。

 昂奮が冷めやらなかった。

 もう一読し、丁寧に折りたたんで再び封筒に仕舞い、それを胸にして燭台を取り、書斎の壁際に寄った。

 燭台を掲げ、書斎を見下ろすように取り囲むゴルトシュミット家代々の当主の肖像を照らした。当主たちを見上げ、子爵はすっくと胸を張った。

「わが誇らしき先祖たちよ! 

 いよいよ、わがゴルトシュミット家長年の宿願が現実になる時が来たのです!

 今を去ること遥かな昔。旧文明は17世紀、『獅子王』グスタフ2世アドルフ陛下の世に拓かれた『バルト帝国』。その栄光の御代より千年余を経た今、再び正統王家の血がこのノールを治める時が来たのです!

 あの忌まわしきエロ坊主にいいように壟断されるような不届きな皇太后や若輩の王を除き、正統なるバルトの世を再び建てる時が来たのです。

 先祖たちよ、ご照覧あれ!

 わが生涯をかけて、この願い必ずや実現させて見せまするぞ!」


 


 

 そぼ降る雨は石畳を打つ蹄の音を消してくれるほどではなかった。

 馴染みの酒場はもうカンバンの時刻を過ぎていた。

 まだ灯りの漏れる扉を押して雫の垂れる帽子を取り、店じまい中の老店主に声を掛けた。

「おや、ペールじゃないか。もう閉めるところなんだが、一杯やるか?」

 カウンターの中の太りじしの店主は今流しで洗ったばかりの木のカップをクロスで拭き、背後の棚に寝かせている酒樽を指した。

「いや、いい。悪いけどちょっとだけ、馬を預かって欲しいんだ」

「いいとも。でも、こんな夜更けに馬を置いてどこに行くね?」

 店から波止場はすぐだった。

 同じような造りのレンガの倉庫が並んぶ倉庫街。

 それぞれの倉庫の入り口にはカンテラが灯り、漁港で水揚げされたニシンを陰干しする生臭い匂いが漂ってくる。ネコが多い。暗い街路を物陰から物陰に。そして闇だまりから彼を監視するように光る目。

 みゃ~お・・・。

 1、2、3・・・。扉に描かれた番号を確認しながらペールは目当ての番号の倉庫に向かってゆく。時折立ち止まって後ろを、辺りを見回す。尾行が付いていないか。そぼ降る雨の真夜中。動く者はネコしかいない。倉庫の中の荷を狙うネズミを警戒するため、彼らはこうして夜中も見回っているのだ。

 11、12、・・・13。

 倉庫の入り口の脇、細いドアのカンテラの下に黒猫がいた。

 ウミャ~オ・・・。

 もう何度か来ているのに、この黒猫はいっかな彼に懐かない。鋭い眼を向けて警戒心を顕わにしていた。

 ドアをノックした。コンコンコン、コンコン、コン・・・。

 ドアに一筋の光の線が出来、そこに暗い二つの眼が光った。

「ペールです」

 無言のうちに掛け金の外される音がしてドアが開いた。

 ペールよりも数インチは高い背丈の髪の短い大男が、来い、というように顎をしゃくった。その男の後について小麦の袋が山積みになっている倉庫の中を通り抜け壁際に穿たれた地下への螺旋階段を降りた。

 所々にペンダントライトが灯されてはいたが地の底への階段は夜目に慣れた目にもあまりにも暗すぎた。思わず触れた壁のレンガは湿っていた。心なしか海の潮の匂いさえした。

 30フィートは降りただろうか。地の底に着いた。大男がノックしたドアの中から何やら重々しい響きが聞こえて来た。

「ペールが戻りました」

「入れ」

 大男に促され、ペールはドアを開けた。

 螺旋階段よりはマシ、という程度の暗い、天井の高い部屋。

 その中央にカンテラに照らされたデスクがある。そのデスクの上に見慣れない機械のようなものがあってそれが動いていた。重々しい響きはその機械から聞こえていた。

 背後でドアが閉まった。大男が階段を上ってゆく足音が遠ざかって行った。

 ペールはまだ知らなかった。

 それはオルガンという楽器の演奏を録音したものだった。曲はイントロのオルガンからやがてストリングスの悲し気な美しい調べを奏で始めた。

「いい曲だと思わないか」

 振り向くと、テーブルからやや離れた暗がりに一人がけのソファーがあり、そこに人影があった。一瞬だが、ゾッとした。

「今、戻りました」

 と、ペールは言った。

 人影はゆっくりと立ち上がりペールに近づいて来た。思わず後ずさりしそうなのを堪えた。

 影はペールを素通りしテーブルに近づいた。そしてカンテラの灯りに胸から下を晒した。コントラストが強すぎて影の顔がわからない。それがとても怖かった。

「この運命の過酷さを思わせるようなオルガン。人の心の奥底に揺蕩う深い悲しみ、命の儚さを切々と歌いあげるヴァイオリンの調べ。

 帝国のどこかの貴族がお抱えの楽団に演奏させたものだ。『アルビノーニのアダージョ』という曲らしい」

 彼が身を屈め蓄音器のターンテーブルの上で回転する銀のディスクに魅入った。

 短い黒髪。真っ黒な深淵のような人を惹きつけて離さない黒い瞳。まるで見た者を石にするというメデューサのような恐ろしさを秘めた目だ。

「・・・ええ。いい音楽、ですね」

 ペールはそう答えた。そう答えるのがこの場合は無難だった。

「お前にもわかるか?

 だがな、これはフェイクなのだ。

 本当のトマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニは旧文明18世紀のイタリアのヴァイオリニストなのだが、これは彼の作曲した他の曲に似せて20世紀の作曲家レモ・ジャゾットが書いたものなのだ。なぜそのようなことをしたのか。自分が作曲したというよりは話題にもなるし、その分、売れるからだ」

 と、彼は言った。

「商業主義が発達し過ぎると世の中はフェイクが蔓延るようになる。真の素晴らしさ、美しさではなく、人はより声の大きな方に惹きつけられ、信頼を寄せるようになる。それが美か醜か、真実か否かは問われなくなるのだ。

 だが、フェイクであろうとなかろうと、美しいものは美しい。

 そう思わんか、ペール」

 曲が終わった。

 彼は身を起すとやおらペールを振り向き、言った。

「ゴルトシュミット子爵の屋敷に行ったな」

 自分の行動を言い当てられ、ペールは怖気を感じた。

「ご存じでしたか」

 そう応えるしかなかった。

「お前の女を預けに行ったのか」

「・・・はい」

「では近々その女に会わせろ。子爵の情報を得るのに使えそうではないか」

「・・・はい、わかりました」

 ノラだけは自分の仕事に巻き込みたくはなかった。だが、知られてしまった以上は仕方がない。

「あの、アニキ・・・」

「?」

 ペールが「アニキ」と呼びかけた男は少しく首を傾げ彼の目をじっと見据えた。


 

 私のことは勝手に呼ぶがいい。なんでもかまわん。

 初めて会った時から、彼はこうだった。

 けっして表には出ない。いつも点々と居所を変え、それなのにどこにでも現れる。

 親方。旦那。ご主人様。

 田舎出のペールはそれぐらいしか目上の人への呼びかけを知らない。

 あとは、アニキ、か?

「アニキとでも呼べばいい。お前よりそう、年上でもないしな」

 それで彼のことは「アニキ」と呼ぶようになっていた。


 

「あの、アニキの名前は、なんですか?」

「なぜいまさらそんなこと聞くのだ」

「いや、あの・・・」

「何とでも呼べと言ったではないか。名前などさして重要なものではない。

 どうせなら『もぐら』とでも呼べ。Muldvarp このノールの手の者達は私をそう呼んでいるらしい」

 そう言って彼「もぐら」は笑ってペールの前に立った。

「で、そんなことより、だ。

 西の首尾はどうだったのだ」

 途端にペールが押し黙り、顔を伏せた。「もぐら」の顔から笑みが消えた。

「チナの、ミンの女首領に渡りは付けたのかと訊いているのだ!」

「それが・・・。帝都のスブッラの連絡先までは突き止めたのですが、ひと月待ちましたが彼女は姿を見せず・・・、ぐはっ!」

「もぐら」は手の甲でペールの頬を打った。大きなエメラルドをあしらった指輪が彼の頬を切った。

「お前の女などより、私の名などより、それを真っ先に報告すべきだ! 何のためにお前をひと月も帝国に使いにやったのか」

「す、すいません! 明日また西に発ちます。今度は必ず・・・」

 打たれた頬から流れる血を抑え、ペールは必死に願い出た。

 しばらく彼を見下ろしていた「もぐら」は、やがて冷たく言い放った。

「もう、いい」

 と、彼は言った。

「今度は私自ら行く。お前は先行してその連絡先とやらに渡りをつけろ。

 ノールで騒ぎを起こすには帝国が邪魔なのだ。しばらくの間帝国の中で暴れて耳目を引きつけ、帝国の東に向いた目を逸らすには、あの女が必要なのだ。

 それがひいてはお前たち『ハーニッシュ』の望む『神が治める国』の建設を導くのだ。それを忘れたのではあるまいな」

「わ、忘れてはおりません! あ、アニキの夢想する世の中をつくるために俺は・・・」

「もぐら」は脚をあげてペールの胸を踏んだ。

「『夢想』ではない。これは『必然』であり、約束された確かな『未来』なのだ」

 と、彼は言った。

「もう二度と『夢想』などという言葉を使うな」 

   ペールは彼の足の重みに耐えつつ、そのゾッとするほど冷たい相貌を見上げた。
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