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第二部 歌姫と夢想家

07 待つ女。それがノラの運命

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「会いたかった、ノラ! 一日だってお前を想わない日はなかった!」

「あたしもよ、ペール! 大好き! 死ぬほど好き!」


 

 青年は一頭のたてがみも雄々しい、力強く精悍な黒毛の背に愛する女を乗せ、都を目指した。

 夜になった。

 二人は一夜の仮宿を街道沿いの朽ちかけた農機具小屋に求めた。ガタピシ言う扉をこじ開け、梯子を伝って登った二階には去年収穫した小麦の藁が山と積まれていた。

 そこへ潜り込んだ二人は、たちまちにお互いを慈しみ合い、愛し合い、情熱が燃え盛るがままにけだものとなり、お互いを貪り合った。荒い息をさらに弾ませ、身体を離してもまたどちらかが再び相手の唇を求める。それを何度も繰り返した。

 何度となくお互いを求め合い、二人の身体の奥の熱い炎の勢いがようやく衰えを見せ始め、ようやく二人はけだものから人間に戻り、お互いを気遣うことができるようになった。

 麦藁の褥に丸く穴を穿っただけの窓から月の光が落ちていた。

「愛してる、ノラ・・・」

 男はその裸の胸に愛しい女の熱い身体を掻き抱き、その耳に囁いた。

 女もまた彼に応え、か細い腕で男を抱きしめた。まだ荒い彼の吐く息さえ愛おしかった。それを全て吸い込んでしまいたいほどに。 

「あたしも。愛してるわ、ペール・・・」

「でも・・・、」

 男は声を落とした。

「ごめんよ。結局お前にも故郷を捨てさせてしまったな」

「ううん!」

 女は気の毒そうな目をして彼女の髪を漉く男の手に触れ、キスを捧げた。

「村に居たところであなたと一緒にはなれなかった。やっとこれで自由に、あなたと二人暮らして行けるようになったんだわ!」

 そして、もう一度男の大きな掌にキスを捧げ、愛しい彼の黒い髪を撫で、汗の浮いた額の下の灰色の瞳を覗き込んだ。

「そうなのでしょう? これから都で二人、一緒に暮らして行けるのよね?」

「もちろんさ、ノラ! もう離すもんか。これから俺たちはいつだって一緒さ」

「うれしい! 抱いて、ペール!」

「でも、その前にもう一度東に、帝国に行かなきゃならないんだ」

 その愛する男のたった一言が、未来の明るい希望に向かって舞い上がっていたノラの心を一瞬で冷やし、凍らせた。

「どうして? もう最後って、これが終われば最後だから、その後必ず迎えに行くからって・・・。そう言ってくれていたじゃないの」

 ノラは脱いだ服を掻きよせ、胸に抱き、干し藁の中に身を起こした。

「もう十分に待った。待ち過ぎたほどだわ。それにもう、里にも戻れない。それなのに、まだ待てというの?

 あのひとなのね。あのひとの命令で・・・」

 ペールもまた身を起し、愛する女の裸の肩に触れ、なんとかノラの冷えてしまった心を温め直そうとした。

「スゴイ人なんだ、アニキは。どうしても、アニキの力になりたいんだよ」

 ノラは振り返った。

「なんで。どうして?

 あたし、わからないわ。ペールがあの人の言うなりになるたび、あなたがあたしの腕の中からこぼれおちて行くような気がするの」

「そんなことはないさ」

「ううん。そう。きっとそう!」

「あの人を悪く言うなよ! あの黒毛だって彼からもらったんだぞ。

 そうさ。あんな素晴らしい馬をタダでくれる人が悪い人であるわけがないじゃないか」

「だって、ペールったらまだその人の名前も知らないんでしょう? どうなの?」

「いや、それは・・・。いつも『アニキ』って・・・。今度聞いておくよ」

 なんということだろう。

 ノラの愛する男は自分の未来を託す人物のことを何も、名前すら知らずに・・・。

「あなたは、名前すら知らない人の言いなりになりに行くの?」

「でも、聞いてくれノラ。本当に素晴らしい人なんだ。彼といると彼の、何ていうか、オーラに包まれ・・・」

「ねえ、ペール!」

 珍しくノラはペールの言葉を遮った。

「もう、その人とは会わないで。都で仕事を見つけて。二人で地道に暮らしましょうよ。一生懸命働けば、きっと食べていけるわ。部屋を借りて、そして、二人の子供を・・・」

「無理だよ、そんなの!」

「どうして?」

「オレは、こんな、ノールなんかでチンケにチマチマ生きたくないんだ。ビッグになりたいんだよ。今よりももっともっと大きな男になりたいんだよ!」

 破れかけた小屋の壁の隙間からすーっと風が吹き込んでノラの肌をさらに冷やした。

「わからないわ。あたしは、ペールさえいれば幸せなのに」

「今にノラにもわかるよ。あの人は、アニキは神の下に誰でも平等に生きられる世の中をつくろうとしているんだ! 国王も貴族も平民もない。みんな平等な世の中をさ!

 俺はその手助けをしたいんだよ!」

「でも・・・」

「もう、この話はこれでおしまいにしよう。

 明後日には都に入る。お前の落ち着く先を探して、そして俺はもう一度西に、帝国に行く。帰ってきたら、本当にもうそれで最後だ。約束する。今度こそ都で二人で一緒に暮らそう。な? ノラ! いいだろ? ノラ!」

「ええ・・・。わかったわ。ごめんなさい、ペール。愛してるわ」

 もう故郷にも帰れない。ノラは愛する男の言葉に、ペールの言葉に縋るしか途がなかった。


 

 日の出と共に二人は小屋を出た。

 街道は深い森に入った。森を抜ければ、あとは山もない、ノールの首都を擁する広大な平原が海まで続く。

 ノラは轡を取る愛しい男の背中を見下ろした。

 昨夜はこのペールの若く逞しい男を十分に堪能し、長い間の無聊と寂しさで深くなった渇望を埋めた。

 

 ノラの家族も、子どものころからの友人たちも皆声をそろえてこう言ったものだ。

「ノラ、悪いことは言わない。あの男だけはやめな。あんたが熱を上げるような価値なんてあの男にはない!」と。

 幼い頃から共に育った幼馴染たちにまで、彼がそのように言われているのには訳があった。


 

 里には掟がある。

 婚姻は親が決めた相手とだけ。それも、一生に一度だ。離婚は許されない。

 にもかかわらず、なんと彼は、晴れの日の花嫁を花婿から奪い、結婚式の真っ最中に連れ去ってしまったのだ。

 しかも、それで連れ去った女と添い遂げるというならまだ許せる。だがペールは、奪った花嫁に3日で飽きてしまい、彼女を都の女衒に売り払ってしまった。

 一体何を考えているのか!

 悪党の権化。神をも恐れぬ悪魔!

 家だけではなく彼の一族からも里からも追放され、それでもとりなしを頼もうと度々里に来ては追い返されていた。そんな不埒な男が、このペールという男なのだった。

 だが、何千年も昔から、男と女のことは理屈ではわからない。

 ノラは、そんなペールが好きだった。共に花畑で遊んだ幼いころから、ずっと。

 ついに親に逆らって彼と思いを遂げた日は天にも昇る心持がした。

 彼が何をしでかそうと、何を考えていようと。

 もしかすると、里のほとんどの人々と違い、掟に平気で逆らう彼が眩しかったのかもしれない。

 あたしの夫は彼しかいない。

 そう、思い込んできた。


 

 あの里で、ノラは囚人だった。掟という名の駕籠に押し込められた哀れな小鳥だった。

 好きなことも言えず、好きなこともできず、好きな歌も歌えず、好きな男とも添えなかった。

 でも、今は違う。

 お腹が空いていたが、どうということはない。

 もう、雪の積もる荒涼とした畑に手を真っ黒にして焦げガラを撒くこともない。毎日毎晩、パンとチーズとスープだけの食事を我慢することもない。ノラの全てを抑えつける父もいないし、その父の言うなりにノラを責めるばかりの母もいない。


 

 ノラはもう、自由だった。


 

 自由になったのが嬉しいのか、愛する男と共に歩めるのが嬉しいのか。

 逞しい馬の背に乗ったノラは美しい声で歌をうたった。

 森の小鳥たちも彼女の声に聴き惚れているのか、しばしさえずりをやめた。


 


  冬も春もまた過ぎて行くのでしょう

 冬も春も

 そして次の夏も、丸一年が

 丸一年が

 だけどあなたはきっと帰って来る

 私にはわかる

 だから私は待つ。あなたと約束したから

 約束したから


 



「不思議な歌だね」

 怪訝そうに振り向いたペールに、ノラは言った。

「あの里では歌えなかったけど、これからは自由にいろんな歌を歌えるわ。それだけでも、あなたについて来た甲斐があった。

 連れ出してくれてありがとう、ペール」

 

 

 次の日の夜遅く、二人は都に着いた。

 年中陽光が降り注ぐ帝国中心部とは違い、ノール、とりわけここ都のある辺りは海風の影響なのか雨が多い。雨でなければ深い霧が立ち込める街だった。

 小雨の降り続く夜。

 濡れ鼠になったペールとノラは都の郊外、とある石造りの瀟洒な邸宅の扉を叩いた。頑丈な樫の木に鋳物の帯がしてある重厚なドアの覗き窓に明かりが灯った。

「ペールです」

 ガチャ。錠前が開く音と共にギイとドアが開いた。

 カンテラを下げた女中と思しき中年の女が戸口に立っていた。

「こんな夜更けに。もう旦那様がたもお休みになられているわ。明日の朝、出直しておいで」

 ペールは雫の滴る帽子を脱いで訴えた。

「でも、泊るところが無いんです。せめて彼女だけでも。旦那様にお約束していた者を連れて来たのです」

 心細げに俯いたノラは恐る恐る顔を上げた。

 白髪交じりの髪を結い上げ、僅かに首の上だけが蒼白い肌を見せている、そこから下は全て漆黒の衣を纏った女。女中頭であろうか。

 頭のてっぺんからつま先まで。胡散臭げにノラの全身を舐め回すようにしていた視線がふと、玄関の奥を顧みた。

「マッタ、こんな夜更けに誰かね」

 良質の、張りのある魅力的な男性の声がした。

「ペールです、旦那様。お約束の女中を連れて来たとか」

 固いオークの床を叩くコツコツとした足音が響き、女中頭の肩越しにその壮年前ほどの男の顔が覗いた。亜麻色の艶やかな髪の下の穏やかな表情の紳士。

 彼は女中頭の掲げるカンテラの灯りに浮かび上がる、雨と寒さに震える少女の姿を認めると、こう言った。

「中に入れなさい。着替えと、温かいスープを与えなさい」
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