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第二部 歌姫と夢想家

05 ヤヨイ、顔を変える

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 奥様やタオには、

「急な任務で西のチナまで行かねばならなくなりました。ふた月か三月か、それ以上になるかもしれません。タオをよろしくお願いします。

 タオ、奥様の言うことをよく聞いてね。ピアノもいいけど、学校の勉強も大事だよ。じゃあね」

「うん! お利口にしてるから心配しないで。お仕事頑張ってね。じゃ、奥様、かっかのおうちに行ってきま~す!」

 ヤヨイの不在を苦にしないどころか、言っている端からもう仔馬に跨り、ウリル少将の家にピアノを弾きに行ったタオ。少しは寂しがってくれるかと思ったのに・・・。

「タオは大丈夫。気にせずいってらっしゃい」

 ウリル少将とは昵懇の仲である貴族のお宅。閣下の任務もよくご存じであられる。それだけにヤヨイの吐いたささやかな嘘にもいささかの疑いも挟まずに送り出してくださった。

 それも、なんだか拍子抜けだった。

 だか、そのおかげで任務に集中できるのだ。ありがたいと思わなくては、と自分に言い聞かせた。

 ヤヨイが赴くのは西ではなく、東である。そして東に向かう前にしばらく潜伏し、ミッションの準備をせねばならない。

 夫には知らせなかった。不在の間に手紙などが来ると厄介かとは思われたが、書く気になれなかった。結婚してまだ三月にもならぬというのに、それほどまでに覚めきっている自分に驚いてもいた。

 そして、右手の薬指から指輪を抜いた。机の引き出しに仕舞いこみ、ライヒェンバッハ家を出た。

「お嬢様。今日は栗毛はいいので?」

 もう結婚したのに、門番のハンスは未だにヤヨイを「お嬢様」と呼ぶ。

「ええ。任務でしばらく留守にするものだから。ハンス、時々お庭を散歩させたり駆けさせてやったりしてね。あと、タオをよろしくね。あの子、とってもあなたを慕ってるから」

「もちろんですとも! わたしもタオ様が大好きです。栗毛もタオ様もちゃんと面倒を見ます。どうそ心置きなくお勤めに励まれますように」

 



 軍服ではなく、平服。お気に入りの桜色の丈の長いテュニカにショール。そして今帝都の女性の間で流行っている膝下までの編み上げサンダル。

 ショッピングや落下傘連隊の仲間たちに会うためなら高揚した気分になれるはずの石畳のペイヴメントも僅かに気が重くはある。まあ、任務だから我慢する外はないのだが。

 辻馬車も拾わず、歩いて丘を降りた。ヤヨイはこれから「地下」に潜るのである。接触する人間はなるべく少ない方がいい。

 まっすぐに都心に向かいバカロレアのキャンパスを突っ切り斜め右手に内閣府の建物を見上げつつ元老院広場を横切る。政府の建物がひしめく官庁街と歓楽街であるスブッラとを隔てるように立つフォルムに入った。

 古代ローマの「フォルム」は「公会堂」のようなものであった。

 白亜のエンタシス、大きな石の柱が建ち並び、人々がそこここで集会を開いたり商売をしたり簡単な教室のようなものを催したりするし、夜は恋人たちの逢引の場にもなるし、違法であり憲兵隊に見つかれば逮捕されるが、怪しげな品物を売り買いする者が来たり、商売女が春を売る場でもある。誰でも利用できる、解放された広場のようなものだ。英語のフォーラムforumの語源でもある。皇帝か執政官を務めたような、いわゆる功なり名を遂げた者が国に寄贈する形で建てられたものである。

 そしてフォルムには必ず神々を祀った小さな神殿やお堂、「バシリカ」があった。

 古代ローマから数えて三千年が経ったこの帝国でも、それは同じだった。白亜ではなく、黒御影石であるところが、ちょっとセンスに欠けると常々思っていた。

 ヤヨイは、その「センスに欠ける」フォルムの回廊をまっすぐ突き当たったユピテル、英語読みでジュピターを祀ったバシリカの前で跪いた。

 祈りの台に肘をつき、瞑目しているとふと隣に気配を感じた。そのまま祈り続けていると、

「いましばらくお祈りください。フォルムの南、東から4本目の柱の陰で待っています」

 男はすぐに消えた。

 もちろん、ナンパではない。

 これから行くノールの手の者だ。

 ヤヨイは何の反応もせず、祈り続ける、フリをした。

 言われた通りにしばらく祈りを捧げてからバシリカを後にしてフォルムの南に出た。通りを挟んだ向かいが大学時代から通い慣れたスブッラ。歓楽街である。

 チラ、と横を見た。

 ごくありふれたテュニカにサンダル姿の男がいた。肌の色が透けるように白い金髪の男だ。それ以外の特徴は碧い眼の他はこれといってない。諜報の世界に属する者にはうってつけの、ごく目立たない顔と容姿。

 彼はヤヨイを認めるとクイと頭を傾けた。ついてこい、というわけだ。男が歩き出すと数メートルおいてヤヨイも後についた。

 男は混雑するスブッラの街路をスタスタ歩いてゆく。見失わぬように人ごみを掻き分けてついてゆく。

「やあ、彼女。イカしてるね。ちょっとそこでお茶でもしない?」

 もちろん、そんなナンパに付き合うわけがない。付き合っているヒマもない。こういうのは昔からこのスブッラの名物だから気にも留めない。だが、これでも人妻なのだが、と口の中で呟いてやり過ごした。

 やがて男はスブッラを抜けて歓楽街の外れ、エスクィリーノの丘に登る街道沿いにあるありふれた商店のドアを押した。

 帝都の都心の建物の造りはどれも皆同じだ。ひとつの建物の入り口の両側は商店になっている。大抵はその建物の店子であり、そこの主とはそれだけの関係である。主はそのドアを開けた中、グリーンや噴水のある中庭、アトリウムを囲む住居部分に住んでいる。

 だが、男はそのアトリウムもスタスタと通り過ぎ、建物の裏手に抜けた。そこに待っていた、深く幌を落としたごくありふれた馬車の中に乗り込んだ。

 ヤヨイが乗り込むと、馬車は走り出した。

 真向かいに座って表情のない三十ほどの男に語り掛けた。

「ずいぶんな用心ですね」

「お互い様でしょうに」

 素っ気なく男は答えた。スパイ稼業の同業者ならわかるでしょう? そういうことだろう。

 馬車はその先のエスクィリーノの丘ではなく今来た道を引き返し都心に向かいその手前の都心をぐるりと巡る環状道路を左に折れた。右手には都心、左には高級住宅が埋め尽くす丘と丘の間に犇めくように建っている平民の粗末な家々を眺めながら、やがて馬車はチュリオの丘に登る道に入った。


 

 ヤヨイがここに来るのは二度目だった。

 帝国人にも貴族、平民の別があるが、その平民にもいろいろある。

 父と母を持つごく一般的な平民、奴隷身分から解放された「解放奴隷」出身の平民、そして帝国の国策で制定された「国母貴族」を母に持つ平民とである。

 ヤヨイの母、レディー・マリコ・フォン・シュトックハウゼンは、一代のみに許された「国母貴族」だった。

 帝国はその広大な国土に比して人口が少なかった。そこで政府は「容姿端麗頭脳明晰身体健康性格温厚」な女性を対象にして「国母貴族」の制度を作った。

 35歳までに12人の子をなした女性に一代に限って貴族の称号を与え、生涯を過ごすのに十分すぎるほどの額の慰労金を支給したのである。もちろん、12歳までの子供の養育にかかる費用も全額国家が負担する。帝国はそうまでしても人口を増やしたかったのだった。

 ヤヨイも、新婚の夫であるラインハルトもそうした国策で生を得た「国母貴族」を母に持つ平民だった。

 だが、その制度は子供にはやや酷であったかもしれない。

 「国母貴族」を母に持つ子供は12歳で親元を離れ家を出なければならなかったのである。しかも、将来的な不公平の芽を摘むため、特別な許可を受けなければ生母に会うことも許されなかった。

 小学校の成績が良かった子供は上級の学校であるリセに進学するため寄宿舎に入り、そうでなかった子供は手に職をつけるためにマイスターと呼ばれる職人や商店や農家の親方の許へ預けられ、もしくは、国の費用で学べて将来は士官か下士官を目指す者が学ぶ陸軍の幼年学校の寮へ入った。

 ちょうど一年前。まだ徴兵されたての二等兵だった。

 最高学府バカロレアの電気学科で電波の研究に没頭していたなか、二十歳を迎え徴兵され他の徴兵された男女と共に新兵訓練所で二年間の兵役をスタートさせたのだが、その直後に今の上司であるウリル少将に「スカウト」された。その最初の任務を果たした「ご褒美」として、母に会うことを許された。

 小学校を卒業して以来一度も会っていなかった母。

 だが、何かが違った。

 一代に限ってとは言え貴族となり、今は「ホモ・ノヴァス」といわれる新興成金の大金持ちと結婚した母は、自分とは違い過ぎると思った。

 研究費欲しさにウリル少将の最初に任務に就き、粗末な食事を食べテントに眠り劣悪な環境で命懸けで北の国境を守る兵たちと共に過ごし、以来、命を曝して数々の危険な任務を経てきた。

 そんな自分と、貴族であり大金持ちと結婚して贅沢過ぎる日々を送っている母との埋めようもない溝を感じてしまったのだった。

 こうして独り立ちし、帝国のために働き、養子ではあるが子供までいる身となった今では、特にそう思う。

 再び母に会いたいとは思わなかった。広大な屋敷に住まい、そのテーマごとに食事を摂る間を変え山海の珍味を愉しむような、そんな贅沢な日々を今も送っているであろう母。

 その母の住まう同じ高級住宅街で、これから他国に潜入しターゲットを抹殺するための準備を行う奇妙な偶然に、しばしの感慨を覚えただけだった。


 

 馬車はこじんまりした邸宅の門をくぐり、ありふれたエントランスの車寄せに止まった。

「着きましたよ」

 真向かいに座った表情のない男が言った。

 チュリオは、帝都の七つの丘の内神々が住まうカピトリーノの丘を除いては中級にランクされる住宅地だった。中級と言っても丘と丘の間に犇めくようにして住まう平民たちの家々に比べれば天と地ほどの差がある邸宅が建ち並ぶ。馬車が止まったのは、その中ではごくありふれた一軒と言える。

 門番はいたが、出迎える執事も庭を手入れする使用人の姿も見えなかった。黒御影石造りの屋敷は、どこかひっそりとしてそこにあった。

 男の案内で屋敷に入った。

 広いエントランスホール。噴水のあるアトリウムはこうした邸宅のごく普通の間取りだったが、それを飾る調度はあまりなく、素っ気ないことこの上ない不愛想な佇まい。

「現地の準備が完了するまでここに滞在していただきます。その間、貴女のほうにもいろいろ準備をしていただくわけですが・・・」

 不愛想な屋敷の中を眺めつつ、男の言葉の続きを待った。

 男は言った。

「まず、顔を変えていただくことになります」

「顔を、変える?」
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