ソルヴェイグの歌 【『軍神マルスの娘』と呼ばれた女 4】 革命家を消せ!

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第一部 陰謀の渦中へ

03 身辺整理とすれ違う夫婦

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「キャプテン、機長!」

 副操縦士のテオの言葉に、ヤヨイはようやく長い物思い、昨夜の舞踏会での記憶から覚め、北の国の空を飛ぶ偵察機のコクピットに帰った。

「あ、ごめんなさい」

「そろそろ、最初のポイント上空です」

 過去に偵察した結果をプロットしてある航空図と実際の地形とを矯めつ眇めつしながら、機体の真下に装備されているカメラのシャッターを切って一枚、また一枚と写真を撮りつつ、滞空時間ギリギリまで「北の野蛮人」の土地、初めての任務で越境して威力偵察を行った思い出の地の上空を飛び回った。

 北の土地はすべてまだ真っ白な雪に覆われ、どの部族も冬越しの地に移ったのか村落に人影は見当たらなかった。つまり、今北に、これといった異常な動きは皆無だった。

「ポイント「NMT」通過」

 下を見下ろしたテオが報告した。ウェイポイント、通過地点となる、帝国との国境から見える北の高い山をパスして後、ヤヨイは進路を指示した。

「Roger.

 テオ。Compass Heading 190. Descend and maintain 1,000.(磁方位190を指向し、高度1、000まで降下、高度を維持せよ)」

「Roger・・・」

 シートベルトを外し、後ろの席からあるものを取り出して再び席に着いた。

「機長。なんスか、それ」

「うふふ。実はわたしもよく知らないの」

 ヤヨイは、パイロット候補生の伍長に、それとわからないような自然な嘘を吐いた。

 それは銀色をした金属製の細い筒で、小さな赤い落下傘が巻き付けてある。実はヤヨイはそれがなんであるかは知っていた。隣で操縦桿を握っている伍長には知られてはいけない物が入っているのも知っていたのだ。今日のフライト前に内閣府の役人が来てヤヨイに手渡していったものだった。その役人はヤヨイのフライトプラン(航空図)のある地点にバツ印も付けていった。

 この地点で投下してください、そこに、なにがしかの「しるし」があるはずだから、と。

「下に注意してて。何か『しるし』が見えてくるはずだから」

「『しるし』?」

 偵察機「R2」は徐々に高度を落としながら予定された最後のポイントに近づいていった。

「あらら、なーんだ、あれ・・・。

 あー、機長。もしかして、アレ、じゃないスか?」

 副操縦士テオドールの指し示す前方の真っ白な雪原の上に黒い、いや、厳密にいえば薄黒い茶色の斑点が点々と連なっているのが見えて来た。よく見れば、その純白の上の薄黒い茶色の斑点が、何やら意味のある文字のようにも見えて来た。

「WILLKOMMEN ? 機長、あれ、『ようこそ』って読めないスか?」

「・・・うん。どうも、そのようね」

 ヤヨイはコクピットを覆う風防ガラスの一部の戸を引いた。与圧はしていないから吸い出される気遣いはない。むしろ、冷たい北の国の上空の空気がコクピットの中に吹き込んで露出した首筋を刺した。

 ヤヨイは落下傘を巻き付けた筒を持った手を猛烈な風が吹き込む穴に突っ込み、そして、落とした。

 寒風の中、筒は自由落下で地上に落ちて行った。が、地上に着く寸前でその小さな落下傘を開き、降り積もった新雪の上にふんわりと舞い降りた。役目を果たして萎んだ赤い落下傘は千メートルの上空からも良く見えた。

 そして、真っ白な雪の上に書かれた「ようこそ」の文字を作っている濃い茶色の斑点の正体もわかった。それは羊の群れだった。

「うわ、カワイイ! アハハ」

 そして、その赤い落下傘に近づいてゆく黒い人影があるのも発見した。

「よし、これで今日の任務は終了。帰るわよ。

 Compass Heading 150.  Climb  and maintain 5,000.(磁方位150を指向、高度5、000メートルまで上昇し、高度を維持せよ)」

 テオはヤヨイが投下したものについての余計な詮索をせず、指示通りに復唱、機体を旋回させ上昇を始めた。

「あ、そうだ。帰りはわたしが代わってあげる。アイハヴ」

「ユーハヴ」

 テオから操縦を代わったヤヨイはパワーシフトを前に倒しつつ、ゆっくりと機体を回し大きく旋回を始めた。さっき投下した赤い落下傘はさらに小さくなり、黒い人影がそれを手にしたのを確認した。こころなしか、その人影が手を振っているようにも見えた。

 旋回を終え、南へ機首を戻した。そして上昇を続けながら左右のペダルをゆっくりと交互に踏んだ。機体は右に左にバンクした。下からは、飛行機が翼を振って挨拶しているように見えるだろう。

「機長、なんスか、今の」

「ああ。ちょっとした、バイバイ。挨拶よ。Rocking Wings っていうの」

「挨拶スか。へえ・・・」

「テオ、『鷲の巣』に連絡して。『我、任務完了す。これより帰投する』」

 副操縦士は無線機のマイクを取り上げると送信カフを押し、英語で通信を始めた。

「Eyrie, This is  Eaglet15(鷲の巣へ、こちら雛鷲15)」

 二人が着けたヘッドセットのレシーバーに呼び出した相手の声が響いた。

「雛鷲15、鷲の巣」

「Mission complete. Return. Over(任務完了。これより帰投する)」

「雛鷲15、Roger アウト」

 無線の相手、「鷲の巣」とは飛行場ではない。

 チナ戦役後、西のチナ改めドン王国や北の野蛮人の地に対する航空偵察は頻繁になった。いつ襲撃してくるかわからない北の野蛮人はもちろん、傀儡となったとは言え西のドンの動向には常に目を光らせておく必要はあった。

 毎日のように数機の偵察機を飛ばすには、これを的確に管制する必要がある。

 陸軍は、帝都の都心で一番高い場所、すなわち神々の住まう神殿が集まるカピトリーノの丘に高いアンテナを建て、元老院の地下、統合参謀本部の一室に管制室を設けた。そこで偵察任務を一元管理することにしたのである。「Eyrieイーリー」鷲の巣、とは、その管制室のコールサインなのだ。

 信心深い市民の中には、

「神殿よりも高いアンテナを建てるとは! 神々の怒りを買うのではないか」

 という畏れを抱くむきもあったのだが、陸軍は、

「神々が住まうこの帝国の地を守るためだ」

 という意味の広報を元老院広場に張り出した。

 その効果があったのか、それ以降市民の苦情はなくなった。


 

 偵察機「雛鷲15」は一路帝都を目指した。


 


 


 

 ヤーノフは、分厚い毛皮の帽子の庇を上げて翼を振りながら南へ飛び去ってゆく銀色の巨大な怪鳥を見上げ、手を振り続けた。

 やがて怪鳥が見えなくなると、怪鳥が落として行った銀色の筒を拾い上げすぽん、と抜いた。

 筒の中には彼の里ではまだ作ることが出来ない、「紙」が入っていた。その紙に書かれている文字を、ヤーノフは辛うじてではあるが読めるほどになっていた。


 

『しんあいなるヤーノフ。

 きみがぞくちょうとして一族をまとめあげ、わがていこくと手をむすぶけつだんをされたことをよろこんでいます。

 こんどの満月がもっとも高く昇る真夜中。きみのたからものたちを迎えにあの河原に兵を差し向けます。引き換えにきみが望んだものを贈ります。

 再会の日までお元気で。

 きみの心の友、ヤン』


 

「手紙」にはそう書かれてあった。

 

 帝国人が「北の野蛮人」と呼ぶ民族の一部族、シビル族。

 半年前。そのシビル族の族長を務めるヤーノフは、単身丸腰で国境を越え、帝国への視察行に臨んだ。そして、巨大な帝国を統べる皇帝の息子であり若き指導者、ヤンとの会見を果たした。

 彼と交わした友情は、大きな実を結んだ。

 ヤーノフの息子をはじめ部族の主だった者達の息子たちはこれから帝国にゆく。表面上は「人質」だが、子どもたちは帝国の貴族たちの家に住まわされ帝国の教育を受けることになる。無償で、だ。数年を帝国で過ごした息子たちは、帝国の言葉、帝国の科学、帝国の行き方を学びその頭脳に大きな知識を詰め込んで、この里に戻ってくる。

 そしてもし、ヤーノフの部族に一朝危機が迫れば、あの強大な武力を持つ軍をもって助けに来てくれる。その手始めに、子どもたちの数だけのあの帝国の銃もくれるという。

 ヤーノフが果たす義務は、北の民族の動向、特に帝国への侵攻を察知したら知らせる、というただその一事だけだった。

 部族同士で殺し合い、首を切り皮を剥ぐ。もう、そんな無益で不毛なやり取りは、これからはなくなる。これからは我が部族だけでなく、この北の地に住む全ての部族が真の豊かさを享受できる。今までは夢だったそんな日が、もう間もなく現実になる。

 そしていずれはあの銀の翼に乗ってこの我々の世界を一望できる日が来る。きっと来る。

 ヤーノフの思い描く未来は希望にあふれていた。

「イワン!」

 まだ春の遠い北国の雪原の上でしばし未来を夢想したヤーノフは、背中に干し草を山のように詰めた駕籠を背負った男に声を掛けた。彼は茶色い羊たちを使って雪の上に意味の分からない「文字」を描くために、もう小一時間も雪の上に草を撒き続けていたのだった。

「用は済んだ。帰るぞ」

 イワンと呼ばれた男はホッとしたように息を吐くと懐から角笛を取り出して吹いた。笛の音に気付いた一頭の羊が首を上げ笛吹の後に続いて歩き出すと、後の群れも彼に続いた。

 羊たちが去った雪の間から、彼らが食べ残したフキノトウが顔を出していた。

 遠からず、北の山々にも春が訪れる。

 ヤーノフもまた未来の夢想の余韻を味わいつつ、羊たちと共に山を下りた。


 


 


 

 酷寒の空から帰った「雛鷲15」の行く手に春の霞に浮かぶ帝都が見えて来た。

「ユーハヴ」

 ヤヨイは今回の偵察ミッションの最後の課題を実施するべく、副操縦士に操縦を委ねた。

「アイハヴ」

 受けた指示は的確に行う。余計な詮索はしない。緊急時の対応もまずまず。

 これなら彼は立派にこの機体を操ることが出来るだろう。最後は、本当に危機的状況になった場合に彼が落ち着いて冷静に対処できるか。それをテストせねばならない。

 テオが完全に操縦桿を制御したころ合いで、ヤヨイは何の前触れもなく、宣言した。

「今から緊急着陸の訓練をします」

 ヤヨイは右のエンジンのキルスイッチを押した。2基のエンジンの内一基を止めたのである。片肺での着陸は手順通りに行うことが出来れば、それほど困難ではない。

 右のエンジンの振動が消え、プロペラが、止まった。

 テオはヤヨイのその挙動に驚きつつ、しかし冷静に操縦桿を把持し、適切な操作を始めた。彼は真っ先に無線の送信カフを押した。

「Tower! This is Eaglet15. request emergency landing(管制塔。こちら雛鷲15。緊急着陸を要請する)」

「Eaglet15.  This is Tower. Can you control?(雛鷲15。こちら管制塔。今機体はコントロール可能か?)」

 まず、今どこに近いかを判断する。すでに飛行場は目の前なので偵察機を管制する『鷲の巣』ではなく飛行場の管制塔を呼び出す。そして緊急着陸を要求する。テオはマニュアル通りに周波数を合わせ管制塔を呼び出した。管制官もまたマニュアル通りに返事をしてくれた。

「Controlable.(コントロール可能です)」

「Descend and maintain 1,000. And heading VOR and approach 090(高度1,000まで降下して高度を維持、VOR電波に従って飛行場に接近し滑走路090から進入せよ)

「Roger,・・・」

 テオは管制官の指示を復唱し、その通りに操作を始めた。

 片肺では推力が落ちる。空気の薄い高空よりも空気抵抗の大きな低い高度のほうがラダーの効きが良くなる。まず降下して高度を下げるのが片肺着陸における基本的な対応だった。テオはヤヨイが教えた通り、安全に確実に機体を操っていた。

 それを確認したヤヨイは無線機を代わり、タワーを呼び出した。

「Tower! This is Eaglet15, Yayoi. This is drill. Again,  This is drill!(タワー。こちら雛鷲15、ヤヨイです。これは訓練です。繰り返します。これは訓練です)」

 帝国語よりも英語の方が語彙数が少なく省略もしやすい。旧文明が海洋や航空無線で英語を使ったのは理にかなっている。ヤヨイは改めてそう思った。

「こちら管制塔。訓練の件、了解した。

 ヤヨイ、これでテオも『卒業』か? 晴れてあいつもパイロットってわけだ。おめでとう、テオ!」

 馴染みの管制官が帝国語で話しかけて来た。いささか規則には反するが、帝国はまだ一日に管制する機体を両方の手で数えられるほどしか飛ばしていない。そして帝国以外に航空機を飛ばしている国もなかった。

「その声はマイクね! そうよ。無事着陸したら彼にそう言ってあげて」

 無線のやり取りにニヤリと笑ったテオはゆっくりと機体を降下させ帝都の上空を飛び過ぎた。

 そして・・・。

 東側から飛行場に近づき、東西の風専用の滑走路の東側から進入を開始。まっすぐに向かい風を孕んだ機体は無事に地上に下りた。

「タッチダウン!」

 滑走路から駐機場にタクシングした機内で、ヤヨイは言った。

「おめでとう、テオ。合格よ。次回のフライトからは正式にパイロットとして乗機していいわ」

「ありがとうございます、キャプテン! 指導してくれたのが『マルスの娘』だったからでしょう」

 ソツなく「指導教官」にお追従を言ったテオはエンジンを止めるとこう言った。

「あの、少尉。ちょっとお願いがあるんですが、相談にのってくれませんか?」

「ええ、いいわよ。どうしたの?」

 R1と違い、操縦席が露出せず風防ガラスに囲まれているR2型は機体の側面からドアを開けて出入りする。ハッチを開いてテオが出してくれたハシゴを伝い地上に降りると彼はこう言った。

「実はオレ、結婚を考えてる彼女がいるんです。一度少尉に会わせたいなと思ってるんです。彼女、少尉のファンなんです。今指導を受けているって教えたら、彼女も『アイゼネス・クロイツのマルスの娘に会いたい』って言ってまして。それに既婚者の先輩として、少尉のアドバイスをもらえたらな、なんて・・・」

「そう! またまたおめでとう。今日明日ならいいんだけど、どう?」

「それはちょっとムリかな。彼女、今マルセイユにいるんです」

「そうなの、残念ね。わたし、このあと別な任務でしばらく帝都を留守にしなきゃなの」

「そっかー・・・。じゃあ、しかたないですね。彼女にはそう伝えておきます」

「ごめんなさいね。あなた方の幸せな結婚生活を神々にお祈りしておくわ」

「少尉、」

「なあに?」

 テオはヘルメットを外すと額に張り付いた短い金髪を漉いた。灰色の瞳にやや困惑が見て取れた。結婚を前にしていささかナーバスになっているらしかった。よくあることだ、と思った。

「結婚て、どうスか? いいもんスかね」

「そうね。二人が今の気持ちをずっと持ち続けられたら、素晴らしいとおもうわ」


 

 栗毛に跨って飛行場を後にしたヤヨイは、統合参謀本部に撮影した写真乾板を預けた後、クィリナリスの下宿に帰った。

 厩に栗毛を繋いだ。タオの黒い仔馬がいなかった。今年の初め奥様が彼にプレゼントしてくれたものだったのだが、どうしたのだろう。

 驚いたことに、奥様はまだ寝室にいらっしゃるらしかった。

「よほどお疲れのようで、先ほど寝息が聞こえましたので御身体は宜しいかと思うのですが」

 ヤヨイのコルセットを締め上げた屈強なハウスメイドがそう教えてくれた。きっと昨夜の舞踏会をお楽しみ過ぎたのだろう。

「タオは?」

「タオ様なら学校からお帰りになってすぐに閣下のお宅に行かれました」

 なるほど。それで仔馬がいなかったのか。

「わかったわ。ありがとう。ちょっと閣下のお宅に行ってみます」

「もうすぐお夕飯ですので連れて来ていただけると助かります。今夜のメインはタオ様のお好きな腸詰のハーブ焼きとターラント産のスズキのスフレですとお伝えくださいませ」


 

「閣下」とは、もちろんウリル少将のことである。

 今ヤヨイが世話になっている下宿先の当主、北の野蛮人との国境に展開する重要な最前線部隊である第七軍団歩兵第二十三師団に師団長として赴任している伯爵ライヒェンバッハ准将とヤヨイの上司ウリル少将は士官学校時代からの仲とかで、ヤヨイが下宿しているのはその縁でのことであった。

 だが本来、すでに結婚して人妻となったヤヨイが未だにライヒェンバッハ家に居候しているのは不自然だった。


 

 今年、年明けてすぐ。ヤヨイはラインハルト・ウェーゲナー陸軍中尉と華燭の典を挙げた。

 夫となったウェーゲナー中尉、ラインハルトとは、第一近衛軍団に新設された落下傘連隊で知り合った。先のチナ戦役、落下傘部隊初の任務は、当時敵地だったチナ本国アルムまでの4つの橋の攻略であり、これも初出動となった機甲師団進撃のための橋の確保だった。

 この帝国初の「空挺部隊と機甲部隊の協同作戦」で、4つの橋の一つ、ナイグン橋の攻略と守備を同じ大隊で供にしたヤヨイとラインハルトがお互いを知り深く求めあうようになるまでにはそう時間はかからなかった。

 それまでいくつかの恋愛は経て来たヤヨイだったが、初めて身も心も芯から相性の合う相手だと思えたのだ。

 結婚式には二人が知り合った大隊の隊長や同僚小隊長たち、そして部下たちを招待し、特にヤヨイが最初の作戦で知り合って共に落下傘で飛び降りた大親友とも言えるリーズル・ルービンシュタイン予備役上等兵には立会人の労を取ってもらった。

 帝都都心の北にあるカピトリーノの丘。

 そこに住まう神々の、愛の女神であるウェヌス神、英語読みでヴィーナス。ギリシャ神話ではアフロディテーと呼ばれる女神を祀った神殿で儀式を行った。

 二人とも純白のテュニカに純白のショールを纏い、ショールの端を頭の上に被せる帝国のごく一般的な簡素な礼装で、素足になって神殿に入り、厳かな儀式に臨んだ。

 もちろん、儀式にはすでにヤヨイの養子となっていたタオも参列した。

 儀式の後にスブッラで催された披露の宴で、皆、新郎新婦の幸せな結婚を祝福し、二人の子供であるタオとの新しい家庭の幸せを祈ってくれた。

 そこまでは良かった。

 だが続くハニームーンで早くも、新しく家族になったばかりの二人と一人の上に暗雲が垂れ込め始めた。

 南国マルセイユ近郊のリゾート地での新婚旅行に、ヤヨイはタオを伴うことが出来ず、ライヒェンバッハ家に預けねばならなかった。

「ねえ、どうしてタオも一緒じゃダメなの?」

「当たり前だろ。考えればわかるだろ。新婚旅行なんだぜ。オレはお前を抱きたいんだよ。タオだって遊んでくれる人が多い方がいいだろうに」

「タオは私たちの子よ。家族だわ。置いてはいけないわ!」

 だが結果的に、ヤヨイが折れた。

 それが悪かったのかもしれない。

 記念すべき二人の新婚旅行。

 結局、昼間はラインハルトが釣りに、ヤヨイはショアで日焼けに、それぞれ別々に過ごして終わり、夜は夜で、タオが心配でその気になれないヤヨイが夫であるラインハルトを拒否し背中を向け合って終わってしまった。しかも、三泊だった予定を一泊で切り上げ、二人とも気まずい空気をどうすることもできないまま、無言で帝都に向かう列車に乗った。

 そして、運命を司るデキマの神の悪戯なのか、直後落下傘連隊の縮小が発表され、ラインハルトは既に帝国領となった旧チナ、豪族ミンの所領だったアイホー駐在の陸軍事務所への転属命令を受け任地へ発っていった。

「ま、新居を借りる前で良かったよな」

 と、ラインハルトは言った。ヤヨイは無言でいた。

「なあ、ヤヨイ。今の仕事辞めて一緒に来てくれないか」

 ヤヨイは口を開いた。

「いいけど、タオも一緒だよね」

「あのさ、タオだけど、施設に預けられない? どうせなら、俺らの子供を作ろうよ」

 やはり、それが本音だったのか!

 結婚当初から感じていた違和感。タオの養育についてラインハルトとキチンと確認しなかったヤヨイにも罪はあるかもしれない。だけど、これほどまでにハッキリと言ってくれたからには、ヤヨイはもう黙っていなかった。

「あり得ないわ!」

 ヤヨイは言った。

「タオは、私の血肉も同然なの。自分のお腹を痛めてはいないけど、わたしの分身も同然なの。絶対に、認めない。タオは、わたしが育てる」

「なあ・・・」

 そこでラインハルトは、言うべきでなかった決定的な言葉を吐いた。


 

「ヤヨイさ、お前、俺とタオ、どっちが大事なの?」


 

 新居などに移らなくてよかった。心底そう思った。

 先月、新任地に向かった夫ラインハルトを、ヤヨイは見送りもしなかった。

「ごめんね。その日はタオの小学校の参観会があるから」

 見え透いた嘘も平気で吐くことが出来た。

 あれだけ望んでいた右の薬指に光る銀の指輪が、今はもう、ただ、疎ましいだけだった。

 今日、機長に昇進したテオと同列にするのは彼に失礼だが、偵察機の操縦をしてくれた彼も、今跨っている栗毛も、ヤヨイがどれほど物思いに沈んでいても勝手に行く先まで運んでくれる頼もしい相棒だった。

 ウリル少将の家の玄関先の水場に栗毛を繋いでいると、家の中から何やら楽し気な音色のピアノの調べが流れて来た。

 もちろん、ヤヨイはその曲たちの名前を知らない。

 ヤヨイが家の中に入らずに戸口で聞き耳を立てている間に、それはモーツァルトの「きらきら星変奏曲」から始まり、次いで「トルコ行進曲」に変わり、そして、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」の第二楽章へと移って行った。

 あの子、いつの間にこんなに・・・。

 タオのピアノの技量の成長ぶりは、忙しくてなかなか彼をかまってあげられない「新米ママ」を驚愕させ硬直させるのに十分なものだった。

 そーっと音を立てずに入った家の奥で、タオは一心不乱に茶色い箱に向かっていた。

 これもヤヨイの知らない曲だが、ふう、と吐息をついたタオは大きく背伸びしてまた別の曲を奏で始めた。ベートーヴェンの「エリーゼのために」だった。

 ゆっくりではあるがイントロのモチーフを危なげなくこなした彼は途中の和音の連打のところで、躓いた。

「ありゃ!」

 そう言ってう~んと唸ったタオはハッとして後ろを振り向いた。

「じぇじぇ、おねえちゃん!」

 彼を養子にしてもう半年にもなるというのに、未だにタオはヤヨイを「おねえちゃん」と呼んだ。ヤヨイは敢えてそれを正さなかった。そう呼ばれる方が気が楽だった。まだまだ、「お母さん」と呼ばれる自信が、なかった。

「いつからそこにいたの?」

「・・・ちょっと前から」

「なあんだーあ。声かけてくれればよかったのに」

「じゃましちゃいけないかな、と思って・・・」

 と、ヤヨイは言った。

「タオ、すごいね。あんた、いつの間にそんなに上手になったの?」

「う~ん・・・。聴いて、見て、マネしてたら、こうなったんだ。わかる?」

「ちっともわからない。少なくとも、おねえちゃんには、絶対、ムリだわ」

 ヤヨイはタオの傍に寄り、彼の愛らしい髪を撫で、抱きしめた。

「ごめんね、いつもほったらかしで。お母さんじゃないよね、こんなの」

 何故か、涙が溢れた。

「おねえちゃん・・・」

 抱きしめられたタオは、困惑しているようだった。

「あのね、おねえちゃん。

 ぼく、ぜんぜん、さみしくないからね。

 おくさまは優しいし、門番のハンスはいっぱい遊んでくれるし、かっかはピアノを教えてくれる。かっかはね、いつでも来ていいし、好きなだけ弾いていいって。そう言ってくれてるんだよ」 

     タオは利発な子だ。ヤヨイを慮り、気を遣っているのがわかってしまう。

 アイゼネス・クロイツ。

 帝国軍人最高の栄誉である鉄十字章を授与された英雄であるヤヨイも、時として自制が効かなくなる時がある。

 自分が声を上げて、号泣してしまうとは思わなかった。

「ごめんね、ごめんね、タオ。

 勝手に知らないところへ連れて来て、お母さんの役目も果たせないで、お父さんも、作ってあげられずに、たった一人で・・・」

 小さな手がヤヨイの碧眼から流れ出した塩分の多い水を払った。

「あのね、おねえちゃん。ぼく、感謝してるんだよ」

 チナのナイグンの戦場で、大人のやり方を見様見真似で覚え、なんと50ミリ砲まで装填してぶっ放した恐ろしい子供。

 そのタオは、彼本来の優しい心の少年に戻ってヤヨイの頭を撫でた。

「ぼく、おねえちゃんにかんしゃしてるからね。

 もしおねえちゃんに会わなかったら、お父さんやお母さんや、弟のリャオと同じ目に、ぼくも死んでたかもしれないんだから。

 おねえちゃんに会えたおかげで、こうして生きてるし、学校に通って、友達もできたし、こうやって大好きなピアノも弾けてるんだ。

 おねえちゃんにもかんしゃしてるし、おくさまにも、門番のハンスにも、メイドのマリアにも、ピアノを教えてくれてるかっかにも感謝してる。だから、泣かないで」

「うわ~んっ!」

「まいったな。おねえちゃんたら、泣き虫なんだから・・・」

 タオはまだ、ヤヨイの本当のミッションを知らない。

 出来ることなら、一生知られたくない。

 ヤヨイは、心から、そう思った。


 


 

 それから、二か月後。

 


 

 学校から帰ったその足で閣下の家に行きピアノを弾いて黒い仔馬に跨ろうとしたタオの前に、騎乗した見慣れない、あまりにも色の白すぎる金髪の若い士官が現れた。

「あの・・・。何か、用ですか?」

 その程度なら、タオの帝国語ももう、淀みなくなっていた。

 金髪の若い士官は馬を降り、タオに近づいた。

「タオ・・・。わたしが、わかる?」

 見た目は全くの知らない軍人。

 だけど、その優しい声と彼から漂う愛おしい匂いは子供の心の頑丈な記憶装置を起動させ呼び覚ますのに十分なほどだった。

「おねえちゃん? もしかして、おねえちゃんじゃない?」

 金髪の若い帝国陸軍士官はグッと顔を歪ませた。

「ごめんね、タオ。急にいなくなって。

 もう少し、ガマンして待ってて。

 御用が済んだら、すぐに帰って来るから」

 

 ブルネットを金髪に変えた陸軍士官は、そう言ってまたむせび泣いた。
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