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32 雷神は、来た!
しおりを挟む夜半の冷たい雨脚はさらに強まった。強い風雨が身体を叩く。
だがむしろ好都合だと思った。雨音と風が軍用道路を急ぐ馬の蹄の音を消してくれる。
一時間ほどの騎走であの偽装(カムフラージュ)された北岸攻略用の簡易宿営地に出る通路の地点に着いた。3人は馬を降りた。
「馬は一頭だけ、目印にここに繋いであとは放す。ここから先は必要ないから」
繋がれなかった2頭の馬はそれでも、どこへも行かずに繋がれた馬の傍に佇んでいた。
「仲間を置いて行けないのね」
リーズルは自分がしがみついていた馬の首を撫でた。短い時間だったが、馬の体温を感じて愛着が湧いたのだろう。馬と共に1000年を生き抜いて来た帝国ならではの風景がそこにあった。
暑い雨雲に覆われた空は暗かった。カムフラージュの脇をすり抜け、アランに従いカンテラを灯さずに河原に向かった。ほとんど真っ暗闇に近かったが、どうしてこれで見えるのか不思議なくらいだった。
「まだ月齢がある。新月で曇りならさすがに見えなくなるけどね」
中佐がアランやリーズルを付けてくれたことは本当に心強く、頼もしかった。
アランは、確かな足取りで河の方へ向かって歩き続けた。
やがて轟々(ごうごう)と水の流れる音が聞こえてきた。真っ暗な木々の間を抜けると数日ぶりであの宿営地を置いた木柵のある河原に出た。
目の前にあの多くの野蛮人の血を吸った裸の丘のシルエットが暗い空を背景にぼんやりと浮かび上がっているのがヤヨイにも見えた。
「さあ、渡りましょう」
三人はすぐに渡河にかかった。
暗い上に足元の川底が全く見えない。だがありがたいことに水量は若干減っていた。腰に巻いたベルトに着けた弾薬を水に漬けることなく、対岸に上がることが出来た。
東の、雨に濡れる焼け野原には何も見えなかった。
「おお。何も、誰もいない。獣もいない。森が無くなっちまったからだな・・・」
とアランは言った。
苦労して川を渡り、対岸に着いた。
が、すぐに、
「うへあっ!」
アランが上ずった声を上げた。
数日間放置されていた野蛮人の死体がそこここに転がっていた。日中の熱さで腐乱しかけているのだろう。少し臭った。
「・・・登りましょう」
ヤヨイは先に立って濡れてぬかるみかけた丘の斜面を登り始めた。
・・・ゴロゴロ。
遠雷が、近くなった。
その轟(とどろき)を聞きながら一心に斜面を登った。
と。
パアッ・・・!
急に目の前がわずかに明るくなった。
雷の轟(とどろき)とは違う。明らかに大きな爆発音が数度、背後の東南の森の中から上がった。
「なんだ! ・・・おおっ、デカイな・・・」
「あれ、大隊本部前の防衛線の辺りじゃない」
3人は、しばしその方を見つめて佇んだ。
誰の胸の中にも、次の一句が浮かんだ。
もしかして、あれが少尉のいる本隊じゃないのか。
裏をかいたつもりが、裏の裏を読まれたか!
リヨン中尉の進言のせいなのか、大隊司令部が前哨線を前進させた結果、レオン少尉の本隊とぶつかったのだろうか!
みんなの思いをリーズルが言葉にした。
「ねえ! もしかしてあれがレオン少尉じゃないの?」
さすがに、ヤヨイも迷った。
だがすぐに思い直した。
それならそれで、いいじゃないか、と。
「あれだけ派手な砲火を交えているなら、あれが本隊だとわたしも思う。
でも、それが本当なら、味方の部隊も全部そこに集中するはず。
そうなれば、必ずどこかにスキが生まれるわ!」
レオン少尉は、必ずそのスキを突いてくる!
本隊さえも囮にして、少人数でそのスキを突破する!
彼女なら、必ず、そうする!
「でも、もしあなたの言う通り、あそこに少尉がいるなら、わたしたちのやってるこれは単なる無駄骨になる。でも、それならそれで、いいじゃないの」
あの状況なら、第二分隊のみとなった勢力は、全滅だろう。もう、リンデマンとの合流など、不可能になる。
爆発によって燃え上がった森の炎のおかげで、真っ暗だった北岸の半分ほどが浮かび上がって来た。
だが、そこにまだ放置されて雨に濡れているだろう数百に及ぶ腐りかけの死体までは見えないのは救いだった。もし見えたら、それこそ地獄の光景を目の当たりにしただろう。辺りにはまだ、動くものは一切見えなかった。
一行は、頂上に着いた。
雨で湿ったタコツボに降り、みんな背嚢からマントを取り出して体温を保護した。
夏とはいえ、高緯度地方の夜は冷える。しかも渡河したばかりで下半身はびしょ濡れ。さらにしとしと降り続く雨が3人の体温を、徐々に奪っていった。
「アラン、おいで。リーズルも。みんなで温めあおう!」
ヤヨイは声をかけた。
極限状況での忍耐術。それも、クィリナリスで学んでいた。
一人よりもふたり。ふたりよりも3人。
低温状況に置かれた場合、身体を寄せ合い、温め合う方が生存確率は高くなる。
タコツボの縁に頭だけ出して、3人は互いにマントを被り合い、身を寄せ合いながら、東の方角を見つめた。
「おお。あったけえなあ・・・」
「ちょっと、アラン! 変な気起こさないでよ!」
リーズルの抗議を尻目に、アランは肩を竦め、背嚢から高価な双眼鏡を取り出した。
この任務のために大隊から与えられたのだろう。それに目を当てたが、ハッと溜息を吐いてすぐに仕舞った。
「ダメだ、これ。レンズの磨きが悪すぎて像が歪む。目の方がいいや」
身体を寄せ合っているとお互いの温かみが伝わり、ひもじさをしのぐことが出来た。
食料はもっとあったはずだが、極力軽装になるために余分は全て第四軍団の宿営地に置いてきてしまった。
それぞれの背嚢の、ひと塊だけの湿ったパンを齧り、水筒の水を啜った。
不思議なことに、そんな惨めなパンを齧っているだけで、さらにひもじさが遠のいた。
食べるという行為は、それほどに生き物にとって大切なことなのだと、実感する。
他にまだなかったかな。
ヤヨイは背嚢を探った。
・・・と、
「あら?」
底のあたりに何かがあった。
それは、2切れの干し肉だった。
アレックスがくれたのを、そのまま背嚢に入れて忘れていたのだった。
一切れずつ二人にあげた。
「よければ、食べな」
まじまじとそれを見つめるリーズル。
それを、アランがサッと、取り上げた。
彼は、二切れを重ねると、ヘルメットを俎板代わりに、ナイフでキッチリ三等分し、二かけらずつみんなに配り直した。
「こういう時は、みんな一緒だ」
「ふふ。あんた、やるじゃん・・・」
とリーズルは小さく笑い、干し肉をかじった。
ヤヨイも、小さくなった干し肉を、かじった。
前にここで、威力偵察の時にジョーから貰った干し肉をかじった時よりも、美味しかった。
そんなふうにして小一時間を耐えた。
東の下の河原には、まだそれらしき影は見えなかった。雨脚がやや弱まったが、雷は皆が忘れたころに落ちて度々大地と空を震わせた。
東南の森の中の騒ぎは収まりつつあった。
「この雨だから、いまに火も消えるだろうな」
「デカい音のわりにあっけなかったね」
「榴弾砲はまだ届いていないはずだから、砲兵隊のクロスファイヤーでやられたのかもな。持ってた迫撃砲弾が誘爆したのかもしれない。きっと砲側の周囲にいた兵たちは皆、吹っ飛んじまっただろうなあ・・・」
この雨で、音は聞こえない。
アランは目だけはじっと東の暗闇に落としながら、そんなことを呟いた。
彼の言葉を脳裏に描き、レオン少尉に付き従って死んだだろう、第二分隊の面々の顔を、思い浮かべた。
ハンス、ジロー、ガンジー、そして、ジョー・・・。
束の間の、戦友たちのことを、思った。
「だけど、もう少し燃えててくれる方が、ありがたかったんだけどなあ・・・」
アランはまだ、ヤヨイの言葉を信じてレオン少尉の姿を探そうとしてくれていた。
もし朝が来ても、誰も現れないかもしれない。
でも、それでもいい。
いまここで出来る限り寒さとひもじさを、耐える。
これこそが、自分に出来るすべてだ、と思った。
雨がまた強まり出し、驟雨になった。雨粒がマントを叩き、タコツボの底に水が溜まり、3人のヘルメットの庇から落ちる雨垂れが、糸になった。
地に叩きつける雨が暗闇に消えて行く。南東の森の火事がこの雨で収まりつつあり、炎の勢いが衰えていた。
「でも、西の方が明るくなってきたわ。もうすぐ、雨止みそうだよ」
リーズルの言葉が終わらないうちに、雨脚はさらに弱まり、地を叩いていた雨が水煙を立てるのをやめた。
と、隣で東を見下ろし続けていたアランの身体が強張った。
肌を接していたリーズルが、その気配を察した。
「どうしたの?」
「・・・あれ、見えるか」
「どれ? ねえっ、どこよ!」
シッ!
皆を制しながら、再びアランは双眼鏡を取り、やっぱダメだコンチクショウ、とか毒づきながら、東のかなたに目を凝らした。
「あの川べりの焼け跡と焼け残りの間の辺り。わかるか。河の水面の反射が動いてるだろう」
「ええっ? 何よそれっ! わかんないっ、もうっ!」
「リーズル!」
小声でイラつくリーズルを窘め、ヤヨイは確認した。
「あなたには、見えるのね? アラン」
「うん・・・。そうだ。・・・だんだん、はっきりして来た。2人、・・・いや、3人いる」
「3人?」
ヤヨイにはまだ見えなかった。一人は少尉だろう。残りの2人は誰だろう。ヒッピーだろうか・・・。
「距離は?」
「まだ7、8百はあると思うがな。もう少し明るきゃ、周りが見えるから距離が掴めるんだが・・・」
その時、西の雲が晴れて西に傾いた月の光が辺りを照らした。
「おおっ、見えたぞう・・・。そう、やっぱり、・・・3人だ」
まだヤヨイには見えない。だがアランの言う通りなら、こんな時間にこんな国境沿いをしかも敵地を歩いているのはヤヨイの知る限り、たった一人しかいない。
「リーズル、見える?」
「んー、わかんないっ!」
まだ信号弾を上げて知らせるのは早い。
それがもしレオン少尉なら、察知されたことを知って北の森の中に逃げるかもしれない。そうなると、万事休す、だ。
こんな時に、無線通信機があれば・・・。
レオン少尉である可能性が高い人影が現れたといち早くケイン大尉に通報できるのに。
もっと言えば、リヨン中尉が大隊司令部に使いしなくても、第六中隊はあの場でポンテ中佐の指示を仰げたはずだ。
まあ、いい。
ここでグチっていても仕方がない。
リーズルが確認できる距離になったら、少尉が彼女の小銃の射程距離に入ったら、信号弾を上げ、銃を捨てるように言う。
そう、決めた。
そんなことを考えていると、さらに月が顔を出し、辺りをより明るく照らし出した。
アルテミスが微笑んでくれるのは軍神マルスにだろうか。
それとも、雷神の方へだろうか。
ピカッ!
ドオーンッ!
カミナリがすぐ北の、高い杉の木に落ちて木が裂け、その周辺を燻ぶらせた。
レオン少尉は正真正銘、「雷」を呼ぶ神の化身なのだろうか。
あの影はやはり、彼女なのだろうか。
「あれ、まいったな。見失っちまった・・・」
「ちょっと、あんたなによ! 肝心な時にもうっ!」
「リーズル! 声を落として!」
「や、いた! あそこだっ! いたぞっ!」
アランが思わず指さした丘の麓のすぐ下に、ヤヨイも彼女の姿を認めた。
森の焼け跡の中にすっくと立ってこちらを見上げている影。
その大柄の短い金髪。大きな胸のふくらみの影は、間違いなく彼女、レオン少尉その人に違いなかった。
捕まえた。
やっぱり、少尉は、少尉だった。
もう、知られてもいい。
「アラン、信号弾! 」
シュパーッ・・・。
信号弾は白い煙を曳いて上空の熱い雲の底を目掛けて駆け上り、ドンドンドンと、3度連続して爆発し、小さな火球を作った。
火球に照らされたレオン少尉の顔は別れた時と同じ、闘志に満ち満ちてそこにあり、ヤヨイを見上げていた。
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