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05 クィリナリスの丘
しおりを挟む「来たまえ。そのままでいい。後のことは全てこちらで処置する」
教室にも宿舎にも寄らず荷物もそのまま。担任のアルテンブルク伍長に挨拶さえせず、もちろん、知り合ったばかりの戦友、マーゴやルドルフにも何も言わずに訓練所を出た。
ウリル閣下とヤヨイを乗せた4頭立ての高級馬車は昨日発ったばかりの都心に舞い戻り、さらに都心を抜け、官庁街やバカロレアも通りすぎ、帝都の北のはずれにあるクィリナリスの丘を登って行った。神々の神殿のあるカピトリーノの丘以外、都心を取り囲む丘に登ったのは初めてかもしれない。貴族たちの大邸宅が立ち並ぶ丘の上は、平民出のヤヨイにはあまりにも敷居が高すぎ、ゆえに、縁のなかった場所だ。
閣下は一言も喋らず窓の外を眺め続けていた。だから、ヤヨイも黙っていた。
やがて馬車は、そんな貴族たちの邸宅の一つの前に停まった。門番が居て、重厚な鋳物製の門を開けた。
丘の上に来るのも初めてなら、貴族の家も、初めて訪れる。
へえ・・・。貴族の家には門番までいるのか。奴隷だろうか。
ヤヨイがしげしげと眺めていると、
「あれは奴隷ではない」
ヤヨイの内心を見透かしたように、閣下が言った。
「奴隷の使用人に扮した、憲兵隊の警備兵だ。庭師も厩番も、この馬車の馭者も、皆同じだ」
言われてみれば、キャビンの前に開いた小窓から見える馭者の後姿からは、なにやら普通の市井の人々にはない、厳しい「気」のようなものが感じられた。
「ここがわたしの指揮する『特務部隊』のオフィスだ」
「馭者」に扮した憲兵隊の兵が、ピシリと手綱を振った。
門を通り抜けた馬車は広大な園庭を突っ切る長いエントランスを走った。閣下の言葉通り、園庭の管理をする庭師も、遠くに見える厩に飼い葉桶を運び込む厩番にも、市井の人々のような気安さは感じられず、その顔にはみな、どことなく緊張した面持ちが浮かんでいるように見える。訓練所の下士官たちにも共通した、軍人の顔。
黒御影石造りの重厚な屋敷の、玄関の雨除けの下に停まった。
「降りたまえ」
ヤヨイは重厚な玄関の前に降り立った。普通の平民の家に比べ、あまりにも高すぎる重々しい扉を、ぽかんと口を開けて見上げた。
ドアの脇にいた執事、に扮した警備兵がドアを開けてくれた。普通の貴族の家なら、
「お帰りなさいませ、旦那様」とか、
「ようこそお越しくださいました、お客様」とか言うのかもしれない。
だが、その「執事」も「門番」同様、無言だった。
ここまでは、「無口すぎる使用人たち」は別にするにしても、他の邸宅の佇まいといささかも変わったところはない。
「入りたまえ」
閣下にうながされ、中に入った。
ここからが、普通の邸宅とは全く違った。
と言って、石造りの二階建ての建物はどちらかと言えば簡素過ぎるきらいはあるにしても、多くの邸宅や集合住宅や新兵訓練所と同じようにホールの奥に緑のアトリウムがあり、その中庭を取り囲む形式の作りになっていることもまた、変わらない。
違うのは、中にいた人々だった。
玄関ホールに一歩足を踏み入れると、忙し気に行きかうのは皆カーキ色のテュニカに黒革帯を胸の前でクロスした軍服を着た軍人ばかりだった。
しかも、入ってすぐ、ホールの隅にデスクを置く受付の女性士官までいた。ヤヨイと同じブルネットに碧眼だが、うらぶれた酒場によくいる中年の女将のような太々しい態度で、閣下を見ても敬礼もせず、初めて訪れたヤヨイをニチャニチャガムを噛みながら胡散臭げに見上げていた。
しかも、軍服の胸には金のアザミ。下士官の最高位。准尉に当たる人だ。
思わず右手を挙げて敬礼したヤヨイを、ふっ、と鼻で笑った。
「可愛い子ね。いらっしゃい」
しわがれた、喉が酒焼けしたような低い声。やっぱり、スブッラの路地の奥の小汚いバーの女将(マダム)みたいな、雰囲気・・・。
「ここではいちいち敬礼せんでいい。こっちだ」
切り石を敷き詰めた床の上をサンダルの音をスタスタ響かせ、閣下はアトリウムの中に入って行った。
え、アトリウム? 中庭のベンチがオフィスなのか? なんとのどかな・・・。
だが、もちろん、ここはそんなのんきなところではなかった。
普通の邸宅と違うところがここにもあった。
アトリウムの一画に地下に降りる間口の広い階段があり、そこからカーキ色の一団が駆け上がって来たかと思えば、彼らを見送って二三の士官が階段を降りて行ったりしていた。
ヤヨイにもようやく呑み込めた。
この「特務部隊」のオフィスは一般の邸宅に偽装(カモフラージュ)しているのだ。
この特務機関の中枢は地上に出ている部分ではなく地下にあるのだった。そこで行われていることが何かは、ヤヨイはまだ、なにも知らない。
階段を降り、閣下について回廊を歩いていると、向こうから懐かしい顔が歩いて来るのが見えた。
「ヤヨイではないか」
「先生・・・」
黒い髪を短く刈り込んだ、昔馴染んだ精悍な東洋風の面差しがそこにあった。
言われてみればウリル閣下にどこかよく似たところがある、壮年の男。ちょっと年取ったかなとも思えたが、イマム先生はまだ閣下よりもだいぶ若く見えた。弟だったのだから、当然だ。縁、というものの不思議さを、いまさらのように思った。
先生は、カーキ色のテュニカの袖から日焼けした逞しい二の腕を覗かせ、その熱い胸板の上で腕組みをした。まっすぐにヤヨイを見つめ、眩しそうに眼を瞬かせていた。
「お久しぶりです、先生」
「・・・元気そうだな」
先生はヤヨイの軍服姿をしげしげと眺めた。
「はい。おかげさまで。先生は今もリセで・・・」
「まあな。ここと掛け持ちだ」
イマム先生はニヤリと笑った。
「久しぶりに手合わせするか」
傍らの閣下を顧みた。イマム先生によく似た、いくぶん厳めしい顔がウム、と頷いた。
「オフィスで待っている。終わったらイマムに案内してもらいたまえ」
そう言って、閣下はスタスタ行ってしまった。
「道場に行こう」
ヤヨイは先生の後について、さらに地下に潜る階段を降りて行った。
ズダーン! ドンッ、ドンッ!
遮蔽されてはいるのだろうが、くぐもった銃声が聞こえて来た。
道場は銃器の練習場の隣にあるらしい。
邸宅の庭に所々設けてあるのだろう、明かり取りのおかげで地下と言っても暗い印象はなかった。その葦を編んだ敷布が敷き詰められた道場も、高い天井からの灯りが降りてほの明るい印象を与え、そこには葦の香ばしい香りが立ち込めていた。
イマム先生はサンダルを脱ぐと誰もいない道場を横切り、片隅の木製のロッカーを開けた。そしてカーキ色の軍服を脱ぎ始めた。
「お前も着替えろ。ここに道着がある」
ヤヨイもまた彼の隣のロッカーを開けた。中に青い道着が吊るしてあった。
カーキ色の軍服を脱ぎ、すでに殺気を孕んでいる先生の逞しい裸体を見ながら道着に着替え、黒帯を締めた。
イマム先生は、ヤヨイがリセ(中学校・高校)に通っていたころの体育の教師だった。
まわりの年上の男の子たちから揶揄われ、ちょっかいをかけられてイヤな日々を過ごしていたヤヨイを救ってくれたのが、彼だった。
彼にカラテを伝授されたヤヨイは、もう男の子たちにちょっかいをかけられることはなくなった。技を使うことはなかったが、男の子たちはヤヨイの身体全体から醸し出される「殺気」のようなものを感じ取ったのか、以来もう誰も揶揄ってきたりはしなくなった。
その「殺気」も、先生から教わった。
そして、ついでに大人の男の味も女の悦びも、教え込まれた。彼の身体のことは隅々まで記憶していた。こうして並んで着替えていると、その日々がつい昨日のことのように、想い出された。
だが、今はもう官能の時間ではなかった。
ヤヨイの方が先に着替え終わり、道場の真ん中に正座して師匠を待った。すぐに先生が彼女の前に座り、二人同時に両手を畳に付き、礼をした。
サッと立ち上がり、ヤヨイは構えた。先生は自然体で彼女に対した。
「手加減無用だ。本気で潰す気でかかってこい。
お前の任務のことはウリルから聞いた。4年前に伝授した技がどの程度成長したか、あるいは錆びついたか、見定めてやる」
ヤヨイは無言で頷き、尊敬する師匠を睨み据え、ジリジリと間合いを詰めた。広い額にかかるブルネットの前髪の下の碧眼が静かに燃えていた。
キェーッ!
気合いを入れた。
先生はまだ自然体のままだった。表情も変わらない。だが、凄まじいほどの殺気が伝わってくる。気合を入れたのは、その殺気に食われないように、だった。
人を殺そうとする者は、それが訓練された者でもそうでないものも、「気」のようなものを発する。
「帝国語ではZeichen(気配 気)とか、Mordlust(殺気)と訳すのか知らん。Aura(オーラ)と訳すべきなのかもしれん。カラテを生み出したヤーパンの言葉では『気』という」
「Ki?」
まだローティーンだったヤヨイに、イマム先生は教えてくれたものだ。
「そうだ。『気』だ」
先生は、言った。
「これは念力とか超能力みたいな、超自然的なものなどではない。
人が誰かに殺意を抱くとき、自ずから発する匂いのようなものだ。
誰かを殺そうなどと思っていると自然に緊張が生まれる。緊張すると呼吸が乱れ、汗をかく。手足にムダな力が入り、漲(みなぎ)る。それらの変化は自ずと匂いを産む。足の指先にも力が入る。ムダに地を踏みしめる足の音は、平素とは違うものだ。
そして、目だ。殺意を抱いた者は、必ずその眼に『気』を宿らせる。
『気』は、それら化学的物理的光学的な変化の総称だ。
その変化を、感じ取れ。相手の『気』を掴むのだ。
そうすれば、相手の機先を制することができる」
構えを取りつつ、ヤヨイは恩師の教えを思い出していた。
自然体ではある。だが、目の前の恩師は、凄まじいほどの殺気を放ち過ぎていて、いつそれが来るのかまったくわからない。怯みそうになる心を、懸命に、励ました。
そして、仕掛けた。
まず、得意技の左回し蹴りを繰り出した。
間合いを十分に詰め、一瞬で左足で床を蹴り、相手の懐に飛び込み右足を軸にして音速より速く身体を、左足を回し、先生の左の首付近に踵の一撃を見舞った。
たいていの相手は、この一撃で首の骨を折られ、即死する。
だがその攻撃は簡単に弾かれた。
ヤヨイもそれは予想していた。だから、回転の余力を利用して続けて右の手刀を繰り出した。ところが、それも躱され、気がついたら体が宙に舞っていた。
ズダーンッ!
隣の小銃の銃声より大きく、ヤヨイの身体は大きな音を立てて畳に叩きつけられていた。
床に叩きつけられる寸前に受け身を取ったけれど、めっちゃ、痛い・・・。腹も撃たれていた。
「スピードが上がったな。気迫も強くなった。だが、いささか技の切れに欠ける。やはり、4年のブランクは大きいな」
息を荒げ、先生に撃たれた腹を抑えつつ、ヤヨイは立ち上がった。咄嗟に腹の筋肉を緊張させていなかったら、内臓が破裂して即死していたろう。それほどに、彼の拳は強力だった。
再び、構えた。
「まだ来るか。だが、同じだぞ」
先生の左腕が赤く腫れていた。ダメージは与えたようだった。
先生の強さは自然体の強さだ。どんな状況でも冷静さを失わない。常に平常心を保ち続ける。だから、『気』を感じ取ることができる。ヤヨイよりも、速い。
まだまだ先生の域には遠く及ばない。でも、未知の任務に就く前に自分の今の限界を知ることが出来てよかった。
ヤヨイは構えを解いた。
「しばらく見ないうちに、いい女になったな、ヤヨイ」
先生の身体から放たれていた凄まじい殺気が消えた。彼は、10代のヤヨイを夢見る少女から大人の官能を備えた成熟した女へと導いた魅力的な男の顔に戻った。
「ありがとうございました。どんな任務に就くかは、これからなんです。でも、その前に手合わせいただいて、よかったです」
「任務に赴く前に、またやろう」
と、イマム先生は言った。
ヤヨイはオフィスに入った。
道場と同じで窓はない。天井に開いた明り取りから降り注ぐ陽光が明るい化粧岩の床と壁に反射し、部屋の隅々まで充分に光を行き届かせていた。
閣下はトーガ姿の元老院議員から軍服を着た軍人に変っていた。胸の徽章はなく、金の縁取りのある茶色の肩章。陸軍少将の階級章だ。戦場ではこの肩章で茶色のマントを留める。
気が付けば、いつの間にかリヨン中尉が居て士官にあるまじき不行儀ながらポケットに手を突っ込んで壁にもたれていた。
ヤヨイがオフィスに入るとリヨン中尉はドアをロックした。
ちょっと、ビビった。
「そこに掛けろ」
ヤヨイはデスクの前の肘掛け椅子に座った。中尉はふたたび壁際に肩をつけて立ち、腕組みをした。
「気が済んだか」
と、ウリル少将は言った。
「・・・はい」
少将はウム、と頷くとデスクの上のファイルを開いた。
「お前にはこれからいろいろと仕込まねばならん」
いつの間にか、「キミ」が「お前」になっていた。
「小銃の撃ち方、乗馬、馬上射撃。暗号の作り方解き方、ナイフの格闘術も。そして、潜入捜査のABC(アー、ベー、ツェー)。対象に取り入り隠密に調査し、かつ、対象に正体を気取られず行動する術・・・。
時間はあまりない。だが、万難を排し、それらを完全にマスターすることだ。
まず、作戦の詳細を、説明する」
こうして、ヤヨイはエージェントとしての教育を徹底して、受けた。
そして、2か月が経った。
帝都の北駅、そのプラットフォーム。帝国北方の街シュバルツバルトシュタット行きの列車に乗り込む大勢の新兵たちの群れの中に、完全軍装をしたヤヨイの姿があった。
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