さくらが池 ~白鳥に恋し、妃になった人妻~

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さくら、白鳥の妃になる

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「さくら。わたしと一緒に飛んでみないか」

 え?

「飛ぶですって? 無理。出来るわけない」

「見てごらん」

 王子が羽を広げてさくらの身体を曝した。さくらは、自分もまた大きな翼を持っているのを知った。

「なにこれ・・・」

「おいで、さくら」

 ベランダの掃き出し窓が開かれ、池を渡ってくる、冬にしては温かな南風が部屋に吹き込んできた。

「見ててごらん。飛び立つときは、こうするんだ」

「あっ・・・」

 ベランダの手すりを軽々と乗り越え、王子の身体は空に向かって飛びだし、さくらの視界から消えた。

「王子!・・・」

 慌てて窓の外に飛び出したその先の空(くう)を、一羽の大きな翼を広げた美しいオオハクチョウが向かい風を翼一杯に孕み天高く舞い上がって行った。

「簡単だろう。さくらも出来るよ。大きく翼を広げて思い切って飛び出してごらん」

「ちょ、え、でも・・・」

 なぜ翼が生えているのか、どういうしくみでそうなるのか。翼があるからといってそれが力学的にというか物理的にというか空を飛べる保証がどこになるのか・・・。

「大丈夫。さくらは飛べる。わたしを信じて飛び出すんだ。さあ!」

 池の上を大きく旋回しながら王子はさくらに呼びかけた。

 信じる。

 言葉は単純だが、それを安易に試す勇気はさくらにはなかった。

 麻薬でそういう幻覚を見て飛び降りて死ぬ人の話をきいたことがある。さくらが今しようとしているのはそれではないか。さくらはアイを置いて死ぬわけには行かない。だが、そうした常識と慎重さがどんそん消えて行く。目の前には王子の言葉と王子の翼だけがある。

 飛ばねば。その言葉だけがくっきりと残る。

 目を閉じ、手すりを超えた。

 さくらは大きく空(くう)に身を躍らせた。

「きゃーっ!」

 さくらの身体は重力に従い地面に向かってスーッと落ちて行った。

「翼を後ろから前に! ゆっくり力強く風を抱くんだ。風を抱け、さくら!」

 無我夢中で言われたとおりに大きく翼を広げ、前に向かって一掻き、二掻き。すると不思議に風を捉え、落下は止まり、一瞬だけ胸と二の腕に傷みが走ったが、すぐにさくらの身体は重力に逆らって上昇を始めた。

 さくらは完全にオオハクチョウになっていた。

「あ、あ、あ・・・」

 信じられないことが、現実に起きた。さくらは、飛んでいた。

 するとそばにスーッと王子が寄って来て語り掛けた。

「飛んでる。飛んでるよ、さくら。言っただろう。さくらは飛べるって」

「本当だ! わたし、飛んでる・・・」

 さくらと王子は二人並んで、三号館から一号館、池の周りを廻って住宅地や雑木林の上を超え、何度も旋回を繰り返しながら、さらに高度を上げていった。

 風は冷たかった。でもそれが何故か心地いい。

 こんなに素晴らしい世界があったなんて。

 飛行機のキャビンから窓の外を眺めたことは何度もある。だけどこれはその視界と全く違う。自由が、違う。

 重い身体が無い。眼下の景色以外何もない。なにも掴まるところがない。それだけでは不安だが、さくらには翼がある。羽ばたけば羽ばたくだけ、さくらは自由に飛翔できる。機械や道具は一切ない。生まれたままの丸裸で空を泳いでいる。今までの世界が全て眼下にある。

 飛ぶ前は半信半疑だったが、実際にこうして空を舞っているとクヨクヨ考えていたことどもが全てバカバカしく、取るに足りないもののように思われた。

 すると住宅地の西の田んぼや川に朝食を摂りに行っていた王子の仲間たちが一羽、また一羽と戻って来てさくらの周りに並んで飛びはじめ編隊を作った。

「飛ぶときは脚をまっすぐ後ろに伸ばす。すると風がもっと友達になってくれるよ。

 みんなが言っている。おめでとうと。わたしたちは認められたよ。

 さくら、わたしたちは夫婦(めおと)になったのだ」

 池に降りよう。

 王子がみんなに言うと、仲間たちは一羽ずつ順番に編隊を解き、下へ向かって急降下して行き次々に池に着水していった。

「水に降りるときは脚を出して。すると翼が立つ。飛び立つときと同じように大きく羽を広げてふんわりと。水かきで水を蹴って水に踏ん張るようにしてブレーキをかける。わかるかい?」

「うん。やってみる」

 少しずつ翼を絞り、王子とさくらは旋回しつつゆっくりと高度を落とした。そうして仲間たちが両側に居並ぶ中をなんとか危なげなく着水することができた。

 水が温かい。身体を水に委ねた。そのうえにプカプカ浮いていると楽しい気分になる。ふとみると、さくらのすぐそばに王子が降りて来た。水しぶきの少ない、完璧な着水だった。

 王子はすぐにさくらに寄り添ってきた。

「・・・出来たじゃないか」

「・・・うん」

 見上げる王子の横顔に優しい微笑みが浮かんでいた。

「見てごらん」

 さくらは王子の視線の先を追った。

 さっきまでいた、三番館506号室のベランダがあった。リビングの窓が空いていて、洗濯物が風に翻っていた。さっきまでさくらがいた、人間の世界だ。

 ウッドデッキのほうに人の気配がした。茶色いベレー帽の先生が観察に来ていた。

 さくらは水の中で忙し気に脚を動かしてそちらの方へ寄って行った。

 おはようございます。

 つい、いつもの通りに挨拶してしまったが、先生は口をパクパクしていて声が聞こえなかった。いつもの優しそうな笑みを浮かべてさくらを見下ろしていた。

 昨日まで、先生と同じ世界にいて同じように池を見下ろしていた。そのことを思うととてつもない不思議が起きたわけだが、違和感はまったく覚えなかった。そこに、池の上に浮かんで先生を見上げるのが当然のことであるかのように、さくらは感じていた。

 王子が寄って来た。

「あの人が言っているよ。私の言った通りでしょう、と。ご結婚おめでとう。そう言ってくれているよ。

 人間だけれど、あの人はわたしたちの心が読めるようだな・・・」

「・・・うん」

 さくらは応えた。そして先生に向かって二度ほど頭を下げ、翼を動かして見せた。

「さくら。妻になってくれて、ありがとう」

「王子・・・」

 二羽のつがいは向かい合わせになってお互いのあたまの上を突き合わせた。人間から見るとそれはまるでハートマークを作っているように見える。


 

「とても楽しかった。そして素晴らしかった。こんな世界があったなんて、知らなかった・・・」

 三号館506号室のベランダで、二人は並んで池の上に羽を休めている白鳥たちを見下ろしていた。

 二人とも人間の、生まれたままの素裸でいるのだが、不思議なことに恥ずかしいという感情がない。それにどうも周りの人間からは見えないらしい。どうやら昨日王子がお隣の旦那さんの目に映らなかったのと同じ理由らしい。どうしてなのかはわからない。

「それは、わたしにもわからない」

 と、王子は言った。

「わたしたちはみな、身体の中にどこにいても方角がわかる力を持っている。どんな嵐に見舞われても空が曇って太陽の陽射しを浴びなくても、わたしたちが方角を見失うことはない。

 さらにこの旅に出る前に、わたしは王である父から特別の力を譲り受けて来た。おそらくは、それにかかわりのあることかもしれない。わたしの国の代々の王に伝わっている力だ。王は国の民を守るために、その力を使うのだ」

 気だるさは、こころよくまで愛を交わした後の満足感に似ていた。

 これは夢ではない。

 さくらはたしかに飛んだ。いつもの家を、今目の前にしている風景を、住宅地を、全てを手のひらに収まるほどに小さく見下ろす、高い空を飛んだ。その証なのか、少し胸と二の腕がだるい。腹筋も少し張っている。明日当たり筋肉痛が来そうな予感がある。初めてスポーツジムに行った日、これと似たような感覚になったのを思い出す。

 だが、こうして落ち着いて気だるさを帯びる現実に戻ってみると、さらに自分の家に戻り顧みると、重力に囚われて両足を床に着けてみると・・・。空に舞い上がっていたときには些末なことに思えたすべてのことが、さくらに重くのしかかって来ていた。

 今の生活。ご近所のこと。町内会。小学校。夫の和也のこと。さくらの両親。義両親・・・。あまりにも些末な、だが無視できないことどものなんと多いことか。人間であることの、なんと重いことか・・・。

 そして、アイ・・・。

 夫を含め、それ以外は目を瞑って置いても、娘だけは、アイだけは、別だ。

 可愛いアイを置いて行ってしまうなど、絶対にない。王子とのどんなに素敵な快楽も、すばらしい世界も、アイなくしては全て色褪せる。アイだけは、絶対に、手放せない・・・。

「簡単なことだ」

 さくらの心を読んだ王子は、彼女の髪を撫でながら優しく言った。彼女の髪にも、王子と同じ金色のメッシュが入っていた。

「さくらの娘は、わたしの娘だ。アイも一緒に、誘(いざな)えばいい・・・」


 

 学校から帰って来たアイは、さくらの髪の金色のメッシュと初対面の王子を見て不思議そうな顔をした。

「ママの友達。オウジさんていうの。ごあいさつは?」

「こんにちは。・・・真っ白だね」

 子供は遠慮がない。だが、王子も人間ではない。

「アイだね。わたしは王子。一緒に遊ぼう」

 夕食を食べパジャマに着替えたアイは、白いシャツに身を包んだ王子のあぐらのなかにすっぽり収まり、絵本を読んでもらっていた。実際には絵本を読んでいるアイの心を読んでいるのをさくらは知っている。傍目から見ると王子がアイに読んでやっているように見えるだけのことだ。

「白鳥たちが池で穏やかな日を送っていたある日のことです。水草を食べていた白鳥たちの池のほとりに猟師がやってきました。

「りょうし、ってなに?」

「動物を捕まえて殺してその肉や革を売って仕事にしている人だよ」

 さくらは彼の白いジャケットとベストに開いた穴を裏地をあてて繕いながら、王子の声に耳を傾けていた。

「猟師は言いました。

『おお。立派な白鳥がいるぞ。白鳥の肉を食べると長生きできるという言い伝えがある。村に持って帰れば高く売れるぞ・・・』

 そう言って猟師は白鳥たちの群れに静かに近づき、弓に矢をつがえて的を絞りました。

 シュッ・・・。

 くああー! 

 池の群れからひと際甲高い白鳥の声が上がりました。

 矢は猟師が狙った鳥ではなく、頭に金のかんむりをつけた若い大きな白鳥に当たったのです。

 それは、王子でした。王子は王様から言いつかった教えを守り、仲間を助けるために仲間をかばって身を投げ、撃たれたのです・・・」

「王子、かわいそう・・・」

 アイは本ではなく、王子の横顔を見上げ、悲しそうに涙ぐんでさえいた。本の中の「白鳥の王子」への感情移入なのか、もしかするとすでに目の前の王子と心を通わせててもいるのか・・・。

「同じだよ」

 王子はアイと絵本を読みながら、同時にさくらにも語り掛けていた。

「本の中の王子でも、今目の前にいるわたしでも。アイはさくらと同じで、心の優しい勇敢な王女になるだろうね」

 もし、アイが今の生活ではなく王子と共に、王子の娘として生きることを望むなら・・・。
    その時は・・・。

「・・・そこへ村の娘が通りかかりました。娘は森の動物たちの友達で、動物の大好きな心の優しい娘でした。いつも森のくまやきつねやこじかやうさぎやへびたちと一緒に遊んでいたのです。もちろん、鳥たちとも友達でした。

『まあ、たいへん。いったい誰がこんなにひどいことを・・・』

 池のほとりで撃たれて苦しんでいる白鳥を見つけ、娘は心を痛めました。

『あの猟師だよ』

 青いカワセミが教えてくれたほうを見ると、その猟師は二本目の矢をつがえようとしているところでした。

『やめなさい! それいじょう動物たちをイジめるのは許しません!』

 娘がいうと、

『なにを、生意気な。邪魔だ。向こうへ行け』

 なおも矢を射かけようとする猟師に、娘の友達の動物たちは襲い掛かりました。

 まずくまが体当たりして猟師を倒し、次にへびが猟師のあしに絡みついて動けなくしました。そこをすかさずきつねが弓を奪い、こじかとうさぎはその力強い後ろ足で猟師を痛めつけました。最後にくまが猟師のからだの上にドンと乗って、猟師は降参しました。

『わかったよ。もう白鳥は狙わない。この森の動物たちも。だからもう許してくれ・・・』」

 あたしも白鳥さんを撃ったヤツ、やっつけたい!

 絵本を読み終わると、アイは足をドンドンして怒りをアピールした。

「本当かい。アイも白鳥たちを守ってくれるかい」

「うん。絶対悪い人見つけて懲らしめてやる!」

「なら、アイに力を与えよう。一緒に悪い人を見つけてやっつけよう。アイ。わたしと一緒に白鳥になって、空を飛んでみたいかい?」

「うん!」


 

 王子の傷も癒えた次の日の土曜日。

 二人が一緒に池のほとりの雑木林に入ってゆくのを、さくらはいささか不安な面持ちでベランダから見守っていた。

 しばらくすると、大きな白鳥とだいぶ小さな白鳥がペアになって雑木林から出て池に入ってゆくのが見えた。小さな鳥は大きな白鳥の後ろにくっつくようにして池の上を泳ぎ始めた。小さな鳥の頭には赤い強毛が斜め後ろに生えているのが遠目からでもよく分かった。

   彼はさっそくアイに飛び方を教え始めた。

 二羽は池の端まで行くと止まった。そして大きな、頭に金の天使の輪を持つ白鳥が羽ばたきながら水面を蹴って飛び立つのが見えた。

 小さな白鳥はしばらく黙ってそれを見ていた。なかなか飛び立つ気配はなかった。

 がんばれ、アイ!

 さくらは心の中で赤い強毛の娘に声を掛けた。

 前もって、王子から言われていた。

「自分で飛び立てるようになるまで、さくらは人間のまま見守っててくれないか」と。

 大きな白鳥の王子が再びアイのもとに舞い降り、モジモジしている娘を励まして飛び立たせようと促してくれた。でも、アイはいっかな飛び立とうとしなかった。

 いてもたってもいられなくて、さくらは部屋を飛び出しエレベーターで下に降りた。一号館前のウッドデッキに立って一番奥の池の端にいるアイを見た。

 さくらは叫びたいのをガマンして大きく手を振った。ここまで来なさい。そう心で念じた。

 さくらの姿が見えたのか、小さな白鳥が翼を何度かばたつかせ、飛び立とうとしているのが見えた。

「おや、新しい若鳥がいる。初めて見る子だな・・・」

 いつの間にか先生が隣にいた。

「おい君、若鳥の数確認してあるか」

「全部で8羽です」

「あとからもう一度数えて見なさい。それにしても、おかしいな・・・」

 先生と目が合った。

 それからもう一度、アイに眼を転じた。そして、手を振った。

 アイはさくらに気づいたのかさっきより大きく羽ばたこうとしていた。羽ばたいて何度もフワッと身体を浮かせては翼に風を送り込みつつ水面を蹴ろうと懸命になっていた。そのすぐそばに王子がいる。アイの横で何度か飛び立ちの形を見せ、一生懸命に身体で離水を促そうとしていた。

 そして、何度か数メートルほどの助走に成功して離水の形になっては、失敗するのを繰り返していた。

 先生は学生さんにビデオを撮っておくよう指示した。

「いいか。しっかり抑えておけよ。親鳥が子供に飛ぶのを教える貴重な映像だ」

 さくらは手を合わせ、祈った。

 アイ、がんばれ! もう少しだよ。がんばれ、アイ・・・。

 すると、さくらの祈りが通じたのか、アイは大きく羽ばたきながら脚で水面を蹴り、蹴り、蹴りまくり、蹴りまくりながら、さくらの方に向かって突進してきた。だが、早く上昇しないとそのまま対岸に、さくらのいるウッドデッキに激突してしまう。

 そこよ! そこで大きく、もっと大きく羽ばたくのよ! 風を巻き込むのよっ!

「ガンバレ、アイ!」

 思わず声が出てしまった。

 アイにそれが聞こえたのか、ひときわ大きく羽ばたいたかと思うと離水し、さくらと先生の頭スレスレを水しぶきをまき散らしながら通過して、一号館の建物にぶつかる寸前にターンし、池の上空をらせんを描きながら高く高く舞い上がって行った。

 それを王子が一直線に追った。

 アイのすぐ下後方に位置し、アイの羽ばたく力が衰えかかるたびに、長い首を伸ばしてアイの腹や胸をチョン、チョンと突きあげてやる。するとアイもそれに応えて踏ん張ろうとする。上昇気流を捕まえるまでは気を抜くな。王子はきっと娘にそう教えているのだろう。

 たまらずに駆け出した。三号館に入ったがエレベーターが上の階にいるので階段を駆け上がった。四階と五階の踊り場辺りで二人の飛翔を見た。

「お前も来い、さくら!」

 王子の声がしたような気がした。

 迷うことなくサンダルを脱ぎ、踊り場から身を躍らせた。さくらもまた二人と同じオオハクチョウになって舞い上がった。頭に天使の輪をつけた親鳥が二羽になった。

 もしかするとビデオに撮られたかも・・・。

 だがそんな考えはすぐに消え去った。そのような些末なことはもう、どうでもいい。

 羽ばたいて羽ばたいて・・・。間もなく二人に追いついた。

「ママ!」

「アイ!」

 さくらはそれほどまでにうれしそうな声を上げて喜ぶ娘を、初めて見た。

 その日マンションと付近の住宅の住民たちは、マンション上空の冬空を、二羽と小さな一羽のオオハクチョウが嬉しそうに飛び回っているのを、空が赤みを帯びるまで見守り続けていた。


 

 赤い強毛のアイは日に日に飛行の習熟度を高めていった。さくらより上手そうだった。

「年齢のハンデがあるでしょ!」

 娘相手にムキになったが、そういうところも王子は「可愛い」と言って包み込んでくれる。

 そのうち王子の付き添い無しで他の若鳥の仲間と西の田んぼや川にまで行くようになり、

「ママ、きょうはゲンゴロウとゴカイを食べたよ! ゴカイは甘かったけど、ゲンゴロウはちょっとニガかった」

 家に戻って嬉しそうに言う娘に違和感が拭えなかった。

「貴重なタンパク源だからさくらも慣れておく方がいいと思う。鳥の姿に慣れてしまえば味はあまり関係なくなるから・・・」

 王子に言われるといずれは慣れなくてはならないかと思わないでもなかった。

 もちろんのことだが、アイはTVも観なくなったしゲームもしなくなった。学校の友達と遊びに行っても自転車では行かなくなった。鳥の姿で近くまで行って建物の陰に降り、

「おまたせ」と言って一緒に遊び、

「じゃあね」

 といってまた建物の陰に入って赤い強毛の白鳥になり空に舞い上がる。

 マンションのベランダに舞い降りて「ただいま」を言うようになった。多少泥だらけになることが増えたが、そんなことは些細なことだと思えるようになった。いつしかアイは506号室のドアを、ランドセルを背負ったときしか使わなくなった。

「王子ィ!」 

 アイは彼をそう呼び甘えるようになった。王子が見回りから帰ってくるとすぐに飛びついてじゃれた。夫がいたころにはそんなアイを見たことが一度もなかったのを思った。
   
   理屈ではない。さくらがそうだったように、アイもまた知ったのだ。白鳥になって空を飛ぶ素晴らしさを。

 506号室での団欒で、

「あの○○がね、」

 と一緒に田んぼに遊びに行ったオオハクチョウの仲間の名前を言うのだが、人間のままだとよく聞き取れない。

「あたしのこと好きみたいなの」

 そんなことまで言うようになった。アイは人間でいたときよりも急速にマセてきた。

「そうか。じゃあ、次の旅までにその気持ちが変わらないなら、その時は・・・」

「でもね、どっちかっていうと、□□のほうがいい。だって優しいんだもん・・・」

 王子が急に無口になるのを初めて見て、ちょっとおかしかった。

 このまま自分もアイも白鳥の世界に馴染んで行ってしまうのだろうか・・・。

     そうなったら、そうなった時のことだな。

     白鳥の世界を知らなかった時よりも、さくらは些末なことに囚われるのが少なくなっている自分を感じていた。

    ふと、初めて出会ったときに彼を襲ったボーガンの犯人のことが気になった。もう一度犯人が現れてアイや王子や仲間たちが襲われたらどうしよう、と。

「もう一度会えばわかる。至近距離だったから臭いでわかる。もう一度会ったら、必ずわたしが捕まえる。決着をつけてやる。もう二度と仲間たちを襲わせないようにするために」

「くれぐれもやりすぎないでね、王子。わたしも一緒に戦うから」

「勇ましいなあ、さくらは・・・」

 そう言って王子はフッと笑った。もう、さくらの愛情は完全に王子とアイに注がれていた。
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