さくらが池 ~白鳥に恋し、妃になった人妻~

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白鳥の王子

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「どこです。どこにいるんです」

「ここです。明かりを消してもらえませんか。そうすれば、わかります」

 消した途端に飛び掛かって来るのではとも思ったが、論理的におかしいとも思い、言われたとおりに懐中電灯のスイッチを切った。

 すると一瞬だけ、雑木林の向こうの家々の灯をバックにして白鳥の姿がシルエットになったような気がした。シルエットはすぐに消えた。すると、そこに若い男性が横たわっているのが暗闇に慣れた眼に映った。

「まあっ! どうしたんです。大丈夫ですか?」

「すみません。ちょっと、うっかりして、ケガをしてしまって・・・」

 その若い男の服装はあまりにもその場に似合わないものだった。

 真っ白なスリーピース。真っ白なエナメル靴。どこかの金持ちの家のボンボンがクラブの帰りにケンカでもしてやられたのか。そんなストーリーが似合いそうな風体だったのだ。

 よく見ると、ベストの腹の部分に血が付いている。

「あなた、ケガしてるじゃありませんか!」

「ええ。ですので、さっき申し上げました。ケガをしている、と」

 なんか、言葉のやり取りがおかしかった。顧みると自分がおかしい。ケガをしていると言っている人に、ケガしてるじゃないですか、なんて・・・。

「救急車呼びます」

「それはやめてください。しばらく寝ていればなおります」

「でもこんなところで。凍死しちゃいますよ。それに止血しないと・・・」

「血はもう止まりました。仲間たちもこんなふうに眠りますから、平気なんです。お願いですからそっとしておいてくれませんか」

「あなた、何を言っているんですか。バカ言わないでください。こんなケガして、こんな場所で・・・。しかもそんな恰好で。見過ごせるわけが無いじゃありませんかっ!」

 さくらは青年のそばに寄った。何かコロンをつけているのか、青年からは不思議な香りがした。気が遠くなりそうな、気持ちのいい甘い香りだった。

「とにかく、ここじゃダメです。温かい所に行かないと・・・」

「・・・わかりました」

 と、青年は言った。

「では、あなたのお部屋に連れて行ってください。少しなら、歩けますから」

 そこで、グッと詰まった。

 え? と。

 さくらは単身赴任中とはいえ夫のいる身。その夫の不在中に・・・。

 でも、彼は見たところ重傷を負っている。病院には行きたくないし救急車にも乗らないという。何かの事情があるのかもしれないが、冬の最中、雑木林の叢のなかで寝ていれば治る、なんて。そんなバカげたことを見過ごせるわけがない。何か理由があって人目を避けているのだ。

 もしかすると犯罪者だろうか。

 だから人目を避けるのだろうか。でも犯罪者がこんなハデな恰好で雑木林に寝たいなどと言うだろうか。さくらに見られたら普通は通報を恐れて逃げ出すかその場でサクラの口を封じる、つまり殺してしまおうとするのではないだろうか。ということは彼は犯罪者ではないのでは?

 普通には見えないが、とにかく罪を犯している人ではない。そんな人を放っておいて死なれたらどうするか・・・。

 あまりにも夢見が悪すぎる。それに、これも何かの縁だ。

 それに・・・。

 近くで見る彼は、TVタレントや俳優やモデルばりの、イケメンではないか・・・。

 ほお・・・っ。

 さくらの逡巡は一瞬にして吹き飛んだ。

 そのせいか、思い悩むポイントが、なんか、ズレた。彼をどうするか、ではなく、どうやって彼を部屋に入れるか、に。もう部屋に入れるのが前提になってしまっていた。

「少しなら歩けると、おっしゃいましたね」

「はい。飛べませんが、歩けます」

 なんか・・・。

 やっぱり、この人はなんか、どこかおかしい。ひょっとして、クスリか? クスリでブッ飛んでいるからだろうか。だから「飛べません」なのか。そう思いつつも、手を差し伸べていた。彼の手は、死ぬほど冷たかった。思わず引っ込めそうになった手を辛うじて耐えた。

「こんなに冷え切って・・・。死んでしまいますよ」

「わりと平熱ですけれど。飛べばあったまりますから」

「・・・」

 もういい。

 もういちいち反応しないことにした。今からさくらがしようとしている行為は人道的行為だ。この人はケガをし、恐らくはそのケガのために精神がおかしくなっている。

「別に、おかしくはないですが」

「え?・・・」

 肩を貸して家々や街灯の灯の下に出た彼の髪の毛を見て驚いた。

 アルビノ? 俗にいう「白子」なのか、あるいは見た目の年齢よりも実は歳を取っているのか、彼の服や靴と同様、真っ白だったのだ。しかも前髪のひと房に金色のメッシュが入っている。

 あまりにもじーっとその髪に注目していたせいだろうか。

「どうしました?」

 と訊かれた。

「・・・いえ、別に」

 彼と一緒にマンションのエントランスを入ろうとしてハッと気づいた。

 こんなところを他の住人に見られたらどうしよう・・・。

 迂闊にもそれを考えていなかった。一軒家ではないのだ。エントランスだけではない。エレベーター。共用廊下。時刻はまだ12時前。これから帰宅してくる住人も多い。

「弟です」

「甥です」

 それがこの真っ白けっけなのは、どうしてですか。

「ハロウィンの仮装です」

 それはもう過ぎた。

「学芸会の・・・」

 無理。

「彼の会社の宴会の・・・」

 ほう、結構な会社にお勤めで、はは・・・。

「実はちょっと病気で・・・」

 服は?

「ちょっと変わった趣味が・・・」

 どんどんレアでマニアックな方向に向かってしまう。どうしよう・・・。

「大丈夫ですよ」

「え?・・・」

 さっきもそうだったが、この人はさくらが何も言わないのにまるで心の中を読んでいるかのように反応してくる。こわい・・・。

「怖くありませんよ。自然なことです」

 それが怖いんだよ・・・。

「あ、奥さん・・・」

 飛び上がるほどに驚いた。

 エレベーターホールで恐れていたことが起こった。下の階の「バードウォッチング班」の旦那さんだ。ジャンパーにマフラー。そして懐中電灯を持っている。さくらと交代でこれからパトロールに出るのだろう。絶体絶命。もう、そのままのことを言うしかない。

「・・・どうも」

 項垂れて呟いた。

「ごくろうさまでした。あー、お疲れでしょう。何か変わったことはありましたか? 」

「え?・・・。あ、あの、特には・・・。あの、この方はそこの雑木林で・・・」

「この方?」

「・・・え?」

「・・・あ、じゃあ、これからわたしも行ってまいりますので。おやすみなさい」

 あれれ?・・・。

 旦那さんはそのままスタスタとエントランスに向かって行ってしまった。

「ね。大丈夫だったでしょう」

 と、彼は言った。

 なにこれ。

 もう、訳が分からない。この人と居ると急速に頭がおかしくなってくる。それなのにこの得体のしれないイケメンとエレベーターに乗り、絶対不可侵のはずの部屋に招き入れようとしている。

 この人はケガをしていて、病気で、この寒空に、こんな薄着で、しかも雑木林の中で寝るなどと途方もないことを言う。そんな人を放って置くなんて出来ない。救急車もイヤ、病院もイヤ。交番は? そう言えばまだ訊いていなかった。でもきっと結果は一緒だろうな・・・。

「はい。交番にも行きません」

 ほら・・・。こういうふうに、また怖いことを言う・・・。

「怖くないですよ。あ、人が来ましたよ」

 エレベーターを降りて共用廊下を歩いていると隣の部屋の旦那さんに出くわした。あ、ちゃー・・・。もう、万事休すだ・・・。

「あ、奥さんこんばんは。ご苦労様です」

「・・・どうも」

 やっぱり、項垂れた。

「バードウォッチング班じゃないんですが、わたしも自発的に見回ろうと。仕事が忙しくてさっき帰ったばかりなんですが、息子にせっつかれましてね。お父さんも見回りしてってね。及ばずながらご協力させていただきます」

「あ、ありがとう、ございます・・・」

「じゃ、お休みなさい」

 旦那さんはそう言ってスタスタ行ってしまった。

 あ、れ?

 さっきの下の階の旦那さんもそうだが、みんなこの人が見えないのだろうか。こんなにめちゃハデな、クラブで遊びまくってそうな、クスリでもやってそうな人がいるのに・・・。

「あなたにとって、わたしが人間に見えているのと同じですよ。自然なことなんです」

 またヘンなこと言う。人助けしたおかげで、どっと疲れてしまった。

「大丈夫。あなたも慣れます。

 でも、わたしの目は正しかった。このマンションの人たちはみんないい人ばかりだ。この池を選んだのは大正解でした」

 もう、何が何だか・・・。

「着きましたよ」

 気が付くと、部屋の前まで来ていた。

 とりあえず彼を部屋に入れ、ソファーを勧めた。が、彼は床に直接腰を下ろした。彼の言う通り、出血はもう止まっているようだ。

「いちおう、見せてもらっていいですか?」

「どうぞ。自分ではできませんので、ボタンを外してもらっていいですか」

「・・・はあ・・・」

 もう、いちいち疑問を持つのに疲れてしまった。でも傷口を確認しないことにはここまで連れて来た意味がない。

「じゃ、失礼しますね」

 三つ揃いのベストのボタンに手をかけ、その下のシャツをはだけ、ベストとシャツを貫通したであろう傷口をあらためた。驚いたことに、その痕はちゃんと治療してあった。傷口が縫われ、消毒のための薬剤まで塗ってある。

「親切な先生のおかげで命を拾いました。とても感謝しています。でも傷から入った毒が少し残っていて、すこしだるくて、それで先生に注射してもらった薬が効くまであそこで横になっていたのです。そこにあなたが通りかかって・・・」

「・・・そうでしたか」

 そう言うより他なかった。もう理解しようとする努力を放棄した。これ以上この人と居ると頭がおかしくなりそうだった。

「ご迷惑でしょうが、せっかくお招きいただいたので、少し寝かせてもらってもいいですか。なんだか、とても眠いんです。あなたに匿ってもらって安心したせいかもしれません。先生のところでは緊張してしまって寝られなかったものですから・・・」

「・・・じゃあ、ソファーを使ってください」

「いいえ。床の上で結構です。そのほうが、落ち着くので・・・」

「そんな・・・。お客様にそんなところで寝ていただくわけには・・・。

 そうだ。せめてお風呂に入ってください。帰ったら入ろうと思ってまだボイラーを止めていないんです。充分温かいと思います」

「わたしの国ではお風呂に浸かる習慣がないんです。行水なら毎日しているんですが」

「じゃあ、行水でもなんでもいいですから、とにかく・・・」

 言葉がうまく出なかった。彼も察してくれたらしい。気持ちを察するのは得意そうだった。思っただけで伝わってしまうなんて、初めてだ。夫には思っててもなかなか伝わらないことが多いのに・・・。

「お気の毒ですが、それはきっと、旦那さんと心が通じ合っていないのでしょうね。

 ・・・余計なことを言って申し訳ありませんけど・・・」

 そう言って彼はバスルームに行った。それを見送り、しばし意識を飛ばしていた。無意識にほっぺたをつねった。マジで、痛かった。

「あの・・・」バスルームから声がした。

「は、はいっ!」

 慌てて行ってみると、脱衣所で彼が立ち尽くしているではないか。

「あの、わたしは一向にかまわないんですが、服を着たままだと水が浴びれないと思うんです。脱がせていただいてもいいでしょうか」

 水を浴びる・・・。脱がせる・・・。ふたたび思考を停止させねばならないようだ。うん。それしかない。この人は、なんか、ちょっと、違う。普通と、だいぶ違う。

「わたしの国では、これで普通なんですがね。だいたい、生まれてから一度も服を脱いだことが無いんです」

 ああ、もうダメだあ・・・。頭がおかしくなるぅ・・・。

 きっとこんなことを考えていると大丈夫ですよ、とか言われるんだろうなあ・・・。

「そうです。大丈夫ですよ。だんだんわかってきていただけたみたいですね」

 嬉しそうに彼は言った。

「ボタンを外すのが苦手なんですよね。そうなんですね?」

「ハイ。生まれてから一度も外したことがないもんですから・・・」

 うん。思考停止だ。それでいこう。それしかない・・・。

 さくらは彼に傅いてジャケットを脱がせベストを脱がせシャツのボタンを外し、ベルトを外し、スラックスのボタンを外し、ジッパーを下ろした。

 当然だが、いささかヘンな気分になって来た。さくらは人妻で、単身赴任中だが夫がいて、その夫不在の家で、夫とは別の若い男性の服を脱がしている・・・。そういう情景は、いささかマズいのでは・・・。

「ここまでで、いいですか・・・」

「はい。後はなんとかできそうです。ありがとうございました」

 そう言って目の前でさっさと脱ぎ始めたので、慌てて視線を逸らし脱衣所を出た。バスルームのドアが開けられた時、チラと一瞬だが好奇心に駆られ振り返ってみた。

 真っ白い、女性のような肌なのに、背筋の盛り上がりがスゴかった。服の上からではわからなかったが、肩の幅もウエストの三倍はあった。完全な、完璧な逆三角形。二の腕の筋肉もお尻の筋肉の盛り上がりも夫とは比べ物にならないぐらいのものだ。ラグビーとかボディービルとか、なにか特別なエクササイズをしないとああはならないのではないだろうか。ドキドキしてしまい、リビングでお茶を飲もうとして急須や湯飲みを取り落としたりしているうちに、あること伝えるのを忘れたことに気づいた。

 もう一度脱衣所に行きドア越しに呼びかけた。

「あのー・・・」

 がちゃ。

「・・・なんでしょう」

 目の前に全くの無防備状態の裸体が披露されて心臓が止まりそうになった。

 完璧以上の腹筋。ボコボコに割れていた。それにあの胸の筋肉。体脂肪率は間違いなくヒトケタ台に違いない。そしてやはり目があの下半身に・・・。

 すぐに目を伏せたが、バッチリ、見てしまった。

 それは反則だ。反則としかいいようがない。夫を単身赴任で送り出している身にはあまりにも目の毒だった。あんな逞しいお持物、はしたないことこの上ないが、夫とは比べ物にならず、夫との結婚前に見たお持物の中でも逞しさで群を抜いていた。

「あ、あの、その籐の棚の一番上の引き出しに、夫のパジャマが入っています。それから下着はここです。まだ下ろしていないのをお使いください・・・」

 目を逸らしつつ、そう伝えて脱衣所を出た。

「ありがとう」

 彼は爽やかに微笑んでドアを閉じた。

 脱兎のようにリビングに逃げ帰り、お茶を淹れようとして茶筒の中身をぶちまけていると彼は戻って来た。ちゃんとパジャマを着ていた。ただし、ボタンを嵌めずに。胸筋と腹筋のモコモコが、眩し過ぎた。

「あ、え、・・・もう? もう済んだのですか」

 テーブルにぶちまけたおちゃっぱ焦ってをかき集めながら訊いた。

「はい。ありがとうございました。温かいお湯というのは生まれて初めてでしたが、なかなかいいものですね。わたしの国にもあるとみんなが喜ぶでしょうね」

「あの、もしかして、浴びただけですか?」

「はい!」

 そう言ってニコニコ笑う彼に、もう何かを言う気力が一切失せていた。

 さくらは黙って彼のパジャマのボタンを嵌めてやった。あの甘くて不思議な香りがリフレッシュされて香って来ていた。頭がクラクラした。こんな香りのソープは置いていないし、どこにもコロンの瓶など持っていなさそうだったのに。これが彼の体臭だとすると、あまりにも素敵過ぎる。

「じゃあ、わたしもお風呂を貰います。恐縮ですけど、そんなところでよろしければそこをお使いください」

 早くもカーペットの上にゴロンと横になって丸く蹲っている彼にそう言った。

「いろいろ、ありがとう。やはりあなたは、わたしの思っていた通りのひとでした」

 あ・・・。大事なことを訊くのを忘れていた。

「あ、あのう、お名前伺うのを忘れてました。わたしは・・・」

「さくら、ですよね」

 やっぱりか・・・。もう、いいや・・・。

「・・・はい」

「わたしはオウジです」

「ああ、あの王子駅の王子ですか」

「はい。王子です。あの、この灯り真っ暗にしてもらってもいいですか。そうじゃないと眠れないもので」

 さくらはテーブルの上のコントローラーで明かりを消した。

「ありがとう。おやすみなさい」

「おやすみなさい・・・」


 

 温かい湯舟の中で、さくらは湯気の籠る浴室の天井を見上げていた。

 このたった二時間にも満たない間に、不思議がてんこ盛り状態で、脳が追い付かなかった。

 マンションの住人には彼が見えない。こちらが思っていることは全てわかってしまう。

 お腹に傷を受けていたが、傷はちゃんと治療されて、治癒に向かっている。

 飛べば温まりますとか、しきりに「飛ぶ」を口にする。

 全て理解不能としか言いようがないが、それらの事実は、想像力を逞しくすれば、もしかすると、彼は・・・。

 だが、この二十一世紀の世に生き、小学一年生の娘を学校に通わせている母親としては受け入れがたい事実だ。もし娘が同じことを訴えて来ればきっとさくらはこう言って娘を叱るだろう。

「なにバカなこと言ってるの。それはお話しでしょ。フィクション。作り話なの。くだらないこと言ってないで、宿題済ましちゃいなさい!」

 しかし、彼のあの甘い香りを嗅ぐと、そんな些末な現実や事実などどうでもよくなってしまう。それもまた不思議だが、事実だった。

 作り物。VR。ヴァーチャルリアリティ。それなのではないか? 現実にはありえないもの。それが判っていても、わたしたちはそれを現実のものだと認識してそれを楽しんだり恐れたり感じたりする。それと同じなのではないだろうか。

 たぶん、彼のあの甘い香りが麻薬のような作用を産み、自分に架空の世界をあたかも現実であるかのように見せているだけなのかもしれない。

 傷も癒えていることだし、夜が明けたら彼には帰ってもらおう。彼が何者であるのかまだよくわからない。もしかするとアイが読んでいるおとぎ話の記憶が産んだ幻想を見ているのかもしれない。

 が、仮にそうだとしても、彼が誰であろうと、彼をこれ以上受け入れるわけには行かない。さくらはこれからもこの世界の中で全うに生きてゆかねばならないのだから。

 アイの部屋に行き、娘の上掛けを直し、あの童話の本を見つけて寝室に入った。

 リビングにはあえて行かなかった。もしかするとこのまま朝になれば、

「あれ? 王子は?」

 という展開が待っているかもしれない。そうなるなら、その方がいい。娘に読んでやった童話をもう一度読み返しながら、さくらは多くの疑問をねじ伏せて眠りについた。疑問の最後に、彼のあの逞しい肉体がチラついて困ったが、それも強引にねじ伏せ、羊を数えて睡魔を呼び込んだ。


 

 翌朝、彼は姿を消していた。

 しかし、喜んだのも束の間だった。

 脱衣所に洗濯物を整理しに行くと、しっかりあの真っ白な、穴が開いて血がにじんだスリーピースが残っていた。

 そうだっけ。彼はボタンが嵌められないんだった・・・。

 と、いうことは、彼はパジャマのまま外へ行ったのか・・・。

 さくらは慌てて首を振った。

 考えるのは止そう。とにかくここはまずアイを学校に行かせる。あとはそれからだ。

 朝食を作りアイを起こして食べさせて、ランドセルを開いて仕度を点検し、髪をとかしてカチューシャ着けて襟の捩れを直してやって、ハンカチ、ティッシュ、ジャンパーを着せ、水筒とランドセルを背負わせた。

「はい。これでよし、と。さ、みんな集合場所で待ってる。行って来な」

 玄関先で靴を履く娘の背中を見ていたら、

「ママー・・・」

 とアイが振り返った。

「この白いくつ、誰のー?」

 飛び上がるほど驚いた。

「あ、そ、それはね、パパのだよ。ほら、ずっと靴箱仕舞っておくとカビ生えちゃうでしょ。だから虫干し・・・、そう。虫干ししてるのよ」

「ふ~ん。でも、パパの他の靴より大きいねえ」

「・・・そお? 気づかなかった。パパ、足が育っちゃったのかな。ほら、もう行かないと。遅れちゃうよ」

「わかったー。行って来まーす」

「気を付けるのよ。知らない人に声を掛けられたら?」

「いかのおすしー」

「いってらっしゃーい」

 ふうっ・・・。

 そのままリビングに戻りベランダに出る。一号館から三号館まで共通のタイル張りのアトリウム。そのポプラの木の下に、このマンションの子供たちがもう集まっていた。母親の姿もある。登校の付き添い当番はまだ先だ。その集団の中にアイが駆け寄り、六年生の子が出発の号令をかけ行列が動き出した。アイがこちらを見上げているのを見つけて手を振った。娘が大きく手を振り返す。その行列が雑木林の横を抜けてこのマンションの敷地から出て行ってしまうのを見届けて、ほっとしてリビングに戻ると彼がいた。

「おはよう、さくら」

「・・・おはようございます」

 彼はパジャマ姿のまま絨毯の上に座ってニコニコ微笑んでいた。

「仲間が心配だったから様子を見に行っていました。大半が朝食を摂りに出かけたみたいです。みんな無事でした。まずは一安心です。さくらたちが見回りしてくれてるおかげです。ありがとう」

「あの・・・。一つだけ訊いていいですか」

 さくらは一つ、ゴクリとツバを飲んだ。

「あなたは、その、・・・白鳥さんなの?」

「そうです」

 ずっとニコニコしたまま、彼はあっさりそう答えた。

「そうだとすれば、ごめんなさい。これ以上あなたと一緒にいられません。頭がどうにかなってしまいそうなの。あなたのことは誰にも言いませんから、お池に帰ってくれないかしら」

「さくらが帰れというなら、今日は帰ります。でも、」

「でも?」

「わたしはさくらをわたしの妻に迎えたい。さくらにわたしのタマゴを産んで欲しい」

 二人の間にしばしの時が流れた。

「ちょ、ちょっと整理させてね。

 わたしは、人妻。結婚してるの。それにわたしは人間。あなたは白鳥。結婚も出来ないし、あなたのタマゴを産むことも出来ない。わかるわよね。わからないか。そうか。だからそういうこと言うんだよね・・・」

「さくらも白鳥になればいい。それで全部解決する」

 ・・・。

「・・・ごめんなさい。このへんでわたし、も、限界です。もうこれ以上、あなたとお話し合いはムリだわ・・・」

「わたしとさくらはお話し合いなどしていない」

「はあ? なんですって?」

「申し訳ないが、お腹が空いた。何か食べさせてもらえないだろうか」


 

 彼は炊いたご飯には手を付けず、生のコメをくれないかというので、湯飲み茶わんに一合カップで計った一杯のコメを出した。それにお茶。これも、飲むんじゃなくて茶っぱのままがいいという。茶筒の茶葉をそのまま日本酒を飲むときのお猪口に盛って出した。それにキャベツとニンジンをただ切ってあげただけのを生でバリバリカリカリムシャムシャ美味しそうに、食べた・・・。

 最後にダメ押しが来た。

「虫があるといいんだけど」

「・・・ごめんなさい。虫はないんです」

「そうか・・・。残念だな」

「そろそろ、さっきの質問に答えてくれないかしら。わたしとあなたがお話し合いをしてないというのは、どういう意味なの? だって現に今こうしてわたしの質問に答えてるじゃない。あなたのリクエストに応えてお米出したでしょ」

「わたしは、喋ってない。わたしはさくらの心に直接訴えてるだけだ。それを言葉に、さくらの言葉にしているのはさくら自身なんだ。わたしは言葉を知らない。いつも思いを相手に送って感じてもらってる」

 また頭痛がして来た。

「もっとわかりやすく説明して。そうでないと・・・」

 急に彼は椅子から立ち上がった。

「わたしの思いをわかってもらうまでは帰らないし、帰れない。なぜなら、さくらはわたしにとって最も相応しい妻になる人だから」

「え?」

 パジャマ姿の彼はさくらに寄り添い、手を取った。

「い、いけないわ、こんな、わたしの立場・・・」

「さくらがわたしを必要としていれば、あとのことは大したことじゃない」

 彼の両手がさくらの頬を包んだ。彼の唇がさくらの唇に重なった。甘い息がさくらの中に吹き込まれると、時が止まった。

 あの甘い香りがさくらの身体中を浸し、じんわり痺れさせた。

 これはなんだろう。

 麻薬とはこういうものか。力が入らない。頭ではこれ以上彼を自由にさせてはいけないとわかってはいる。だが自由が利かない。いやそれどころか積極的に唇を寄せ彼の赤い唇をついばんでしまっている。彼の羽毛のように柔らかなタッチでおとがいや首筋を愛撫されてゾクゾクした快感を得て悦んでしまっている。これ以上はダメだ。危ない!

「・・・やめて・・・」

「でも、わたしの手を握ってるのは、さくらじゃないか」

「嘘・・・」

「嘘じゃないさ。わたしの手を握って誘ってる。わたしの服のボタンを外してるのは、さくらじゃないか」

「え、なんで、どうしてェ・・・」

「言ったろう。わたし以上にさくらがわたしを必要としてるんだ、と。さくら自身が心の中でわたしを求めてるんだ」

 さくらの手が、はだけた彼の厚い胸板を這う。腰に回して自分に引き寄せ、さらにその白い肌に口づけまで捧げようとしている。

「えっ、やだ、や、ええっ、そ、ああ、ああっ!・・・」

 見えない蜘蛛の糸が次第にさくらを絡めとってゆく。柔らかな彼の羽毛がさくらの身体を流れるたびに、ゾクゾクが、とまらない。

 どうして。誰か、説明して、助けて、誰かあ・・・。

「抗うのはやめなさい、さくら。自分の心の声に耳を澄ませなさい。声を聴きなさい。そうすれば、ずっとラクになる。昨日までの自分と違う自分に生まれ変われる。本当だよ。

 さあ。心を開くんだ、さくら。さくら・・・」

 わたし、どうしたらいいの。オウジ、オウジ・・・。

「やっとわたしの名を呼んでくれたね。いいんだよ。わたしに身を委ねればラクになれる」

 小学生の娘を持つ三十路前の女なのに、初めて恋を知って戸惑う少女のように心が揺れる。

 そのさくらの身体を、いっぱいに広げれば二メートル以上もある大きな翼がやさしく包んだ。その羽毛の柔らかさに全身が愛撫され、蕩けてしまう。

「ああ、素敵。なんて気持ちのいい・・・」

 翼がもう一度開いたとき、さくらは一糸まとわぬ素裸になっていた。急に心細くなって王子の身体にしがみつく。その筋肉質の身体を抱きしめる。

 王子は優しく言った。

「さくらが全てをわたしに捧げるなら、わたしの全てはさくらのものだ。夫婦(めおと)とは、そういうものだよ。わたしたちは、夫婦になるんだ。そして一生離れない。いつでも、どこでも、どこまでも、二人一緒だ」

「うれしい・・・。オウジ、抱いて。わたしを抱いて、オウジ・・・。オウジ、お願い。わたしを、わたしを・・・」

 たった数分前には思いもよらなかった言葉を、思いを、さくらは口にし、胸に浮かべていた。

 すると、次の瞬間。

 一瞬でさくらの意識は白い世界に飛んだ。

 そこはブリザードが吹き荒れる下も上も辺り一面全てが白で覆われた世界。白い闇の世界。命を育むことができない、死の世界だ。

 そこで生きる者は厚い氷の下の海に潜むか、深く地に穴を掘りそこに蹲って嵐が止むのをただひたすら耐えるしかない。海に潜れない者、凍った大地に穴を掘れない者には死が待っている。翼のある者だけが冬の間この地を去り、夏になれば還ってきて地と水と太陽がくれた豊富な食物を食むことができる。

「見えるかい、さくら。これがわたしの国だ」

 白い闇の向こうから声だけが聞こえる。

「オウジ、どこなの。わたし、怖い・・・」

「ここだよ。わたしはお前のそばにいる。お前をしっかりと抱いているよ」

「もっと、しっかり。ちゃんと抱いていて。そうじゃないと、怖い、怖いよ・・・」

「案ずるな、さくら。おまえはわたしと契った。おまえは悦びの果てに意識を飛ばしてわたしとともに今の祖国の姿を見ているのだ。わたしの心の中に深く入りこんで、わたしの意識と共にこの風景を見ている」

「こんな、こんなところがこの世の中にあったのね。ここがあなたの国なのね。なんて厳しい、なんて寂しい・・・」

「だが、この厳しい地のおかげで我々を害するものは誰も近づけない。我々は安心してこの地で命と愛を育むことができるのだ。春になれば我々は国に帰る。この地で育んだ命を、大地と太陽が与えてくれた豊富な食べ物を得られる地で大きく育て、さらに殖やすことができる・・・。

 さくら。わたしと一緒に飛んでみないか」
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