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第四部 道連れは可愛いくて逞しい
48 My dear fellow on journey is lovely, and tough
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その恰幅のいい四十代半ばほどの紳士は、初めて来たその土地の、高級の部類に属する店の前で立ち止まり店構えを見上げた。そして気合を込め、そのエントランスをやや緊張しながら入って行った。
ブラックのタイトスカートにおそろいのノースリーブのブラウス。その上に紫のシースルージャケットを羽織った落ち着いた妙齢の美女が三つ指から顔を上げた。
「いらっしゃいませ。・・・うわ、たーさん! ・・・お久しぶりィ!」
「・・・ナツキちゃん・・・」
その紳士は少し脱力気味に、疲れたような声を吐いた。
「も、探したでェ。なんでいっつもフラッといなくなるん? ワシ、ナツキちゃんに会いとうて会いとうて・・・。やっと見つけたわ。・・・もう、こんで三度目やで・・・」
「ごーめんねェ・・・。たーさんも元気そうでよかったあ・・・」
「なーにが、元気そうでェ、や。・・・ホンマ、苦労したのよ、ここまでたどり着くのに・・・」
「ま、ま。積もる話は、お部屋でしよ。ご案内します」
ナツキと呼ばれた嬢は古馴染みである遠来の客を自分の個室に通した。
「たーさん、いつ来たの?」
古馴染みをベッドに座らせ、その前に傅き、あらためて挨拶をした。それがその店の作法のようだった。
「ようこそ、いらっしゃいました。ナツキです。えへ・・・」
「・・・朝一番の新幹線でなあ。・・・ほんに、もう。なんで毎度毎度ワシになんの挨拶もなしに消えてまうんや。今日は、そこんとこ、じーっくり、聞かせてもらわな」
「ねえ怒んないでよお。ちゃんとサービスするからあん・・・」
そう言ってナツキ嬢は馴染みのネクタイを緩めしなに、ちゅーっとキスのお出迎えをした。
「ね?」
いまだふくれつらを崩そうとしない馴染みを笑顔で蕩けさせ、ジャケットを脱がせ、大事そうにハンガーにかけ、そのコマの下準備を始めた。
ナツキという源氏名を名乗る女。美玖はその街のソープ街に来てもう二年目を迎えていた。
身を引き裂くようにして夏樹と別れたあと、自分の街でデザインの仕事に戻り、一時はちゃんと社員として生計をたてていた。
夏樹とのたったひと月余りの時間は美玖にとっても大きな出来事だったし、一生忘れることのできない大切な、愛すべき思い出となった。夏樹を思い泣いた夜も一再ではなかった。でも酒に溺れたりはしなかった。夏樹と、離れてしまった息子の大樹に恥ずかしくないように生きてゆきたいと思っていた。そしていつか、夏樹のように大樹が訪ねてきてくれることを密かに願いながら、真面目に毎日を生きていたのだ。
毎月、無駄とは知りつつ元夫への電話も続けていた。大樹に会いたいがために。だが、あの性格のねじ曲がってしまった男はのらりくらり、息子と会わせるのを拒んできた。熱がある、とか、その日はおけいこ事、義母の都合が合わない、自分の仕事が・・・。その都度、何かと理由をつけてなかなか会わせようとしなかった。
「ねえ、いつまであなたの実家に置いておくの? そんな寂しい思いをさせるなら、なぜあたしから取り上げたの?」
「いずれ再婚したら引き取るつもりだ。オレが親権者だ。裁判所がそう判決を下した。キミに文句を言われる筋合いはない」
そんな日々を送っていた。あの日までは。
まだ遅い春の訪れを待っていたある金曜日の午後、東北の太平洋側を突如大地震と大津波が襲った。
まさかとは思ったが元夫に連絡をした。なかなか電話は繋がらず、やっとメールがつながったときには、
「実家と連絡が取れない。とりあえず行ってみるが、まあ、大丈夫だろう」
と返信が来た。
毎日津波のニュース映像を見ながら不安を募らせ、ガマンしきれなくなってCBを駆って現地に行こうとした矢先だった。
「・・・大樹が、死んだ」
恐れていた一事。それを知らされた。
直ちにあの元夫の実家へ向かった。
その漁港の町の小学校の体育館が臨時の遺体安置所になっていた。そこで、長い間離ればなれだった、美玖が愛してやまなかった、変り果てた姿の息子と無言の対面をした。小さかった大樹は、倍ほどの背丈の少年になっていて、顔を泥だらけにして、眠ったように横たわっていた。あれほどに会いたかった、会いたくてたまらなかった、愛する息子の成長をそんな形で目にすることになるとは。神様もなんと残酷なことをしてくれるもんだと呪った。
「ちょうど下校の時間だった。先生たちが子供たちを高台に避難させていた。だけど、大樹だけが、『ばあちゃんが心配だから』って、先生の言うこと聞かずに、家に戻っちまったらしいんだ・・・」
憔悴した元夫の隣に、あの日泣きわめく幼い大樹を抱えて離さずに美玖を追い返した元義母が、バツの悪そうな顔をして立っていた。彼女はいち早く高台へ避難して無事だったという。大樹が遭難したのは、ちょうど実家の辺りに津波が押し寄せたころだったろう、と・・・。
「ふざけるなあっ!」
棺の並ぶ、重苦しく悲しみに包まれた体育館に、激高した美玖の叫びが響き渡った。
「なんで大樹が死んであんたが生きてるの。なんでまだ11歳の子供が死ぬの? 順番違うでしょう。あんたが死ねばよかったんだ! この、クソババアっ! 大樹を返せっ! 返せェッ!・・・」
「おいやめろ」
止めに入った元夫にも食いついた。
「あんたもだ。あんたが殺したんだ。こんな、こんなところにいつまでも置いておくから。あの時、このババアをぶん殴ってでも大樹を取り返しておくんだった。この、人殺し! 大樹を返せ、返してよおおおおおっ! やああああああああああーん・・・・」
棺に縋りついて、泣いた。
その後のことはあまり覚えていない。
美玖は全てに絶望した。
仕事も辞め、バイクに乗っていろんなところを放浪した。行きずりで何人かの男とも寝た。何の意味もないセックスを何度も繰り返した。
一度だけ夏樹の住む街に向かい、家の前まで行ってしまった。だがすぐに思い直してその場を去った。夏樹まで不幸にしてしまうような気がしたのだ。もう、かかわってはいけない。あのかけがえのない少年に触れてはいけない。再び心に固く誓った。
そうしてまたあてどない旅に戻り、何日かして気づいた時には、あの西の果ての街の中の島にあるネオンの城塞にたどりついていた。
あの夏樹の母の消息を尋ねた店長は、まだ同じ店にいた。
「よお。・・・あんた、覚えてるよ。尋ね人は見つかったかい?」
美玖は、彼に縋るようにしてその街で生きることにした。
不思議なことに、その夏樹と別れた街に来たら生きねばという思いが身体の奥底から沸き上がってきたのだ。どんなことをしてでも生きねばと。夏樹の母を思い出したからだろうと、美玖には思えた。
そうなれば、元々楽天家の美玖だった。その店長の店に勤め始め、たちまち常連客がつくようになった。もう三十代も半ばになってはいたけれど。
美玖のサービスは行き届き、単なる身体の奉仕を超えた温かい接客が評判を呼んだ。常連客だけで週のスケジュールが埋まるようになった。源氏名を、一番愛している男の名前からとった。「ナツキ嬢」はたちまちのうちに「なかなか予約が取れない嬢」の一人になった。
ところが、そうして安定してくるのを美玖は嫌った。そこに美玖がいることが夏樹に伝わってしまうのではないか。それを恐れた。それほどならば「ナツキ」という名前など付けなければいいのだが。
だから、二年もすると、世話になった店長に退店を申し出た。
「ええっ、・・・なんでだよ。もったいない・・・。残念だなあ・・・」
初めて会ったころよりさらにハゲあがった額を光らせて、店長は美玖を惜しんでくれた。
「どうしても、ここにいるのを知られなくない人がいるんです。こんなにお世話になったのに、申し訳ないんですが」
「この街の他の店なら絶対に断るとこだけど、しゃーないな・・・。よかったら紹介状書いてやるよ。どんだけ通用するかわからんけどさ。でも、常連たち、離れてくのもいるだろうなあ・・・。ああ。損失デカ過ぎだよー・・・」
「・・・申し訳ありません。よくして頂いて、ありがとうございました」
美玖はそんな風にしてその街を去った。
それから二度ほど、同じようにして街を変えた。
今、裸で向き合っている男は、初めてこの仕事をした時からの馴染みだった。美玖が街を変えるたびに見つけ出し、今日、また美玖を発見したというわけなのだった。
「言ってみればワシ、ストーカーやね。メーワクかも知らんけどもね」
「そーんなことないってェー。ありがとう、たーさん。ちょっと、うれしかった」
そう言って恰幅のいい男の裸にぴと、と抱きついた。
「ちょっとだけかいな。なんや悲しいなってもた」
「ごめーん。いっぱい嬉しかったー」
「なんやその取ってつけたような・・・。どんだけオッサンの恋心狂わすねんな。ほんに、ツミな女やで、ナツキちゃんは。
・・・なあ、ナツキちゃん?」
「・・・なあに?」
「オレのこと、どう思う?」
「素敵な、優しい、おじさん」
「そうやなしにやな、その、オレ、ホンキで思うてるねん、ナツキのこと。ホンキで、ホレてもうてん・・・」
「・・・」
美玖は身体を離した。そして、その馴染みの手を握り、彼の瞳を見つめた。
「たーさん・・・」
「今すぐにとは言わんさかい、・・・いや、またどこか逃げてまうかも知らん。今、考えてみてくれへん? 考えてもらえへん? オレのこと」
美玖は営業用でない、穏やかな柔らかい笑顔で馴染みに対した。
「絶対苦労させへん。オレの親も、絶対文句言わせへん。あんたのことは全身全霊で守る。・・・なんや、テンノーヘーカのセリフみたいになってまったけど、オレの本心やねん。
あんたが前の店また急に辞めて、あちこち探して、探してる間に、どうにも、辛抱たまらんようになってまったんや。好きや! 本気で、あんたのこと、好きになってまったんや。もう五十になる、ええ歳したオッサンに初めて来た春なんや。めっちゃ恥ずかしいてたまらん! けど、どうしても伝えたかったんや!」
美玖はじっと見つめ続けた。
壁の電話が鳴った。もうそろそろ、このコマの終了時間だと知らせてきたのだ。電話を取って、はい、わかりました、と言い。再び馴染みの男の手を取った。
「たーさん・・・。こんな女を、そこまで思ってくれて、ありがとう。ジーンって、来ちゃった」
スン、と鼻を啜った。化粧を落とさないように指の腹で目頭も抑えた。
「実はね、もうそろそろ上がろうかなって、考えてたの。もう四十だしね。もういいかなって。お金もある程度貯まったし・・・。どこか知らない街で小料理屋でもやろうかなって。一度やってみたかったの。小料理屋さん・・・」
すると男の顔がパッと明るくなった。
「ほなら、ワシの街に来いよ。ワシ、金出すさかい。な? そんで、ええやん! な?」
「ありがとう。たーさんだけだよ。そんなふうに思ってくれるの」
再び電話が鳴った。
「ごめんね。時間みたい。たーさんのこと、考えておくよ。今日はありがとう」
「また逃げられたらかなわんで、ワシ」
「もう逃げないよ。絶対。約束するから」
馴染みをエントランスで見送ると、どっと疲れが押し寄せた。その日の朝一番、いわゆる「口開け」で最大級の「重い」客にあたってしまった。
客を見送ると部屋に戻り衣装を脱いでTシャツに着替え、風呂を流し、使用したエアマットを流し、消耗品の補充をして一通りの清掃とバスタオルを用意したりして次のコマの準備をする。
最初に西の果ての街を辞して関西の街に流れたときも、今日の馴染みだけでなく他にも二三人、美玖を「ナツキ」を尋ねて「追っかけさん」が来た。来てくれたというよりも、見つかってしまった、という思いだった。そして再び街を変え、そしてまた、とこの街に流れ着いた。その度に「追っかけさん」の顔ぶれは変わったが、今日の馴染みは最初の街から変わらない追っかけ常連さんだった。
美玖には自分のどこがそんなにいいのかわからない。わざわざ新幹線で来てくれるほどだから、単なるサービスや身体の良しあしを求めてのことではないと思う。本気で美玖を求めてくれているのだということは十分に伝わった。
嬢を伴侶にする客。客と結婚して幸せに暮らしている元嬢がどれほどいるのかは美玖は知らない。だが、どの街に行ってもそうした話は聞くから、決して少なくはないのだろう。だが美玖にはできない。嬢と客の関係だからというわけではない。美玖にはどうしても忘れられない男がいるからだ。「ナツキ」という、その男からもらった名前を捨てきれないのも、そのせいだった。
彼のことはここ最近週刊誌やTVのワイドショーなどでたまに見かけるようになった。
「若くして成功を収めたイケメンIT長者」
そうした人たちを紹介する記事や番組のコーナー。さほどイケメンとは言えない面相でも「ビリオネア」「ベンチャー経営者」という肩書を持つと何故かイケメンに見えるらしいのには笑ってしまうが、何度か、正真正銘の立派な青年へ成長した彼の記事を目にし、今の彼の近況を垣間見た。そしてその彼への思いを新たに、つのらせてしまうのだった。
「彼が自分を探しに来るのでは・・・」
その度に、そんなありえない妄想を強くしてしまった。その昂りが限界に達すると、ここにいると見つかるかもしれないと、他の街へ移ってしまう。それを繰り返して来た。しかし、それならば「ナツキ」という源氏名など名乗らなければいい。なのに、どの店でも「ナツキ」を名乗り、今日のような馴染みに見つかってしまっていた。
そんな行いを、人は「矛盾」と呼ぶ。
だが、それが人間だと、美玖は思う。理屈で割り切れない思いを持つのが人間だと。
もう彼からは去るべきだと思い、姿を消し、彼に会ってはいけないのだと強く念じる。だがその一方で、もしかすると彼が見つけ出してくれるのでは、という期待もしてしまっている。大樹を喪ってからは特にそのアンビバレンツな思いに挟まれ悩まされることが増えていた。
彼はAI、人工知能に係わるビジネスをしているらしいのを知った。さっぱりわからない世界だが、素人の美玖にもわかるのは、電脳は矛盾した行動をすることはないだろう、ということだ。いけないことと知りながら欲望に溺れ、何もかも失ってしまうようなことをしでかして来た女だから、特にそう思うのかもしれない。
そんな女が、しかも、こんな商売に身を堕とした女が彼とその愛する幼馴染の邪魔になってしまうようなことだけは絶対に避けなくては。とにかく、そろそろこの街ともお別れして別の街に、今度はいっそ北の最果ての街にでも行こうか。そこで小さな小料理屋でも開こうか・・・。
そんなことを考えながら準備を終え、再び衣装を着けた。
幸いにも今日の予約は彼だけだった。あとは二時間ほどお茶を引いて帰るだけだ。店との取り決めで予約がなくても二時間は待機することになっている。新入りならラストまでいなければいけないが、美玖の場合は自分専用の部屋を持つ、いわゆる「部屋持ち」と言われる売れセンの嬢なのでそれが許されていた。美玖が出勤しないときは、部屋持ちでない嬢がその部屋を使う。店は部屋で営業するので美玖が不在でもその部屋で営業し売り上げになれば何の問題もないのだ。
衣装を着けると待機ルーム、通称「お茶部屋」に行った。
若い嬢が二人ほどいた。彼女たちはまだ部屋持ちではない。常連も少ない。しかも今日は月曜だからか、ネットの予約も少ないのだろう。
サーバーからコーヒーを取ってソファーにあった女性週刊誌を何の気なしにパラパラめくりながら一息ついた。きょうはこのまま呼ばれなければいいなと思った。なんだか、疲れてしまっていた。口開けが重かったからだろう。
若い子の一人がパネルで指名されて呼ばれていった。
と、読むとはなしに読んでいた雑誌の記事の中に、「今注目のイケメンITビリオネアたち」という毎度な見出しがあって、なんとなく目を惹かれて幾枚かのモノクロ写真を見ていった。IT産業のベンチャーで成功した若い実業家たちが女性タレントや高級クラブの女を連れて夜の街を闊歩している姿を「パパラッチ」した写真の数々。その中に、美玖の見覚えのある、心をギュッと鷲掴みにされるような一枚があった。
この記事は絶対に読まねば。
雑誌に食い入ろうとすると、残った嬢が話しかけて来た。まだ二十歳になったばかりの、小さいけれどムチムチタイプの可愛らしいコだ。美玖のような「熟女」は比較的年齢層が上の上客が多く、中には二コマ四時間で予約してじっくり遊んでいくのがいるが、彼女「サナ」の場合はどちらかといえば若い客に人気があった。若い客はなかなか常連にはならない。その場の盛り上がりとか、なにかのきっかけで店に来る。だが経済力がないから、続かない。自然、経済力のある上客を惹きつけるのは美玖のような熟女。しかも、酸いも甘いも嗅ぎ分けた、しかも、若さを忘れないでいられるような熟女に客が付くのだった。
「ナツキ姉さん」
とサナがすり寄って来た。
「んー・・・」
記事に目を落としたまま応えた。
「姉さん、近々上がるって聞いたけど、ホント?」
パタ、と雑誌を閉じ、サナを睨んだ。
「あんた・・・、それ誰から聞いた?」
「ちょっと・・・、チラっと」
「ちらっと、じゃないよもー。店長でしょ。意外に口軽いんだなあ、アイツ・・・」
「どうして? 」
「どうしてって、・・・トシだから」
「だってあたしなんかよりめっちゃイッパイお客さんついてんじゃん。もったいないなあ・・・。それにさ・・・、姉さんいなくなると、寂しいよ」
「・・・そうか。あんた、店長に頼まれたんだね。引き留めろって。そうでしょ」
「・・・ちがうよ」
「嘘つけ。正直に吐け、コラ」
「違うってば」
「ナツキさん」
いつの間にか店長がお茶部屋に来ていたのに気が付かなかった。三十代の、美玖からすれば弟のような歳の男だ。先週、もう上がりたい、店を辞めたいと相談した店長だった。
「あのさ、悪いんだけどこのあと3コマやって欲しいんだけど」
「え、3コマァ? マジで? だって予約ないって言ったじゃん」
「それが昨日ナツキさんが帰った後にね、入ってたんだわ。オレ今日出勤遅かったんで言うの忘れちゃってた」
「えーマジィ・・・、しかも3コマ・・・」
「お客さんは一人だからね」
「一人で3コマ! 6時間・・・。どんだけ絶倫なんだか・・・。うわ、疲れそー。鬱だ・・・」
「ネットで予約しててさっきも確認の電話もらってさ。大丈夫ですよね、って。前金で入金してるしね。もう、お金もらっちゃってるのよ。頼むわ。そのかわり、全部任す。お客さんのお望み次第で店外もOKだから。じゃ、よろしくお願いしますね~」
店長が出ていくと、サナがつんつん二の腕をつついた。
「きっと姉さんが上がるまで、とことん客取らせて儲ける気だね。エグいね、あの人」
「こんな、おばさんをねえ・・・。どおしよっていうのかねえ・・・」
するとボーイが入ってきた。いつも美玖が目をかけている子だ。客が手土産などをもってくると気前よく分けて上げて可愛がっていた。もし大樹が生きていれば彼ぐらいの歳になっているのかな・・・。そんな眼でいつも彼を見ていた。
「ナツキさん。ご指名のお客様、ご来店です」
とボーイは言った。
「ありがとう」
と、美玖はそのボーイを労った。
早めに上がって観たい映画をカウチで思いきり観ようと思っていたのに・・・。だが、仕方がない。どっこいしょと身体を起こしてエントランスに向かった。おおかたこれも「追っかけさん」の一人かも知れないなと思いながら。「6時間」に少しウンザリしながら。
上がり口のカーペットに膝をついて客の来店を待つ。自動ドアが開いて、三つ指をつき頭を下げる。客の足元は茶色のブーツのように見えた。
「いらっしゃいませ。本日はご指名ありがとうございます。ナツキと申します。どうぞよろしくお、ねが・・・」
その二十代後半ほどの、大柄な好青年を見上げ、絶句した。
「へえ・・・。お姉さんが、ナツキさんかあ。奇遇だね。オレも、ナツキって言うんだよ」
そのまんま固まってしまい、ボーイに促されるまで膝をついたままだった。
今朝の一コマ目のような、面倒で重い客もあっさりあしらう超ベテランの美玖が、まるで高卒で入店したての十代の娘のように、震えていた。部屋に案内し、ベッドに座らせたのはいいが、頭の中が真っ白で、何をどうしたらいいのかもわからなくなっていた。
「あの、オレ、こういうソープランドっての、初めてなんです。よろしくお願いします」
その青年はバカがつくほど明るく言い放った。
「あれですかね、とりあえず、脱げばいいんですよね」
そう言いながら着ているものを、ブルゾン、シャツ、ジーンズと、次々ぽいぽいと脱ぎ散らかしていった。そしてついにぱんつまで脱いでその逞しい身体をすべて曝した。
「さ、全部脱ぎましたよ」
と青年は言った。
美玖は身を捩って立ち尽くしていた。が、やっと口を開いた。
「・・・なんで。・・・どうして・・・」
「迎えに来たんだよ、ミクさん・・・」
素裸の客は、精悍な逞しい顔にあの懐かしく可愛い笑顔を浮かべ、あっさりと美玖の本名を言った。
「なんだ。サービスしてくれないなら、ごはんでも食べいく? オレの嫁さん、ズボラでさあ、朝サンドウィッチとおにぎり一個しか食わせてくれなかったんだよ。しかもコンビニの。お昼まだでしょ? 途中お店抜けてもいいんだよね時間内なら。ちゃんとお店に確認してあるんだ。このへんでどっかいい店あるかな。案内してよ。それくらい、いいでしょ?」
美玖は少女のように胸の前で両手を握り締めて、ただ、固まり続けていた。
「・・・ずっと、会いたかった。ミクさん・・・」
あの峠のバス停で寒さに震えながら見上げていた十四歳の少年の瞳。それがそのまんま、目の前にあった。
店外デートなど予定になかったから普段の、普通の会社のOLようなスーツに着替えた美玖は、先に立ってズンズン歩く夏樹のあとをトボトボがちについていった。
その昔、赤線地帯と呼ばれた色町。中部地区、西日本を含めた最大のソープランド街も、昼間は落ち着いた地方都市の風情を見せていた。そこかしこにあるそのテの店のド派手な看板を除けば、だが。
二人は、歩いた。
見上げるような高身長。広い肩幅。それにさっき見た彼の逞し過ぎる裸体。分厚い胸板。盛り上がった筋肉。そして精悍な風貌を備えた、超絶な「イケメン」・・・。前を行く男は、かつて美玖が愛した可愛らしい少年から魅力的な青年へと成長していた。
道行くこの街の女たち。幾多の男を迎え入れて来たベテランたちでさえ、彼をガン見し、振り返りながら去ってゆく。そんな好青年と短い時間ではあったけれど契り、彼の人生に僅かだが寄与することができたかも、と誇らしく思う一方で、とてつもない恥ずかしさで消え入りたくなっていた。この色町に勤める、もうすぐ四十になるおばさんである自分。眩しいほどの彼と一緒に歩くのが苦痛でさえあった。
プレイを終え店を出た客狙いの流しのタクシーを捕まえ、無言で夏樹を押し込んだ。一刻も早くこの色町を出たかった。
「強引だね、『ナツキ』さん・・・」
彼は気を遣ってくれたのだろう。この街ではそれが正しい。店の外で、迂闊に嬢の本名を口にしてはいけない。誰が聞いているかわからないからだ。彼も何かで学んだのだろうが、夏樹がそういうしきたりを知っていることが、ナツキと呼ばれたことが、少し悲しくなった。
「駅前で止めてください」
乗ってすぐに、夏樹は言った。あまりな単距離。ワンメーターで失望している運転手を気の毒に思いつつ、夏樹に急かされてタクシーを降りた。美玖が戸惑っていると、
「こっちだよ」
スマートフォンのマップを見ながら、もう何度もここにきているかのような気安さで夏樹はスタスタ歩いてゆく。接客中だから、彼と離れて帰ってしまうわけには行かないのだ。自分がそうした「大義名分」を考えていることに、また悲しくなってしまった。どうして素直に再会を喜べないのか。美玖はもう、自分に呆れてしまった。
駅のコンコースに入りエスカレーターで地下の連絡通路に降りた。広い通路には人はまばらだった。そのちょうど中間あたりの壁際に、一台のアップライトのピアノがあった。
「今、こういうのどこにでも一台はあるんだよね。ストリートピアノっての。すっごい、嬉しいよね・・・」
そう言ってピアノの前に座り、ポロロン、と和音を奏でた。
そして衝撃的な三度の和音と激しいパッセージで始まる、あのショパンの練習曲、ハ短調作品10-12.。「革命のエチュード」の別名を持つ、有名な曲を奏で始めた。
「ミクさんのことは、全部調べた。息子さんのことも。それからのことも。今までのことも。すべて、全部・・・」
まばらだった連絡通路も、そのあまりにも有名なピアノ曲が響きわたると皆足を止めてピアノの周りに集った。
「どう? 少しは上手くなったでしょ」
ドヤ顔でニヤニヤしながら鍵盤に指を走らせる夏樹に、小憎らしいような感情が芽生えた。
曲が終わると、次は何を弾こうかなと指が鍵盤と戯れ始める。
「弾きたそうな人いないから、まだいいよね・・・」
次はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」の第二楽章。あの落ち着いた甘い調べが響くと、また一人、二人とあゆみを止める人が増えた。
それに構わず、美玖は言った。
「さっき読んでた週刊誌に出てた。ITベンチャーの大金持ち。毎晩、クラブのホステスやタレントを侍らせて豪遊三昧。湯水のように金を使って、金の力で選り取り見取り・・・」
「ミクさんは、オレをそんなヤツだと思ってるの?」
「だって写真に写ってたよ。楽しソーに、かわいくてキレイな女の子ぶら下げて歩いてたし・・・」
「・・・うーん! うれしいな。ミクさん、ヤキモチ妬いてくれてるんだね」
「出た! B型人間の超ジコチュー楽観癖!」
「ミクさんだってBだろ! ・・・覚えててくれたんだね。じゃあ、この曲も、覚えてるよね」
次に彼が弾いたのは、あの忘れられないひと月余りの間に何度も聴いた、思い出の曲だった。
「アダージョ」の調べがその広い連絡通路に流れた。
あの峠のバス停。あの山間(やまあい)の山荘。瀬戸内の美しく輝く海。渓流際のキャンプ。そして、小舟の引くウェーキを眺めた美しい港・・・。
夏樹との、忘れられないタンデムの美しい思い出たちが蘇った。
「オレ、ナミとミクさんだけだよ。その二人しか、女知らない。あれからずっと、だよ。ずーっと、だよ」
と、「イケメン」は、言った。
駅前のホテルの前に駐めてあった超大型のモンスターバイクに乗せられた。
「あんた、こんなのに乗ってるの?」
「ビックリした? あんなナナハンなんかに乗せられてさ、ハマらせてさ・・・。これもミクさんのせいだからね。その責任、まだ取ってもらってないんだからね」
イケメンは不敵に笑った。別れた夫の面影はすでに薄れていたが、初めて大型のアメリカンバイクに乗せられた時の若い感動が蘇った。
バイクは市街を抜けて南へ、県境になっている大きな河の堤防の上を走った。初夏の風が河の上を吹きわたり、爽快に後ろへ去ってゆく。
「どお? きんもちいくない?」
ナナハンの後ろに乗せやった時の少年だった彼のセリフが、モンスターバイクを操っている超絶イケメンに成長した男性から出た。
夏樹はバイクを止めた。
堤防に立ち、二人で南を、川面を眺めた。どこまでも続く澄み渡った空。煌めく水面。その五月の空気を胸いっぱいにすいこんだ。
「ナミはオレの最愛の奥さん。そしてミクさんはオレの恩人で、忘れられない恋人で、大切な母親。オレのなかではそれに何の矛盾もないんだ。どっちも必要なんだよ、オレには。
ナミも、ミクさんも、どっちが欠けても、今のオレはなかった。
もしミクさんに会えてなかったら。
オレはオフクロとも会えなかったし、ナミとも結婚まではしてなかったかもしれない。オヤジとも和解してなかったろうし、大学だって、行ってたかわかんないし・・・。大学行ってなかったら今の仕事だって、やってたかどうかわかんないんだ。
あのミクさんとの旅が、それまでのオレの時間を変えてくれた。ミクさんが、今のオレを作ってくれたんだよ」
逞しく、大きくてゴツい手。あの大人と少年の中間ぐらいだった可愛い手は完全に大人の男の腕になっていた。その逞しい腕が、美玖の小さくて華奢な手を掴んだ。それだけで、何かが込み上げてきた。
「ナミも望んでるんだ。だから、とは言わない。これはオレのワガママ。それはわかってる。でも、絶対に従ってもらう。だって、ミクさんはオレを愛してくれてるんだろ、今でも。だから『ナツキ』なんて名乗ってるんだろ。だったら、オレの願いを叶えてくれよ。お願い。お願いします。この通りです。一緒に、暮らしてください!」
夏樹は美玖の足元にひれ伏し、その靴の上に額を付けた。
「・・・あんたは、ひとを、女を、なんだと思ってるの?」
美玖は胸の震えを抑えながら、訊いた。
「何のために別れたか、何のためにあんたの前から消えたか。
あんたの幸せのためでしょうが。大好きなあんたに、幸せな人生を生きてもらいたかったから。だからでしょうが。あの日、あんたナミちゃんに言われたよね。女心、理解(わか)れ、って。それを、こんな・・・。大金持ちになったからって、いきなり来て・・・。あたしの思いとか、願いとか、そういうの全部無視するつもりなの? あんた、何様なのよ。
それにあんたは、こんな年増の女に、いかがわしい仕事してるような女に係わっちゃダメじゃないの」
「何様だろうが、そんなのは、どうでもいい。ミクさんは、オレの宝もんなんだから」
夏樹は顔を上げた。
「オレ、もう社長でもなんでもない。辞めて来た。オレ、もう真っ新なんだ。ナミ以外、何も持ってない。どうしてもミクさんを迎えたかったから、取り戻したかったから、裸になったんだ。
ミクさんは、オレのもんだ。誰にも渡さない。渡したくない。だから・・・、だから・・・」
彼のためを思い身を切る思いで別れた男。この十年以上の間、一日たりとも忘れたことのない男。失った息子を思う以上にいつも遠くから彼の幸せを願い続けてきた、その男。そして、心も身体も、最も自分を求め愛してくれた男。
「ミクさん言ってくれたよね・・・。ここに熱いものを持って生きろ、って。オレ、その言葉通りに生きようって思って、ここまで来たんだ。だから、だよ」
跪き、胸を抑えて切々と訴える、イケメン・・・。
もうこれ以上抗うことはできない。涙さえ浮かべて見上げてくる、この可愛くて逞しい青年。こんな顔を見せられては、もう、抗うすべがなかった。
「あんた・・・。何にも考えてないんだもん。たった一人で、食べるものも持たないで、あんな暗い道を登って来て・・・。そんな、あと先なんも考えてないアホなガキ、放っておけるわけないじゃんね・・・。だから・・・。
初めて会った時から思ってたけど、あんた、やっぱ、バカだわ・・・」
「うん。それ、よく言われる」
夏樹は憎たらしくなるぐらいの爽やかな顔で、笑った。
「・・・わかった」
と、美玖は言った。
「も、どうでもいいわ。どうなってもいい。こんなバカな子に出会ったのが、あたしの運の尽きだったんだ・・・。
そんなに欲しいなら、あたしの残りの人生、全部あんたにあげる。ナミちゃんは、妹。あんたのことは、息子。これからはそう思うことにする。それで、いいよね」
「やっとわかった? おばさん!」
その高飛車な、クソ小生意気な青年は立ち上がり、両手で美玖の頬を包んだ。初夏の夕暮れの風になびく髪を撫で、その唇を奪った。
「ほら、おばさん。なにボサッと突っ立ってんの。さっさと乗りなよ」
青年はバイクに跨り、女を後ろに乗せた。
どど~ん!
モンスターバイクは走り出した。
その圧倒的なパワーと重量感が、向かってくる全てのものをぶっ壊してくれるような安心感と万能感をくれる。その素晴らしいものが初めて大型バイクに乗せられた時以上に、美玖を包んだ。そして、今美玖が抱きついているその背中は、かつて自分が背にして共に旅をした少年の匂いを漂わせている。それが美玖を癒した。
「も、さ、オンナなんてさ、バイクに乗せちゃえば、こっちのもんだからさ。もう、遅いからね。もう、メロメロにしちゃうから覚悟しておいてね。そいでさ、死ぬまでオレのそばにいてよ、おばさん!」
「失礼な! おばさん言うな、この、エロガキ!・・・。この、クソガキーッ!」
そう言って女は男の背中にしがみついた。その愛すべき可愛くて逞しい少年の背中に。長い間ずっと待ち望んでいた、温かくて大きな背中に。
了
ブラックのタイトスカートにおそろいのノースリーブのブラウス。その上に紫のシースルージャケットを羽織った落ち着いた妙齢の美女が三つ指から顔を上げた。
「いらっしゃいませ。・・・うわ、たーさん! ・・・お久しぶりィ!」
「・・・ナツキちゃん・・・」
その紳士は少し脱力気味に、疲れたような声を吐いた。
「も、探したでェ。なんでいっつもフラッといなくなるん? ワシ、ナツキちゃんに会いとうて会いとうて・・・。やっと見つけたわ。・・・もう、こんで三度目やで・・・」
「ごーめんねェ・・・。たーさんも元気そうでよかったあ・・・」
「なーにが、元気そうでェ、や。・・・ホンマ、苦労したのよ、ここまでたどり着くのに・・・」
「ま、ま。積もる話は、お部屋でしよ。ご案内します」
ナツキと呼ばれた嬢は古馴染みである遠来の客を自分の個室に通した。
「たーさん、いつ来たの?」
古馴染みをベッドに座らせ、その前に傅き、あらためて挨拶をした。それがその店の作法のようだった。
「ようこそ、いらっしゃいました。ナツキです。えへ・・・」
「・・・朝一番の新幹線でなあ。・・・ほんに、もう。なんで毎度毎度ワシになんの挨拶もなしに消えてまうんや。今日は、そこんとこ、じーっくり、聞かせてもらわな」
「ねえ怒んないでよお。ちゃんとサービスするからあん・・・」
そう言ってナツキ嬢は馴染みのネクタイを緩めしなに、ちゅーっとキスのお出迎えをした。
「ね?」
いまだふくれつらを崩そうとしない馴染みを笑顔で蕩けさせ、ジャケットを脱がせ、大事そうにハンガーにかけ、そのコマの下準備を始めた。
ナツキという源氏名を名乗る女。美玖はその街のソープ街に来てもう二年目を迎えていた。
身を引き裂くようにして夏樹と別れたあと、自分の街でデザインの仕事に戻り、一時はちゃんと社員として生計をたてていた。
夏樹とのたったひと月余りの時間は美玖にとっても大きな出来事だったし、一生忘れることのできない大切な、愛すべき思い出となった。夏樹を思い泣いた夜も一再ではなかった。でも酒に溺れたりはしなかった。夏樹と、離れてしまった息子の大樹に恥ずかしくないように生きてゆきたいと思っていた。そしていつか、夏樹のように大樹が訪ねてきてくれることを密かに願いながら、真面目に毎日を生きていたのだ。
毎月、無駄とは知りつつ元夫への電話も続けていた。大樹に会いたいがために。だが、あの性格のねじ曲がってしまった男はのらりくらり、息子と会わせるのを拒んできた。熱がある、とか、その日はおけいこ事、義母の都合が合わない、自分の仕事が・・・。その都度、何かと理由をつけてなかなか会わせようとしなかった。
「ねえ、いつまであなたの実家に置いておくの? そんな寂しい思いをさせるなら、なぜあたしから取り上げたの?」
「いずれ再婚したら引き取るつもりだ。オレが親権者だ。裁判所がそう判決を下した。キミに文句を言われる筋合いはない」
そんな日々を送っていた。あの日までは。
まだ遅い春の訪れを待っていたある金曜日の午後、東北の太平洋側を突如大地震と大津波が襲った。
まさかとは思ったが元夫に連絡をした。なかなか電話は繋がらず、やっとメールがつながったときには、
「実家と連絡が取れない。とりあえず行ってみるが、まあ、大丈夫だろう」
と返信が来た。
毎日津波のニュース映像を見ながら不安を募らせ、ガマンしきれなくなってCBを駆って現地に行こうとした矢先だった。
「・・・大樹が、死んだ」
恐れていた一事。それを知らされた。
直ちにあの元夫の実家へ向かった。
その漁港の町の小学校の体育館が臨時の遺体安置所になっていた。そこで、長い間離ればなれだった、美玖が愛してやまなかった、変り果てた姿の息子と無言の対面をした。小さかった大樹は、倍ほどの背丈の少年になっていて、顔を泥だらけにして、眠ったように横たわっていた。あれほどに会いたかった、会いたくてたまらなかった、愛する息子の成長をそんな形で目にすることになるとは。神様もなんと残酷なことをしてくれるもんだと呪った。
「ちょうど下校の時間だった。先生たちが子供たちを高台に避難させていた。だけど、大樹だけが、『ばあちゃんが心配だから』って、先生の言うこと聞かずに、家に戻っちまったらしいんだ・・・」
憔悴した元夫の隣に、あの日泣きわめく幼い大樹を抱えて離さずに美玖を追い返した元義母が、バツの悪そうな顔をして立っていた。彼女はいち早く高台へ避難して無事だったという。大樹が遭難したのは、ちょうど実家の辺りに津波が押し寄せたころだったろう、と・・・。
「ふざけるなあっ!」
棺の並ぶ、重苦しく悲しみに包まれた体育館に、激高した美玖の叫びが響き渡った。
「なんで大樹が死んであんたが生きてるの。なんでまだ11歳の子供が死ぬの? 順番違うでしょう。あんたが死ねばよかったんだ! この、クソババアっ! 大樹を返せっ! 返せェッ!・・・」
「おいやめろ」
止めに入った元夫にも食いついた。
「あんたもだ。あんたが殺したんだ。こんな、こんなところにいつまでも置いておくから。あの時、このババアをぶん殴ってでも大樹を取り返しておくんだった。この、人殺し! 大樹を返せ、返してよおおおおおっ! やああああああああああーん・・・・」
棺に縋りついて、泣いた。
その後のことはあまり覚えていない。
美玖は全てに絶望した。
仕事も辞め、バイクに乗っていろんなところを放浪した。行きずりで何人かの男とも寝た。何の意味もないセックスを何度も繰り返した。
一度だけ夏樹の住む街に向かい、家の前まで行ってしまった。だがすぐに思い直してその場を去った。夏樹まで不幸にしてしまうような気がしたのだ。もう、かかわってはいけない。あのかけがえのない少年に触れてはいけない。再び心に固く誓った。
そうしてまたあてどない旅に戻り、何日かして気づいた時には、あの西の果ての街の中の島にあるネオンの城塞にたどりついていた。
あの夏樹の母の消息を尋ねた店長は、まだ同じ店にいた。
「よお。・・・あんた、覚えてるよ。尋ね人は見つかったかい?」
美玖は、彼に縋るようにしてその街で生きることにした。
不思議なことに、その夏樹と別れた街に来たら生きねばという思いが身体の奥底から沸き上がってきたのだ。どんなことをしてでも生きねばと。夏樹の母を思い出したからだろうと、美玖には思えた。
そうなれば、元々楽天家の美玖だった。その店長の店に勤め始め、たちまち常連客がつくようになった。もう三十代も半ばになってはいたけれど。
美玖のサービスは行き届き、単なる身体の奉仕を超えた温かい接客が評判を呼んだ。常連客だけで週のスケジュールが埋まるようになった。源氏名を、一番愛している男の名前からとった。「ナツキ嬢」はたちまちのうちに「なかなか予約が取れない嬢」の一人になった。
ところが、そうして安定してくるのを美玖は嫌った。そこに美玖がいることが夏樹に伝わってしまうのではないか。それを恐れた。それほどならば「ナツキ」という名前など付けなければいいのだが。
だから、二年もすると、世話になった店長に退店を申し出た。
「ええっ、・・・なんでだよ。もったいない・・・。残念だなあ・・・」
初めて会ったころよりさらにハゲあがった額を光らせて、店長は美玖を惜しんでくれた。
「どうしても、ここにいるのを知られなくない人がいるんです。こんなにお世話になったのに、申し訳ないんですが」
「この街の他の店なら絶対に断るとこだけど、しゃーないな・・・。よかったら紹介状書いてやるよ。どんだけ通用するかわからんけどさ。でも、常連たち、離れてくのもいるだろうなあ・・・。ああ。損失デカ過ぎだよー・・・」
「・・・申し訳ありません。よくして頂いて、ありがとうございました」
美玖はそんな風にしてその街を去った。
それから二度ほど、同じようにして街を変えた。
今、裸で向き合っている男は、初めてこの仕事をした時からの馴染みだった。美玖が街を変えるたびに見つけ出し、今日、また美玖を発見したというわけなのだった。
「言ってみればワシ、ストーカーやね。メーワクかも知らんけどもね」
「そーんなことないってェー。ありがとう、たーさん。ちょっと、うれしかった」
そう言って恰幅のいい男の裸にぴと、と抱きついた。
「ちょっとだけかいな。なんや悲しいなってもた」
「ごめーん。いっぱい嬉しかったー」
「なんやその取ってつけたような・・・。どんだけオッサンの恋心狂わすねんな。ほんに、ツミな女やで、ナツキちゃんは。
・・・なあ、ナツキちゃん?」
「・・・なあに?」
「オレのこと、どう思う?」
「素敵な、優しい、おじさん」
「そうやなしにやな、その、オレ、ホンキで思うてるねん、ナツキのこと。ホンキで、ホレてもうてん・・・」
「・・・」
美玖は身体を離した。そして、その馴染みの手を握り、彼の瞳を見つめた。
「たーさん・・・」
「今すぐにとは言わんさかい、・・・いや、またどこか逃げてまうかも知らん。今、考えてみてくれへん? 考えてもらえへん? オレのこと」
美玖は営業用でない、穏やかな柔らかい笑顔で馴染みに対した。
「絶対苦労させへん。オレの親も、絶対文句言わせへん。あんたのことは全身全霊で守る。・・・なんや、テンノーヘーカのセリフみたいになってまったけど、オレの本心やねん。
あんたが前の店また急に辞めて、あちこち探して、探してる間に、どうにも、辛抱たまらんようになってまったんや。好きや! 本気で、あんたのこと、好きになってまったんや。もう五十になる、ええ歳したオッサンに初めて来た春なんや。めっちゃ恥ずかしいてたまらん! けど、どうしても伝えたかったんや!」
美玖はじっと見つめ続けた。
壁の電話が鳴った。もうそろそろ、このコマの終了時間だと知らせてきたのだ。電話を取って、はい、わかりました、と言い。再び馴染みの男の手を取った。
「たーさん・・・。こんな女を、そこまで思ってくれて、ありがとう。ジーンって、来ちゃった」
スン、と鼻を啜った。化粧を落とさないように指の腹で目頭も抑えた。
「実はね、もうそろそろ上がろうかなって、考えてたの。もう四十だしね。もういいかなって。お金もある程度貯まったし・・・。どこか知らない街で小料理屋でもやろうかなって。一度やってみたかったの。小料理屋さん・・・」
すると男の顔がパッと明るくなった。
「ほなら、ワシの街に来いよ。ワシ、金出すさかい。な? そんで、ええやん! な?」
「ありがとう。たーさんだけだよ。そんなふうに思ってくれるの」
再び電話が鳴った。
「ごめんね。時間みたい。たーさんのこと、考えておくよ。今日はありがとう」
「また逃げられたらかなわんで、ワシ」
「もう逃げないよ。絶対。約束するから」
馴染みをエントランスで見送ると、どっと疲れが押し寄せた。その日の朝一番、いわゆる「口開け」で最大級の「重い」客にあたってしまった。
客を見送ると部屋に戻り衣装を脱いでTシャツに着替え、風呂を流し、使用したエアマットを流し、消耗品の補充をして一通りの清掃とバスタオルを用意したりして次のコマの準備をする。
最初に西の果ての街を辞して関西の街に流れたときも、今日の馴染みだけでなく他にも二三人、美玖を「ナツキ」を尋ねて「追っかけさん」が来た。来てくれたというよりも、見つかってしまった、という思いだった。そして再び街を変え、そしてまた、とこの街に流れ着いた。その度に「追っかけさん」の顔ぶれは変わったが、今日の馴染みは最初の街から変わらない追っかけ常連さんだった。
美玖には自分のどこがそんなにいいのかわからない。わざわざ新幹線で来てくれるほどだから、単なるサービスや身体の良しあしを求めてのことではないと思う。本気で美玖を求めてくれているのだということは十分に伝わった。
嬢を伴侶にする客。客と結婚して幸せに暮らしている元嬢がどれほどいるのかは美玖は知らない。だが、どの街に行ってもそうした話は聞くから、決して少なくはないのだろう。だが美玖にはできない。嬢と客の関係だからというわけではない。美玖にはどうしても忘れられない男がいるからだ。「ナツキ」という、その男からもらった名前を捨てきれないのも、そのせいだった。
彼のことはここ最近週刊誌やTVのワイドショーなどでたまに見かけるようになった。
「若くして成功を収めたイケメンIT長者」
そうした人たちを紹介する記事や番組のコーナー。さほどイケメンとは言えない面相でも「ビリオネア」「ベンチャー経営者」という肩書を持つと何故かイケメンに見えるらしいのには笑ってしまうが、何度か、正真正銘の立派な青年へ成長した彼の記事を目にし、今の彼の近況を垣間見た。そしてその彼への思いを新たに、つのらせてしまうのだった。
「彼が自分を探しに来るのでは・・・」
その度に、そんなありえない妄想を強くしてしまった。その昂りが限界に達すると、ここにいると見つかるかもしれないと、他の街へ移ってしまう。それを繰り返して来た。しかし、それならば「ナツキ」という源氏名など名乗らなければいい。なのに、どの店でも「ナツキ」を名乗り、今日のような馴染みに見つかってしまっていた。
そんな行いを、人は「矛盾」と呼ぶ。
だが、それが人間だと、美玖は思う。理屈で割り切れない思いを持つのが人間だと。
もう彼からは去るべきだと思い、姿を消し、彼に会ってはいけないのだと強く念じる。だがその一方で、もしかすると彼が見つけ出してくれるのでは、という期待もしてしまっている。大樹を喪ってからは特にそのアンビバレンツな思いに挟まれ悩まされることが増えていた。
彼はAI、人工知能に係わるビジネスをしているらしいのを知った。さっぱりわからない世界だが、素人の美玖にもわかるのは、電脳は矛盾した行動をすることはないだろう、ということだ。いけないことと知りながら欲望に溺れ、何もかも失ってしまうようなことをしでかして来た女だから、特にそう思うのかもしれない。
そんな女が、しかも、こんな商売に身を堕とした女が彼とその愛する幼馴染の邪魔になってしまうようなことだけは絶対に避けなくては。とにかく、そろそろこの街ともお別れして別の街に、今度はいっそ北の最果ての街にでも行こうか。そこで小さな小料理屋でも開こうか・・・。
そんなことを考えながら準備を終え、再び衣装を着けた。
幸いにも今日の予約は彼だけだった。あとは二時間ほどお茶を引いて帰るだけだ。店との取り決めで予約がなくても二時間は待機することになっている。新入りならラストまでいなければいけないが、美玖の場合は自分専用の部屋を持つ、いわゆる「部屋持ち」と言われる売れセンの嬢なのでそれが許されていた。美玖が出勤しないときは、部屋持ちでない嬢がその部屋を使う。店は部屋で営業するので美玖が不在でもその部屋で営業し売り上げになれば何の問題もないのだ。
衣装を着けると待機ルーム、通称「お茶部屋」に行った。
若い嬢が二人ほどいた。彼女たちはまだ部屋持ちではない。常連も少ない。しかも今日は月曜だからか、ネットの予約も少ないのだろう。
サーバーからコーヒーを取ってソファーにあった女性週刊誌を何の気なしにパラパラめくりながら一息ついた。きょうはこのまま呼ばれなければいいなと思った。なんだか、疲れてしまっていた。口開けが重かったからだろう。
若い子の一人がパネルで指名されて呼ばれていった。
と、読むとはなしに読んでいた雑誌の記事の中に、「今注目のイケメンITビリオネアたち」という毎度な見出しがあって、なんとなく目を惹かれて幾枚かのモノクロ写真を見ていった。IT産業のベンチャーで成功した若い実業家たちが女性タレントや高級クラブの女を連れて夜の街を闊歩している姿を「パパラッチ」した写真の数々。その中に、美玖の見覚えのある、心をギュッと鷲掴みにされるような一枚があった。
この記事は絶対に読まねば。
雑誌に食い入ろうとすると、残った嬢が話しかけて来た。まだ二十歳になったばかりの、小さいけれどムチムチタイプの可愛らしいコだ。美玖のような「熟女」は比較的年齢層が上の上客が多く、中には二コマ四時間で予約してじっくり遊んでいくのがいるが、彼女「サナ」の場合はどちらかといえば若い客に人気があった。若い客はなかなか常連にはならない。その場の盛り上がりとか、なにかのきっかけで店に来る。だが経済力がないから、続かない。自然、経済力のある上客を惹きつけるのは美玖のような熟女。しかも、酸いも甘いも嗅ぎ分けた、しかも、若さを忘れないでいられるような熟女に客が付くのだった。
「ナツキ姉さん」
とサナがすり寄って来た。
「んー・・・」
記事に目を落としたまま応えた。
「姉さん、近々上がるって聞いたけど、ホント?」
パタ、と雑誌を閉じ、サナを睨んだ。
「あんた・・・、それ誰から聞いた?」
「ちょっと・・・、チラっと」
「ちらっと、じゃないよもー。店長でしょ。意外に口軽いんだなあ、アイツ・・・」
「どうして? 」
「どうしてって、・・・トシだから」
「だってあたしなんかよりめっちゃイッパイお客さんついてんじゃん。もったいないなあ・・・。それにさ・・・、姉さんいなくなると、寂しいよ」
「・・・そうか。あんた、店長に頼まれたんだね。引き留めろって。そうでしょ」
「・・・ちがうよ」
「嘘つけ。正直に吐け、コラ」
「違うってば」
「ナツキさん」
いつの間にか店長がお茶部屋に来ていたのに気が付かなかった。三十代の、美玖からすれば弟のような歳の男だ。先週、もう上がりたい、店を辞めたいと相談した店長だった。
「あのさ、悪いんだけどこのあと3コマやって欲しいんだけど」
「え、3コマァ? マジで? だって予約ないって言ったじゃん」
「それが昨日ナツキさんが帰った後にね、入ってたんだわ。オレ今日出勤遅かったんで言うの忘れちゃってた」
「えーマジィ・・・、しかも3コマ・・・」
「お客さんは一人だからね」
「一人で3コマ! 6時間・・・。どんだけ絶倫なんだか・・・。うわ、疲れそー。鬱だ・・・」
「ネットで予約しててさっきも確認の電話もらってさ。大丈夫ですよね、って。前金で入金してるしね。もう、お金もらっちゃってるのよ。頼むわ。そのかわり、全部任す。お客さんのお望み次第で店外もOKだから。じゃ、よろしくお願いしますね~」
店長が出ていくと、サナがつんつん二の腕をつついた。
「きっと姉さんが上がるまで、とことん客取らせて儲ける気だね。エグいね、あの人」
「こんな、おばさんをねえ・・・。どおしよっていうのかねえ・・・」
するとボーイが入ってきた。いつも美玖が目をかけている子だ。客が手土産などをもってくると気前よく分けて上げて可愛がっていた。もし大樹が生きていれば彼ぐらいの歳になっているのかな・・・。そんな眼でいつも彼を見ていた。
「ナツキさん。ご指名のお客様、ご来店です」
とボーイは言った。
「ありがとう」
と、美玖はそのボーイを労った。
早めに上がって観たい映画をカウチで思いきり観ようと思っていたのに・・・。だが、仕方がない。どっこいしょと身体を起こしてエントランスに向かった。おおかたこれも「追っかけさん」の一人かも知れないなと思いながら。「6時間」に少しウンザリしながら。
上がり口のカーペットに膝をついて客の来店を待つ。自動ドアが開いて、三つ指をつき頭を下げる。客の足元は茶色のブーツのように見えた。
「いらっしゃいませ。本日はご指名ありがとうございます。ナツキと申します。どうぞよろしくお、ねが・・・」
その二十代後半ほどの、大柄な好青年を見上げ、絶句した。
「へえ・・・。お姉さんが、ナツキさんかあ。奇遇だね。オレも、ナツキって言うんだよ」
そのまんま固まってしまい、ボーイに促されるまで膝をついたままだった。
今朝の一コマ目のような、面倒で重い客もあっさりあしらう超ベテランの美玖が、まるで高卒で入店したての十代の娘のように、震えていた。部屋に案内し、ベッドに座らせたのはいいが、頭の中が真っ白で、何をどうしたらいいのかもわからなくなっていた。
「あの、オレ、こういうソープランドっての、初めてなんです。よろしくお願いします」
その青年はバカがつくほど明るく言い放った。
「あれですかね、とりあえず、脱げばいいんですよね」
そう言いながら着ているものを、ブルゾン、シャツ、ジーンズと、次々ぽいぽいと脱ぎ散らかしていった。そしてついにぱんつまで脱いでその逞しい身体をすべて曝した。
「さ、全部脱ぎましたよ」
と青年は言った。
美玖は身を捩って立ち尽くしていた。が、やっと口を開いた。
「・・・なんで。・・・どうして・・・」
「迎えに来たんだよ、ミクさん・・・」
素裸の客は、精悍な逞しい顔にあの懐かしく可愛い笑顔を浮かべ、あっさりと美玖の本名を言った。
「なんだ。サービスしてくれないなら、ごはんでも食べいく? オレの嫁さん、ズボラでさあ、朝サンドウィッチとおにぎり一個しか食わせてくれなかったんだよ。しかもコンビニの。お昼まだでしょ? 途中お店抜けてもいいんだよね時間内なら。ちゃんとお店に確認してあるんだ。このへんでどっかいい店あるかな。案内してよ。それくらい、いいでしょ?」
美玖は少女のように胸の前で両手を握り締めて、ただ、固まり続けていた。
「・・・ずっと、会いたかった。ミクさん・・・」
あの峠のバス停で寒さに震えながら見上げていた十四歳の少年の瞳。それがそのまんま、目の前にあった。
店外デートなど予定になかったから普段の、普通の会社のOLようなスーツに着替えた美玖は、先に立ってズンズン歩く夏樹のあとをトボトボがちについていった。
その昔、赤線地帯と呼ばれた色町。中部地区、西日本を含めた最大のソープランド街も、昼間は落ち着いた地方都市の風情を見せていた。そこかしこにあるそのテの店のド派手な看板を除けば、だが。
二人は、歩いた。
見上げるような高身長。広い肩幅。それにさっき見た彼の逞し過ぎる裸体。分厚い胸板。盛り上がった筋肉。そして精悍な風貌を備えた、超絶な「イケメン」・・・。前を行く男は、かつて美玖が愛した可愛らしい少年から魅力的な青年へと成長していた。
道行くこの街の女たち。幾多の男を迎え入れて来たベテランたちでさえ、彼をガン見し、振り返りながら去ってゆく。そんな好青年と短い時間ではあったけれど契り、彼の人生に僅かだが寄与することができたかも、と誇らしく思う一方で、とてつもない恥ずかしさで消え入りたくなっていた。この色町に勤める、もうすぐ四十になるおばさんである自分。眩しいほどの彼と一緒に歩くのが苦痛でさえあった。
プレイを終え店を出た客狙いの流しのタクシーを捕まえ、無言で夏樹を押し込んだ。一刻も早くこの色町を出たかった。
「強引だね、『ナツキ』さん・・・」
彼は気を遣ってくれたのだろう。この街ではそれが正しい。店の外で、迂闊に嬢の本名を口にしてはいけない。誰が聞いているかわからないからだ。彼も何かで学んだのだろうが、夏樹がそういうしきたりを知っていることが、ナツキと呼ばれたことが、少し悲しくなった。
「駅前で止めてください」
乗ってすぐに、夏樹は言った。あまりな単距離。ワンメーターで失望している運転手を気の毒に思いつつ、夏樹に急かされてタクシーを降りた。美玖が戸惑っていると、
「こっちだよ」
スマートフォンのマップを見ながら、もう何度もここにきているかのような気安さで夏樹はスタスタ歩いてゆく。接客中だから、彼と離れて帰ってしまうわけには行かないのだ。自分がそうした「大義名分」を考えていることに、また悲しくなってしまった。どうして素直に再会を喜べないのか。美玖はもう、自分に呆れてしまった。
駅のコンコースに入りエスカレーターで地下の連絡通路に降りた。広い通路には人はまばらだった。そのちょうど中間あたりの壁際に、一台のアップライトのピアノがあった。
「今、こういうのどこにでも一台はあるんだよね。ストリートピアノっての。すっごい、嬉しいよね・・・」
そう言ってピアノの前に座り、ポロロン、と和音を奏でた。
そして衝撃的な三度の和音と激しいパッセージで始まる、あのショパンの練習曲、ハ短調作品10-12.。「革命のエチュード」の別名を持つ、有名な曲を奏で始めた。
「ミクさんのことは、全部調べた。息子さんのことも。それからのことも。今までのことも。すべて、全部・・・」
まばらだった連絡通路も、そのあまりにも有名なピアノ曲が響きわたると皆足を止めてピアノの周りに集った。
「どう? 少しは上手くなったでしょ」
ドヤ顔でニヤニヤしながら鍵盤に指を走らせる夏樹に、小憎らしいような感情が芽生えた。
曲が終わると、次は何を弾こうかなと指が鍵盤と戯れ始める。
「弾きたそうな人いないから、まだいいよね・・・」
次はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」の第二楽章。あの落ち着いた甘い調べが響くと、また一人、二人とあゆみを止める人が増えた。
それに構わず、美玖は言った。
「さっき読んでた週刊誌に出てた。ITベンチャーの大金持ち。毎晩、クラブのホステスやタレントを侍らせて豪遊三昧。湯水のように金を使って、金の力で選り取り見取り・・・」
「ミクさんは、オレをそんなヤツだと思ってるの?」
「だって写真に写ってたよ。楽しソーに、かわいくてキレイな女の子ぶら下げて歩いてたし・・・」
「・・・うーん! うれしいな。ミクさん、ヤキモチ妬いてくれてるんだね」
「出た! B型人間の超ジコチュー楽観癖!」
「ミクさんだってBだろ! ・・・覚えててくれたんだね。じゃあ、この曲も、覚えてるよね」
次に彼が弾いたのは、あの忘れられないひと月余りの間に何度も聴いた、思い出の曲だった。
「アダージョ」の調べがその広い連絡通路に流れた。
あの峠のバス停。あの山間(やまあい)の山荘。瀬戸内の美しく輝く海。渓流際のキャンプ。そして、小舟の引くウェーキを眺めた美しい港・・・。
夏樹との、忘れられないタンデムの美しい思い出たちが蘇った。
「オレ、ナミとミクさんだけだよ。その二人しか、女知らない。あれからずっと、だよ。ずーっと、だよ」
と、「イケメン」は、言った。
駅前のホテルの前に駐めてあった超大型のモンスターバイクに乗せられた。
「あんた、こんなのに乗ってるの?」
「ビックリした? あんなナナハンなんかに乗せられてさ、ハマらせてさ・・・。これもミクさんのせいだからね。その責任、まだ取ってもらってないんだからね」
イケメンは不敵に笑った。別れた夫の面影はすでに薄れていたが、初めて大型のアメリカンバイクに乗せられた時の若い感動が蘇った。
バイクは市街を抜けて南へ、県境になっている大きな河の堤防の上を走った。初夏の風が河の上を吹きわたり、爽快に後ろへ去ってゆく。
「どお? きんもちいくない?」
ナナハンの後ろに乗せやった時の少年だった彼のセリフが、モンスターバイクを操っている超絶イケメンに成長した男性から出た。
夏樹はバイクを止めた。
堤防に立ち、二人で南を、川面を眺めた。どこまでも続く澄み渡った空。煌めく水面。その五月の空気を胸いっぱいにすいこんだ。
「ナミはオレの最愛の奥さん。そしてミクさんはオレの恩人で、忘れられない恋人で、大切な母親。オレのなかではそれに何の矛盾もないんだ。どっちも必要なんだよ、オレには。
ナミも、ミクさんも、どっちが欠けても、今のオレはなかった。
もしミクさんに会えてなかったら。
オレはオフクロとも会えなかったし、ナミとも結婚まではしてなかったかもしれない。オヤジとも和解してなかったろうし、大学だって、行ってたかわかんないし・・・。大学行ってなかったら今の仕事だって、やってたかどうかわかんないんだ。
あのミクさんとの旅が、それまでのオレの時間を変えてくれた。ミクさんが、今のオレを作ってくれたんだよ」
逞しく、大きくてゴツい手。あの大人と少年の中間ぐらいだった可愛い手は完全に大人の男の腕になっていた。その逞しい腕が、美玖の小さくて華奢な手を掴んだ。それだけで、何かが込み上げてきた。
「ナミも望んでるんだ。だから、とは言わない。これはオレのワガママ。それはわかってる。でも、絶対に従ってもらう。だって、ミクさんはオレを愛してくれてるんだろ、今でも。だから『ナツキ』なんて名乗ってるんだろ。だったら、オレの願いを叶えてくれよ。お願い。お願いします。この通りです。一緒に、暮らしてください!」
夏樹は美玖の足元にひれ伏し、その靴の上に額を付けた。
「・・・あんたは、ひとを、女を、なんだと思ってるの?」
美玖は胸の震えを抑えながら、訊いた。
「何のために別れたか、何のためにあんたの前から消えたか。
あんたの幸せのためでしょうが。大好きなあんたに、幸せな人生を生きてもらいたかったから。だからでしょうが。あの日、あんたナミちゃんに言われたよね。女心、理解(わか)れ、って。それを、こんな・・・。大金持ちになったからって、いきなり来て・・・。あたしの思いとか、願いとか、そういうの全部無視するつもりなの? あんた、何様なのよ。
それにあんたは、こんな年増の女に、いかがわしい仕事してるような女に係わっちゃダメじゃないの」
「何様だろうが、そんなのは、どうでもいい。ミクさんは、オレの宝もんなんだから」
夏樹は顔を上げた。
「オレ、もう社長でもなんでもない。辞めて来た。オレ、もう真っ新なんだ。ナミ以外、何も持ってない。どうしてもミクさんを迎えたかったから、取り戻したかったから、裸になったんだ。
ミクさんは、オレのもんだ。誰にも渡さない。渡したくない。だから・・・、だから・・・」
彼のためを思い身を切る思いで別れた男。この十年以上の間、一日たりとも忘れたことのない男。失った息子を思う以上にいつも遠くから彼の幸せを願い続けてきた、その男。そして、心も身体も、最も自分を求め愛してくれた男。
「ミクさん言ってくれたよね・・・。ここに熱いものを持って生きろ、って。オレ、その言葉通りに生きようって思って、ここまで来たんだ。だから、だよ」
跪き、胸を抑えて切々と訴える、イケメン・・・。
もうこれ以上抗うことはできない。涙さえ浮かべて見上げてくる、この可愛くて逞しい青年。こんな顔を見せられては、もう、抗うすべがなかった。
「あんた・・・。何にも考えてないんだもん。たった一人で、食べるものも持たないで、あんな暗い道を登って来て・・・。そんな、あと先なんも考えてないアホなガキ、放っておけるわけないじゃんね・・・。だから・・・。
初めて会った時から思ってたけど、あんた、やっぱ、バカだわ・・・」
「うん。それ、よく言われる」
夏樹は憎たらしくなるぐらいの爽やかな顔で、笑った。
「・・・わかった」
と、美玖は言った。
「も、どうでもいいわ。どうなってもいい。こんなバカな子に出会ったのが、あたしの運の尽きだったんだ・・・。
そんなに欲しいなら、あたしの残りの人生、全部あんたにあげる。ナミちゃんは、妹。あんたのことは、息子。これからはそう思うことにする。それで、いいよね」
「やっとわかった? おばさん!」
その高飛車な、クソ小生意気な青年は立ち上がり、両手で美玖の頬を包んだ。初夏の夕暮れの風になびく髪を撫で、その唇を奪った。
「ほら、おばさん。なにボサッと突っ立ってんの。さっさと乗りなよ」
青年はバイクに跨り、女を後ろに乗せた。
どど~ん!
モンスターバイクは走り出した。
その圧倒的なパワーと重量感が、向かってくる全てのものをぶっ壊してくれるような安心感と万能感をくれる。その素晴らしいものが初めて大型バイクに乗せられた時以上に、美玖を包んだ。そして、今美玖が抱きついているその背中は、かつて自分が背にして共に旅をした少年の匂いを漂わせている。それが美玖を癒した。
「も、さ、オンナなんてさ、バイクに乗せちゃえば、こっちのもんだからさ。もう、遅いからね。もう、メロメロにしちゃうから覚悟しておいてね。そいでさ、死ぬまでオレのそばにいてよ、おばさん!」
「失礼な! おばさん言うな、この、エロガキ!・・・。この、クソガキーッ!」
そう言って女は男の背中にしがみついた。その愛すべき可愛くて逞しい少年の背中に。長い間ずっと待ち望んでいた、温かくて大きな背中に。
了
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