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第三部 つくす
42 father and son
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「ショージ課長、2番にお電話です。えっと、ミナミノ法律事務所、さんから・・・」
夏樹の父、庄司は勤務先のオフィスのデスクから顔を上げた。
「・・・法律事務所?」
同じ課のシマだけでなく、そのオフィスにいた社員から一斉に注目を浴びた。弁護士事務所なんて、何事か、と。
心当たりはある。どうせまた夏樹がなにかやらかしたのだろう、と。
「ありがとう。2番ね。・・・はい、お電話代わりました。ショージですが・・・」
弁護士との面会を終え、庄司はアパートに帰った。
一人用のワンルーム。しかも、自分の家からも車で十分ほど。新しい赴任先と言っても隣の市で、家から通ってもここからとの差は三十分ほどしかない。
それでも、あの「息子」の目を毎日見るのに耐えられずに家を出る方を選んだ。
あの「継母」の女とも別れた。いつまで経っても状況が好転せず、夏樹が懐かなかったのを苦にして彼女から去って行ったのだ。
「ごめんね。アタシ、もうイヤなの。あの子と暮らすの、疲れた・・・」
あえて引き留めなかった。まだ書類上夫婦である雅子の不動産を手に入れる話をしたらすり寄って来た女だった。いつかこうなるだろうなと心のどこかで思っていた。
自分はつくづく、女に縁がないのだな・・・。
カバンから弁護士に渡された書類袋を出し、中身を小さな座卓に広げた。
俗に「緑の紙」という。その離婚届の「夫が親権を行う子」の欄にはすでに庄司夏樹の名前が入っていた。
「奥さんのマサコさんは離婚を望んでいらっしゃいます」
その初対面の弁護士は南野と名乗り、庄司にとってセンシティヴな話題を落ち着いた物腰で滔々と話し始めた。
「しかし、奥さんはご自身の不貞行為のためにそれをご自分から訴えられない。有責者ですからね。だから、小職にそれを託されました」
南野はそう言って喫茶店のテーブルの上に離婚届を広げた。
「奥さんの有責という部分を除いたとしても、もうお二方の夫婦関係は破綻していると見なされる状態になっておられますよね。
奥さんの不貞行為、長期間の別居、そして奥さんが家を出られたのは、夫婦関係の悪化が原因と、伺ってます。それだけで実質上離婚の成立要件を満たします」
「ちょっと待ってください。わたしもこういうのは初めてですが、これは民事でしょう? まず、あなたは誰の依頼で、誰の代理人としていらしたんですか? 妻ですか?」
「小職の依頼人は、あなたのご子息であるナツキ君です」
「え、ナツキが・・・」
「具体的には、彼の代理人のタダノという女性です。代理人と言っても、法律的な意味ではなく、道義的な代理人です。ナツキ君の友人なのだそうです。友達として、彼の苦境を放って置けなかったと。
そして小職は事実上、あなたの代理人として動く用意があります」
「はあ? あなたとは今お会いしたばかりでしょ。わたしはそんなことはお願いしてませんし、するつもりもありません。
そのタダノという人のことは息子から聞いてます。息子が世話になったと。ですが、わたしはまだ会ったこともないんです。そんな人の話をハイそうですかと聞くわけにいきませんよね。そうでしょ?
わたしたち夫婦のことはわたしたちで決めます。他人にどうこう言われる筋じゃあない」
「おっしゃる通りです。彼女、つまりタダノさんが言うには、あなたに親権者として彼の権限を代行して欲しい、と。そういうことなんです」
「・・・ナツキからはそのようなことは聞いておりませんが」
「でしょうね。ご子息がこれをタダノさんを通じて依頼して来たのは昨日ですから」
「・・・あなたの言わんとするところは無茶苦茶でサッパリわからない。一体どういうことなんですか。何も言わずにこの書類にサインしてハンコ押せと言いに来たんですか、あなたは」
南野は一息入れてコーヒーを含んだ。カップをソーサーに静かにおいて、続けた。
「マサコさんは重い病気に罹っています」
と南野は言った。
「もう、余命が長くないと、伺ってます」
「マサコが・・・。ガン、か何かですか」
「そこまでは小職は存じません。加えて、奥様はあなたへの慰謝料と、これまでのナツキ君の養育費を支払いたいと希望されているそうです。そのために、マサコさんが所有する地所の所有権を差し上げる用意があると。
ショージさんには、そうしたことを包括的にご判断いただいて、現状を解決し、救っていただきたいと、ナツキ君が望んでいるのです。
そして、もう一つ。
これはあなたに不利な事案ですが、その包括的なご判断の中にはあなたの夏樹君に対する虐待の問題への対応も含まれます」
南野の目は鋭く光った。
「同居していながら会話もない。話しかけられても無視する。満足に食事も与えず、勝手に家族以外の女性を連れてきて住まわせる。その女性にナツキ君の世話を丸投げして、適切な養育がなされているかのチェックもしない。結果、あなたより酷い仕打ちが延々と行われてきました。無関心もです。
これ、全て立派なネグレクト、モラルハラスメントであり、子供に対する虐待です」
南野は鋭い目で庄司を睨み据えた。
その喫茶店のコーヒーは煮詰まりすぎていてただ苦いだけの液体だった。
「虐待、か・・・」
アパートの粗末なローテーブルの上に置いた書類の「夫が親権を行う子」の欄にじっと目を落としたまま、庄司は呟いた。
たしかに、そう言われても仕方のないことを彼は夏樹にしてきた。
夏樹が生まれた夜は、その年も押し迫ったクリスマス・イブだった。庄司は喜びを爆発させ、小躍りして弾けた。
三十を過ぎるまで女性との交際がなかった。見かねた周囲が見繕ってきた中に秀麗な美人がいた。写真だけで一目惚れしてしまい、話を持って来てくれた親戚に何度も頭を下げてようやく結婚に漕ぎつけた。
話はトントン拍子に進み、満を持して結婚。誰もが羨む若く美しい伴侶との幸せな新婚生活が一年を過ぎたあたりで生まれたのが夏樹だった。
多くの父親が初めての男の子に抱く夢を庄司も見た。キャッチボール。釣り。スキー。日曜大工。自転車の補助輪を外す。カメラとビデオでその日、その日々を綿密に記録し続けた。
しかし、時を同じくして雅子の実家を立て続けに不幸が見舞った。雅子の父が早世した時は、
「お義母さん。お力落としなく。何かありましたら遠慮なく言ってください」
そう慰めた義母も間もなく後を追うようにして逝った。その上さらに義兄が難病に罹っていることを知った。身体中の筋肉が萎縮してゆく奇病。治療法はなく、徐々に進行してゆく病状を緩和するしか対処する術がない。雅子は何度も家政婦への指示と容体を見に帰省をしたが、その度に夏樹を抱いて、
「ナツキのことは心配するな。義兄さんによろしくな。なんだったら、看護士でも付けようか。いっそのことこっちの病院か介護施設に移ってもらえれば。オレも協力するし、援助するからさ」
一人で行く雅子を励まして送り出し、夏樹と二人、なんとか留守を守った。
会社に行くときは庄司の実家に夏樹を預け、退社すると真っすぐ迎えに行き、父と子二人だけの家でも楽しかった。夏樹が物覚えのいい、利発で活発な子であるところも、庄司は愛していた。
だがその父と息子の幸せな日々は、ある日突然に終わった。
夏樹が小学校に上がったばかりのときだった。買って与えたばかりの自転車に乗って近所の友達の家に行った夏樹が、家への帰り道に転倒して大ケガをした。骨折はなかったが膝が酷く裂け、深い傷を負った。
折悪しく雅子は義兄の看病で実家に帰省していていなかった。庄司が近くの病院へ連れて行った。応急処置をお願いしている間、雅子に電話したが通じなかった。念のためにと一度戻った家の中で母子手帳を探して、その事実を知った。
雅子からO型と聞かされていた夏樹の血液型はB型だった。庄司はA。雅子はO。二人からは生まれるはずのない血液型だったのだ。間違いであってほしいと医者に頼んでもう一度検査をしてもらったが、結果は同じだった。
怪我自体は出血のわりに大事はなく、その日のうちに夏樹を連れ帰った。病院に連れて行ったときには夏樹に万が一でもあればと必死だったのに、連れ帰る時には自分の息子と称するこの子供が得体のしれない生き物のように見えて仕方なかった。
ちょうど帰宅していた雅子と対面した。雅子は脚に包帯を巻いている夏樹を見て血相を変えた。
「どうしたの? 何があったの?」
その質問に答える気力がなく、黙って母子手帳を返した。
「どういうことだ」
正司のその一言だけで、雅子は何かを悟り、それ以来、夏樹の件でどんなに詰問しても、
「申し訳ありません・・・」
それしか言わなくなった。
夏樹に対しても何もする気が起きなくなった。息子に、今まで息子だと思っていた子供に一切の興味を失ってしまった。一切、夏樹と言葉を交わさなくなった。
「お父さん、遊んでよ」
「キャッチボールしようよ」
「釣り、連れてってよ」
そういう「息子」と称する子供の言葉を一切無視した。暴力こそ振るわなかったが、その存在を無いものとして生活した。生活の中に夏樹という子供の存在を認めなかった。そうするうちに、夏樹もまた庄司に何も言わなくなった。庄司を避けるようになった。家にいることも少なくなり、学校以外の時間は近所の幼馴染である奈美の家にいることが増えた。あえて連れ戻しに行こうとも思わなくなった。夏樹はいつも雅子に連れられて戻って来た。夫のそんな態度に接するたびに、雅子は涙し、
「申し訳ありません・・・」
と詫びた。
あんなに愛していた美しい妻までが単に鬱陶しいだけの存在になった。
「しばらく夏樹を連れて実家に帰ります。全てあなたの指示に従います。申し訳ありませんでした」
そう言って雅子が出てゆくと、全てがどうでもよくなった。仕事以外は全て自暴自棄に過ごした。
しばらくして、事情を知らない庄司の父と母に連れられて夏樹だけが帰って来た。
「庄司の家の跡取りが長い間家を留守にするなんておかしい」
雅子の実家でどういうやり取りがあったのかは訊きもしなかった。両親には言えなかった。夏樹の種が違うなんて。自分じゃないなんて。口が裂けても、言うつもりはなかった。
「マサコさんのご実家が大変なのはわかるが、夏樹がこの家にいないのは認められない」
そういう両親に逆らえなかった。
そうして、離婚問題が宙ぶらりんのまま、今に至ることになってしまった。
その最大の被害者が夏樹であることは、七年も経った今なら同意できる。
そして息子は「父親」である自分に黙って、たった一人で母を探しに行くような歳になっていた。
「ナツキ君はまだ、生物学上の父親があなたでないことを知りません。タダノさんも、それだけは絶対に本人に知らせたくないと・・・。
ですが、何よりもあなたが、そう、お望みなのですよね」
南野は静かに言い放った。
庄司は驚きの目で目の前の弁護士を見つめた。
驚きの理由は、夏樹の種の一件が目の前の他人にすでに知られていること。そして、夏樹にだけは知られたくないと、庄司自身が思っていることが、他人の口から語られてしまっていること。今まで誰にも明かしていなかった庄司自身の思い。それをなぜ、目の前の弁護士が知っているのだ、と。
それほどに夏樹と只野という女性の関係は密接なのだろう。出会ったのがたかだか二か月前だということだが。
にわかには信じがたかったが、事実だ。
そしてもう、決断しなければいけない時が来ていた。
「繰り返しますが、小職はナツキ君の代理人です。ひいてはその親権者であるあなたの代理人です。すべてはあなたのご決断次第ですが、何よりも、ナツキ君の利益を第一に考えていただきたいというのが、彼の代理人である小職の希望です」
すぐには返事できないと、今日のところは別れた。別れ際に不思議に思ったので尋ねた。
「あなたはナツキの代理人と言われましたが、代理人をお引き受けになるにあたり、その着手金は誰が支払ったのですか? そのタダノという女性ですか」
「誰からも、一切、受け取っておりません」
と彼はにこやかに答えた。
「あなたが不貞行為に対する慰謝料として雅子さんから受け取る地所が整理され、その利益を受け取られてからで結構です。それまでの手数料も含めて、成功報酬で構いません」
そんな弁護士がいるだろうか。
ためしに所属の弁護士会にも問い合わせたが、彼はちゃんと登録をされている本物の弁護士だった。
キツネにつままれるとはこのことではないか。
とにかく、何が何だかわからない。冷蔵庫のビールを取り出してプルリングを引くと携帯電話に着信があった。
夏樹から聞いていた、只野という女性だった。
夏樹の父、庄司は勤務先のオフィスのデスクから顔を上げた。
「・・・法律事務所?」
同じ課のシマだけでなく、そのオフィスにいた社員から一斉に注目を浴びた。弁護士事務所なんて、何事か、と。
心当たりはある。どうせまた夏樹がなにかやらかしたのだろう、と。
「ありがとう。2番ね。・・・はい、お電話代わりました。ショージですが・・・」
弁護士との面会を終え、庄司はアパートに帰った。
一人用のワンルーム。しかも、自分の家からも車で十分ほど。新しい赴任先と言っても隣の市で、家から通ってもここからとの差は三十分ほどしかない。
それでも、あの「息子」の目を毎日見るのに耐えられずに家を出る方を選んだ。
あの「継母」の女とも別れた。いつまで経っても状況が好転せず、夏樹が懐かなかったのを苦にして彼女から去って行ったのだ。
「ごめんね。アタシ、もうイヤなの。あの子と暮らすの、疲れた・・・」
あえて引き留めなかった。まだ書類上夫婦である雅子の不動産を手に入れる話をしたらすり寄って来た女だった。いつかこうなるだろうなと心のどこかで思っていた。
自分はつくづく、女に縁がないのだな・・・。
カバンから弁護士に渡された書類袋を出し、中身を小さな座卓に広げた。
俗に「緑の紙」という。その離婚届の「夫が親権を行う子」の欄にはすでに庄司夏樹の名前が入っていた。
「奥さんのマサコさんは離婚を望んでいらっしゃいます」
その初対面の弁護士は南野と名乗り、庄司にとってセンシティヴな話題を落ち着いた物腰で滔々と話し始めた。
「しかし、奥さんはご自身の不貞行為のためにそれをご自分から訴えられない。有責者ですからね。だから、小職にそれを託されました」
南野はそう言って喫茶店のテーブルの上に離婚届を広げた。
「奥さんの有責という部分を除いたとしても、もうお二方の夫婦関係は破綻していると見なされる状態になっておられますよね。
奥さんの不貞行為、長期間の別居、そして奥さんが家を出られたのは、夫婦関係の悪化が原因と、伺ってます。それだけで実質上離婚の成立要件を満たします」
「ちょっと待ってください。わたしもこういうのは初めてですが、これは民事でしょう? まず、あなたは誰の依頼で、誰の代理人としていらしたんですか? 妻ですか?」
「小職の依頼人は、あなたのご子息であるナツキ君です」
「え、ナツキが・・・」
「具体的には、彼の代理人のタダノという女性です。代理人と言っても、法律的な意味ではなく、道義的な代理人です。ナツキ君の友人なのだそうです。友達として、彼の苦境を放って置けなかったと。
そして小職は事実上、あなたの代理人として動く用意があります」
「はあ? あなたとは今お会いしたばかりでしょ。わたしはそんなことはお願いしてませんし、するつもりもありません。
そのタダノという人のことは息子から聞いてます。息子が世話になったと。ですが、わたしはまだ会ったこともないんです。そんな人の話をハイそうですかと聞くわけにいきませんよね。そうでしょ?
わたしたち夫婦のことはわたしたちで決めます。他人にどうこう言われる筋じゃあない」
「おっしゃる通りです。彼女、つまりタダノさんが言うには、あなたに親権者として彼の権限を代行して欲しい、と。そういうことなんです」
「・・・ナツキからはそのようなことは聞いておりませんが」
「でしょうね。ご子息がこれをタダノさんを通じて依頼して来たのは昨日ですから」
「・・・あなたの言わんとするところは無茶苦茶でサッパリわからない。一体どういうことなんですか。何も言わずにこの書類にサインしてハンコ押せと言いに来たんですか、あなたは」
南野は一息入れてコーヒーを含んだ。カップをソーサーに静かにおいて、続けた。
「マサコさんは重い病気に罹っています」
と南野は言った。
「もう、余命が長くないと、伺ってます」
「マサコが・・・。ガン、か何かですか」
「そこまでは小職は存じません。加えて、奥様はあなたへの慰謝料と、これまでのナツキ君の養育費を支払いたいと希望されているそうです。そのために、マサコさんが所有する地所の所有権を差し上げる用意があると。
ショージさんには、そうしたことを包括的にご判断いただいて、現状を解決し、救っていただきたいと、ナツキ君が望んでいるのです。
そして、もう一つ。
これはあなたに不利な事案ですが、その包括的なご判断の中にはあなたの夏樹君に対する虐待の問題への対応も含まれます」
南野の目は鋭く光った。
「同居していながら会話もない。話しかけられても無視する。満足に食事も与えず、勝手に家族以外の女性を連れてきて住まわせる。その女性にナツキ君の世話を丸投げして、適切な養育がなされているかのチェックもしない。結果、あなたより酷い仕打ちが延々と行われてきました。無関心もです。
これ、全て立派なネグレクト、モラルハラスメントであり、子供に対する虐待です」
南野は鋭い目で庄司を睨み据えた。
その喫茶店のコーヒーは煮詰まりすぎていてただ苦いだけの液体だった。
「虐待、か・・・」
アパートの粗末なローテーブルの上に置いた書類の「夫が親権を行う子」の欄にじっと目を落としたまま、庄司は呟いた。
たしかに、そう言われても仕方のないことを彼は夏樹にしてきた。
夏樹が生まれた夜は、その年も押し迫ったクリスマス・イブだった。庄司は喜びを爆発させ、小躍りして弾けた。
三十を過ぎるまで女性との交際がなかった。見かねた周囲が見繕ってきた中に秀麗な美人がいた。写真だけで一目惚れしてしまい、話を持って来てくれた親戚に何度も頭を下げてようやく結婚に漕ぎつけた。
話はトントン拍子に進み、満を持して結婚。誰もが羨む若く美しい伴侶との幸せな新婚生活が一年を過ぎたあたりで生まれたのが夏樹だった。
多くの父親が初めての男の子に抱く夢を庄司も見た。キャッチボール。釣り。スキー。日曜大工。自転車の補助輪を外す。カメラとビデオでその日、その日々を綿密に記録し続けた。
しかし、時を同じくして雅子の実家を立て続けに不幸が見舞った。雅子の父が早世した時は、
「お義母さん。お力落としなく。何かありましたら遠慮なく言ってください」
そう慰めた義母も間もなく後を追うようにして逝った。その上さらに義兄が難病に罹っていることを知った。身体中の筋肉が萎縮してゆく奇病。治療法はなく、徐々に進行してゆく病状を緩和するしか対処する術がない。雅子は何度も家政婦への指示と容体を見に帰省をしたが、その度に夏樹を抱いて、
「ナツキのことは心配するな。義兄さんによろしくな。なんだったら、看護士でも付けようか。いっそのことこっちの病院か介護施設に移ってもらえれば。オレも協力するし、援助するからさ」
一人で行く雅子を励まして送り出し、夏樹と二人、なんとか留守を守った。
会社に行くときは庄司の実家に夏樹を預け、退社すると真っすぐ迎えに行き、父と子二人だけの家でも楽しかった。夏樹が物覚えのいい、利発で活発な子であるところも、庄司は愛していた。
だがその父と息子の幸せな日々は、ある日突然に終わった。
夏樹が小学校に上がったばかりのときだった。買って与えたばかりの自転車に乗って近所の友達の家に行った夏樹が、家への帰り道に転倒して大ケガをした。骨折はなかったが膝が酷く裂け、深い傷を負った。
折悪しく雅子は義兄の看病で実家に帰省していていなかった。庄司が近くの病院へ連れて行った。応急処置をお願いしている間、雅子に電話したが通じなかった。念のためにと一度戻った家の中で母子手帳を探して、その事実を知った。
雅子からO型と聞かされていた夏樹の血液型はB型だった。庄司はA。雅子はO。二人からは生まれるはずのない血液型だったのだ。間違いであってほしいと医者に頼んでもう一度検査をしてもらったが、結果は同じだった。
怪我自体は出血のわりに大事はなく、その日のうちに夏樹を連れ帰った。病院に連れて行ったときには夏樹に万が一でもあればと必死だったのに、連れ帰る時には自分の息子と称するこの子供が得体のしれない生き物のように見えて仕方なかった。
ちょうど帰宅していた雅子と対面した。雅子は脚に包帯を巻いている夏樹を見て血相を変えた。
「どうしたの? 何があったの?」
その質問に答える気力がなく、黙って母子手帳を返した。
「どういうことだ」
正司のその一言だけで、雅子は何かを悟り、それ以来、夏樹の件でどんなに詰問しても、
「申し訳ありません・・・」
それしか言わなくなった。
夏樹に対しても何もする気が起きなくなった。息子に、今まで息子だと思っていた子供に一切の興味を失ってしまった。一切、夏樹と言葉を交わさなくなった。
「お父さん、遊んでよ」
「キャッチボールしようよ」
「釣り、連れてってよ」
そういう「息子」と称する子供の言葉を一切無視した。暴力こそ振るわなかったが、その存在を無いものとして生活した。生活の中に夏樹という子供の存在を認めなかった。そうするうちに、夏樹もまた庄司に何も言わなくなった。庄司を避けるようになった。家にいることも少なくなり、学校以外の時間は近所の幼馴染である奈美の家にいることが増えた。あえて連れ戻しに行こうとも思わなくなった。夏樹はいつも雅子に連れられて戻って来た。夫のそんな態度に接するたびに、雅子は涙し、
「申し訳ありません・・・」
と詫びた。
あんなに愛していた美しい妻までが単に鬱陶しいだけの存在になった。
「しばらく夏樹を連れて実家に帰ります。全てあなたの指示に従います。申し訳ありませんでした」
そう言って雅子が出てゆくと、全てがどうでもよくなった。仕事以外は全て自暴自棄に過ごした。
しばらくして、事情を知らない庄司の父と母に連れられて夏樹だけが帰って来た。
「庄司の家の跡取りが長い間家を留守にするなんておかしい」
雅子の実家でどういうやり取りがあったのかは訊きもしなかった。両親には言えなかった。夏樹の種が違うなんて。自分じゃないなんて。口が裂けても、言うつもりはなかった。
「マサコさんのご実家が大変なのはわかるが、夏樹がこの家にいないのは認められない」
そういう両親に逆らえなかった。
そうして、離婚問題が宙ぶらりんのまま、今に至ることになってしまった。
その最大の被害者が夏樹であることは、七年も経った今なら同意できる。
そして息子は「父親」である自分に黙って、たった一人で母を探しに行くような歳になっていた。
「ナツキ君はまだ、生物学上の父親があなたでないことを知りません。タダノさんも、それだけは絶対に本人に知らせたくないと・・・。
ですが、何よりもあなたが、そう、お望みなのですよね」
南野は静かに言い放った。
庄司は驚きの目で目の前の弁護士を見つめた。
驚きの理由は、夏樹の種の一件が目の前の他人にすでに知られていること。そして、夏樹にだけは知られたくないと、庄司自身が思っていることが、他人の口から語られてしまっていること。今まで誰にも明かしていなかった庄司自身の思い。それをなぜ、目の前の弁護士が知っているのだ、と。
それほどに夏樹と只野という女性の関係は密接なのだろう。出会ったのがたかだか二か月前だということだが。
にわかには信じがたかったが、事実だ。
そしてもう、決断しなければいけない時が来ていた。
「繰り返しますが、小職はナツキ君の代理人です。ひいてはその親権者であるあなたの代理人です。すべてはあなたのご決断次第ですが、何よりも、ナツキ君の利益を第一に考えていただきたいというのが、彼の代理人である小職の希望です」
すぐには返事できないと、今日のところは別れた。別れ際に不思議に思ったので尋ねた。
「あなたはナツキの代理人と言われましたが、代理人をお引き受けになるにあたり、その着手金は誰が支払ったのですか? そのタダノという女性ですか」
「誰からも、一切、受け取っておりません」
と彼はにこやかに答えた。
「あなたが不貞行為に対する慰謝料として雅子さんから受け取る地所が整理され、その利益を受け取られてからで結構です。それまでの手数料も含めて、成功報酬で構いません」
そんな弁護士がいるだろうか。
ためしに所属の弁護士会にも問い合わせたが、彼はちゃんと登録をされている本物の弁護士だった。
キツネにつままれるとはこのことではないか。
とにかく、何が何だかわからない。冷蔵庫のビールを取り出してプルリングを引くと携帯電話に着信があった。
夏樹から聞いていた、只野という女性だった。
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