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第三部 つくす
41 A long long time ago・・・
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雅子は立っているのが辛いらしく、ごめんなさい、と言いながらベッドに横たわった。
「お構いも出来なくて・・・。座布団をお使いになってください」
「・・・身体、お悪いんですね」
「・・・ええ」
そう言って彼女は黙った。
真っ白だと見えた長い髪は、少し黒髪を残してはいた。だが、老齢によるものでない、明らかに栄養不足によるものだとわかるその髪は干からびて縮れていた。まだ四十にも満たないはずなのに、皮膚にも全く艶がなかった。人というのはこれほど変り果てるものなのか。
美玖にはかける言葉が見つからなかった。
彼女は美玖を信用しなかった。とりあえず夏樹に電話して声を聴かせようかと思ったが、携帯電話の番号を押してしまってから、小学一年生と中学二年生では声が変わっているだろうと気づき、戸惑っていた。
だが、夏樹は賢い子だ。彼がピアノを練習しているとは知らなかったが、彼の機転のおかげで雅子は信じてくれたらしい。夏樹がいつも聴いていたあの曲を聴いて、彼女の頑なな心が融け、動いたのだろう。
玄関ドアの脇には流しとキッチンがあり、小さな浴室とトイレのベニヤ板のドアがあり、その奥に六畳の和室という、典型的な1Kのアパート。雅子は窓際のベッドに横たわり、ベッドの左側の壁にはラックがあり、今も美玖の知らないピアノ協奏曲を流し続けるCDプレーヤーが乗っていた。
ふと、デッキの横のCDケースを見ると手製らしく、手書きで曲名が書かれていた。
ラフマニノフ作曲、ピアノ協奏曲第二番・・・。
「これもラフマニノフなんですね」
「・・・ご存じでしたか」
あまり気分がよくないのだろう。彼女は目を瞑ったまま、そう尋ねた。
「最高難度のピアノコンチェルトです。彼が二十歳の時、ピアノコンクールに出たんです。これが彼の唯一の、最初で最後に大舞台で演奏したピアノコンチェルトになりました。同じです。全部、同じなんです」
と雅子は言った。
「あの子に残したCDを演奏したのも、さっき電話で聴かせてくれた曲の編曲も、このピアノコンチェルトでソロを弾いているのも。
ミナガワヨースケ。わたしの、兄です。そして、ナツキの、実の父親です」
ラックの最下段に桐の箱があった。骨壺のだろう。カバーもなく、そばに位牌もなかった。法事用ではなく、香りを楽しむための小さなお香の香炉があるだけだった。
夏樹と出会い、彼の話を聞いてもしかするとと思い、叶からも同じ話を聞いた。だが、あらためて母親である本人からその事実を聞くと、さすがに戦慄を禁じ得ない。
美玖は、瞑目した。
「お線香を、上げさせてもらえますか」
彼女は黙って頷いた。
そばにあったマッチで火を点け、美玖は手を合わせた。ラベンダーの香りが、部屋に流れた。
合掌を終え、美玖は正座してベッドで瞑目する夏樹の母に向き直った。
「息子さんのピアノを聴いて、いかがでしたか?」
美玖の言葉が聞こえなかったのだろうか。そう思うほどに、彼女は反応しなかった。眠ってしまったのだろうか。いや、彼女は眠ってはいなかった。
長い沈黙の後に、雅子は口を開いた。
「・・・ここまで来られたのなら、全部ご存じなんでしょう」
美玖は、言った。
「あの山荘のある町で、カノウさんにお会いしました。・・・彼女から、伺いました」
雅子の顔に、ふっ、と微かな笑みが浮かんだ。
「・・・ヨーコは、元気でした?」
「はい・・・。あなたのことを、とても案じていらっしゃいました」
「・・・そうですか」
と、雅子は言った。
「ヨーコにも、悪いことをしました。
本来、ヨースケと結ばれるのは彼女のはずでした。
兄と妹の友達。あの二人が結婚し、わたしはかなり小うるさい小姑になる。周りもそう思っていました。それが常識で、当たり前です。兄と妹なんて、倫理や道徳としてありえないんです。それを、そんな幸せを、わたしは彼女から無理やり奪ったんです。
それだけならまだしも、夫のある身でヨースケの子を宿し、夫の、ショージの子として産み、育てさせようとしたんです。わたしは、地獄に落ちて当たり前です。落ちるべき女なんです。
そんなわたしが、普通の、真っ当な人生を生きていらっしゃる多くの母親の方々と同じように、息子の成長を傍で感じ、幸せに浸るなどということは、許されないんです。
そしてそれは、もうすぐ、出来なくなります。現実に。
わたしは、もう、長くないんです」
雅子は天井の一点を見つめ、何かに憑かれたように語り、語り終えると、目を閉じた。
「もしかして、あなたは入院が必要ではないんですか」
「・・・いいんです。少し前に運ばれましたが、出てきました。もう、必要ないんです。
やっと・・・、やっとこの時が来たんです」
美玖はなんとか旅の終点にたどり着いた。
だがそれは、美玖が思い描いたような、愛する夏樹に捧げられるような、ハッピーエンドを期待できるようなものには程遠かった。
曲が終わった。
途端に沸き上がる拍手、歓声。ブラボーの声。
旅の終わりに、最大級の試練が待っていたのを、美玖は知った。
「ハイ。ミナミノ法律事務所です」
「ミナミノセンセですか。ハセ、・・・タダノミクですが」
雅子のアパートを望む場所にバイクを駐め、あの悪徳弁護士の事務所に電話した。
「タダノさん・・・。またですか」
「またとはなによ、失礼ね。すぐ電話出るくらいだからどうせヒマなんでしょ。仕事頼んであげるから、感謝しなさい」
「・・・相変わらずの超高圧風味ですね、タダノさん」
悪徳弁護士は虚勢を張っている。美玖にはそう思えた。事務員も置かず電話に直接出るほどなのだから。
「とにかく、今から説明するから、その通りに動いて。いいわね?」
「ちょっと待ってください。わたしは便利屋じゃないんですよ」
「何カッコつけてんのよ。依頼があるんだから受けりゃいいのよ」
「・・・あなたが依頼人になるんですか?」
「違うよ。依頼人は、まだ14歳の男の子なの」
あの、アマ・・・。
言いたい放題。言うだけ言って切りやがって・・・。
悪徳弁護士こと、南野は受話器を置き、メモしていた鉛筆をペン立てに戻した。そうしてシートに深く持たれて、ガランとした事務所を見渡した。
なんだってまたあの女が。こっちはもう事務所畳もうっていうところなのに・・・。
南野はその月いっぱいで事務所を閉めようとしていた。
先月まで事務員が一人いたが、同業の他の事務所に移ってもらった。彼女の移籍先を見つけるまで、閉じるのを待っていたのだ。やっと受け入れ先が見つかり、事務所の中を整理している間際になって、またあの煩い女と係わるのは、正直言ってごめん被りたかった。
それなのに、最後まで話を聞いてしまったのは、何故だろう。
事務所を畳む理由は、いろいろある。だが、その最大の理由は自分自身にあった。
自分は、弁護士に向いていない。
弁護士を志し、三度も司法試験に落ちてまでしてやっと手に入れた地位ではあった。が、司法修習生からイソーロー弁護士時代を通じて世話になった先輩から、
「お前、メンタル弱いな」と指摘されていた。独立せずにイソ弁でいた方がいい、と。
しかし、受験勉強していたころからの夢だったから、諦められなかった。
決定打になったのは、あの女の案件を担当したことだった。
「鬼! 悪魔! あんたみたいのを悪徳弁護士って言うのよ!」
あの、当時長谷部美玖、今は旧姓只野に戻っている女から子供を取り上げてしまったのをいまだに気に病んでいた。
夫のある身でありながら、数か月にもわたって不貞を犯し、夫を裏切っていた悪い女。そう断罪して依頼人である夫の権利を守る正義の執行者。ヒーローを演じていたところまではよかった。
だが実際に案件を処理してゆく過程であの美玖という女がいかに子供を大事にしていたか、思い知らされた。
何度か彼女不在の家に行ったが、幼稚園のスモックやハンカチにはいつもきちんとアイロンがかけてあった。お弁当は手の込んだキャラ弁。それを毎日写真に撮り、一度も同じ弁当を作ったことがないのを写真帳で見ていた。部屋の壁中に家族の写真があり、どの写真も笑い顔に満ちていた。どのフレームも手製のクロスの切り張りで飾られていた。自分も仕事をしているのに、それほどまでに家族と子供に手間暇をかける。
子供の送り迎えもいつも歩きで車を使わない。南野は物陰から何度もその光景を見ていた。彼女の大樹という子供の嬉しそうな笑顔がいまだに目に焼き付いているほどだ。
長谷部美玖は、いい母親だった。
その「いい母親」から、自分は息子を奪ってしまった。
「調停や裁判になってこういう事例が証拠として採用されると親権が取れなくなる可能性があります。奥さんに利用される前に見つからないように隠すか処分なさることをお勧めします」
判例を研究してそんなアドバイスもした。彼女の一生懸命に努力した結晶、キャラ弁の写真帳や家族の楽し気な時間を記録したアルバムなどを捨てるよう、助言したのだ。美玖を、子供を顧みずに愛欲三昧に耽る悪妻に仕立て上げるために。
そしてダメ押しに、ラブホテルの前で待ち伏せして精神的ショックを与えようとした旦那を、諫めなかった。
「暴力だけは慎んでくださいね。突入前にお子さんを確保することをお勧めします。できればご実家に匿うとか。奥さんに子供を取り返すことを断念させるためです。親権を取れなくても面会権が保証されていますが、その都度子供が熱出したとか、幼稚園の行事があるとかで躱せばいいです。まだ入学前の子供ですから、会わなければそのうち母親を忘れてしまうでしょう・・・」
そう、アドバイスさえした。
それでもあの女は旦那の実家まで息子に会いに行ったという。
子供、泣いただろうな。ママ、ママ、って・・・。ママ大好きな子だったしな。
お前のせいで、一人の男の子がママを奪われた。お前はそれでも正義の味方なのか・・・。
それをずっと、心残りに思ってしまっていた。
「だから言ったろう。お前、メンタル弱すぎだって。オレらだって商売なんだぞ。お前みたいに毎度仏心全開にしてるような奴には、務まらんぞ」
あの先輩なら、きっとそう言う。今思えば忠告通りにもうしばらく先輩の事務所でイソーロー弁護士を続けていたほうがよかったかもしれない。
以前から田舎でリンゴ園を営む実家から戻ってくれないかと言われていた。家を継ぐはずだった兄が身体を壊したのだ、と。
「リンゴ、手伝いながら農協さ勤めればいいんでねえが。ここさ落ぢ着(づ)いで、ヨメコさもらってよ・・・。早グ、母ちゃんさラグにさせでけろ・・・」
自分は母親からの電話で涙ぐんだりしているくせに、一人の立派な母親から愛する子供を奪ってしまった。こんなことを、これからもずっと続けていく気力が、なくなっていた。
農協でなくとも、弁護士資格があるから行政書士や弁理士もできる。
よし、そうしよう。
美玖から電話を受けたのは、そう決意した矢先のことだった。
仕方ない。最後に仏心全開で、あの女の願いを聞いてやるか。そのほうが夢見もいいだろうしな・・・。
南野はため息を一つ吐いて、もう一度今書いたメモを見直した。
「お構いも出来なくて・・・。座布団をお使いになってください」
「・・・身体、お悪いんですね」
「・・・ええ」
そう言って彼女は黙った。
真っ白だと見えた長い髪は、少し黒髪を残してはいた。だが、老齢によるものでない、明らかに栄養不足によるものだとわかるその髪は干からびて縮れていた。まだ四十にも満たないはずなのに、皮膚にも全く艶がなかった。人というのはこれほど変り果てるものなのか。
美玖にはかける言葉が見つからなかった。
彼女は美玖を信用しなかった。とりあえず夏樹に電話して声を聴かせようかと思ったが、携帯電話の番号を押してしまってから、小学一年生と中学二年生では声が変わっているだろうと気づき、戸惑っていた。
だが、夏樹は賢い子だ。彼がピアノを練習しているとは知らなかったが、彼の機転のおかげで雅子は信じてくれたらしい。夏樹がいつも聴いていたあの曲を聴いて、彼女の頑なな心が融け、動いたのだろう。
玄関ドアの脇には流しとキッチンがあり、小さな浴室とトイレのベニヤ板のドアがあり、その奥に六畳の和室という、典型的な1Kのアパート。雅子は窓際のベッドに横たわり、ベッドの左側の壁にはラックがあり、今も美玖の知らないピアノ協奏曲を流し続けるCDプレーヤーが乗っていた。
ふと、デッキの横のCDケースを見ると手製らしく、手書きで曲名が書かれていた。
ラフマニノフ作曲、ピアノ協奏曲第二番・・・。
「これもラフマニノフなんですね」
「・・・ご存じでしたか」
あまり気分がよくないのだろう。彼女は目を瞑ったまま、そう尋ねた。
「最高難度のピアノコンチェルトです。彼が二十歳の時、ピアノコンクールに出たんです。これが彼の唯一の、最初で最後に大舞台で演奏したピアノコンチェルトになりました。同じです。全部、同じなんです」
と雅子は言った。
「あの子に残したCDを演奏したのも、さっき電話で聴かせてくれた曲の編曲も、このピアノコンチェルトでソロを弾いているのも。
ミナガワヨースケ。わたしの、兄です。そして、ナツキの、実の父親です」
ラックの最下段に桐の箱があった。骨壺のだろう。カバーもなく、そばに位牌もなかった。法事用ではなく、香りを楽しむための小さなお香の香炉があるだけだった。
夏樹と出会い、彼の話を聞いてもしかするとと思い、叶からも同じ話を聞いた。だが、あらためて母親である本人からその事実を聞くと、さすがに戦慄を禁じ得ない。
美玖は、瞑目した。
「お線香を、上げさせてもらえますか」
彼女は黙って頷いた。
そばにあったマッチで火を点け、美玖は手を合わせた。ラベンダーの香りが、部屋に流れた。
合掌を終え、美玖は正座してベッドで瞑目する夏樹の母に向き直った。
「息子さんのピアノを聴いて、いかがでしたか?」
美玖の言葉が聞こえなかったのだろうか。そう思うほどに、彼女は反応しなかった。眠ってしまったのだろうか。いや、彼女は眠ってはいなかった。
長い沈黙の後に、雅子は口を開いた。
「・・・ここまで来られたのなら、全部ご存じなんでしょう」
美玖は、言った。
「あの山荘のある町で、カノウさんにお会いしました。・・・彼女から、伺いました」
雅子の顔に、ふっ、と微かな笑みが浮かんだ。
「・・・ヨーコは、元気でした?」
「はい・・・。あなたのことを、とても案じていらっしゃいました」
「・・・そうですか」
と、雅子は言った。
「ヨーコにも、悪いことをしました。
本来、ヨースケと結ばれるのは彼女のはずでした。
兄と妹の友達。あの二人が結婚し、わたしはかなり小うるさい小姑になる。周りもそう思っていました。それが常識で、当たり前です。兄と妹なんて、倫理や道徳としてありえないんです。それを、そんな幸せを、わたしは彼女から無理やり奪ったんです。
それだけならまだしも、夫のある身でヨースケの子を宿し、夫の、ショージの子として産み、育てさせようとしたんです。わたしは、地獄に落ちて当たり前です。落ちるべき女なんです。
そんなわたしが、普通の、真っ当な人生を生きていらっしゃる多くの母親の方々と同じように、息子の成長を傍で感じ、幸せに浸るなどということは、許されないんです。
そしてそれは、もうすぐ、出来なくなります。現実に。
わたしは、もう、長くないんです」
雅子は天井の一点を見つめ、何かに憑かれたように語り、語り終えると、目を閉じた。
「もしかして、あなたは入院が必要ではないんですか」
「・・・いいんです。少し前に運ばれましたが、出てきました。もう、必要ないんです。
やっと・・・、やっとこの時が来たんです」
美玖はなんとか旅の終点にたどり着いた。
だがそれは、美玖が思い描いたような、愛する夏樹に捧げられるような、ハッピーエンドを期待できるようなものには程遠かった。
曲が終わった。
途端に沸き上がる拍手、歓声。ブラボーの声。
旅の終わりに、最大級の試練が待っていたのを、美玖は知った。
「ハイ。ミナミノ法律事務所です」
「ミナミノセンセですか。ハセ、・・・タダノミクですが」
雅子のアパートを望む場所にバイクを駐め、あの悪徳弁護士の事務所に電話した。
「タダノさん・・・。またですか」
「またとはなによ、失礼ね。すぐ電話出るくらいだからどうせヒマなんでしょ。仕事頼んであげるから、感謝しなさい」
「・・・相変わらずの超高圧風味ですね、タダノさん」
悪徳弁護士は虚勢を張っている。美玖にはそう思えた。事務員も置かず電話に直接出るほどなのだから。
「とにかく、今から説明するから、その通りに動いて。いいわね?」
「ちょっと待ってください。わたしは便利屋じゃないんですよ」
「何カッコつけてんのよ。依頼があるんだから受けりゃいいのよ」
「・・・あなたが依頼人になるんですか?」
「違うよ。依頼人は、まだ14歳の男の子なの」
あの、アマ・・・。
言いたい放題。言うだけ言って切りやがって・・・。
悪徳弁護士こと、南野は受話器を置き、メモしていた鉛筆をペン立てに戻した。そうしてシートに深く持たれて、ガランとした事務所を見渡した。
なんだってまたあの女が。こっちはもう事務所畳もうっていうところなのに・・・。
南野はその月いっぱいで事務所を閉めようとしていた。
先月まで事務員が一人いたが、同業の他の事務所に移ってもらった。彼女の移籍先を見つけるまで、閉じるのを待っていたのだ。やっと受け入れ先が見つかり、事務所の中を整理している間際になって、またあの煩い女と係わるのは、正直言ってごめん被りたかった。
それなのに、最後まで話を聞いてしまったのは、何故だろう。
事務所を畳む理由は、いろいろある。だが、その最大の理由は自分自身にあった。
自分は、弁護士に向いていない。
弁護士を志し、三度も司法試験に落ちてまでしてやっと手に入れた地位ではあった。が、司法修習生からイソーロー弁護士時代を通じて世話になった先輩から、
「お前、メンタル弱いな」と指摘されていた。独立せずにイソ弁でいた方がいい、と。
しかし、受験勉強していたころからの夢だったから、諦められなかった。
決定打になったのは、あの女の案件を担当したことだった。
「鬼! 悪魔! あんたみたいのを悪徳弁護士って言うのよ!」
あの、当時長谷部美玖、今は旧姓只野に戻っている女から子供を取り上げてしまったのをいまだに気に病んでいた。
夫のある身でありながら、数か月にもわたって不貞を犯し、夫を裏切っていた悪い女。そう断罪して依頼人である夫の権利を守る正義の執行者。ヒーローを演じていたところまではよかった。
だが実際に案件を処理してゆく過程であの美玖という女がいかに子供を大事にしていたか、思い知らされた。
何度か彼女不在の家に行ったが、幼稚園のスモックやハンカチにはいつもきちんとアイロンがかけてあった。お弁当は手の込んだキャラ弁。それを毎日写真に撮り、一度も同じ弁当を作ったことがないのを写真帳で見ていた。部屋の壁中に家族の写真があり、どの写真も笑い顔に満ちていた。どのフレームも手製のクロスの切り張りで飾られていた。自分も仕事をしているのに、それほどまでに家族と子供に手間暇をかける。
子供の送り迎えもいつも歩きで車を使わない。南野は物陰から何度もその光景を見ていた。彼女の大樹という子供の嬉しそうな笑顔がいまだに目に焼き付いているほどだ。
長谷部美玖は、いい母親だった。
その「いい母親」から、自分は息子を奪ってしまった。
「調停や裁判になってこういう事例が証拠として採用されると親権が取れなくなる可能性があります。奥さんに利用される前に見つからないように隠すか処分なさることをお勧めします」
判例を研究してそんなアドバイスもした。彼女の一生懸命に努力した結晶、キャラ弁の写真帳や家族の楽し気な時間を記録したアルバムなどを捨てるよう、助言したのだ。美玖を、子供を顧みずに愛欲三昧に耽る悪妻に仕立て上げるために。
そしてダメ押しに、ラブホテルの前で待ち伏せして精神的ショックを与えようとした旦那を、諫めなかった。
「暴力だけは慎んでくださいね。突入前にお子さんを確保することをお勧めします。できればご実家に匿うとか。奥さんに子供を取り返すことを断念させるためです。親権を取れなくても面会権が保証されていますが、その都度子供が熱出したとか、幼稚園の行事があるとかで躱せばいいです。まだ入学前の子供ですから、会わなければそのうち母親を忘れてしまうでしょう・・・」
そう、アドバイスさえした。
それでもあの女は旦那の実家まで息子に会いに行ったという。
子供、泣いただろうな。ママ、ママ、って・・・。ママ大好きな子だったしな。
お前のせいで、一人の男の子がママを奪われた。お前はそれでも正義の味方なのか・・・。
それをずっと、心残りに思ってしまっていた。
「だから言ったろう。お前、メンタル弱すぎだって。オレらだって商売なんだぞ。お前みたいに毎度仏心全開にしてるような奴には、務まらんぞ」
あの先輩なら、きっとそう言う。今思えば忠告通りにもうしばらく先輩の事務所でイソーロー弁護士を続けていたほうがよかったかもしれない。
以前から田舎でリンゴ園を営む実家から戻ってくれないかと言われていた。家を継ぐはずだった兄が身体を壊したのだ、と。
「リンゴ、手伝いながら農協さ勤めればいいんでねえが。ここさ落ぢ着(づ)いで、ヨメコさもらってよ・・・。早グ、母ちゃんさラグにさせでけろ・・・」
自分は母親からの電話で涙ぐんだりしているくせに、一人の立派な母親から愛する子供を奪ってしまった。こんなことを、これからもずっと続けていく気力が、なくなっていた。
農協でなくとも、弁護士資格があるから行政書士や弁理士もできる。
よし、そうしよう。
美玖から電話を受けたのは、そう決意した矢先のことだった。
仕方ない。最後に仏心全開で、あの女の願いを聞いてやるか。そのほうが夢見もいいだろうしな・・・。
南野はため息を一つ吐いて、もう一度今書いたメモを見直した。
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