道連れは可愛くて逞しい ~ミクとナツキの物語~

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第三部 つくす

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 夏樹にも楽譜は読めない。辛うじてト音記号とヘ音記号、そしてシャープが四つ書いてあることがわかるていどだ。音楽のテストの答案は書けたが、夏樹が知っているのは「音学」で、この楽譜に書いてあるのは、あの美しい「音楽」のはずだからだ。この手書きの楽譜からあの美しい曲を読み取る力が自分に無いことが、たまらなく悔しい。

 翌朝、学校でさっそく恵美に尋ねた。

「なあ、教えてくんねえかな。ウチの学校にさ、この楽譜見てすぐにパッとピアノ弾けるヤツ、いねえ?」

 恵美は夏樹に頼られるのが嬉しかったらしく、つやつやした笑顔を輝かせて答えた。

「音楽のサワノ先生!」

「先生はダメ。生徒で、誰かいねえかな」

「えーっ、・・・うーん・・・」


 

 その日の夕方、夏樹は恵美の家にいた。

 恵美の母がキッチンのテーブルの上に置いたヤマハのエレクトロピアノを前にうーんと唸っているのを、恵美と一緒に見守っていた。

 あの、道場で竹刀を振り回していた恵美の母親がかつてピアニストを目指していたなんて驚きだった。恵美とのひょんな出会いが思いがけないチャンスをもたらしてくれた。

「も、何年も弾いてないのよ。・・・む、難しいわ、コレ。だいいち、書き方が汚くて読みづらい・・・」

「頑張って、ママ!」

「も少し待っててよ。だんだん、思い出して来たから」

「ママね、若いころチャイコフスキーだかショパンだかのコンクール出たんだって!」

 恵美は息を弾ませて夏樹に言った。

「ウソよ。日本のだよ。それも、入賞できなかったし・・・。してたらあんたのパパと会ってなかったかも。パパはね、ピアノの道を絶たれて不貞腐れてたママを拾ってくれたの。よかったね、ママがピアニストにならなくて。そうじゃなかったらあんた生まれてこなかったよ」

「・・・そうなの?」

 恵美ママは固まる娘をよそにポロローン、とあの第三楽章の最初のメロディーのコードを奏でたのが夏樹にもわかった。何度も聴いていたから、音源を再生しなくても頭から流れ出るほどだった。

「よーし・・・。だんだん、じわじわ戻って来たよーん。ラフマニノフって聞いてビビっちゃったけどさあ、ピアノ協奏曲ほど難曲じゃないわ、これ。ホント、久しぶりだからミスタッチは許してね」

 恵美ママはそう言って目を瞑って深呼吸するとその指を鍵盤に走らせた。

 弱起の曲の最初の三音が流れ出すと、左手が美しいベースコードをアルペジオで奏で始めた。ずっとヘッドセットとイヤホンだけで聴いていたこの曲だが、音源のとは少し違っていた。それはよりメロウに、優しく、夏樹を郷愁へ誘った。不思議なことに曲が次第に盛り上がりを見せるにつれ、鍵盤に向かう恵美ママのプロフィールが何故かぼやけてゆき、そこに懐かしい、母の面影が重なってゆくような錯覚を覚えた。

 あの峠のバス停の近くにあった湧水。

 美しい水音をさせて流れ落ちる水の驚くほどの冷たさと甘さが蘇りあの時の嬉しそうな母の顔が・・・。その母がピアノに向かっていた。背景が溶けて峠の山の緑から古い家の部屋の中になった。

 母の白い指が鍵盤を舞っていた。あのラフマニノフの第二交響曲の第三楽章。甘く切なく郷愁を誘う旋律が蘇った。

 そしてその横には・・・。

 いつのまにか、曲が終わっていた。

 夏樹は現実に戻った。

 恵美の母はそっと席を立ち、夏樹の頬を挟むと柔らかな手指で顔を拭った。自分が泣いているのを知った。

「ねえ、なんて顔してるの・・・」

 ギュッと抱きしめられ、セーター越しではあったが美玖よりも豊かな胸に顔が埋まった。恵美の巨乳はきっと母親の遺伝なのだろう。いやおうなしに下半身が反応してしまった。

「ちょ、ママ!」

「いいの。あんたはしばらく黙ってなさい」

 柔軟剤とリンスと華やかなコロンの奥に、美玖とは違う大人の女の匂いがした。

「ナツキ君は今、ママの弾いた曲になにか深い思いを感じてくれたのよ、きっと・・・。ね、そうなんでしょ。ママの下手くそなピアノで泣いてくれる男の子なんて、パパ以来だわ。イジらしいじゃないの。ママ、たまらなくなっちゃった・・・」

 ふいに手が取られた。

「ウフフ・・・。おおきい手ねえ。これならラフマニノフ弾けるかもよ」

 と恵美ママは言った。

「ナツキくん。こんなのでもいいなら、また聴きにいらっしゃい。もっと練習して今日より上手なの聴かせてあげるから」

 彼女の手は美玖の手に似て柔らかくて、温かかった。自分はどうも年上の女に好かれるのかもしれない。そんな邪な思いを隠すのに苦労した。

 

 恵美の母はその後もう一度演奏してくれ、USBメモリーに曲を録音してくれた。譜面は彼女に預けて来た。

「これはいいアレンジだわ。埋もれさしておくの惜しいよ。オーケストラ版と同じか、それ以上の官能がある。あたしみたいな下手っぴじゃなくてもっと上手な人が弾けばこのアレンジの素晴らしさがわかるよ。

 楽譜をパソコンで清書して印刷してくれるところがあるの。明後日ぐらいにはできるかな。よかったら手配してあげる」

 そう言ってくれた。

 自分の家の部屋でUSBをパソコンに挿し、何度も繰り返して聴いた。

 市販版との違いが無数にある。特に和音のグリッサンドやアルペジオの音のきらめきが全く違った。心の奥をギュッと鷲掴みにするような転調と音の連なり。恵美の母が言ったようにラフマニノフの官能が十二分に生かされている。

 何度も聴くうちに、恵美ママが弾いた時に感じたあの記憶がさらにフィードバックしてくる。意識が徐々にその部分にフォーカスしてくる。

 母の背後に誰かがいた。大人の、男だ。その記憶が蘇って来た。その男は車椅子に座っていたような気がする。

 あの車椅子の人。あのひとは・・・。

 机の上の携帯電話が鳴った。

「もしもし? ごはんだよ。早く来やがれ。来るとき汚れもん持って来いってさ」

 奈美のヤツだ。

「・・・はいはい」

 それ以上想い出すのをあきらめてパソコンをスリーブし奈美の家に行った。


 


 

 その通りでは最も料金が高い、高級の部類に入る店だ。入浴料とサービス料込みで120分六万円と看板に出ている。

 夜。嬢が勤務を終えて店から出てくる。

 すると物陰からぬっと女が出て来る。

「お勤めご苦労様です。あの、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが・・・」

「なに? あんた誰?」

「人を探してるんです。ショージマサコって人なんですが」

「ごめんね。知らない」

「一年前から半年前ぐらいに・・・」

「急いでるの。これから子供迎えに行かなくちゃならないの!」

 二人目。

「すみません。お勤めご苦労様です。あの、ちょっとお伺いしたいことが・・・」

「なに、あんた」

「人を探してるんです。ショージマ・・・」

「はいはい」

「あの、一年前から半年前ぐらい・・・」

「はいはい」

 三人目。

「急いでらっしゃるとこすみません・・・」

「なんなの? ストーカー?」

「いえ、ちがくて・・・」

「じゃなに?」

「人を探してるんです。ショージマサコって人なんですが・・・」

「あんたさ、誰だか知らないけど家出した女がみんなソープで働いてると思ってんの?」

「いえ・・・」

「店に訊いて。悪いけど今日ムカついてんの。誰とも話したくないの!」

「すいませんでした・・・」

 まだ一日目。まだ一軒目だが、早くも美玖は心が折れそうだった。

 考えてみれば、彼女たちだって仕事なのだ。

 離婚した時、元夫から慰謝料の支払いについて、虫唾の走る暴言を浴びた。

「これだけのことしといて三百万も払えないのか。風俗で働けば一か月もかからないだろ。夫と子供をないがしろにしてまでしたかった、大好きなセックスで金稼げる道があるんだから、女はトクだよな」

 この夫と息子のためなら死んでもいい・・・。

 かつて、そう思っていた夫が美玖の中で鬼畜に一変したのはその言葉を浴びたせいだった。

 あんたにちゃんと女として扱われていれば、あたしはこんなことはしなかった!

 調停の席で、よっぽどそう言い返してやりたかった。

 そんな過去を抱えていたから、嬢たちにどんなに冷たくあしらわれても彼女たちを恨むことはできなかった。

 好きでもない。イケメンでもなく、中には生理的に受け付けない、気持ちの悪いのもいるだろう。そんなのを毎日、しかも日に何人も、ほとんどは見ず知らずの名もなき男たちの性欲処理を耐えねばならない。

 嬢たちの中には、職業意識を持ちサービス精神にあふれた人材もいるのだろう。

 しかし、同じ女として言わせてもらえるなら、そんな、男性にとっての天使のような女性は少数派中の少数派ではないだろうか。男にとってそうであるように、女の性欲も男のために都合のいいものとしてあるのではない。それなのに、世の中は男の性欲処理のシステムはどんな小さな街にも完備しているのに、女のそれは圧倒的に少ない。

「お前みたいな性欲の塊の女にとってはいい世の中じゃないか。なにしろ、好きなことして金が稼げるんだから」

 元夫の高笑いが聞こえてきそうで身震いがした。

 我ながら忍耐力の無いことだ。あまりテンションを上げ過ぎても仕方ない。

 今日のところは諦めて宿に帰ろうかと思っていたら、めちゃくちゃイケメンの蝶ネクタイをした若い男性から声を掛けられた。

「すいません。ウチのボスがお話したいといってるんですが、事務所においでいただけませんか」

 夜の風俗街に不似合いなほど、その青年は爽やかな笑顔を振りまいていた。

 こういう時は裏口から通されるのかと思ったら、店の正面入り口から案内された。

 両脇に盛り塩したピカピカのエントランスの自動ドアを入ると、全面赤のカーペットが敷き詰められ、一段上がった上がり口には紫の絨毯で花道が敷かれていた。

 その際(きわ)にシルクの真っ白なブラウスに黒いタイトを着た明らかに美玖よりも若い女性が真っ赤なマニキュアの三つ指をついて平伏していた。

「いらっしゃいませ」

「ミントさん。御客さんじゃありませんよ」

 イケメン店員に諭され、その「ミントさん」は可愛い顔を上げた。

「え?」

 美玖と目が合うと、「ミントさん」は急にムッツリした顔になった。

 奥のエレベーターホールの脇に「Private」の文字がうたれたドアがあり、イケメンに促されてその中に招き入れられた。

「あんたさ、探偵さんかなんかか?」

 その事務室に入るなり、少しハゲかけたその中年の店長に粗末なソファーを勧められた。彼にはこの地方の訛りがなかった。小さな事務室は壁に各ルームの予約表が掲げられ、出勤している嬢の名札が色とりどりのマグネットになって貼り付けられたりしていた。各部屋のモニターがディスプレイされ、部屋の一部が交互にモノクロの画面にマルチで映し出されていた。豪奢なエントランスに比べるとあまりにも無機質で、事務的で、この男性にとっての楽園のような施設と設備が純然たるビジネスのためにつくられたものであることを再認識させられた。

「いいえ。探偵ではありません」

 余分なことは喋らない。こういう場合も想定していて、その場合は「沈黙は金」であることを肝に銘じていた。

 ハデにやりすぎたのだろうか。いや、そんなことはない。このテの店にとっては、美玖のしていたようなことは日常茶飯事ではないにしても、さして珍しいことではないだろう。イケメンの店員、そして薄ハゲの店長の、やけに慣れた態度から、美玖はそんな風に見当を付けた。

 一般の会社の事務仕事ではない。性交を伴う男性向けの接客サービスだ。嬢にだって親も兄弟もあるだろう。この店に勤める全員が家族の了解を獲っているとは考え難い。多くが家族に何の断りもなく秘密裏にこの業界に入っただろうし、そういう者なら少なくない割合が、こんなふうに身内から所在を尋ねられて来たことだろう。

 それに加えて、そんな自由な捜索活動を店先で展開されては店のイメージに影響もあるだろう。これからサービスを受けようと楽しみに来た客が、店先でお目当ての嬢の両親と対面する気まずさは、およそこんな、男性にとってのおとぎ話のような風俗のシーンに似合わない図であろうから。

「困るんだよ。店先であんなことされちゃあ!」

 と、ハゲの店長は言った。
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