道連れは可愛くて逞しい ~ミクとナツキの物語~

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第三部 つくす

33 Prostitution quarter

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 あの日以来、夏樹は奈美の家の一階のリビングの横にある和室で寝ていた。

「ごめんなさいね。こんな部屋しかなくて。まさか奈美の部屋で寝かせるわけにもいかないしね」

「いや、むしろ気に入ってます。けっこう寝心地いいです」

 そこはタンス部屋のような部屋だった。

 その、布団を敷くだけで精いっぱいの適度な狭さのせいでむしろ寝心地がよかった。

 どうせ日中は学校やバイトでいないし、夜は自分の家で勉強したりパソコンをいじって、食事と寝る時だけ奈美の家に来る生活だからこれで十分だったのだ。

 それにまだ幼いころ、奈美と二人で押し入れに潜り込んでふざけっこして遊んだ記憶を呼び覚ます部屋でもある。あの時も狭い空間だった。まだ、胎内回帰願望という心理学用語も知らなかったが、その時の押し入れと同じように、妙に落ち着き、安らぎをくれる空間だった。

 しかし、パパやママが寝静まってしまうと、やはりアイツは来た。

 ヒタヒタと素足の音が近づいてきて、暗闇の中にスーッと暗い灯りの筋が出来る。影はスッと這入って来て夏樹の布団の中に潜り込んだ。

「えへへ・・・。来てやったぜ!」

「おま・・・、おばさんに見つかったらどーすんだよ」

 そう言いながら奈美の冷えた身体を抱いて温めてやる。

 大柄な幼馴染は夏樹がゲーセンで獲った唯一の戦利品であるユキヒョウを持ってきていて、二人の間に寝かせた。奈美のリンスと女の匂いを胸いっぱいに吸い込み、デカイけれど、日毎に柔らかみを増してゆく身体を抱きしめているとホンワカした気持になる。次いで、当然ながら下半身が反応する。その変化はすぐに奈美に知れた。

「あ、マズイね。静めたいでしょ?」

 奈美はパジャマ代わりのジャージのズボンの上からゴツイ手でそこを弄ってきた。

「いてて・・・。この、クソアマ。おめーのせいだろ」

「・・・やっちゃう?」

「とりあえず、今夜はやめとこう」

「ガマン、出来るの?」

 そう言いながらぱんつの中に手を入れようとしてくるのを押しとどめた。

「なあ、ちょうどいいから話しよう。話したいことがあるんだ」

「ちっ! しょーがねーな・・・」

 そう言って奈美は手を抜き、夏樹の唇を食んだ。片手で手枕を作ると夏樹の話を聞く体勢になった。

「なあに、話って」

「オレ、ずっと思ってたんだ。いつかお前にお礼言わなきゃって・・・」

「あらたまってなに? 気持ちわりいな・・・」

 奈美はクスクス笑った。

 彼女の長い脚が夏樹の下半身に絡み、上体が覆い被さる。さほど大きくない胸でもTシャツ越しに押し付けられるとコリコリした乳首を感じる。奈美の重みまでが愛しい。

「ありがとうな、ナミ。オレがこんなふうに毎日を送っていられるのは、おまえのおかげだよ」

 ユキヒョウのぬいぐるみ越しに奈美の耳たぶに唇をつけて囁いた。

「えーっ、なんだってー? 」

 抱きしめた奈美の顔はぬいぐるみの向こう側に隠れて見えない。きっと猛烈に照れているのに違いない。

「オレ、本気でこれからもずっとお前と一緒に居られたらなって、思ってる。ホント本心でそう思ってんだ。高校卒業したら、お前と結婚したい。そう思ってる」

「・・・うん」

「うそじゃないよ」

「・・・うん」

 奈美の肩が震え出した。暗いからわからないが、きっと感動しているんじゃないかと思う。

「だから、お前に隠し事したくないから、言う。でも、絶対、怒らないでくれな? それだけ約束してくれる?」

「わかってるよ」

 と、奈美は言った。

「ミクさんて女の人のことでしょ」

 奈美の広い背中を撫でていた手が止まる。

「どーしてわかった」

「あたしを誰だと思ってんの? 何年あんたと付き合ってると思ってんの。あんたの考えてることぐらい、わかるよ」

「・・・うん」

「バイトなんか、行ってなかったでしょ。会ってきたでしょ、ミクさんに・・・」

「・・・うん。ごめん」

「帰って来た時の匂いでわかっちゃった。・・・でも、大事なことなんでしょ」

「うん・・・。やっぱ・・・」

「やっぱ、なに?」

「お前しかいないわ。オレの奥さんしてくれる人。料理できなくても、許すわ」

「最後の一言、ムカつく」

「調べてくれてたんだ、お母さんのこと」

「・・・見つかったの?」

「いや。・・・でも大きな手掛かりを見つけてくれた」

「うん」

「何の得にもならないのに、ミクさん、やらせてくれって、探させてくれって・・・。ホントはオレがするべきコトなのに。オレ、ありがたくて、申し訳なくて、さ・・・。

 ミクさんからはいろんなこと教わった。お前、オレとエッチすんの好きだろ。実はそれも教わったんだ、ミクさんに」

「・・・うん。なんとなく、わかってた」

「・・・ごめんな。でもさ、ミクさん、初めてはナミちゃんとしなさいって言ってくれたし、結局母さんと会えなくて落ち込んでるオレを励ましてくれたんだ。あのときミクさんがいてくれなきゃ、オレ、今ここにいない。多分、絶望してたかも」

 奈美がギュッと、しがみついて来た。ちょっと痛いぐらいだったが、ガマンした。奈美の気持ちなのだと思って。

「恩人なんだ。オレが今こうして生きていられるのは、お前やお前のお母さんやお父さんのおかげもあるけど、ミクさんの存在がでっかいんだ。

 それだけは、お前にわかってほしかったんだ」

 奈美はもう一度深いキスをくれた。

「わかってるよ、ナツキ・・・」

 そう言って、ユキヒョウのぬいぐるみをグイグイ夏樹に押し付けた。

「なにすんだよ」

「きっとあんたまたフラっといなくなるかもしれないでしょ。あんたの匂い、沁みつけてるの。いなくなったら、あんたが無事に帰ってくるまでこれ抱いて寝るの」

 

 奈美の母はそっと和室の襖から離れ、パジャマの袖で目頭を抑えた。

 奈美が部屋から出て階下に降りたのは気づいた。夏樹が寝ている和室に行くつもりだと思ったのだ。そんなことのために夏樹を預かっているわけではない。娘には気の毒だがあまりハメを外すようならシメなくてはと思った。

 だが、それは杞憂だった。

 二人の前では冗談めかしていずれ奈美と夏樹が一緒になってくれたらなどと言った。さして賢くもない娘だが愛情と思いやりだけはふんだんにかけ、育てて来た。その甲斐あってか、奈美は知らない間にパートナーを支える立派な女性に成長していたのを知った。娘に対する喜びももちろんだったが、今はまだ少年にすぎないけれど近い将来娘の伴侶になるだろう夏樹の、あまりに逞しい心と、あまりに過酷すぎる運命とに思いを馳せた。


 


 

 直線距離で800キロ。実際の道のりは千を超えた。よく走ったものだと思う。

 さすがに身体が悲鳴を上げている。調べるのは明日にしてとにかくも宿をとって身体を休めたかった。

 ビジネスホテルの一室は川沿いにあった。目の前のライトアップされた川の向こうは中の島になる。パリでいえばセーヌ川の中のシテ島にあたるところか。その中のネオンに輝く城塞のような一画に目的の歓楽街がある。この地方最大の風俗街といえばここのことだ。

 地方都市とはいえ、大都会だ。やみくもにあてずっぽうに探し回っても益はない。

 出てくる前に出来る限りの情報は集めた。

 まず、夏樹の母が山荘に滞在中も夜の店にいたことがわかったので、こうした色町で働いている可能性が高まった。したがって捜索の対象をそのテの店に集中することにした。それでダメなら範囲を広げることにする。

 なにしろ、美玖は女だからいわゆる男性向けの性を商う店の知識がない。まず異常なほど多様な種類があるのに驚かされた。その多様さの中で、三十代も後半の女でも需要のある種類を大まかに抽出すれば、特殊浴場と称される、性交を伴うサービスのあるソープランド、性交を伴わない店舗型のマッサージ店、そして店舗を持たない派遣型の同種の店に限られてくることがわかった。

 この三種に絞って調査に入るのだが、その中の島だけでなく周辺も含めればそれだけで数十店にも及ぶ。しかし、その中で三十代以上のいわゆる「熟女」を売りにする店に限定すれば十数店になる。美玖はとりあえずこの店をリストにし、攻略を開始することにした。

 一番いいのは、多くの店に顔が利く元締めのような立場の人間を捕まえることだが、男性でもなくこの土地や業界の事情も知らないド素人で、下手に正攻法で店に直撃しようものなら入店希望と間違われかねない。こういう店は裏でどういうふうに、どこと繋がっているかわかったものではないと思っていた。万が一、非合法の組織などと関係を持たされれば・・・。ともするとそんな疑心暗鬼に囚われてしまいそうになる。ただ、最悪の場合、相手さえ選べば懐に飛び込んでしまうのが、つまり内偵という手段がもっとも手っ取り早いかもしれないと思った。

 ちょっと疲れた。

 バスルームにお湯を張り、湯が溜まるまでの間、窓辺の椅子に掛けて買って来た缶ビールをあける。そしてタンクバッグのジッパーを開き、中から小さな黒縁のフォトフレームを取り出した。


 

 夏樹に手渡した楽譜は叶から受け取ったものではなかった。

 彼女のマンションを辞した翌日、もう一度あの不動産屋を訪ね、以前対応してくれた担当に会った。

「この前はどうも。ちょっとあの山荘に興味があるのですが、中、拝見できませんか」

「構いませんが、銀行からは近々取り壊してサラ地にすると聞いてましてね。特に指示もないもんですから前の所有者が出て行ったときのままなんですよ。リフォームも何もしてません。それでもよろしいですか」

「構いません」

 むしろそのほうが好都合だった。が、無論余計なことは何も言わなかった。

「じゃ、銀行さんに連絡してみます。向こうも出来れば現状のまま売れた方がいいでしょうからね。オイ、ちょっとお客さん案内してくれるか・・・」

 案内を命じられた不動産屋の若い社員が運転する軽自動車の後をCB750でついていった。

 最初にここを訪れてからもうひと月が経とうとしていた。山々は赤や緋や橙の色鮮やかな紅葉のシーズンを迎え、解禁になったアユを狙って釣り客の車も増えていた。

 山荘の草だらけの庭には黄色や山吹色が目立ち、周囲の山々と同様の秋の深まりが感じられた。

 不動産屋の男性社員が手作り風の木のドアを開けると木の香りと黴臭い匂いが混じったものが漂い出て来た。

「だいぶ埃が溜まってますので、これを履いてください」

 社員が紙袋からスリッパを出してくれた。ブーツを脱いで履き替え、彼に続いて中に入った。もちろん電気は止められている。真っ暗な室内。懐中電灯を手にした社員が庭に通じる窓を開け雨戸が開かれると室内がパッと明るくなった。真っ先に眼に入ったのは石造りの豪勢な暖炉だった。

「築四十年にはなると思います。ただ基礎がしっかりしている物件ですのでそれなりのリフォームをすればまだ・・・」

 社員の説明中に携帯電話の音が響いた。

「ちょっと、すみません。・・・もしもし。ハイ、ハイ。・・・ちょっとわかりません。あの、今物件のご案内中なんですが、ハイ・・・」

「あの・・・」

 と美玖は言った。

「あたし一人でも大丈夫です。もうしばらくじっくり見たいので。よろしければ・・・」

「・・・そうですか。よろしいですかね。十五分ほどで戻りますから」

 そういって若い社員は美玖を置いて出て行った。

 後にはがらんとした一つの家庭の抜け殻、それも一年も前に放置された干からびた抜け殻だけが残った。

 暖炉の反対側の壁のクロスには、そこにかかっていたはずの画だか写真だかの額の痕が日焼け残り、その下にもっと大きな焼け残りがあった。おそらくはそこにアップライトのピアノがあったのだろうと思われた。身体の不自由な洋介という兄の、車椅子のハンドルを握った夏樹の母が、長年慣れ親しんだピアノが業者に運び出されてゆく様をどのような気持ちで見守っていたのだろうかと思う。そこかしこに散乱するガラクタは廃品業者が引き取りを放棄していった価値のないものなのだろう。たった二か月前、自分自身が味わったあの苦い思いが再燃する。

 二階に上がってみた。

 一番日当たりのいい部屋のドアを開けた。雨戸がなく、色褪せたブルーのカーテンを開けると埃がキラキラ舞った。窓を開ける。秋の爽やかな風が埃を巻き上げて淀んだ部屋の空気を澄ませた。かつて机やベッドが置かれていた痕。車いすのゴムがつけた痕。恐らくここは兄の書斎だったのかもしれない。

 空っぽの本棚の端に風でピラピラした紙の切れ端がのぞいていた。それをとりあげると埃が舞いたち、紙束の上に載っていた小さなフォトフレームを危うく取り落とすところだった。バサバサと埃を払い落とすと、手書きの譜面が出て来た。

「どうもすみません。いかがですかね、お気に召しましたか」

 息せき切って階段を登って来た不動産屋の社員に、美玖はニッコリとほほ笑んだ。

「そうですね。いましばらく考えたいと思います」


 

 楽譜の方は夏樹に手渡したが、フォトフレームの方はそうはいかない。

 なぜなら、そこには正真正銘の家族、つまり七八歳ころの夏樹を真ん中に、母親の雅子、そして彼の生物学上の実の父親である雅子の兄である洋介が車椅子姿で、笑顔で写っていたからだ。

 この人は誰? なぜ自分と母と一緒に写っているのか。

 その質問に対する明確な答えを持ち合わせないうちは、見せるわけには行かない。

 備え付けのティッシュを取り、アクリルカバーの汚れを払った。川の向こうのけばけばしいネオンが夜の到来とともに一層輝きを増し、三人の写真、夏樹の母の顔の上に赤や緑やピンク色をした異様な模様を映し、汚した。
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