道連れは可愛くて逞しい ~ミクとナツキの物語~

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第二部 耐える

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 叶は再びピアノに向かい目を瞑った。瞑ったまま、鍵盤に手を置いた。流れて来たのはあの第三楽章ではなかった。シューマンの「トロイメライ」だった。

 校庭で遊んでいて帰りの時間になるとよくこのピアノ曲が流れて来たのを思い出した。あれは小学生のころか。美玖に聴かせるというよりは、叶が自分自身のなにかを納得させるために、心の中に問いかけるために弾いているような、そんな印象を受けた。

 曲を弾き終わり、解放された弦の減衰する響きがなくなっても彼女は目を閉じたままだった。

 この人がカギになる人だ。全てを話した方がいいと思った。

「マサコさんを追って瀬戸内海のある島まで行きました。お兄さんがその島で亡くなり、彼女はご遺骨とともにそこからも姿を消しました。住民票はまだ島のままになっています。その住民票の住所の農家の方はマサコさんのお父さんの遠縁で、最初は一緒に住まわせていたのを、ある理由でマサコさんだけを追い出したと・・・」

「その子は知っているの?」

 美玖を遮るようにして、叶は言った。

「その、親戚がマサコを追い出した理由を、そのナツキというマサコの子は知っているの?」

「いいえ。彼は知りません」

 すっと椅子を立って、彼女は言った。もう、夜のとばりが降りていた。

「あなた、飲めるわよね?」

 ワインクーラーから出された、そこそこのものなのだろう逸品を供された。彼女自身はウィスキー党らしく、モルトウイスキーのボトルを手元に置いてオンザロックをやった。

 彼女は相当な酒豪らしく、琥珀色の液体を一気に喉に流し込むとトクトクと麗しい音をさせてボトルから二杯目をグラスに注いだ。オートバイで来たのでと最初は断ったが、

「飲まない人には、話さない」

 そう言われてしまっては付き合うより仕方なかった。

 酒の力を借りないと話せない。口にはしなかったが、彼女はそう言いたいのだと理解した。

 オーディオからはあの第三楽章アダージョがオーケストラの演奏で流れていた。

「彼、マサコのお兄さんね。ヨースケって呼んでた。わたしも、マサコも。

 ヨースケはピアノが上手だった。子供心に、大人になったら彼はピアニストになるんだって思ってた。

 彼とマサコとわたし。わたしたちはいつでもどこでも何をするのでも三人一緒だった。遊ぶのも勉強するのも、叱られるのも褒められるのも。楽しむのも悲しむのも。お互いを信じて、誇りに思ってた。ずっとこんな時間が続けばいいと思ってた。続いてくと思ってた。

 でも、そんなことは、誰にも、どんなにお金があっても権力があってもできない。年月は全ての人に同様に流れて、人をまったく先のわからない暗闇に押し出してく。神様は、わたしたちも例外にしてはくれなかった。

 わたしは、ヨースケに恋をしてた。でも、それを彼に告げる前に、マサコが彼を愛しているのを知ってしまった。兄妹としてではなく、男と女として。

 それでも諦めきれなかった。だからマサコを問い詰めたの。兄妹で、許されないでしょう、って。でもその時はもう、あの二人は一線を超えてしまっていたのよ・・・」

 やはり、か。

 吐息を知られたくなかった。美玖は静かに頷いた。

「彼女は彼の子を身ごもった。でもすぐに外聞を憚った彼の親に処置されたの。ヨースケは東京の大学に進学していって、彼女は別の街に。そこでなかば強引に別の男性と娶わせられた。

 わたしは密かに喜んだ。これで彼はわたしのものになる。

 でも心のどこかで同情していた。大好きな兄と別れさせられ、好きでもない男と夫婦にさせられ・・・。

 複雑な思いで結婚式にも出た。意外にもマサコは幸せそうだった。旦那さんも純朴そうで優しそうな人だった。過去は過去として、彼女には幸せになってもらいたかった。もちろんわたしのエゴもあるけど、これでいいんだ、このほうがマサコも幸せになれる。本心からそう思っていたの。出席していたヨースケにもおめでとうと言った。その式で彼だけが浮かない顔をしてた。

 それ以来、ヨースケはわたしを避けるようになった。実家にも戻らなくなった。

 彼女はやがて男の子を産んだ。わたしもお祝いに行ったわ。なぜか彼女からは来ないでと言われたけど。どうしても、確かめたかった。なぜ来るなというのか、どうしても確かめずにはいられなかったの。

 男の子はそっくりだった。ヨースケに。彼の目元の特徴がしっかり出てた。優しそうな旦那さんには全然似てなかった。

 二人の関係は続いていたのよ。

 わたしは、その恐ろしさに震えてしまった。

 絶対内緒にして、誰にも言わないで。

 マサコは泣いたわ。だけど、こんなことはいつかバレる。その時はどうするの? その質問には結局、答えなかった。答えられるわけないものね。

 そのすぐあと、ヨースケは大学を中退してあれだけ嫌っていた実家に帰った。病気が発覚したの。もともと身体が丈夫な方ではなかったんだけどね。身体中の筋肉が萎縮してく奇病。彼はもう二度とピアノが弾けなくなってしまったの。

 そして運の悪いことに彼が実家に帰ってから、次々と不幸が彼の家を襲った。まだ還暦にもなってなかった彼の父親と母親が相次いで亡くなった。彼の病気はそんな事情にはお構いなしにどんどん進行してく。当然就職なんて無理。しかも莫大な治療費がかかる。満足に動けないから、日々の介助だけでも少なくないお金がかかる。二人の家は山林も持ってる裕福な家だったけど、彼というお荷物を抱えて働き手を失っては貯金を取り崩すだけじゃ足りなくて、立派な山荘まで抵当に入れて借金するほかなかった。山なんてそんなに簡単に売れるもんじゃないのよ、すでにそのころからね。

 そして、最後のとどめを刺すようにして、マサコの子供の種のことが旦那さんにバレた。

 その子が何かで怪我をして、旦那さんが病院に運んだ。そのときマサコは実家に帰っていていなかった。ヨースケのところにね。マサコから聞いていた子供の血液型が母子手帳に書いてあるのと違う、って。母子手帳に書いてあった本当の型は旦那とマサコじゃ絶対生まれないはずのものだったの。あの子が実家にさえ帰っていなかったら、その時はバレずに済んだかもしれない。でも遅かれ早かれ、発覚は免れなかったと思う」

 テーブルの上のオンザロックの氷が解け、カランと音を立てた。

 叶は美玖のグラスにワインを注ぎ、自分のグラスにも琥珀色のを注いだ。

「あなたはそれが知りたかったのね」

「・・・はい」

 美玖もワインを含んだ。

「実は、あたしも二か月前まで結婚していました」

 美玖の告白に、叶はじっと耳を傾けてくれた。

「あたしの有責なんです。子供も一人いました。まだ四つの男の子ですが、旦那だった人にとられました。それで、何もかもイヤになって一人で旅に出たんです。

 ナツキとはその旅で知り合いました。長い間父親と継母にネグレクトを受けていたようで、家にいるのがイヤになって家出してきていたんです。七年前に死んだと聞かされていた母親が生きているのを知って、探しに来たと。彼は母親がまだ家にいたころ、小学生の時に一度だけ、この町に来ているんです。あの山荘を覚えていたんです。その記憶だけを頼りに、ここまでやって来たんです。

 そのいきさつを聞いて、胸が潰れました。取り上げられた息子とナツキがダブってしまって・・・」

 叶は目を閉じ、瞼にギュッと力を籠めているのがわかった。手が白くなるほどにグラスを握り締めて。

「お話は伺いました。でもそれはナツキには何の責任もない話です。最大の被害者は、ナツキです。

 それでもあなたは、マサコさんを放っておけと、ナツキを母親と会わせるなというんでしょうか。子供が母親に会いたいと思ってはいけないのですか」

 叶は席を立った。

 再びピアノの前に座り、あの第三楽章の最初の一音を打ったあと、手を止めてしまった。

「彼女が今、どこにいるのか。ご存じでしたら教えていただきたいんです。実の息子が母親に会いたがっている。それだけではないんです。ヨースケさんの遺産相続に、ナツキが巻き込まれようとしてます。未だマサコさんが旦那さんと婚姻関係にあるまま行方不明になっているのでナツキに類が及ぼうとしているんです。

 どうか、助けてください・・・」


 
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